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スピーカー 1
みやけん、鹿児島のサトリの学講
土曜日の企画です。普段はイラスト講師、NFTクリエイターとして活動している私、みやけんが
週一で、趣味で、かつて勉強していたスピっぽい話をするという自己満足企画でございます。
土曜日は、子供の長男の保育園の泳ぎ会ということで行ってきました。
この日に向けて、家族一度体調を万全に整えていたつもりだったのですが、私が急激に体調がなぜか悪くなりまして
下熱ダウンで無理やり行ったのですが、きついです。
おそらく筋トレ、最近肺筋を筋トレに取り入れているのですが、ちょっとやりすぎて、昨日一昨日からめちゃくちゃ腰が痛くて
昨日は散髪に行ったんですよね。腰がだるくて、冷え込んでますからね、最近。
散髪で髪切ったら、僕ね、髪切ると結構風邪っていうか熱出やすいですよね、なぜか。
入り足が冷えるというかね。多分そのせいかなと思うんですけど、ちょっと体調悪くしてしまいましてね。
今日はそもそもスナックフラゲの吸収オフ会というのもあったんですが、
僕は保育園の泳ぎ会ということで、もともと無理な日取りだったので諦めておりましたが、
それに加えて自分も体調悪くするという、なんていう情けない状況でございました。
スピーカー 2
放送時間もちょっと過ぎてしまいましたが、昨日の夜とかね、午前中とかに撮ろうと思ったけど無理でした。
スピーカー 1
ずっと寝てました。体力回復に努めるためにね。
そんな感じで、一応でも今少し元気になったから撮ってみようかなというところでございます。
といったところで、さとりの学校開校です。
身近なところでさとりの存在というのがあります。これについて話したいと思います。
結論から言うと、赤ちゃん。自我が芽生えない赤ちゃんというのは、まさにさとり状態にいる存在でございます。
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スピーカー 1
それこそね、今日保育園のお遊戯会でですね。
うちの保育園はちょっと仏教系の保育園なので、長男がやった劇がね、お釈迦様の話だったりしたんですが、
僕からすればね、肩腹いたしという話だったりもしたんですが、
まあまあね、仏教の教えというものがありますからね。
スピーカー 2
ちょうど新春になるのかな。
お釈迦様がみんなを救うために修行に出て、そして悟りを開かれて、その教えを皆さんに伝えておりますということを言ってましたね。
スピーカー 1
それは生きていることに感謝し、要は感謝感謝というお話ですよ、単純にね。
そうかと思いながらね、俺のとは違うなと思いながら聞いてましたけど。
まあまあでもね、それは否定するべきことでもないので、そういう気持ちは大事で、そういう気持ちで応用とか修行とかされている方もいらっしゃいますから。
それはそれとして、でも僕の納得したのはこの話みたいな感じになってますんで、
僕が納得を得た話ということでこの悟りの学校をやっております。
お釈迦様が何を悟ったか最初から言っているのは、
自我はない、自分というものは幻であるということと、時間はないというこの2点でございます。
了知力学が行き詰まっているのは、時間の概念というのを排除しないでどうしても考えるがゆえに、
スピーカー 2
了知力学は行き詰まってしまっているというのがね、この悟りの観点から見ると見られます。
もう一つの自我がないという部分は、ある程度理屈で言えばそうなのよねという話にはなってますね。
スピーカー 1
身近な自我がない存在と言えば赤ちゃんということで、赤ちゃんはまさに悟りの存在そのものであるということですね。
お釈迦様は、お釈迦様は元々王国の王子様、王様ですからね。
奥さんもいるし子どももいます。
だけども城の外から出て下々の暮らしを見たときに、4つの苦しみというものを知ってね、
その苦しみから人々を救いたいということで修行のために出ました。
結果悟りを開くに至っているんですが、4つの苦しみというのは、病気、けが、死、
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スピーカー 2
あと貧困もあった気がするんだけどなぁ。
今日のお話にも出なかったなぁ。
ちょっとこの辺うろ覚えですが、とにかく人間そういう苦しみがあるなぁと、
スピーカー 1
それをどうやれば解放すればいいんですか、できるのかなということで修行を始めたんですが、
スピーカー 2
結論としては、自我というのが勘違いなんだという結論に至って、
自我というものがあると思っているから、その自我が思考する部分において、
スピーカー 1
いろんな苦しみを感じるんだなと。
スピーカー 2
赤ちゃんというのは、感覚が気持ちが悪いということで泣いたりはしますが、
果たしたら苦しんでいるのかという風に考えると、苦しみとは違う気がしますよね。
スピーカー 1
互感が感じるところからの不快感とかで泣いたり、
スピーカー 2
あとは本能的なものもあるんでしょうかね、生物としてのね。
スピーカー 1
お腹が空いた、排泄気持ち悪いよとかね、で泣くっていうのはあるんですが、
例えば赤ちゃんの時に、うちも子どもがお風呂に一瞬手が滑ってボチャンと落としてしまったことがあるんですけど、
へっちゃらですもんね。
目はそのまま開けたまま。
そのまんまの顔をしてブクブクって沈んで、ほらーって泣き上げましたけど、
だから水に対する恐怖というものもないし、
その後苦しくなったとしてもどうなんでしょうね、っていう状態。
だから苦しみは感じないんですよね、自我がないっていうことはね。
悟りを開いたお釈迦様は、言えば自我がない状態を体験して、
宇宙と一つに繋がった時に、
スピーカー 2
そういう小さな存在ではそもそもないんだなぁと、
全ては空であって私も空であるということに気づいたことによって、
赤ちゃんと同じ状態で、
スピーカー 1
苦しいという感覚を一切ないものだということが分かったという話になっております。
スピーカー 2
ただ赤ちゃんは自我がもともとないので、
そういう状態になっているという自覚をすることもできないわけですよ。
お釈迦様は初めて大人として悟りを開いた人は、
体験として自我がない状態を体験しつつ、また戻ってくるというかね。
原生感覚に戻った時に、
こんな自我を通した原生の感覚で、
スピーカー 1
あれが本当の世界だと感じることもできるということでね。
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スピーカー 1
だからこそ言語を用いて人に伝えようと思えば伝えることもできる。
これがなかなか正しく伝わらないということも分かっているというのが前回のお話でしたがね。
そういうようなものであるということでですね。
スピーカー 2
それに至るたびには、本当に瞑想とか雑然というのの目的は、
思考を完全に切り離して、
スピーカー 1
感覚だけの世界に浸ってみようというのが目的でございますからね。
その先にもしかしたらそういう悟りに至るかもしれないということで、
そういう修行をしているという感じですね。
今日は身近な悟りの存在は赤ちゃんであるというお話をしてみました。
スピーカー 2
皆さんも赤ちゃんになった気持ちでいると、
スピーカー 1
いろいろな苦しみというものは確かにないのかなというふうに考えられたりしませんかね。
というところで、今日は終わります。
それではまたね。
違った。
この悟りの学校の締めはそれではなくて、終わります。
今ここを見つめよう。
では。