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水俣病70年、なぜ救済は終わらないのか 3千人・1万人・5万人、三重の救済が意味するもの|2026年4月21日収録
2026-04-23 31:52

水俣病70年、なぜ救済は終わらないのか 3千人・1万人・5万人、三重の救済が意味するもの|2026年4月21日収録

水俣病公式確認から70年を迎え、植田祐一編集局次長が、なぜ救済がここまで長引いたのかを2回シリーズで解説します。前編では、1956年の公式確認から1968年の政府見解まで12年を要した経緯と、汚染者負担の原則(PPP)にこだわったことで救済範囲が狭められた構造を読み解きます。厳しい認定基準による認定患者は約3,000人。しかし1995年の政治決着で約1万人、2004年の最高裁判決を経た特措法で5万人超が新たな救済の枠組みに加わりました。三重のパッチワーク的救済が生まれた背景に迫ります。
#聞く西日本新聞 #水俣病 #公害 #PPPの原則 #西日本新聞mePodcast
◆出演:植田祐一(編集局次長)、坂本雄大(販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/編集:三笘真理子(報道センター)

◆収録日:2026年4月21日

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00:04
聞く西日本新聞。この番組では、西日本新聞のベテラン記者が、気になるニュースを解説します。
こんにちは。効果のニュースアプリ、西日本新聞Bの横山智則です。
坂本です。
はい、上田です。
よろしくお願いします。
お願いします。
今日は、どんな話で?
今日はね、5月1日というのが、水俣病公式確認の日なんですね。
だから、ちょうど70年なのか、です。
10年ぐらいですもんね、水俣病の認定って。
最初に水俣病の、当時はね、原因不明の疾病みたいな言われ方をしてたんですが、
というのが、患者が水俣の保健所に報告をされたというのが、
水俣病公式確認の日ってこと。
もちろんその前からね、おかしなことが起きてる、おかしな症状の人たちが出てる地域にっていうのは、
もちろん地域では認識されていたんですが、
それが、確かね、窒素の付属病院から水俣の保健所に届けが出た。
で、そこの細川院長という人がね、
原因不明の脳症状を呈する患者が発生したというふうに水俣の保健所に報告したのが5月1日。
この日をもって水俣病の公式確認と言われていて、
当時は窒素の付属病院からおかしな症状の原因不明の疾病が発生したというような届出があっているんだけれども、
自分ところが出しているメチル水銀、有機水銀の排水が原因だということは、
まだわからない状態で、なんか出てる、こんな人たちが出てるという報告があった。
だから水俣病公式確認というものの、
それが窒素の排水に含まれた有機水銀、メチル水銀によって引き起こされた神経症状だということが解明された日ではないわけね。
そこら辺にようわからん患者がおるというのが報告された日が公式確認の日ということになっているんだけど。
それが1956年5月1日ということですね。
そこが70年という大きな節目になりますけれども。
70年たってもまだやっぱり解決をしていないんですよね。
03:00
被害者の方が訴訟をたくさんしている、救済を求めている、
救済の外側で症状を訴えている人がいるという状況が、
なぜここまで救済が長引いているのかというのを、
ちょっと僕なりに解説してみたいなと思っているんですけど、
最初に申し上げますけど、ちょっと1回では終わらないのではないかと思っていて、
ちょっと2回に分けてになるかなと思ってますけどね。
これもともと窒素という会社は水俣にあって、
もともとこれは化学肥料のメーカーだったんですよね。
化学肥料のメーカー。
ずっとね、戦前とか。
そこからメチル水銀を使うのは、
要するにアセトアルデヒドを作るようになったからなんですね、生産。
これはプラスチックとかビニールとか、ああいうものの原料になるもので、
その触媒のために硫酸水銀というのを使うらしい。
