シュウの別番組のごシュウ笑ラジオで面白いと感じることがあって
「格差」っていう言葉に、普通の「差」と違って程度が大きいみたいなこともあるけど
シュウの感覚としては「それだけじゃないぞ?」って感じて…
収録日:11月15日
シュウの個人Podcast:シュウの放すラジオ( https://anchor.fm/sakashushu )
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サマリー
このエピソードでは、格差社会の概念を深く掘り下げ、教育格差や資本主義の影響について論じています。シュウとショウは、格差とは何か、どのように捉えるべきかを考察し、社会における役割や権利の重要性について言及しています。自身の心の成長や、格差に対する捉え方についても話されており、マインドフルネスの一環として他者への慈しみの瞑想が紹介されています。また、遠くにいる人たちとの調和を保ちながら、それぞれの幸せを願う重要性についても考えられています。さらに、悟りや瞑想の重要性、そして人生の奇跡を感じることの意義が語られています。
格差の概念について
シュウとショウの未知の理への道のり
シュウとショウの未知の理への道のり
この番組はご自動に、シュウとショウの気が向いた時に
適当に好きなことを話しながら、未だ知らないことは
あり、つまり、未知の理を探していく道のりを描く番組です。
下手をしたら、二人のむちっぷりを探すだけの気のままな旅
ゆるーくお付き合いいただけたら、うれしいです。
前回からの続き
そんな感覚ですね。これせっかくなんで、めちゃめちゃ脱線になるかもしれないんですけど、
ちょっと前にゴシュウショウラジオって大輝くんたちと一緒にやってる番組の収録あって、
それが僕的にはめちゃくちゃ面白くて、それの中の僕が感じたことと
何か繋がりそうだなーって思うんで、喋ってみちゃうんですけど、
その中では、僕がですね、格差社会っていうときの格差っていう言葉に、
ただの差っていうんじゃなくて格差って言ったときに、
ただの差よりはその程度がひどすぎるみたいな、程度としてその差が大きすぎる的な意味かなってざっくり
ぼんやりイメージしながら話し進めてたんですけど、話を進めてるうちに、
いやなんか少なくとも自分にとってはそれだけじゃないぞって思って、
なんかその差を、この差をつける以上は何かの基準がいる?
この分野で、分野?この概念で、概念はおかしいな、まあ分野でいいか。
この分野で差をつけるみたいな、例えばお金を持ってる持ってないっていう、
お金で線引きがされるみたいな、
軸がいるってことですよね?
うんうん、何らかの軸、それが複数混ざってる場合もあるけど、なんかその軸があるように感じて、
で、その軸が固定されてしまうみたいなニュアンスをなんか格差に感じていて、
なんか本当はみんな、いろんな価値基準だったり特徴を持っているから、
その意味で、差ってその基準を設けない限りは、
もともと全員にいろんな差がある、あらゆる差があるむしろ、
でもそれをある一つの基準でなんか絞って測ってしまうことみたいな、
それによって差が大きく見えてしまう、
もちろんその程度がひどくなっていることを格差って呼んではいるとは思うんですけど、
それとは別にそこをめちゃめちゃ気にしている自分がいるなって思ったんですよ。
で、そういう話をした時に、その差だけに目くじらを立てて見つめるんじゃなくて、
なんかそこを逆にあまり気にしなくなる方向性の方がいいんじゃないかなって僕的には思ったんですよ。
面白い。
みたいな話をした時に、大輝くんが、
いや、それだと例は違うけど極端な話、せっかくみんなで作った権利みたいな、
教育格差の影響
発見してやった方がいいみたいな権利みたいなのを捨ててしまうことになるような印象を受けるみたいな風に大輝くんが言ったんですよ。
要は僕がその気にしなければいいじゃんっていうふうに安易に言った時に捉えちゃったのかなみたいな印象だったんですけど、僕から感じたのは。
で、それがですね、これがちょっと無理やり紐づけてるって感じるかもしれないけど本当に感覚的な話なんですけど、
僕はその自然に戻ろうみたいな話をあんまりしてるつもりなくって、
