ラフ像の撤去問題
みんちがう!
はい、今日はね、ちょっぴり真面目な話、ラフ像のお話なんかをしていきたいなと思うんですけど、
違うよって思う人も自由だし、で、知識的にね、こうだよっていう、歴史的にこうだよっていう話すことがあると思うんだけど今日は。
でもそれも間違ってるかもしれないから、話半分で聞いてね。で、詳しく知りたい人は自分で調べてくれ。
スプタン男のみんな違ってみんな良い。
はい、ごきげんよう。スプタン男のTsuNです。この番組はみんなと違うことを愛するための番組です。まとまりのない私ですが、暇つぶしになったら幸いです。
今日はね、このニュースで、ネットニュースで、町のラフ像を撤去する動きが全国であるよみたいなニュースを読んで、そうかーって思ったんだけど、
なんかそれが良いとも悪いとも言えないんだけど、寂しいなとは思うわけ。で、小学生とかが見てて恥ずかしいって、裸の像を見て恥ずかしいって思うみたいな意見があるみたいな、外役だみたいな風になってんだけどさ、
小学生が見て恥ずかしいから、何、撤去するってそれはあまりにも短絡すぎませんか?って思うわけ。
なんかさ、小便小僧を見てテンションが上がってふーってなったりさ、美術の絵とかでもさ、ラフ画みたいなものを見てさ、小学生中学生男子なんかね、ふーふー言っちゃうわけですよ。
バカだからしょうがないの、それは。でもさ、それを一つちゃんと、なんだろうな、裸だから恥ずかしいっていうものももちろん感じでいいんだよ。
裸を人に見せるわけではないし、見せてはいけないし、あなたたちは守られるべきだっていうのもわかるんだけど、恥ずかしいイコール悪いっていうのはやっぱりおかしいなって思うわけよ。
歴史的背景と変化
で、恥ずかしいの前になぜこのラフ像を置いたのかっていうのを子供たちに教えるべきだと思うのよ。で、このラフ像っていうのはエロ目的で作ってるわけじゃないわけじゃん。
本当に。そう、ダビデ像だってさ、ラフ像だってさ、男たち女たちがもうみんなでね、これを見るたびにムラムラして子作り促進みたいな感じでさ、性欲をかきたてるために作ってるわけではないわけですよ。
人体の美しさとか、命のきらめきとか、神が作った完璧なものというのは裸に宿るとか、そういった美術的背景や文化的背景というものをやっぱり感じて知っておくべきだと思うのよ。
まあね、でも商店街の真ん中にね、ドーンとね、あったらなんか恥ずかしいなって思ってしまうのもわかると思うんだけど、けどそんなに注目するかなぁとも思うんだけどなぁ。
まあね、時代に合わないとか、子供に見せたくないとか、セクハラだとかさ、なんかいう人たちがいるみたいだけど、なんか俺は、なんかそれはどうしても頭が悪いなって思ってしまうのよ。
そうで、このラフ像でなんでこういう問題が起きるかっていうとね、多分ね解説がないんだよね。街に飾ってあるさ、ラフ像ってさ、解説ないじゃん。なんか赤い靴の女の子像とかさ、横浜はね、なんか微妙に書いてあんのよ、歴史とか。そういうものを書くべきだと思うんだよね。
作者は誰で、いつ作られて、どんな背景があって、どんな思いがあって、これを作ったよっていう風なことをちゃんと解説をつけることで、一種問題解決するんじゃないかなって思うんですよ。でもこの芸術とエロの境界線っていうのは非常に難しいので、まあなんとも言えないんだけど。
本当もね、裸の像なんていうものはね、古代ギリシャとかローマとかが有名って言えば有名なんですよ。ギリシャ彫刻でさ。なんかよく石で作ってる彫刻なのに、布の質感とか肌の質感とかがよくここまで表せたね、みたいな像っていっぱいあるじゃん。ああいうのって古代ギリシャとかローマ時代のものか、それの時代をモチーフに作ったものが多くて。
男性像はほぼほぼ全裸で、女性像は布一枚まとってるみたいなさ、ものが多いんだけど、まあローマ時代もね、基本的に裸体は芸術的に認められていたんですよ。で、これでね、なんでラフ像が既成されてきたかっていうとキリスト教なんだよね。このキリスト教が裸は異教的だとか不道徳だとみなして、どんどんどんどん破壊していったり、金属で覆ったりしていったのよ。
で、このさ、なんでキリスト教が裸はダメかっていうとさ、聖書の教え的に、ほら、アダムとイブがいまして、禁断の実を食べて、裸だ!恥ずかしい!ってなってさ、股間を隠し始めた、みたいなお話があるわけじゃないですか。そうやって裸でいることが恥ずかしい、裸でいることがおかしい、みたいな風になってくるわけですよ。だいたいキリスト教のせいなんですよ。
そして中世ヨーロッパになるともうね、ほぼほぼ写実的なラフ像とかラフ画とかはね、そういうものはなくなります。もうほぼほぼ作られなくなるんだけど。で、ここで本当、なくなっちゃうんじゃないかな、みたいな事態が来て。で、その後ルネッサンス期が来て、その後にミケランジェルのダビデ像とか、まあ有名だよね。その辺から、まあ再びちょっと出てくんだよね。
ただこの頃もね、モラルに合わないとか、裸はおかしいとか、そういうことを言われて、これね、面白いのでね、ググってください。一軸の葉作戦とか、葉っぱ作戦ってググると出てくるんですけど、西洋美術史において、この時代、このラフ像とかラフ、裸体彫刻に、あの一軸の葉っぱを金属で作る、付けちゃう、後付けしちゃうっていうね、文化がね、バチカンでね、あったんですよ。面白くない?