それが反応してメチル水銀になるんだけれども、
それを使って、だからプラスチックとかね、
そういうものが化学メーカーからいろんなものを作る中で、
プラスチックを作るようになったっていうのは、
これも戦前ですけどね、1932年からか。
作るようになって、その時からこの水銀を使い出して、
だからその辺りから排水に含まれていたんじゃないかと見られますけれども、
なので、被害自体は多分ね、その頃からというか、
少しずつ人体にも出ていたのではないのかなというところですよね。
そういう意味じゃ本当に20年以上、1932年スタート、
その出ていたのがね、だとすると56年ですから、
そうですね、その時点で20年ぐらいですね。
戦争挟んでというかね、
というぐらいまで時間はかかっているけれども、
もちろん排水そのものをガブガブ飲むわけじゃないから、
食物連鎖を通して最終的に人間に来ているから、もちろん時間がかかる。
最初はやっぱり魚だったり、魚食べる猫だったり、
そういうところがどうもおかしいと。
最初はやっぱり、窒素の排水のところの魚がいっぱい死んで、
その漁業被害みたいなところを訴えるというところから始まっていって、
06:01
そのうちその猫が狂い死にしているみたいな、なんだこれはと。
人間が震え出したというところにずっと20年ぐらいかけて、
つながっていくわけですけど、
それはある日突然患者が発生したわけじゃなくて、
やっぱりいろんな症状が少しずつ出てきて、
公式確認というのは届け出があったところだけれども、
そこから症状が出たわけじゃないからね。
だいぶ前から、水銀出していたのはいつからなのって言ったら、
本当に戦前に遡るっていうことに。
そうなんだ。
水銀って分解されずに溜まっていくんですよね。
体の中に蓄積するんですよね。
痛かった水銀を大きい魚が食べて、だからその分水銀がこうなるんですかね。
ちっちゃい魚の分、全部大きい魚に溜まる。
で、あの辺の漁師さんたちもね、
やっぱり小さな、決して裕福な人たちではない人たちが、
自分のところの近所で魚を捕って、
それを成り割にしていて、日頃から魚ばっかり食べている。
そういうんですね。
ずっと毎日毎日魚をずっと食べている。
という中で、やっぱり漁師さんたち、
沿岸の魚をたくさん食べる人たちに、
症状が最初に出てきたわけですよね。
湊市民の中でも、もちろん魚をそんなに食べていない人は出ていない。
というところで、被害に集中的にあったところ、
そうじゃないところ、いろんなところが出たんですけどね。
まあこれね、やっぱりね、
窒素が自分のところの排水が原因だと認めるまでね、
相当時間がかかっているんですね。
窒素と国が認めたのはいつ頃になるんですか?
これは1968年。
1968年。
12年後。
12年!?
うん。
これ、政府統一検改構成省が発表したのが、
ミナマタ病は窒素ミナマタ鉱床の排水に含まれていたメチル水銀加工物が原因であると発表したのが、
68年、12年後なんですよ。
へー。
その前に、1959年に、
要は公式発見が56年でした。
そこから3年後に熊本大学が、
有機水銀説というのが確実だというふうに言っていたんですけど、
当時の経済界とか通産省とか、
高度成長期の中で、
やっぱりそういう圧力的なもので、
やっぱりずっとそのが確定するのが、
遅らされたというか先送りされてきた。
その間に新潟ミナマタ病なんていうのも起きたりとか、いろんなことがあり、
ようやく、だから12年後ですよね、その国が認めたのが。
09:02
窒素は、政府の見解が出た後も、自分たちの法的責任というのはすぐにはもう認めなかったというような形で、
表向きは政府見解が出たのでそういうことになって、
そこでようやく生産を止めたりしているんですけど、
そこまでかかっちゃっているわけですよね。
もちろん56年の段階では原因がわからないというあれだったけれども、
少なくともその3年後には熊本大学が、
有機水銀説というのは間違いないと言っていた。
そこからもう9年くらいかかっているので、
これはやっぱり当時の経済優先の中で、
本当に人の健康とか人命が軽視された公害の典型的な例ですよね。
ミナマタ病が起きたので環境庁ができたんですよね。
そうなんですか?
