1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/02/19:聖日礼拝(旧音源)
2012-02-19 49:51

2012/02/19:聖日礼拝(旧音源)

2012/02/19 聖日礼拝(旧音源)


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ご着席ください。 聖書朗読をしていただきます。
聖書仮想は、使徒の働き24章の22節から27節、
新約聖書の279ページをお入れください。
今朝の聖書朗読は、藤田兄弟にお願いいたします。
お読みします。
しかし、ペリックスは、この道について、相当詳しい知識を持っていたので、
船人隊長・リシアが下ってくるとき、
あなた方の事件を解決することにしようと言って、裁判を延期した。
そして、船人隊長にパウロを監禁するように命じたが、
ある程度の自由を与え、友人たちが世話することを許した。
数日後、ペリックスは、ユダヤ人である妻ドリシュラを連れてきて、
パウロを呼び出し、キリストイエスを信じる信仰について話を聞いた。
しかし、パウロが、正義と誠誠とがやがて来る審判等を論じたので、
ペリックスは恐れを感じ、今は帰ってよい。
オリオを見て、また呼び出そうと言った。
それと共に、彼はパウロから彼をもらいたい下心があったので、
幾度もパウロを呼び出して話し合った。
二年たってのち、ポルキオフェストがペリックスの公認になったが、
ペリックスはユダヤ人に恩を得ろうとして、パウロをローにつないだままにしておいた。
以上です。
聖歌隊の賛美、新聖歌388番に続きまして、内田博士より
神を恐れないと題して、説教をしていただきます。
人を呼び直そう 耳に捧げよう
不味きなことを 身のために定め
03:02
果ての果たりに 腐り続く
人を呼び直そう 耳に捧げよう
不味きなことを 身のために定め
人を呼び直そう 耳に捧げよう
雨が降る君のように 空へ
見探し苦しく
イエスの花に 乗り越してもらう
愛し続ける
人を呼び直そう
耳に捧げよう
熱きわが子供の わが子供
人を呼び直そう
耳に捧げよう
君は命ごろ 慣れる名前に
苦しさを知ろう
戸惑ったまま 肩を寄せた
かわりぬ
人を呼び直そう
06:02
耳に捧げよう
熱きわが子供
わが子供
おはようございます 今日も礼拝を捧げています その礼拝の中の御言葉を聞くとき
幸いなときが与えられておりますが 今日も御言葉をいただきます前に一言お祈りをさせていただきます
恵み深い天の父なる神様 今日こうして2月の第三聖日を迎えて
今あなたに礼拝を捧げています いとも良きものを君に捧げようと
私たちが
先週の1週間を思い巡らしそして どんなに多くの
恵みをいただいたかを心から感謝し そしてその1週間を
心から感謝するとともに そして新しいこの1週間の歩みを今ここに宣言させていただき
そして今日から始まりますこの1週間を 神様がまた伴って私たちを導いてくださることを
信じて委ねています 心からの礼拝をあなたにお捧げいたします
そして
私たちが神様を見上げそして
今日からいただくその 1週間のまた恵みを覚えながら
歩んでいくことができるようにどうぞ助けてください 寒い中でありますけれども
一人お一人が支えられて精霊に導かれてこの宮に登ってまいりました このところに主が
共にいてくださってこの礼拝を最後までお導きくださることを信じて委ねています また
御言葉を通してあなたの御心を今日も教えてくださるようにお願いいたします 襟下って御言葉を待ち望みます
今日 語られるその御言葉を持ってまたこの1週間を合いましてくださるようにお願いを
いたします
今日ここに集うことができたお一人お一人を今あなたが 覚えてくださり
09:03
豊かな恵み祝福を与えてくださるようにいろんな事情があって また弱気を覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方も
主をどうぞあなたがその場にあって支えてくださり そしてまた次の時共にあなたを賛美礼拝できますようどうぞお導きください
また教会からまたしばらく礼拝から離れている方々にもどうぞあなたが望んで くださり
励ましてまたこの宮へと促してくださるようお願いをいたします すべてのことを委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします
アーメン まだ雪が少し残っているような寒い1日ですけれども皆さんが励んでくださり
また 神の国と神の儀を第一に求めて
この礼拝に来てくださっていますことを覚えて主の皆を称えます 聖書の中に私たちが神様によって許されそして罪をあがなってくださったことを
雪のように白くなるという表現をしているわけです それは聖書が書かれているその地域にも雪が降るということですね