もう本当、もう描いちゃダメだって、作っちゃダメだって言ったのに、みたいな感じになって、ぶっ壊すまではちょっといけないから、あの股間を葉っぱで隠す、みたいなね、運動があったんですよ。すごくない?
それでいいのかな?みたいなさ、葉っぱ体を思い出すよね。葉っぱ体でいいのかな?みたいなね。まあ貝殻ビキニとかもそうなんだけど、隠れてればいいのか?って思うんですよ。でもさ、え、隠れてればいいの?え、貝殻ビキニの像とかだったらいいのかな?それだと撤去にならない?絶対なるよね。きっと撤去になると思うんだよ。
だから、ラフ像が問題で、そういう極部が問題なわけじゃなくて、そういう性的な匂いがするのが嫌だって言ってるわけでしょ。でもそれって受け取り手の問題なわけでさ、難しいよね、そこはね。
で、この16世紀のイタリアローマとかで、カトリック教会がね、もう信仰を厳しくしてこうっていうのであって、もう裸体なんて不道徳だ!っていう考えがあるわけ。これがやっぱり日本にも入ってきてるんだよね、この日本の文…わからないよ、知らないけど。そう、たぶんこの裸イコール悪みたいなのって、やっぱりこのキリスト教の教えからなんだよ。
で、本当、有名なところだとさ、ミケランジェロの作った最後の審判っていうね、絵があるんだけど、まあ多くの人物が完全に裸体だったんだよね。で、これ礼拝堂に描いてある壁画なのよ。で、最初は全員裸体で描いてたの。でも、聖堂にはふさわしくないって批判されて、その絵にね、布とか葉っぱとかを描き加えたの。
これって問題じゃない?なんかもったいなくない?って思うんですよ。それが正しいと思う?まあ、今、今とそのさ、裸体…ラフ像とか裸体像をさ、撤去するみたいな動きと同じだよね。あの、だって、礼拝堂にあった最後の審判っていう作品が、その絵の中で人物が裸だったと。
裸体と公共の受容
で、「これはふさわしくない!おかしい!」ってなって、その絵に絵とか布とか一軸の葉っぱを描き足しちゃうんだよ。それって俺良くないと思うんだよね。まあ難しいんだけどさ、やっぱりそういうエロに感じてしまったんですよ。美術ではなく。なんか、人間って愚か?って思うよね。
そういうことをやって、今なおまたこういう時代になってきて、認められてきて、まあグラデーションだと。エロと芸術とアートっていうのはグラデーションで受け取りの問題で、教養と知識がエロに直結しないという風になっているのにも関わらず、バカたちしかいないから、「ああ!ラフ像だ!セクハラだ!不愉快だ!恥ずかしい!」ってなって撤去しようとしてんだよ。
だからさ、もう本当、バカだよね。って俺はすげえ思っちゃうんだよね。まあでもこの性的なものと美術の間ってさ、時代とか文化でもう全然ガラッと変わっちゃうから、なんとも言えないんだけどね。きっと国によっても違うしね。
性的なものってさ、やっぱり目的ありきだと思うのよ。アダルトビデオをアートだって言い張ることは難しいと思うの。男性に向けた性的排泄力を満たすために作られているポルノグラフィーなわけじゃん。ポルノはポルノでしかないわけだ。
まあでも時間とかさ、歴史とかそういうものがあったらアートに消化してしまう場合もあるんだけどね。トレイシーローズの人魚姫なんていうものはもう俺はアートに消化してもいいと思うんだけど、まあそこら辺は置いといて。
そう、神が作った完全体だから人間という体は完全体で一切の不備がないものが裸だというものを表現したいっていうのが目的だとしたらやっぱりそれは美術になり得てさ。教会の天井に描かれているラフ像を見て、「うわ、興奮する!」ってさ、性的興奮を覚える人たちっていないと思うのよ、男子たちでもね。
そうだから、まあどこに誰に向けて置かれているかっていうものが大きいと思うのよ。公共の場に置いているということはそういうと目的で置いているわけじゃないっていうのがわかるわけじゃん。なぜそこを汲めない?みたいなふうには俺は思うんですよね。