そうですよ。
環境庁ができたのは70何年だったと思いますが、
ミナマタ病は公害の原点とも言われますし、
今環境庁になりましたけれども、環境庁の原点でもあるんですよね。
ミナマタ病というのは。
厚生労働省とはちょっと役割が違いますしね。
健康被害に関することなので、当時は厚生省だったけれども、
公害問題、環境庁って野生動物の保護とか気候変動問題とか、
今いろいろなものがあるけれども、
元は公害防止でできた。
それができたのはミナマタ病がきっかけだったんですよね。
それくらい大きいインパクトがあったし、
当時の日本の社会のありようにも大きな転換点になったんだけれども、
救済がなんでこんなに遅れているのかというと、
国とか県とかあるいは地質と自体が被害を認めるのにずっと後ろ向きだったというのもあるんですが、
PPPの原則というのがあってですね、
PPPの原則。Pが3つ。
これもう言っちゃいますけど、汚染者負担の原則っていうんですけど、
要は汚染したのは窒素じゃないですか。
汚染した人、会社ですかね、企業がその被害を全部弁償しなさいと。
それが原則ですよということですね。
つまり、国というか税金入れませんよという話ですよ、要は。
12:05
原因を作った人がその責任において弁償しなさいみたいな。
全部ね。
それは一つの理屈としてはそう。
それはそうでしょうねって。
それで税金使うとか言ったら何でもやりたい放題なのかという話になってくるし、
やりたい放題ということもないんだけれども、ちゃんと規制がありますからね。
でもその規制を破って、あるいは規制がないところで何かが起きたりしたようなことも含めてだけれども、
何かその企業なりの責任で人の健康に被害がある、あるいは環境が汚染される、
いろんなことがあったら、それを企業の責任で後始末してくださいよということですね。
当然じゃ当然じゃないですか。
当然ですよ、それは当然。
でもこれのために要は窒素という企業の財産というか資力、財力を
遥かに超えるとてつもない被害が出たわけですよ。
そうしたら窒素だけで賄えないわけですね、はっきり言えば。
そうするとそのPPPの原則というのを縦にするというか、そっちを優先するがゆえに
救済範囲が狭まってしまうという、ある種本末転倒なことが行われたというのが
みなまた病のいろんなボタンの掛け違いはあるけれども、
一つ大きなものの原因だと僕は思っているんですね。
多くの人も言っているけれども。
だからいろんなスキームはもちろん考えついてというか、
窒素が被害者に賠償金を払ったり、一時金を払ったりしないといけないから
窒素という会社が倒産したら困るわけですよ。
そうですね。
だから国とかは窒素支援して窒素が潰れないように一生懸命やってやるとかね。
そういうことも被害者救済のスキームの中に入ってきていたりして。
それはPPPの原則に基づけば、窒素に払ってもらわないといけないから
窒素がちゃんと稼げるようにしてやるとかということをしないといけないけど、
なんか変でしょ。
長いですね。
そのために窒素を支援するために窒素研裁といって
熊本県は研裁、再研裁、地方裁を発行したりとかもしているわけですよ。
だから後に窒素は返さなきゃいけないんだけど。
なんかややこしいですね。
15:00
それはもうPPPの原則を崩したくないという一点でそういうことをずっとやっているわけ、結局。
PPPの原則を言うと理屈では窒素が保障してあげないか。
でもそれができないことは県も国もわかってる。
だからお金を貸すとか、何か制度をわざわざあなたに作るとかして、
直接県が賠償する、直接国が賠償することをしないようにしたっていうイメージ。
この時はずっと窒素の排水が原因なので、
国県に責任はなかったのかというのも同時に訴訟でずっと争われてきたんだけれども、
このミナマタ病の被害に対して被害を認定して一時金を支払う医療費の面倒な医療費を見るという救済スキームが
公権法に基づいて認定するわけです。
