1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/02/12:聖日礼拝(旧音源)
2012-02-12 49:51

2012/02/12:聖日礼拝(旧音源)

2012/02/12 聖日礼拝(旧音源)


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ご着席ください。聖書朗読を宮原兄弟にしていただきます。聖書の箇所は、使徒の働き23章7節から12節、新訳の276ページです。
聖書をお読みいたします。使徒の働き23章7節からです。お読みします。
彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に、県の衝突が起こり、議会は二つに割れた。
サドカイ人は復活はなく、密会も礼もないといい、パリサイ人はどちらもあると言っていたからである。
騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある立法学者たちが立ち上がって激しく論じて、私たちはこの人に何の悪い点も見出さない、
もしかしたら霊か密会かが彼に語りかけたのかもしれない、と言った。
論争がますます激しくなったので、船人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、
兵隊に下に降りて行ってパウロを彼らの中から力づくで引き出し、永遠に連れてくるように命じた。
その夜、主がパウロのそばに立って、勇気を出しなさい、あなたはエルサレムで私のことを証したようにローマでも証をしなければならない、と言われた。
夜が明けると、ユダヤ人たちは戸頭を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。
以上でございます。
聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
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聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
聖火隊の賛美に続いて、牛田先生より本庁のメッセージをいただきます。
皆さんおはようございます。
今日も見言葉をいただきたいと思います。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
我キリストと共に十字架につけ られたり
もはや我幾るにあらず
キリスト我が家にありて生きる なり
天の神様こうして今あなたに礼拝 を捧げています
礼拝の主である主御自身が私たち を迎えてくださり感謝をいたします
私たちは神様のおられるこの宮 に帰ってまいりました
その神様のおられるところでこう して主の始めに礼拝を捧げうる
ことのこの尊い特権を心から感謝 をいたします
あなたは私たちを日々育みまた 支えそしてどんなときにも共に
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いてくださる主であることを覚 えて皆を崇めます
またきょうも御言葉を通してその ことを覚えまた主の前に食いる
べきものは食いてそしてまた主 の丘を這いして新たに作り変え
られてここを出ていくことができる ように助けてください
またあなたを知らない方々にも どうぞこの教会の働きを通して
多くの方々にこの福音を伝えて いくことができるその働きも進
めていくことができるように私たち を支えてください
今日来れなかった兄弟姉妹方のうち にもどうぞ主が届いてくださる
ようお願いをいたします またきょうも御言葉をいただきます
がその中に込められているあなたの 見思いを私たちも減り下って聞き
またそれを実践していくことが できるように導いてください
語るもの乏しく小さなものであります から主御自身が支えてくださる
よう一切を委ねて主キリストの 皆によってお祈りいたします
アーメン 今日の一つのテーマとして 私には関係ないということはない
ということを覚えたいと思うん ですねおそらくきょうあたりデパート
に行きますと大変にぎやかなコーナー があるだろうなと想像しますもう
既にそうでありましたからそれは もう皆さんもお察しのようにバレンタイン
デーのことでありますねこのバレンタイン デーも一つの説ですけれどもこれは
教会に由来するものであるということ なんですこのセントバレンティーン
という人ですねこれが当時のか つてのローマ帝国の時代ですね