自然だったり原始時代みたいな例も出すけど、そこに実際に戻ろうっていう話をしてるつもりなくって、
一周回って、ちゃんと自分でそれを把握した上で、こだわってたことを手放そうっていうイメージなんですよ。
だからその差に目を向けたらそれは気になるけど、
まあ知ってるけど、そこに目を向けなければ大丈夫みたいなところに戻る的な観点で話を進めてたんですね。
だから、なんか権利とかがまだなかったみたいな人間もある意味、なんていうか、動物的って言うとあれかな。
要は自分の欲望に従って奴隷みたいなものを作ってみたりだとか、いろいろ侵略して従わせてみたいなことをしてきたこととか、
そういうのを踏まえて権利みたいなものがあった方がいいって言って通ってきた歴史を全部捨てるわけじゃなくて、
それを踏まえた上で一番いいところにさらに進んでいく歴史はまだこれからも続いていくから、
全部踏まえた上で持ちすぎてる欲望みたいなのを手放した方がいい的な意味で、そういう差にも目を向けすぎないみたいな話をしてたんですよね。
だからそれが動物みたいな何も知らない状態に戻ろうっていうんじゃなくて、
いろんなことを知って経験してきて、しかも人間は1世代だけじゃなくて世代を超えて歴史を認識していくことができるから、
それを踏まえた上でみんながバランス取り合うみたいなところに行こうって思うのが今回のこの悟りみたいなのともつながって、
人間はそういう意味で全体として悟りに近づいていった方がいいんじゃないかなみたいに普段から思ってるなっていう、
それがだから御終章ラジオで言った話と、ちょっと僕の気分としてはつながったかなみたいな感覚なんですけど、
伝わりますかね。
おっしゃりたいことは、
そこをさっきの話題からそこにつながったっていうところが、
類似性というよりも話題としてリンクしたって感じですよね。
そうですね。人間だけは悟りが必要っていうところが、そういう格差が生まれるほどに力を持ちすぎている。
から、みたいなのがあるから、そこの文脈でちょっと自分の中ではつながるというか。
持ちすぎてるし、知性が高くていろんな小概念を生み出してるからですね。
そもそも僕もその格差みたいなところで差と格差の違いみたいなところでちょっと言うと、
似たような捉え方で、
差は純粋な差。いろんなものに差があるのでそれしかない。
だからそれは基準がなくても2つ存在すれば相対的な差としては生まれるわけじゃないですか。
格差っていうと何かしらの軸があって、しかもその上下みたいな方向性があるんですよね。
なるほど。
だから格差みたいな言い方して、どっちが良い状態、どっちが悪い状態みたいな、絶対そういう方向性があるなと思ってて。
で、そういう意味でそれがそうじゃないみたいなところの捉え方をしないと解決しづらいこと。
で、これがなんで解決しづらいかっていうとやっぱり資本主義だからだと思ってて。
明らかに資本主義のところから言うとお金がいっぱいある方が格として高い、良い状態みたいな状態が前提としてあって、
それが大元になって全てのことが、じゃあその教育格差みたいなところとかもあって、
それでお金持っている人の方が良い教育を受けられるだとか、そんな話だとかにもなってくるし、
そもそもじゃあ教育とか学ぶこと自体の意義って何みたいな話からしたら、
純粋に考えたときに、いろんな考え方あると思うんですけど、
小学生とかに本質監修っていう手法で、監修。監修とかの見るに、
手話取るかな、ちょっと漢字が出てこないですけど、
教育学者で哲学者のトマの一家さん、
あの方が小学生とかやったりとか、道徳の授業とかにも取り入れられていくかという話だったと思うんですけど、
そういうふうに本質を探っていくっていうのを子どもたちとコミュニケーションとってっていうときに、
小学生の子たちと、学ぶってどういうことかみたいな、
ちょっと詳細は置いといて、最終的に結論として、学ぶとはみたいなのを小学生たちが出した結論として、
学ぶとは問いを、問い、自分、しっかり覚えてないな。
すごくいい言葉で、これ小学生から出てきたみたいな感じの、
ちょっと検索してみますね。
画像にはあるはず。
画像をスクショしてたんで、
学びとは自分自身の問いと気づきを通して、性が豊かになっていく営みである。
小学生?