それがやっぱり窒素の視力の範囲を意識したがためにだと私は思いますが、
救済範囲がめちゃくちゃ狭いわけ。
本当に症状が重かった人は救済したけれども、
それこそミナマタ病もそうですけど、まだらというか。
いろんな症状がもちろんあるじゃないですか。
感覚障害、これは52年判断基準とよく言われるんですが、
この昭和52年にできたんだけれども、
感覚障害プラス視野共作とか、
そういうのが複数の症状が重なっていないと認定患者になりません、
患者認定されませんというやつだったんですよ。
感覚障害というのは二点識別、要するに感覚がなくなるというか、
痺れたりいろんなことでね。
これ神経症状だから、これやっぱり水銀の症状として典型的なものだから、
はっきり言ってミナマタ病の症状ですよ。
だけどそれだけだと患者として認めんちゅうわけよ。
もういっちょなんか出らんと。
視野共作とか運動機能がどうだとか。
それで、そういう非常に狭い認定基準にしたもんだから、
これいまだに、いまだにですけど、要するにその認定患者ってね、
3000人ぐらいしかいない。
もうすでに亡くなった人も含めてですよ。
新潟ミナマタ病とかも含めてですよ。
それでも3000人というより多いとは思いますけど、
そんなあれじゃないってこと?
いや、これ後で言っちゃうけど、
その後に、その外側で政治決着っていう、
95年に別のスキームで救済した時に1万人ですよ。
18:02
その外側にいる1万人の前に?
で、それでも決着しなかったから、
その後、国の責任が認められて、
2009年に特措法ができて、
これで救済された人、5万5千人とか5万8千人とか。
3000って何ですか、その数字って話ですよ。
それを聞くと、やっぱり、そうですね、ものの見方としてですね。
いや、なんか改めて、まず3000人の方っていうのは、
多分おそらく本当にめちゃくちゃ大変だったっていう人が
3000人まずいて、まずそういうことですよね。
で、仮にその人ほどではないにせよ、
それでも大変だったっていう人は1万人いて、
で、またさらに言ったようなセリフを。
神経症状が安定みたいな。
まあ、ほら、線引いて、まっすぐ歩いてくださいって言うので、
ヨロヨロヨロヨロするとかね。
いろんな判断の仕方があるんだけれども、
通常は二点識別といって、
手の先とかが一番神経がね、
敏感というかあるじゃないですか。
ここに例えば鉛筆の、鉛筆の針、芯をね、
2本の鉛筆をピッて、例えば押した数じゃないですか。
2箇所押してるって認識できる。
2箇所チクチクってするって。
2箇所押されてる認識がある。
これずっと狭めていくじゃないですか。
これは1センチからずっとこうとかって狭めていくじゃないですか。
1箇所にしか感じないっていうところが、
やがて訪れるじゃない。
それって多分普通の人だったら、
2ミリとか3ミリとか。
これがね、1センチとか離れてても、
1点だというふうに思っちゃうというか、
2点だと認識できないっていう。
これは明らかにやっぱり感覚症状を
測るための一つの基準としてあるんだけれども、
これも明らかにね、これはやっぱり推計の影響ですよね。
でもそれでも認められないんだから。
おかしいよね。
それがやっぱり司法によって否定されるんだから。
そんだけ3千人でもね、
僕も元々それを知ってるから、
3千人ってなんて少ないんだと思ったけど、
なんて多いんだって思ったっていうね。
南多の町の中に3千人もの人が、
本当に大変だって病院にいたりとかっていう、
町の様子をちょっと想像すると、
とてもなんていうか、
隣町と比べたら全然こういうと、
状況が違うんじゃないかっていう。
仕事で南多も行ったことあるじゃないですか。
なんだろう、町の病院に3千人もそういう方たちが、
他の町と違って、
病気でおられるっていう姿を想像した時の、
なんて多いんだろうというのが多いなっていう。
21:01
なんでやっぱり多いっちゃ多いんでしょうね。
つまり、地質層が3千人を救済しないといけないってこと?