その二百六十九年にローマ皇帝 の迫害家の下で殉教した聖バレンチヌス
そのことに由来する記念日だという のが大方の説でありますこの当時
ローマでは二月十四日というの が女神ユノという女神の祝日だった
そうですね当時ローマ皇帝の命令 なんでしょうが兵士たちは恋愛
をしてはならぬとそれによって 四季が落ちるので彼らに恋愛を
禁止しておったというようなことが あったそうですねしかしこのセント
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バレンチヌス彼がある兵士とその 恋人を結び合わせてそして恋が
実ったということところがそれが バレてしまってこのバレンチヌス
は処刑されたというそういうこと があったようですねですからこの
セントバレンチヌスは愛のキューピット というような形でそれがその日
に何かこの愛を表すというような そういうふうになっていったん
ではないかということなんですね さて私にはバレンタインデーなんか
関係ないと思われている方がいる でしょうか決して関係ないことは
ないんですねこの愛を表しまた 私たちが愛を受けるこれは決して
チョコレートで表すのも一つですが そればかりではないと思うんですね
この神様が私たちに愛を注いで くださりまた私たちも愛されている
ということを日々覚えていること それが大事なことだと思うんですね
バレンタインデーにかかわらず 私たちはすでにクリスマスのときに
神様が人間を愛するがゆえに私たち に愛の表しとしてミコイエスキリスト
救い主をプレゼントとしてくださった これが何よりの私たちが愛されている
という一つの印であろうかと思 うんですねそしてまた私たちが
こうして教会にあるいは宗にある 交わりに入れさせていただいて
そこで多くの愛を覚えるということ それを忘れてはいけないと思うんですね
あるいは私たちがまたいただいた 愛を周りの人々に何かの形で表
していくそれが非常に大事だと思 うんですねそういう愛を与え愛を
受けそういう日々もしそういう 日々を送るならば私たちにとって
毎日がクリスマスですし毎日が バレンタインデーであるそんな
ふうに思うわけです もう一つの私には関係ないことは
ないというのは実はきのう兵庫 教区の総会に行ってまいりました
この年度末になりますと兵庫教区 総会教会の総会教団の総会といいます
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と誰かさんが何とかと言います よねそれでその総会なんですが
私たちにとって兵庫教区教団そんな ものは関係ないということはない
ということの確認なんですねこれは 私たちが今使徒行伝使徒の働き
をずっと呼んでいますこれとまた 関係もあると思うのでこの機会
にもう一度整理しておきたいと思 うんですね皆さんもよくもその
ことは御存じだと思うんですが もう一度確認の意味で兵庫教区
あるいは教団ということを覚える ときとしたいと思うんですねそれ
に合わせてそれは私には関係ない ということではないということ
をもう一度確認しておきたいと思います この使徒行伝にありますように
一つの群れが種にある群れができ ましたそして彼らはいろいろな
ところに行ってまたそこに新しい 教会の教会という群れをつくって
いきましたそういうふうにして 教会がこちらにあちらにまた次
にそういうふうにして一つの教会 のグループといいましょうか親
教会とするならば子どもの教会 あるいは子どもの教会にとって
は兄弟教会姉妹教会というふう にして教会が次々生み出されて
いったわけですねこれは今日でも それは行われているわけですし
その妙谷教会もそうだったと思 うんですね西部教会から生み出された
教会としてここにあるわけですね 今から六十年前にある教会ができ
たそこにまた次の教会同じ群れ の中で次々教会ができていきました
そしてこの六十年たってこの日本 イエスキリスト教団というその
一つの教会のグループその群れ が百三十三の教会に今全日本中
にできてきたわけですねそれは もとを正せば一つの二つの教会
からずっと増えていったあるいは できて生み出されていったという
そういうふうな状態が今この教団 というものですねですからこれは
もとを正せば皆同じ一つの中から 生み出されたいわば兄弟教会姉妹
教会それを教団という名前で呼ぶ わけですから私たちにとってこの
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教会がその教団に属しているということ はその教団の中の関わりの中の