デフォルメされたものとか抽象されたものとか、または理想的なものとか、あとはなんだろうな、ファンタジーチックな妖精とか女神像とかそういうものが強くなれば強くなるほど美術とされて、生めかしく人間に近づけば近づくほど性的と見なされやすい気はするよね。
もう古代ギリシャで裸と言ったら性的というよりも哲学的に取られていた部分が多いのよ。神の最高傑作の人間のこの体は最高の美しさだと。だから哲学的に考えられていた側面があるわけだ。
で、この中世ヨーロッパでキリスト教が入ってきて恥や罪の象徴になってきたわけだ。だから裸にして晒すみたいなものが罪になり得てきたんだよね。
で、ルネッサンス期になって人間参加とか神聖な美としてまた再評価されて、ミケランジェロのダビデ像は性的とされないで英雄の象徴だ、みたいな風になったわけだ。
そう、でも不思議だよね。ほんとね。そういう背景があってあるわけじゃん、ミケランジェロのダビデ像なんて。でもほんと、あの、宝経だとかさ、丹少だとかさ、そういう風にいじられる瞬間があるわけじゃん。
なんかそれでもさ、別にいいと思うのよ。なぜなら公共の場に置いているからどんな人が見て、どんな感想を持って、中学生みたいな短絡的なバカ坂原の感想を持とうが、やゆしようがいいと思うんだけど、ただそこに、なぜこんなに美しいのかって、なぜこんなに力強いのかって、
なぜ裸体像というのはこんなに神聖さを感じるのかっていうのを感じる人間が一人いたら俺は飾ってていいと思うんだよね。
そう、まあ、そして現代になるとね、不思議なのがさ、もうなんかヌード写真なんか完全にポルノじゃん。ポルノとされるわけじゃん。そう、でもデッサンとかさ、ヌードを描くのが基礎となることが多いじゃない。
ヌードの描写とその重要性
やっぱり服を着ている人間を描くっていうのと、あの裸の人間を描くっていうのって全く違ってくるわけよ。もう人間の肌感とか質感とか骨格とかさ、骨の組み方みたいな、肌のなんだろうな、肌が重力で下がっている感じとか柔らかさとかそういうものって服着てたら絶対に描けないわけ。
だからヌードを描くっていうのはマジで勉強になるし、本当に大事なことなのよ。ただそれをエロに感じてしまう人間が多いし、エロ目的で冷やかしをするバカみたいな男たちもやたらと多いから何とも言えないんだけど。難しいね。やっぱりグラデーションと受け取り手の問題だよね。
なんか、もっと美しいもので神聖的な空気感というものもあるわけじゃん。なんだろうな。話が飛躍するけどさ、愛のあるセックスとか、初めて人の裸体、自分じゃない愛する人の裸体に触れるっていう、あの性質とした神聖な空気感というものっていうものも、
性欲で8割9割は頭の中いっぱいいっぱいなんだけど、男の子なんて。でも、女の子ってすごく柔らかいとか、男の子のお尻の筋肉、お尻から太ももに流れる筋肉ってすごくいいなって思ったり、
女の子のくびれの部分を触っていて、あー面白いなって柔らかいなって壊れてしまいそうだなみたいな、あーの空気感っていうのもさ、エロと切り捨ててしまえばエロだけど、あそこって神聖なものがあると思うのよ。
そういうものを感じるためにはやっぱり、教養が必要だと思うんだよな。それが、あれが性欲を完全に排除した場合、あの時の神聖さを偶像で作りたいって思ったら、絵で描きたい、絵で表現したい、像で表現したいって思ったら、やっぱりラフ像とかになると思うんだよ。
それはさ、過去の文化からちゃんと学ぼうって、これはエロじゃないって、もっと美しさがあって、最高の目的があって、ここの人間たちの文化があったんだっていう教養的な眼差しを一つ持ったから、卑猥に感じなくなったわけだ。
だから、ラフ像で子供たちが恥ずかしがるから、イコール悪だ、隠そうっていうのは、おかしい気がするんだよな。裸って不道徳なのかなって思うんですよ。裸って不道徳なのかなっていうね、あの文章にして地面にすると不道徳だよ、うるせえバカ黙れって思うんだけど。