おそらく山の頂に雪がパレスチナのあなたにも雪が降ったということが考えられます そしてやがて世界中に福音が伝えられて
当然赤道直下のああいうあたりにも当然福音が伝えられて聖書が語られているわけですが そういう人たちにあなたは神様によって十字架によってその血潮によって雪のように白くなるのですと言われても
生涯雪を見たことのない人そういう人もいるわけですね 年中熱い熱い最中に
雪がどういうものかわからないけれども白いんだろうなというイメージはわかるんですけど実際に そういう見たことがない人
そういう人にどのようにしてその雪のように白くなるを説明するのかというようなことがおそらく 愚弄なさると思うんですね
おそらくその地域で何かこの真っ白のものそういうものを持って例えて 雪のように白くなるというのはこういうものだというようなことをもってその福音を伝えているんだろうとそのように想像します
私たちは雪を見て 今日も寒い日だなと思うんですが日本の各地でも今
雪にまみれてそして生活されておられる人たち 教会のまず第一の仕事
12:07
特に正日の朝の仕事はこの雪かきから始まるという そういう教会もたくさんあるようですね
皆さんが教会道に来られるその道を雪かくあるいはその玄関に雪が残っていないように そんなことから始まる正日というのもあるように聞いております
それにしましてもこういう寒い時期を経てやがてこの春が来るという そのことを私たちは思い描きながらそして待ち望んでいきたいとそう思っております
今日は首都の働きの24章を 開いていただいております
この24章を読んでみますとほとんどがテルトロという弁護士が パウロを訴えているその訴訟の言葉
それに対してまたパウロが反論しているという そういうことがほとんどなのであまり動きのないそういう箇所であります
しかしこの中にも神様の言葉そして今日私たちに 何を語っていてくださるのかということを見ていきたいと思います
聖書の中にはこの 登場人物がこの極にとらわれるということがよく出てきます
そして極者の中でのこの神様との交わりや あるいはそういうとらわれの身となっているそういう人々に神様が語ってくださったり
その背後で神様が見てを動かしてくださるという そういうことがよく出てくるわけです
創世紀の中にもこのヨセフという人が今獄中の中にあって そして神様のこの働きがなされているというところを
祈祷会でも今学んでいる最中であります ここでもこのパウロがとらわれの身となって
そして監禁されるというような そういう状況にあるということであります
こういうことを通して その身柄はこのとらわれの身という囚人という立場にあるんですが
これを聖書は用いて私たちの心の状態 あるいは魂がとらわれている
いろんな悪の災い そしてサタンの仕業
15:06
そういうものを通して私たちの魂が罪にとらわれるという そういうことを聖書では言うわけですね
それを罪の奴隷という表現をしたり あるいはそこから解放されて
そして神様の御手に入れられ そして私たちがこの救い主神様に全てを委ねて
もう神様により頼むしかないと 今度は神の奴隷となるという
神様にしっかりととらわれている状態 そういう罪の奴隷から神の奴隷に私たちは変わったのだという
そういう福音の証をこの使徒の働きでも あるいは福音書にも
そして様々なパウロの手紙にも書かれているわけです ここでもパウロはとらわれの身です
しかし彼の魂心は主にあって解放されて そして行くところ
行くところで彼は福音を力強く語っていったという その証がここでも書かれてあるわけです
ずっと読んできました そしてパウロは今とらわれの身として エルサレムからカイザリアというところに誤葬されました
そこには総督ペリクスがいたわけです そのペリクスの前にパウロは出されて
そこで訴えられるという状況に今あるわけです
一節のところで大祭司アナニアは数人の長老及び テルトロという弁護士と一緒に下ってきてパウロ総督に訴えた
そして二節テルトロが訴えを始めてこう言った そしてこの二節から八節までここまでがその弁護士テルトロの語った言葉であります
このテルトロという弁護士が何を訴えたのかということが この五節六節の中で書かれてありました
パウロという人物はまず第一に五節 この男はまるでペストのような存在で世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているものですと
弁護士はそのようにペリクス閣下に 申し上げたわけです
要するにこの男は当時ペストというのは一番忌み嫌われて 皆が恐れておったそういう疫病でありましたからペストのような男だというわけです
18:11
もうこういう人物は不愉快極まりないと物騒な人間だということを このペリクスのまず感情に訴えて
そしてその心情を悪くしようという一つの作戦です 心理作戦ですね