ある教会ということで決して教団 と私は関係ないということではない
ということですね関係があるということ を覚えないといけません
教会には二つ大きく二つあると思 うんですが単立の教会と言われる
のと教団に属する教会単立の教会 というのは漢字で書きますと単
という一つですねその一つの教会 もちろん教会は一つなんですが
その一つの教会が運営していく というほかの教会兄弟教会姉妹
教会とかそういうのをなしにその 一つの教会で大きくなっていく
という決して別のところに教会 をつくったりしないでその一つ
のこの教会でずっとやっていく という単立の教会それとこの教団
として幾つかのグループの中で やっていく教会そのそれぞれ特徴
があったり恵みがあるんですけれども 明太に教会は教団に属する教会
そしてこの百三十三の全国にある 教会が何らかの活動を一緒にしましょう
というそういうことも組織として 当然出てくるわけですね何故か
と言いますと一つの教会でやれる ことは祝福としてやっているわけ
ですがそこには限界があります 人数も限られまた財政的にも限られている
それじゃ二つ三つの教会で一緒に やればまた一つではできないもの
もできてくるそれじゃそれを十の 教会二十の教会三十の教会それ
じゃ百三十三の教会全部で一緒に やりましょうかこれもなかなか
北は北海道から南は九州沖縄そこ までのみんながいつもいつも集まって
は何かしましょうというこれも なかなか困難なことですねですから
日本イエスキリスト教団では日本 の党の地区に分けてもう少しその
地区ごとで何かやりましょうという ようなことですね北海道地区とか
東北地区とかここは兵庫県の地区 という兵庫郷区という二十九の
教会兵庫県にある二十九の教会 その教会が兵庫郷区として何か
一緒に力を合わせてやっていき ましょうという中にこの明谷教会
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があるわけですその兵庫郷区の 総会がきのうあったわけですですから
この明谷教会は兵庫郷区の中の 教会そしてさらに百三十三の教団
の中の教会そういうふうにして 今位置づけられていますから明谷
教会に属する皆さんお一人お一人 は兵庫郷区と関わりがあります
しまた至ってはこの日本イエス キリスト教団の中の一メンバー
であるというそのことを常に覚 えておくということは大事だと思
いつもいつもそういう取り組み があるのかということではないん
ですが多くはそれぞれの教会の 働きが主になってしまいますけ
れども兵庫郷区と言われたその 郷区の自分たちは教会そこにいる
メンバー教団というときには教団 百三十三の全国の教団の中の教会
と一メンバーであるそういうふう にして常にスイッチを常に入れ
かえることのできるようなそういう ふうにしておく必要があろうか
と思うんですねそういうふうにして 私たちには郷区とか教団は関係ない
のだということでは決してない ということをもう一度ここで確認
したかったわけですこれは本当に 恵まれたことだと思うんですね
一つの教会ではとてもじゃない ですけれどもできないことそれが
二十九の兵庫郷区の教会の皆さん とやればこんなこともできたそして
それぞれの教会がそのことによって 恵まれ祝福されるあるいは兵庫
郷区だけではできないことそれを 他の郷区の皆さんと一緒にあるいは
全国規模で何かやりましょうそう すれば絶えな力が出てくるということ
ですねそんなことをもう一度確認 しておきたいと思います
それともう一つは超教派の活動 もあるということを覚えたいと思
うんです私たちは教団の中に属 するんですが別の教会グループ
もあるんですねルーテル教派とか あるいはバプテスト派とか日本
伝道隊とかナザレン教団とかいろいろ それぞれ教団教会グループがある
わけですがそういうような教団 教派を超えた同じ種にある交わり
を共に持つというそれを超超える 教派を超えて教団を超えて同じ
種にある交わりをしていくそこにも 私たちは目を向けないといけない
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と思うんですねもちろん自分の 教会それも大事教区それも大事
そして教団ということも大事ですが それを超えた全世界規模のそういう
交わりそれもあるんだということ を覚えてほしいわけですね
ですからイエス様が聖書を通して 私たちにきょうも語っているのは
全世界に出ていって全てつくられた ものに福音を述べ伝えなさいですから
私たちに与えられている宣教の 相手というんでしょうかそれは