小学生から、自分たちからこの言葉が出てくるみたいな。
これは話としては脱線して、すごいいい話だなって紹介したんですけど、
結局学ぶっていうのを小学生でもこういう捉え方してて、
これからいったときに、教育格差って何?みたいな話ですよね。
別に学ぶこと自体が今の定義でいったときに、
何らそういう差なんてないというか、
もう自分が楽しく生きるときに、
自分の問いと気づきとかを通して豊かに生きていくため、
みんな平等にそれはあるんじゃないかなっていうぐらい極端な話ですよ。
ってことを考えたときに、
やっぱり教育格差っていうと、いい教育を受けられたら、
いい生活をしやすいような状態のアドバンテージがあるとか、
物質的な豊かさと格差
結局その先に物質的な豊かさだったり、金銭的な豊かさみたいなところがソースにあるじゃないですか。
そうですね。
だからやっぱりそこは格差みたいなところはそういうふうな、根本はそういうお金みたいなところに支配されてるし、
そこでやっぱり優劣みたいなものが存在するがゆえに格差として見えるけど、
それ自体を本当に格差として見ない見方みたいなのはできるから、
ただ現実問題として資本主義社会の中で生きていくわけだから、
その中でちゃんと資本主義社会の中で物質的な豊かさも含めて、
そういう視点でちゃんとみんなが満足できるような社会にしようという意味合いでの格差という議論だとは思うんですけど、
格差を問題とする議論というのですね。
そうですね。
ただもうちょっと大きな視点で捉えたときに、本来的にそういう格差みたいなものがそういう資本主義、特に資本主義に根差してるものだとすると、
見方変えたら全然そんな気にせずにやっていけるはずじゃないかなっていうのは思う感じですね。
それはちょっと話のベクトルが少し違うような感じで、
ただ捉え方としてそういう捉え方をすることでいろんなことに応用が利きそうというか、
どうしてもその格差みたいなのは資本主義社会である以上出てくるものかなというふうには思いつつも、
そこの捉え方変えられれば別にその格差があること自体を問題として捉えずに生きていけるかもしれないし、
そこの差が実際問題なくなるに越したことはないんですけどね。
そりゃそうですね。
ただ捉え方としてそういうことをすることで別に問題とせずに人間らしく生きることは可能なんじゃないか。
なんかしゅうさんが言いたいことに少し似た感じなのかなというふうにはちょっと。
そう思います。ベクトル違っておっしゃったけど、ベクトルはほぼ一致しているような感じがして、
事例が違うだけでみたいな。
僕が言ったベクトルっていうのはそういう格差みたいなものを気にしなくていいんじゃないっていう方向性と、
その格差自体をなくさないといけないっていう方向性はちょっとベクトルが違う。
そういう意味です。
そうですね。
こっちはこっちで大事だけど、そうじゃない方法もあるよねみたいな。
そんな意味合いでそこのベクトルのずれでちょっと、
タイ君との話がそういうベクトルのずれがあったからじゃないかなと思って。
なるほど。それも混ざってたかもしれないですね。
僕は両方っていう表現も一応含ませたつもりでいたけど、
ちょっとあれかもしれないけど。
うん。
ごめんなさい。その一部分を切り取っちゃったから、その後いい感じに収束していったんでご収書お願いします。
でもそれは両方ありますよね。タイ君のはちょっとそこがメインではなかったけど、
誤解されがちなところかなっていうのも重々承知してて、
僕は格差があってもいいって言ってるわけじゃなくて、
慈しみの瞑想
格差の程度がひどいっていうことと、それと全く別の観点として差を気にする気にしないっていう観点が、
あるよねって言ってるだけで、気にしないでいいとすらあまり言ってるつもりもなくて、
僕は勝手に気にしない方向を一人で突っ走ってはいるんですけど。
そうですね。
はい。そんなのぶっこんじゃいました。すみません。
はい。
で、実はこの慈しみの瞑想は、
幅というか範囲を広げてるんですけど、その後に実は続きがあって、
広げる方向じゃないんですけど、表現として、ごめんなさいね、ちょっと、
えーっと、この本の表現を使いたくて今めくっちゃってるんですけど、
オプション、試し瞑想っていうのがあるんですよ。
へー。
それで、2種類になるんですけど、似た感じなんであれなんですけど、
1つが主語が、私な嫌いな人々になるんですよ。
私を?私な嫌いな人々?
私な嫌いな人々になるんですよ。
私な嫌いな人々になるんですよ。
私な嫌いな人々になるんですよ。
私を?私が?