その辺がこの弁護士の仕事といえば仕事です とにかく自分たちの有利になるように
そして相手方が不利になるように あらゆる手段をとって訴えていくわけですね
そして2番目にこの男はナザレ人という一派の狩猟でございます
要するに頭であるということですね ナザレ人というのはイエス様のこともナザレのイエスと言いますから
イエス様が率いた弟子たちとともに福音という神の国のことを語っていた
そして少しずつ仲間が増えていっている状態ですが そういうナザレ人の一派の頭だこれはけしからんということですね
そして当時ユデア教の人たちから見たら 旧約聖書を信じてきた人たちから見たら
はみ出しの異端者 そしてその頭リーダー そういうふうにパウロは思われていたわけです
そして3番目の訴えは6節 この男はミヤさえも怪我そうとしました
彼らにとってミヤは信仰上大事なものである そのことは変わりはないんですが
そのミヤを怪我そうとしたということを訴えたわけです
あらゆることを通してパウロを訴えている そういうことをここに書かれてあるわけです
いずれにしましても弁護士というのは 自分の側の有利になるようなことをする それが仕事であり
そしてパウロという人物が このペルクス閣下はローマの管轄にありますから
そのローマにとってもあるいは自分たちの ユダヤ人にとっても政治的にも宗教的にも危険な人物だ
そのことを総督ペルクスに訴えたわけです
それに対して今度はパウロが弁明することを 許されたわけです
21:03
10節 総督がパウロに話すようにと合図したので パウロはこう答えた
そのパウロの弁明が10節からずっと21節まで
今度はパウロが訴えられたことに対しての 反論をしていくということ
そのことが書かれてあるわけです
パウロは訴えられた一つ一つのことをきちっと説明し そして納得がいっていただけるように彼は話したわけです
この2人の訴えあるいは反論を読んでいて
まず感じることはこのテルトロという人がどういう人で そしてパウロはどうなのかということ
パウロという人物を私たちは既にずっと一緒に 首都の働きを読んでいて
大体の人物像というのはイメージできるわけですが それではテルトロという人物はどういう人なのか
例えば彼がこの2節から8節まで自分の弁明をしているわけですね 自分の訴えをしている
その半分がペルクス閣下のおかげで私たちは素晴らしい平和を与えられ
また閣下のご配慮でこの国の改革は進行しておりますが またいたるところで認められ私たちは心から閣下に感謝しております
さてあまり迷惑をかけないようにごく手短に申し上げますがと言って かなり長くいろんなことを言っています
半分ぐらいは何かこの閣下をお立てて そしてへつらっておべんちゃらを言って
まずそんな感じがいたします それがこの一つの弁護する上での一つの手なのか
あるいはこのテルトロという人物のなりが現れている そんな気がいたします
それに対してパウロはいつも同じ毅然として どんな人に対しても同じ姿勢で
そして誠実に物事に向き合い そしてそれに対処しよう
おべんちゃらもなければヘツライもない そういうことですね
媚びを売るようなことも彼はしない 誰に対しても同じ態度
そしてパウロにはいつも平安があり そして落ち着いてその物事に対処していくという
24:00
そういう姿勢が彼の言葉からあるいは手紙から 伺い知ることができる
その違いは一体何だろうかということを 私たちは考えることも一つの今日のテーマであろうかと思うんですね
そのパウロの落ち着き平安 それはどこから来るんだろうか
それに対するこのテルトロ弁護士という仕事 ということもあるでしょうけれども
なぜ彼はそこまでヘツライあるいは 媚びを売るようなことをするのだろうかということですね
その前に私たちはパウロが反論しているという そのことを最初に見ておきたいと思うんですが
このパウロはユダヤ人の間で騒ぎを起こして そして危険人物だというようなことが訴えられたんですが
彼は11節でそんなことはございません それは全くの誤解です
私が礼拝のためにエルサレイムに登ってきたから まだ12日しか経っておりません
そして宮でも街道でもまた市内でも私が誰かと 論争したり群衆を騒がせたりするのを見たものはありません
誰かそれを証明できる人 証人がいますかということですね
誰も見ていないしそんなことを私がするはずもないし ましてや何のために自分はこのエルサレイムに来たのか
それは礼拝のためであって暴動を起こすというのは そんなことはこれっぽちも思っていませんということですね
騒ぎを起こすなどそんな余裕もございません 目撃者もいないでしょう
あったらその人が出てきて実際に見たこと聞いたことを 言えばいいじゃないですかということを彼は訴えたわけです
2番目にナザレの一派の狩猟だということも これも誤解であって