全世界であるということですね あるいは私たちが福音宣教の働き
をするフィールドと言いましょうか 舞台は全世界であるそして私たち
が交わりあるいはお互い支え合い 祈り合うそういう信仰の友それは
決して教会の中だけではない教区 の中だけではない教団の中だけ
ではないもっと広い世界中にいる 人たち同じ種を信じている人たち
がみんな兄弟姉妹であるという そこまで神様は私たちに言って
くださっているわけですねです から私たちがどんなに知らない
遠くの世界の果てに行こうとも そこに私は種を信じているもの
ですクリスチャンです私もそう なんですああそうなんですか兄弟姉妹
一緒にやっていきましょうお互い 祈り合いましょうそして一緒に
支え合っていきましょうそういう 交わりそういうのをさせていただく
それが神様からの私たちへのまた 恵みと祝福であるそんなことを
もう一度確認しておきたいと思 うんですねそんなことを考えて
みますと私たちが知っている神 様の国の恵みとか祝福というのは
ほんの氷山の一角もっともっと 隠された多くの恵みや祝福がいっぱい
あるんだろうなそんなふうに思 うんですねですから求めをさらば
与えられるであろう私たちが求めて いけばきっとそこに神様がこれは
どうだこんなものもあるよこれは いかがかというもう溢れんばかり
のその恵み祝福がいっぱいあるん だろうなとそんなことを思うん
ですねですから求め続けてそして 神様の祝福をいただきたいとそう
思うわけですまたそれを多くの 人々に伝えていきますあなたの
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今生きているその世界それはほん の小さなまだまだ知らない世界
いっぱいあるんですよということ をまず私たちがそれを知り体験
してそしてそれを知っていきたい と思うんですね例えば私たちが
捧げている礼拝これは一つの礼拝 の形ですねでもいろいろこう見て
いきますとこういう礼拝もある のかああいう礼拝もあるんだそういう
礼拝本当に祝福されるそういう 礼拝も私たち目を向けていくあるいは
人々にいろんな福音の伝え方がある 私たちの知っている福音の伝え方
はこういうものですそれも何百 何千何万のうちの一つに過ぎない
こういうやり方もあるんだこういう やり方もあるんだそういう広い
そして深いそういう無限大の神 様の恵みそういうものにも目を
向けてそれをみんないただけるん だというそういうところにも私たちは
思いを寄せてこれからの働きを 進めていきたいと思うんですね
そのことを証しているのが使徒 の働き使徒行伝だと思うんですね
それが実際にこの二千年前にそういう ふうにして一つ一つ教会ができて
いたそして福音が伝えられていた それも全世界規模のそういう働き
として実際に行われたというその ことが記されているわけですもちろん
その過程にあっては大変な困難 があるそして試練や迫害も受け
たということが書かれてあります 考えてみますと私たちが簡単に
手に入るものそれはそれとして 手にしたときにああよかったな
それは手に入ったものになった なと思うけれども簡単に入った
ものは簡単にその感動や感謝は 薄れていくそんなにいつまでも
それを大事にしないというのが 人間の一つの特質があるわけですね
しかし苦労し困難でそして大変な 目にあって努力しそしてやっと
手に入ったものそれはそれだけの 価値があるしまた価値があるから
こそどんな困難であってもどんな に大変な目にあってもそれを得
ようとするわけですねそして得 たものそれはもう本当にありがたい
それをいつまでも大事にしていこう そういう思いが私たちにはある
わけですねこの使徒の働きに証 されている中でキリストの弟子
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たちが得たものそれはなかなか 手に入らないものでしたしかし
彼らはどんな困難をしてでもそれを 手に入れたいあるいはこれを伝え
たいなぜかというとそれだけの 価値のあるものそれだけの素晴らしい
ものであるということを自分たち が知っていますからこれを何とか
人々にも知ってほしいそういう ふうにして彼らは福音選挙の働き
をしていったわけであります この二十三章をずっと読んでいきます
とキリストの弟子でありました 一人のパウロパウロという人が
エルサレムで囚われの身となった これは彼が福音の選挙の働きの流れ
の中でエルサレムに帰ったときに やはり当時の宗教指導者たちそういう
人たちに囚われてしまったわけ ですねそういう中で彼はいろいろ
と大変な目に遭うんですがその 中で彼は今裁判を受けている議会