私の嫌いな人々。
まあ、意味としては私が嫌いな人々でもいいんですけど、
私の嫌いな人々も幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、
願い事が叶えられますように、悟りの光が現れますように。
で、その次に、私を嫌っている人々も幸せでありますようにって続いていくんですよね。
その2つが追加されるオプション試し迷走っていうのがあるんですね。
そのオプション試し迷走。
明らかに、今までの主語の広げとは違って、明らかに自分に対して、あるいは自分から敵対意識というか敵対というか、
そうですね、そういうマイナスな感情が入る範疇で、こうやるっていう。
そうですね。これの説明文の、長いんで冒頭だけご紹介したんですけど、
そのオプション試し迷走と書いたのは、この迷走で自分の心の成長度合いがわかるからです。
っていう風に書いてるんですよね。
なんで、この今までの私とか親しい人々とか生きとし生けるものっていうもので、いくら唱えてても、言葉面を表面上なぞってるだけでは、本当の心の成長ができてきてるのかわかんないから、この試し迷走の2種類があると。
なるほど。
ここで僕がこの嫌いな人々っていうのになってくると、もうなんか、本当に最初に私のだけを考えてた時の幸せとかっていうのと幸せの定義がもう本当変わってきちゃうんですよね。
だから、その人にとって、自分が嫌いって思っている相手にとっての幸せってなんだろうみたいなことも考えないと進まなくなっちゃうし、その人の悩み苦しみがなくなりますようにっていうのも、
その人の本当の願いみたいなところを、表面上で自分と嫌い合っていることとは別の願いとして捉えないと成り立たなくなってくるんですよね、僕の中で。
願い事もそうなんですけど。
で、その上で悟りの光がって言った時に、大体僕の中でイメージしちゃうのが、私の嫌いな人々っていう時も、私を嫌っている人々っていう人たちを、具体的な個人も頭の中でイメージしながら唱えてるんですけど、
遠くでの調和
大体、悟りの光が現れますようにって僕が唱えるときに、その人の顔はもう大体泣いてるんですよ。笑ってるっていうよりは泣いてるのでしかイメージしづらいというか、
自分にとってもそうだし、相手にとってもその嫌い合ってる相手が本当に嫌い合う、自分もそうですけど相手も嫌い合うことを心の底から望んでいるかっていうと、そうじゃないっていう結論に行く方向でないとこの祈りとして成り立たないなみたいな感覚になっちゃうんですよね。
なんかそこからすると、僕のイメージとしては、やっぱ拡張していくといえど、自分とか一回とかその周りの人みたいなところからすると、やっぱ空間的にも隣接した人と影響を及ぼし合うわけじゃないですか。
だからその幸せとかっていう形も多分そことの相互関係で生まれてくるものだし、いろんな願いだったり、だからその嫌ってる人あるいは嫌われてる人っていうのはすごく遠くで自分と関係ない、ほとんど交わらない範疇のところで相互関係で生まれてくる。
意味的に幸せ、その人なりの幸せが構築できるんじゃないかなっていう風なイメージがあって。
なるほど。
そういうこと、好き嫌いはどうしてもあるので、そこがバランス取れてうまいこと調和できるポイントっていうのはそれぞれ多分違くて。
そういうイメージの方がイメージしやすいかなっていう。
なるほど、僕その視点がなかったでした。
いやいや、自分が今嫌ってるとか嫌われてるとかっていうのは直接的にそばにいるみたいな前提なので、そういう風なイメージかと思うんですけど。
そういうイメージになったのが僕の義理の母の言葉でいいなって思うのがあって、嫌いな人とかがいたときに遠くで幸せになってくださいって願うらしいんですよ。
なるほど。
それいいなっていう風に思って。
いいですね。
だからそういうことやなと思って。
はいはいはい。
そういうことやろうなみたいな嫌ってる人嫌われてる自分を嫌ってる人とかっていうのも別に自分と密にこう世界の中で生きていく必要はないけど、遠くでその人なりに調和が取れる環境の中でそれぞれ幸せになればそれで全体としてそれでいいんじゃないかみたいなその感覚っていうのは。
その言葉を聞いたからこそちょっとある感じかもしれないですね。
うーん、いやいい話を聞きました。これで明日からの瞑想がちょっと一段階深まりそうな気がします。