もちろんリーダーといえばリーダーでしょう しかし福音書に書かれている通り
イエス様が弟子たちに教えたリーダー それが頭という表現であったとしても
イエス様はこのように弟子たちに教えたわけです もしあなた方のうちで偉くなりたいと思うならば
使えるものになりなさい 人の先に立ちたいと思うならば 下目になりなさいということを言ったわけですね
ですからテルトロが言っているような狩猟とか頭とかリーダーというのは 上に立ってそして権力を持って人々を強引に
27:07
あるいはその力で持って引っ張っていく うむを言わさずついてこいというそういうものをイメージしている
それがテルトロのいう狩猟頭ですね でもパウロという人物はそうではない
なるほど今起こったこの小さな群れであるけれども イエス様の弟子として彼は常に
同じ仲間同胞たちと一緒にその群れを支え そして自分はいつも下目の形をとって
みんなにこう使えそしてみんなを支えていった ですからテルトロの言うそういう狩猟というような
そういうものではないということは一目瞭然であります 彼はそういう中で
自分たちは
異端でもなければそして何かこの 皆さんの持っている信仰に何か反駁するというようなそんなことも考えていないと
自分たちこそ旧約聖書に 叶ったその教えに一致しているそういう信仰を持っているんですと
いうことも彼はしっかりとここで訴えたわけです 15節
偽人も悪人も必ず復活するというこの人たち自身も抱いている望みを神にあって 自分も抱いております
そのために私はいつも神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ ようにと最善を尽くしています
さて私は同胞に対して施しをしまた備え物を捧げるために幾年ぶりかで帰ってきました 彼こそ同じ
ユダヤ人の同胞としてそして隣人を愛し神を愛しというそういうことをしっかりと 旧約聖書にのっとって生きているものですということを言っているわけです
そして3番目の宮を汚すどころか 私自身もその宮を大事にしそしてそこで礼拝を守り
そして同胞のために祈りそして みんなが幸いを得るように
そのことを願っているものであるということを彼は 総督ペリクスに訴えたわけです
ですから私の訴訟は それは全くの誤解であって国訴自体は全くの無効でありますということを
30:00
彼は言ったわけです ペリクスにすれば
両方の側の訴えを聞きました それに対して彼は
その最終判断をしてそして いわゆる判決を下すということをするという立場にあるわけです
ところが22節
しかしペリクスはこの道について相当詳しい知識を持っていたので パウロがいろいろ語ったことにも彼は
なるほどそうかということを理解しておったわけですが 彼の言った言葉
船人隊長ルシアが下ってくるとき あなた方の事件を解決することにしようと言って裁判を延期した
彼はここで判決を下さずに 船人隊長ルシアにもちょっと意見を聞いてみようという
そのことをもって彼は裁判を延期したということですね そしてさらにパウロを監禁するように命じたということ
さらに数日後の話ですが ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れてきて パウロを呼び出しキリストイエスを信じる信仰について話を聞いた
ペリクスも少しはパウロに関心があったんでしょう そしてこの道と言われるこのキリストの教えたその道ですね
イエス様ご自身が私は道真理命と言われたそのイエスご自身 そしてそれに続くその信仰
そういうものを彼は知識として知っていたわけです ですからパウロの言うことあるいはパウロはさらに何を言うのか
そういうものに興味があったのでパウロを呼び出して もう少しお前のこの信仰について聞きたいのだがということを言ったわけです
25節しかしパウロが正義と節制とやがてくる審判等を論じたので ペリクスは恐れを感じ今は帰ってよい
折を見てまた呼び出そうと言った パウロの話あるいはパウロが持っている信仰そしてこの道と言われる
それにペリクスは興味関心があったんですけれども
パウロが正義と節制やがてくる審判というその中心に触れようとすると
もういいもうそれでいいと今日はこれぐらいにしよう また今度にしよう
いうことを彼はしたわけです 要するに
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確信に触れると それは
彼自身よくわかっているんですね それと自分が今まで生きてきた生き方そして今自分がどういうものであるのか
そこに触れられたくないというそういう思いがあったわけですね 要するに
これ以上聞くともう耳が痛い耳が痛いということは魂が痛む心が痛む それをしたくないものですからもうそれ以上は良い
もう帰ってよろしいというようなことですね
そんなことをこのペリクスは思ってそして パウロをまた監禁するように命じたということであります