そうですね、先ほどの話。
それでもだから地質層としては偉い多くて、
アップアップってことになったんでしょうけど、
しかしそれは全体からするとほんの一部の人でしかなくて、
それをなんでそんなに狭い認定にしたのかっていうのは、
これはやっぱりPPPの原則っていうのを、
尺子定義に適用しすぎて、
患者救済というところの本筋と離れてしまったっていうのが、
僕はやっぱり非常に大きいと思います。
だいぶ大きい金額を認定患者って一時期もらうんですね。
この外側の人たち、みんないろんな症状があるのに、
認定申請しても全部跳ねられるわけですよ。
一体どういうことかと。
でも国の方は堅くなにこの認定基準を変えない?
という中で訴訟がボンボン来る。
当然これは有機水銀中毒による症状なので、
判決がどんどん出ます。
窒素の原因です。窒素排出の判決がどんどん出ます。
いろんな裁判で。
当然その原告の方は国とか県も訴えてるんだけど、
国とか県の責任は一審では結構認められたりしたんだけど、
交際判決になると国とか県の責任って認められなかったんですね。
要はそうだとは認識できなかったから仕方がないっていうことですね。
やっぱり責任を認めるっていうのは、
そうだとわかってるのに何もせんかったとか、
要するに何もしなかったという不作為の責任を問おうとしてるので、
それはわかってたでしょっていうことを立証しないといけないじゃないですか。
だからそれなかなかハードルが高いわけですよ。
窒素が水銀を流してたっていうのを。
いや例えばそこでね、水銀の濃度を測定してて、
エラい出てったのに無視してたかとかって言ったらそれはアウトよ。
でも何も知ってなかったみたいな、手を打たなかったという責任を問おうとしてるので、
これは何でも結構ハードルが高いんですよ。
それでやっぱり国、県の法的責任までは認められなかったんですね、ずっと。
だけど患者いっぱいいる。窒素もお金払えないし。
ということで、95年ですよ。村山内閣でした。
戦後50年。今日載ってたでしょ。
今日お別れの回があった。
24:00
でね、いろんな功績が振り返られたりしてたけれども、
やっぱ戦後を積み残した大きな問題として、
村山内閣がやった一つ功績、3つあって、
一つは戦後50年談話というのを発表して、
戦争責任というか、一定のものを認めるようなもの、
アジアの加害というのを認める、謝罪するということをやった。
それから被爆者援護法というのを作りましたね。
これは今まで自民党政権のときにはずっとそういうのはできてなかったけれども、
この被爆者に対する健康被害とか、
国の方が面倒見ますという。
本当はアメリカに面倒見てもらわないかな、気がするが。
もう一つ大きいのが、ミナマタ病の政治決着というわけだよね。
政治決着というのは何が政治かというと、
司法の決着じゃなくて政治の決着だということです。
さっき裁判の話されてましたけど、それとはまた別で。
裁判をやっても、どうもこれは国権の責任は
勝てそうにないと。
最高裁でも、窒素の責任を問えても。
だけれども、やっぱり国政権が
見過ごしてきた道義的責任とか、政治的な責任は当然あるでしょう。
被害者に対して一時金は窒素が出すけれども、
医療費のところは国権が出すとか、
というような、窒素と国権が両方で被害者を救済する
新しいスキームを作って、要はもう訴訟はしません。
今、訴訟している人は、訴訟を取り下げます。
今からその救済スキームに乗る人は、
訴訟はしませんということと引き換えに、
国権も、要は税金というか公金が含めた救済スキームの中で
救済しますというのを作ったんです。
それがさっき言った1万人ぐらいの人がそれに。
これが、要するに2回目の救済にあった。
これは95年ですよ。
95年か。
それはすごいですね。
何年ですか?40年近くだった。
最初の公式発見から言えば、公式確認から言えばそういう話。
ところが、これでまた終わらなかったわけね。
政治決着の次がある。
政治決着をしたんだけれども、この政治決着に応じなかった人たちがいるんですよ。