よかったね。
えー面白い。いやすごいですね。お母さんすごいですね、義理のお母さん。
はい、セラビのお母さん。
いやーすごい。いやーなんかあまりにも鮮やかで他の発想が全部吹き飛んじゃいました。
いやーいいな今のは。
うーん、それだと成り立っちゃうな。成り立っちゃうなって成り立っていいんですけど。
僕はその発想が全然持てなかったから、向き合った上でじゃあどうやってお互い解決していくかみたいな発想になっちゃってましたね。
全然そこもですね、その視点っていうのは限りなく大事だと思うんですけどね。
いやいやいや。
その関わる上で向き合ってどこまで向き合えるか。でもやっぱり限界あるので。
僕も向き合い続けて限界きたみたいなこともやっぱり過去にあるからですね。
もうそのことはだからこう、もう人生でも関わらずにお互い、お互いそのなんだろう、それぞれの道を生きていければそれがあるみたいな感覚でいますね。
確かにそうですね。
悟りと瞑想の探究
僕この最初の3つ、4つの文章のうちの最初の3つは、その今、トークで幸せになってくださいっていうので成り立つというか、それでスムーズに受け取れるみたいな印象を持ってて、
最後のでも悟りの光が現れますようにっていうのは、それを踏まえた上であっても、
なんていうかな、その悟りの光が現れたら、下手したらそばにいても大丈夫なぐらいの領域に行けることを察してると解釈して、そこはあんま変わんないんですよね。
だからそれが今回しょうまさんが最初の、もう初っ端な私が主語だけの時に言ってくださったことにも、僕はこの辺でようやく行き着くみたいな感じだったんですよね。
それこそ欲望を叶えるみたいな意味とは真逆のことが悟りみたいに思っていて、
僕のその泣いてるイメージ、自分自身も泣いてるんですけど、っていうのが、笑い番組を見て笑ってる時とは全然違って、
全部それこそ、いろんな痛みとか苦しみを踏まえた上で、でもそれでも感謝が溢れるみたいな感じの感覚が、本当に感覚的な話ですけど、悟りを開くっていうのはそっちの方に行くような感じかなって勝手に想像してるっていうか、勝手なイメージなんですけどね。
すべてが奇跡ですもんね。すべてが奇跡で当然のことじゃないっていうのを、どれだけ自分ごと、あるいはそのリアリティをもって感じれるかっていうところだと思うんですね。
常にその、やっぱり人間普段生活しているとその同じ景色、同じ生活みたいな、ある程度繰り返されてて、そこの、まあ多分この脳みそ守るためにもそういう情報をあえてシャッとして考えないようになってるんだと思うんですけど、
そこを毎回毎回その時その時で思い直せる、すごく自分の精神的な土台の部分にそれが根付くっていうことがそれに近いようなことなんだろうなっていうことですね。
そうですね。これの慈しみの瞑想としては、その最後のお試しオプション瞑想を2つを唱えた後に、でも一番最後に生きとし生けるものが幸せでありますようにっていう一文だけもう1回唱えて締めるみたいな感じになってますね。
これを毎朝5分ぐらいかけて頭の中で唱えて瞑想した後に、実際のビパッサナ瞑想、僕の場合はビパッサナ瞑想っていう。
ビパッサナ。
体のことを実況中継していくみたいなのを何十分かやるみたいな感じなんですけど、この本にはとりあえず冒頭で必ずこれをやってからやってくださいみたいなのは書いてますね。慈しみの瞑想をやってから。
ちょっと理由も書いてたかもしれないけどちょっとどこ書いてたか忘れたんで今パッと出ないんですけど。
でも前にしょうもさんと瞑想の話をここで話し始めてから、その瞑想の目的みたいなのを話したことありましたっけ?
えー、目的?
自分の中でこういうのが目的でみたいな話?特にしてないでしたっけ?
いや言われた気もしなくもないんですけど、目的でいいですか?
僕が言ったかしょうもさんがおっしゃったかっていうか、相手がしょうもさんかどうかすら覚えてないんですけど、なんとなくそういう、なんていうのかな。
あ、しゅらさんと話したのかな。
瞑想をしたからといって何が変わるわけでもないんだけど的な文脈もあったような気もするし、自分の中ではこうみたいなのがその時に浮かんでたりしてお話したような。
ごめんなさいしょうもさんじゃない気がだんだんしてきました。
次回へ続く。
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