先ほどは弁護士のテルトロのことを話しましたが 今度は総督ペリクスという人物がどういう人物であるのかということを
この短い数節の中から見ていきたいと思うんですが
25節の中にパウロが正義と節制とやがてくる審判等を論じたので ペリクスは恐れを感じたとあるわけです
このペリクスの恐れ それは何なのかということですね
ペリクスは何を恐れていたのか
そのことを私たちは今日覚えることによって ペリクスの持っている恐れ
それは私たちにもないだろうかいやあるはずだと そのことをもう一度神様に覚えていただいて
そして私たちがそこから何かメッセージを いただくことができれば幸いであろうとそう思うんです
ペリクスは恐れを感じた その恐れはまず第一に人々に対する恐れです
訴えられているのはパウロ一人 そして訴えているのはその他大勢
ほとんどが訴えている側であるわけです
そしてこの訴えている人たちに対して ペリクスはどう思ったのか
この人たちの機嫌を損ねるようなことが あったら大変だと
かたやパウロの言っていることは なるほど自分もわかるし
そしてそれは訴えられているけれども これは誤解だろうなと
ペリクスはわかっていたかもしれない
しかし人に対する恐れ それがあったので彼は判決も下さず
そしてその場を取り繕った あるいはさらに興味があって
36:07
もっと聞きたいと思うけれども その確信に触れるともう良いということですね
人々に対する恐れ それがペリクスのうちにあったということ
要するに両者の訴えの内容よりも
どちらの側に人が大勢かということを 彼は今頭の中で計算するわけです
100人いたらかたや99人かたや1人
そのお互いの訴えをしっかり目をつぶって 聞いてそれで判断するのではなく
見たそのままこちらは大勢 それじゃもうこの場は大勢の方についておけば
無難だということですね
その訴えの内容よりもどちらが多いかということ
たとえそれじゃ明らかに99人の人たちの 言っていることがおかしいと間違っている
そして1人の人が訴えている 言っていることが正しいと分かっていても
このテルトロにしてもおそらくペリクスにしても どちらの側につくだろうかということですね
それじゃテルトロペリクス置いておいて 私たちはどうだろうか
私たちがもしそういう立場に立ったときにどうだろうか
たとえ100人のうちの1人であっても その他全ての人がおかしいともう分かっていたら
私はこの1人のこの人につくだろうかということを 私たちにも問われているわけであります
狭き門から入りなさいということをイエス様がおっしゃった まさにそのことだと思うんですね
大勢の人たちが言うこと それは正しいかどうかよりもみんなが行くから
みんながそうしているから私もそうしよう
赤信号をみんなで渡れば怖くないというその真理 それが私たちを導くことがあるわけですね
そして広い門からみんなで入りましょう そしてそれに続く広い道をみんなで行けばいいんだ
しかしかてや小さな門で入りにくい その先に続いている道が何と細いことだろう
39:00
しかしそれは永遠の命に至る道である そのことを私たちはしっかりと見てその道を選びそこを歩むのか
そのことを私たちはこのペリクスを通して もう一度問われているわけです
人を恐れるというそのことによって私たちは
広い門大きな門と広い道に行ってしまわないだろうか
その人を恐れるということの背後には 別の恐れもペリクスにはあったわけです
なぜかというと大勢のこの人たち 訴えている内容は別にして
たくさんの人たちが言っていることに反論して そして起因を損ねてしまうならば
自分の立場が危うくなってしまう その恐れがあったわけです
ですから例え彼らの言っていることはおかしい誤解だろう
パウロの言っていることの方が正しい しかしペリクスはパウロを助けようとはしなかった
自分の立場を失うことの恐れ
私たちはそういうこの弱さがあります 誰にもそういう弱さはあるんですけれども
やはり精霊により頼んで どうぞ主を私が決して間違った判断をしないように
そして主にあって正しきを全うできるように いわゆる義に歩むものにしてくださいと
そう祈らざるを得ないわけです
決して私たちが普通に人々に目を配って そこに配慮をしたりする
それは悪いことではないと思うんですね
ただこういう訴えや何かいろんな人が言っている その内容がどうなのかということをしっかり聞いて
そして主に祈りつつ判断して そしてこちらだということを示されたらそれについていくという
その側に自分も立とうという そういうことを言うわけですね
それをしないでただ大勢の人だから 自分の立場が危うくなるから機嫌を損ねたら大変だ
人を恐れ自分の立場を恐れることによって 魂を売ってしまうということ
これが神様が一番願っておられないことですね
私たちが恐れたりあるいはそれは誰でもあるでしょう 弱さは誰にもあります