に立たされたということがここに 書かれているんですがこの議会
に立たされて彼が裁判を受けて もし彼がここで処罰されるという
審判を受けたならばこのパウロ の選挙の働きはここで終わって
しまうわけです彼の与えられた その使命はここで終わりとなる
ところが神様はそのパウロを見 捨ててはいなかった不思議なように
一つずつ難を逃れてここに至った わけですが今度ももうどうなる
のかというところまで来たわけ ですがこの議会そこに立たされた
パウロが六説のこの言葉を見たい と思うんですがパウロは彼らの
一部がサドカイ人で一部がパリ サイ人であるのを見てとって議会
の中でこう叫んだ要するに議会 の中にいる人たちみんながこの
パウロをもう処刑してしまおう とそういうふうに企んでおった
わけですねところがパウロは兄弟 たち私たちはパリサイ人であり
パリサイ人の子です私は死者の 復活という望みのことで裁きを
30:00
受けているのです彼は死者の復活 ということを語り出したんですね
そうすると議会にいる人たちの 中にその復活を信じるという人
と信じないという人が騒ぎが起こ ってその論争がますます激しく
なった 議会の目的はパウロを処罰 すること裁判にかけてそして彼の
言っていることを審議すること それが議会の主な目的であった
わけですしかしパウロが復活の ことを言った途端に議会の中で
二つに分かれていや私は復活を 信じる私は復活など信じないもう
パウロのことなどそっちのけで お互いが論争し合うというそういう
ことになったわけですこれはパウロ が意図したことだとするならば
彼は誠に頭の切れるそしてその 場をきちっと見てそういうひらめき
をいただいたかそうでなければ 神様の業としてこのパウロを救う
一つの手立てとして神様のなさ った業としか言いようがないと
そしてこのパウロがこの議会の 中で翻弄されてそしていやパウロ
は私たちの言い分に正しいのだ いや彼はそんなことは言っていない
ここにありましたようにパウロが 引き裂かれそうになったと書いて
いますよねですからこの難を兵士 たちがこのパウロの身柄をとら
えてそして専任隊長に預けたということ このことによって彼は議会で裁かれる
という難を逃れるというそういう ことがここで起こったわけです
何とも不思議なことであります がそういうふうにして彼は一つ
ずつそういう難を逃れていくや がてこの議会から解き放たれた
パウロはまだ完全にその難を逃 れたわけではなくて一部のユダヤ人
四十人ほどがパウロの暗殺の陰謀 を企てていたということも書かれて
ありますところが十六節パウロ の姉妹の子がこの待ち伏せのこと
を耳にし陰謀を耳にして平泳に 入っているパウロにそれとそれを
知らせたそしてパウロは百人隊長 の一人を呼んでこの青年から専任
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隊長のところに連れて行ってください お伝えすることがありますから
と言ってその陰謀のことが専任 隊長の耳に入ってこれはけしからん
ということでこのパウロの身柄 を今度は総督ペルクスというところ
にもう送り届けよう専任隊長も これ以上パウロの面倒を見切れない
というようなところに来たんでしょうか あるいはこれはもう総督に任す
というそういうところまで来た ということなんですねこの総督
ペルクスにその身柄を委ねるそういう ことになったときにそれじゃこの
ペルクスというのはどこにおら れるのかとずっと見てみますと
彼はカイザリアという地中海の 海に面した港町そこにいるということ
がここでわかりますカイザリア 地中海に面した港町そこにいよいよ
パウロは身柄を移されたパウロ はそこに立っておそらく海を眺
めたと思うんですねこの目の前に 広がっている地中海この西の少し
北ですがこの海の向こうのところ にはイタリアがあってそしてそこに
ローマがあるんだもうローマはいわ ば目の前にあるんだエルサレム
ではそういうことはもちろん彼 のお面の中にはあったけれども
実際に海を目の前にしたときに いよいよ自分は地中海に面した
このカイザリアまで来たではない かこの向こうには神様がお前は
ローマに行ってそして福音を伝 えようというあのお言葉がもう
間近に来ているということを感慨 深く思ったのではないかそこまで
来れたのは決して自分の働きではない 神様が背後にあって一つずつ駒
を進めていってくださったそういう ような思いが彼にあったのではない
かそういうふうに思うんです いよいよパウロはこのカイザリア
に身を移されそして総督ペルクス の下に送り届けられたというのが