それはね、街中でね、ストリーキングがね、あの全裸でね、ラリって酔っ払って走り回ってたらね、男でも女でも引くわな、そりゃ。いや、そりゃ不道徳なんだけど。
いやーでも難しいなー、なんか生命力とか感能的なものって、感能って難しいよね。感能って美術とエロのギリギリのところだと思うんだよね。マジ受け取り手だよなー。
人間って愚かって思うのと同時に、でもなんか平和なんだなとも思うんだよ。こういう問題が起こるのってさ、美術、美術なんだろうな、生活に余裕があって初めて美術が栄えるみたいな、芸術が栄えるみたいなところもあるからさ、こういったところで大事になってくる。
いつか話題になるっていうのが一つね、また平和な証拠なんだろうなーなんていうふうにも思うんだけど、なくしちゃったら悲しくない?って思うんだよね。なんかほんとさ、性的なものイコール悪にしすぎな気がするんだよね、最近。
それはポルノ雑誌をさ、コンビニに置くなとか言うのはいいよ、賛成だよ。公共で生きている限りはそういうものを子どもが目に入る部分でそういうポルノを置くべきではないっていうのもわかるの。暴力的なものややっぱり過激なもの、エロという過激なものを隠すべきだっていうのはわかるんだよ。
隠すべきだっていうのと排除すべきだは違うんだよね。なくしてしまえば違うと思うの、俺。
あのほんとコミケ帰りでさ、ペド漫画とかロリ漫画とか、リョナとか、ああいうものの紙袋でホンホンホンホンホンってなって電車乗ってるおっさんたちは駆逐していいと思うんだけど、あの隠れて身内でやって好きな人間たちが集まってそれを楽しむっていうのは別にいいと思うんだよ、俺は。
それが、そうだな、性的な目的でもね。表現っていうのはそこで守られててほしいわけ。でも今の子たちなんかインターネットがあってこんなにさ、携帯もあってパソコンもあってなわけじゃん。だからどっかしらからは入ってくるしエロなんて排除する、できるわけないじゃん。完全に排除なんかができるわけないのにさ。
ラフ像を排除して何になんの?とも思うんだよね。いやーどうなんだろう、よくわかんないけど。女性像だと、おっぱいすげーって思うわけですよ。昔の人間はお尻がでかいとかさ、ギリシャとかローマとかでも思うわけよ。でもそれってさ、性的興奮してるわけでもないんだよなー。
女性像だから性的には見てるんだけど別に性的、搾取してるわけでも興奮してるわけでもないんだよ。その、なんだろうな、女性の裸に美しさを感じている。難しいなこれ、なんて言えばいいのかな、伝わって。
なんか、そうだなぁ、ヌード写真とかもさ、結構俺は嫌いじゃなかったりしてさ、それこそ篠山鬼神とかさ、荒木信吉なんかは有名だけども、そういうものを見てたりしてても、エロと美しさってやっぱりさ近いわけじゃん。生命力というもの。
エロスとタナトスだよね。そういうものをね、発表し続ける。作品としてしまえば俺は何をやったっていいと思う。アートという盾をつけてしまえば、俺は何でも許容できてしまうのよ。
ただね、このアートといって残虐なものとか、可烈なものもたくさんあるから、それはね、子供に見せる見せないっていうのは、まあ、国だったり、世の中の意見だったりっていうのは大事かもしれないけどさ。
まあほんと野村咲子なんかが撮ってる男性のヌード写真なんかもね、また美しいなーって思うし。なんかほんと裸イコール悪、ラフ像イコール悪っていうのは、俺は反対だなー撤去するっていうのは。どうですか?そんなに不快ですか皆さん?ラフ像。エロというのはそんなに規制しなきゃいけないですか?エロですか?
アートというものを、なんかどうしても芸術っていうものをさ、深掘っていくと、人間の根本的なものの美しさっていうのは裸に行き着いたり、性っていうものに行き着いたり、俺もしちゃうと思うんだよなーっていうね、お話でした。
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