そんなおためごかしには乗らんと。
俺たちは国権の責任を徹底的に追求するんだと言って、
27:02
一部の人たちがこの政治決着に乗らずに、
政治決着にたくさんの人が乗ったというのは、
どうもこのまま訴訟を続けても、国権の責任、法的責任は、
どうも最高裁までいっても認められそうにないという情勢があったので、
これは苦渋の決断で皆さん。
その時点で40年も経ってます。
政治の方から言えば、もしかしたら自社さだから自民党もちろん入ってるけれども、
自民党単独政権とかの時だったら、政府に責任ないのにそんなことする必要ないやんって言って、
そんな救済スキームなんか誰も考えてやらなかったかもしれんけど、
社会党の当初村山さんが総理になった村山政権だったから、
政治の方がそういうスキームもある種、自分たちに責任、法的責任はないけれども、
ある種降りてきて、両方ともそういうところがあって、
一つ大きな決断があったけれども、
そんなのおかしがろって言って、ずっと裁判し続けた人たちがいた。
この裁判が2001年かな、関西の交際で、
国、県の責任が認められる判決が出たんですね。
出たんだけど、当然国、県行政側は上告しますということで、
半ばですよ、僕らも含めて。
政治決着って国、県の責任が認められそうにないからってやったやつで、
それでもって言って裁判してた人いるけど、
見たて通りそうはならんのだろうなと最終的には思ってたわけですよ。
2004年、10月やったかな、判決が出たんですけど、
国、県の責任が認められたわけですよ。
おっとびっくりですよ、私当時熊本総局にいて、
県庁のテレビで速報を見て、ポカンと口が開いてしまいましたけど、
全く我々にとっても晴天の霹靂だったけど、認められたわけです。
そうすると、国、県が責任があるということを踏まえた救済スキームというのはもう一回考えないといけない。
で、3番目の救済スキームができた。
窒素が一時期に払います国、県の方で、
いろんな健康の医療費とかのところを負担しますというスキームがもう一回できた。
それがさっき言ったように5万人以上も来た。
つまりそのパッチワーク的に、最初の公権保護の認定患者、
これ患者と、行政用語で言えば、ここしか患者と言わないね。
あとは被害者。
上田さんも言葉を使い分けてらっしゃるなと思いました。
30:02
患者、被害者ではあるけど、患者とは。
ニナマタ病患者というのは公権保護の認定患者だけだ、みたいな感じになっている。
あとは被害者という。
で、だからその32ですよ。
公権保護の認定患者がいて、政治決着に応じて救済された人がいて、
その外側、その外側はなんでそんなにたくさんいたのかというと、
やっぱり言えない人たちがたくさんいた。
言えない人?
そういうのを次の回にやろうと。
でもそうやって何重にもなったのは、やっぱPPPの原則。
窒素が救済するのが前提ですよと言ったがために、
救済範囲が狭まって、そして溢れる人たちが出てきた。
そこを政治も救済した。けれども、またその外側が出てきた、みたいな形で。
やっぱこうパッチワークみたいになっていったのは、
広く捉えて、国も見るような、国権とか行政の方もしっかりそこにコミットするとか、
いうようなことが最初からやらなかったので、
こんなことになってしまった。
救済が長引いた大きな原因というのは、PPPの原則で固執したというかね。
というのが非常に大きかった。
これ一つの教訓として残っているのかなと思いますね。
本当はもっと肝心な話があるんだけど、そこから。
それも次もあそこに。
ということで、次回も南波田病棟第2編ということになります。
これからも新聞を読むのが楽しくなる、理解が深まる番組をやっていきます。
西日本新聞、スマホアプリ西日本新聞Bのご購読をお願いいたします。
本日はありがとうございました。
失礼しました。
31:52

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