この二十三章の内容ですどうぞ 読んでくださったらそのことが
わかりますしまた続いて二十四 節もう少し二十八節までで使徒
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の働きが終わりますけれども忍耐 をもってこの使徒の働き二十八
章までどうぞ読み進んでいって いただきたいと思うんですね
説教にはいろんな形がありまして それぞれの誠実ごとに示される
その御言葉を皆さんに聞いていただく というそれも一つですあるいは
このような公開説教といいます が一つの書簡それを順々に一緒に
読んでいくというそれもまた幸い だと思うんですねそして使徒の
働きであれば一人ではなかなか 読めない途中でいつも挫折して
しまうそういうようなこともみんな と一緒に二十八章まで読み切った
そういう一つの達成感もあろう かと思うんですねまた使徒の働き
の次はどこに行くのか私自身も まだわからないんですが旧約聖書
をまた開かせていただければそれも 導きでありますしこの御言葉を
私たちがいただくあるいは御言葉 に聞くというのは礼拝の中の説教
それは一部ですこれが全てではありません ですから御言葉を聞く機会という
のは礼拝の説教あるいは祈祷会 での御言葉の学びあるいは創典
祈祷会でも御言葉を開きますあるいは いろんな集会活動でも御言葉を
開いていますあるいは皆さんが テープや今ではcdからいろんな先生
方の説教を聞くもういろんな方法 があるわけでありますから決して
礼拝の説教だけが御言葉を聞く 機会ではないということも併せて
覚えておいていただきたいと思 うんですねこの使徒の働きどうぞ
28章まで一緒に読んでいきたい と思っておりますさてこのパウロ
がこのような選挙の働きの中で さまざまな困難試練そしてもう
だめかなと思うようなところも そこから助け出されてその難を
逃れてまた一歩前に進んでいった というその背後に神様の助けが
あったこれは信仰を持っていない と層は取れないわけですねやはり
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ここでは先任隊長があるいは議会 があるいは誰それがあるいはパウロ
自身がというそういうふうに 私たちは読んでいくときにそう
読んでいくそれも一つでしょう けれども信仰が与えられそして
精霊が働かれるときにはっきり とその背後に神様の導きこれは
全てを導いておられる神様の業 として進められているんだなということ
がわかってくるそれが聖書を読む 一つの基本でありますしまた醍醐味
であるとそのように思いますこの 中に十一節のその言葉をきょう
取り上げさせていただきたいと思います その世この議会が二つに分かれて
そして彼らが騒ぎを起こしそして 論争がますます激しくなったそして
自分の身も一体どうなるんだろう かそんなことを考えていたパウロ
その夜主がパウロのそばに立って このように言われたそのように書いて
いますパウロにとってこの一日 を振り返ったときにもう心身ともに
疲れ切っておったと想像できます 命の危険に晒されておるわけですから
疲れないはずはない不安と恐れ それもあっただろうもう肉体的にも
精神的にももう限界ぎりぎりの ところで彼は何とか支えられて
おったというそれが現実であろう かと思うんですねそんなときに
主がパウロのそばに立ってこの ように言われた勇気を出しなさい
あなたはエルサレムで私のことを 明かししたようにローマでも明かし
をしなければならない勇気を出し なさい別の役ではしっかりしなさい
とパウロに声をかけられた主が ここに現れておるということですね
神様が勇気を出しなさいしっかり しなさい元気を出しなさいと言
われるときはその人はパウロは おそらく勇気がもうなえていたん
でしょうしあるいはもう意気消沈 したり不安や恐れにまみれていた
そのことを知って神様は勇気を 出しなさいしっかりしなさい神様
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はいつも的を得た励ましあるいは 忠告忌めをなさるそう思うんですよ
ねパウロはいつも元気で何もか もがうまくいきそして心身とも
に元気はつらつそういうときに 神様のお声勇気を出しなさいとか
しっかりしなさいそんな声はお そらく聞こえてこなかったでしょう
し聞く必要もなかったでしょう ししかし今や彼は夜一人静まっている
ときに勇気を出しなさいしっかり しなさいという神様の声を聞いた
というんですねそれだけパウロ の心がなえて弱り不安と恐れに