42:10
しかしその恐れによって 魂までを売ってしまうなということ
そのことを私たちは今日もう一度 このペリクスを通して教えられたいとそう思うんです
ペリクスはそれじゃあ何を恐れるべきだったのか 私たちもそうです
私たちは何を恐れるべきなのか 聖書は神を恐れなさいというわけです
ここにありました正義と節制とやがてくる審判 そのことをしっかりと覚えなさい
ペリクスはそこから逃げたわけです それを避けたわけです
しかし神を恐れるというのは そういう正義や節制あるいはやがてくる審判
神様の身旨ということにしっかりと向き合って そして神様の身旨に沿う生き方をしていくということ
神を恐れるという言葉を日本語では使いますけれども これは怖がることではないんですね
神様怖いという何か閻魔大王様が睨みを 聞かせられているようなそういうものではないんですね
神を恐れるということは神を敬い そして神様を仰ぎ見てそして自分を神様の前に降り下って
そして礼拝する神様に従う神様のお言葉に 従順である素直であるそういうものを含めて
神を恐れるという表現をするわけですね
しかしこの恐れる怖いということも もう一度整理しておかないといけないと思うんですね
私たちが何か怖いと思うこと それはいろいろあろうかと思うんです
感情的にある人は虫が怖いとか蛇が怖いとか 高いところに行くと足が震えて怖いとかそういうものってありますよね
そういう怖さではなくて
私たちが本当に怖いなって恐れないといけないなというもの それは罪だというんですね
私たちがこの聖書を通してこの罪ということを知らされます その時にこの罪というものが本当に怖いものだ
罪に陥るとか罪にまみれてしまう そしてもう罪を重ねてもう痛みも感じない
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罪の責めも感じないように麻痺してしまっている そのこと自体がもう本当に恐ろしいことで怖いことなんだ
恐れるべきは 怖いものは罪なんだ
そのことを私たちはもう一度しっかりと覚えると同時に 別の意味で神様を恐れなさい
神を恐れること それがこのテルトロにとっても あるいはペリクスにとっても必要なことであったのではないか
私たちももう一度本当に怖いなと思うのは罪であり そして方や神を恐れていく
その姿勢を教えられたいと思うんです このペリクスの姿勢というのは
ポンテオピラトのことを私たちに思い起こさせます 私たちは
使徒信条の中でポンテオピラトの下に苦しみを受けというのを 礼拝の中で唱えます
使徒信条 毎週使徒信条を唱えている告白している教会もあるわけですね
それも全世界の礼拝で毎週日曜ごとに ポンテオピラトの下にポンテオピラトの下に
もう何億何千万という人たちがポンテオピラトポンテオピラト
ポンテオピラト何をしたのか まさにこのペリクスと同じように人々がイエスを十字架につけよう
イエスを十字架につけよう ただ一人イエスキリストのみが私は神の子として救いのために来たのです
私は何の罪も犯していない ポンテオピラトも調べさせたら何の罪も見出せなかったと彼は言っているわけです
しかし大勢の人たちがいやいやこのイエスはそれこそ危険人物だ 神を冒涜した
このものを十字架につけよう ポンテオピラトはその群衆の声に負けたとあるわけです
そのことによってこのポンテオピラトは 毎週
何億という人たちから
その このポンテオピラトはということを言われる羽目になったわけですね
それは 彼らが
神を 恐れなかった
神を恐れているならば どちらの訴えが
神様の御心であるのか そして自分の魂も義に従おうとする
48:03
それにどうして素直に従いきれなかったのかということを 表しているわけです
今日私たちももう一度 神を恐れるということ
そして 人を恐れ何か
自分の立場を失うことの恐れによって 魂を売ってしまってはいなかっただろうかという
その悔い改めとともに そしてもう一度神を恐れ
その神御自身に全く委ねて 従っていこうという
そのように導かれるように 私たちは祈りたいと思います
お祈りをいたします
ペリクスは恐れを感じたと 天の父なる神様
今日もあなたを 崇めまた
礼拝できましたことを心から感謝をいたします 総督という高い地位にありながらも
人に恐れを抱き わかっていても義に従いきれなかったペリクス
それは 私たちとも同じであり人間の偽らざる姿です
どうか今聖霊によって 私たちの罪と咎を悔いて
十字架を仰ぎ見ることを通して許していただき また
恐れからも解放してくださって 真に恐れるべきもの
神を恐れる信仰をどうか与えてくださるよう お願いをいたします
終焉様の尊い皆によってお祈りをいたします アーメン
49:51

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