まみれていたあのパウロがと思います けれどもパウロもそうである弱さ
を覚えそして不安を覚えそして 一体どうなるんだろうかという
先の見えないそういう恐れにまみ れていたんだということがここから
わかりますこの神様の声勇気を 出しなさいというこの声は主からの
声であったということこの声は 私たちが聖書を読んでいくときに
折にかなって神様はいろんな人 に語られたということもわかって
きます例えば長年長地を患って もう生きることを疲れていたそういう
人そういうような人がイエス 様が来られたということを知った
ときにもう群衆の中に出て行って イエス様の衣装でも触れば私は
治されるんだきっと治されるんだ というそういう人がいましたその
人にイエス様はしっかりしなさい あなたの信仰があなたを治した
のですここでもしっかりするんだよ 今まであなたはそういう中にいた
けれどももうこれからはあなたは 身を気が癒されてそしてしっかり
と残された生涯を歩んでいくんだよ 勇気を出すんだよということを
言ってくださったあるとき弟子 たちが湖の上を歩いておられる
イエス様を見たわけですがはじめ はイエス様だとわからなかった
幽霊だというふうに彼らは恐れて そして慌てふためいたそのとき
にそのお方がしっかりしなさい 私だ恐れることはないと弟子たち
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に語ってくださったこれも恐れる な勇気を出すんだということを
イエス様は弟子たちに語ったわけ ですバルテマイという目の不自由
なその人にも声をかけられた心配 しないでそこに立ちなさいしっかり
しなさい勇気を出しなさいとこの 目の不自由なバルテマイにイエス
様は語ってくださった主語自身 は勇敢でありなさい私はすでに
世に勝っていると宣言なさった 私はすでに世に勝っている私を
信じるあなたがどうして世に勝 っていないことがあろうか勇気
を出すんだしっかりするんだと イエス様は私たちに今日も声を
かけてくださっているパウロは この夜自分で自分を奮い立たす
ためにパウロよしっかりするんだ と自分がしっかりしないでどう
するんだと言ったのではないんです 彼は意気消沈弱り果て不安恐れ
の中で静まっている時に神の声 を聞いたんです神が勇気を出す
んだパウロよしっかりするんだ ぞパウロ神の声を聞いたそこで
彼は勇気を得てそしてそうだそうだ ったんだ神様の慰めと励ましを
与えられたここに私たちのこの 信仰の素晴らしさ神様を信じる
ことの恵みがあるわけです私が 私を励ますでもこの私自身がこんな
弱く乏しくそして恐れ不安におの ぬくこんな私が私をどうして励
まし慰め勇気を出せと言えるのか やはり万軍の主であられ全知全
能全てを御存じのこのお方からの 声を私たちがいただくときにその
声にもうすがりつくようにあなたを 信じますあなたに従いますあなたが
勇気ある方力ある方そして私を 支えてくださるお方であるから
あなたにすがってこれからも会い ませていただきます私たちにとって
大切なことはこの神の声を聞いて そこに信頼とそして全てを委ね
て一歩会いませていただくということ このことをきょう覚えてそれぞれ
使わされていきたいと思います イスラエルの民をエジプトから
導き出したそしてアラノの旅を したそれはモーセンそしてその
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モーセンの従者であったヨシア でありましたこのヨシアに語ら
れた主のお言葉そのお言葉を私たち きょう聞いてそしてお祈りしたい
と思いますさて主の下辺が死んで 後主はモーセンの従者ヌンの子
ヨシアに告げておせられた私は あなたに命じたではないか強く
あれ大しくあれ恐れてはならない 尾の抜いてはならないあなたの
神主があなたの行くところどこ にでもあなたとともにあるから
であるお祈りします 天の父なる神様あなたを覚えて
みなをあがめますきょうも御言葉 を通してもう一度主を覚えてお
られたことを心から感謝をいたします 私たちが困難を覚えまた疲れ弱り
息詰まるときがありますがそういう ときにあなたがヨシアにパウロ
に語ったごとくに私たちにも語 ってください勇気を出しなさい
しっかりしなさい強くあれ大しく あれとそして私たちがその主の
見込みをしっかりと聞くことが できるようにいつも私たちの例
の耳を整えてくださるようにどうか お導きください主イエスキリスト
の皆によってお祈りいたします アーメン
49:51

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