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周りがめちゃくちゃうるさいんだよねー。このカラスの駅も本当にもうね、飽きた感じがして。 また今日も配信
新書のやつね、新書のやつやっていくんだけど
録音、配信するかどうかわかんないんだけど
ひと言うことだな。 えっと何?
波が海にあたるパタパタという音ね。 稲の船屋のことだよね。その家はまだあるか?その音はまだするか?
撮りに行ったことあるか? うーん、あるというかね、あるんですよ。230軒の船屋のね、稲の船。で、あの船屋って稲町だけじゃなくてですね
僕の実家の宮津のね、味噌尻っていうところの船屋があって、天田舎手のね、内海ですよね。阿蘇海っていうところなんだけど
あそこにもね、あの何軒かな、20軒ぐらい船屋があるんですよね。 あまり知られてないけれども、やっぱ知ってる人はね、知ってるっていう感じで、僕もよく撮りに行きます。
うちのお家、お家も実は持っててですね、保管マリ。ちょっと乗せるかどうかわかんないんだけど。それでね、あるんですけども、特にね、本当に、船が通るとね、漁船とかね、遊覧船が通るとね、パチャパチャ音がする
んですよね。
だから音がするのはね、自然の音なんだけども、人工的になんか、船が通るとそれに連動して音が出るので、なんかね、波が2種類あるのかな。ずっと自然と流れてるやつと、あとは割とこう、突発的にね、1時間に何本
来るかわかんないけど、そういう時でも結構音がするんで。
それがいいかどうかは別にしてもね、波音は自然に発生するだけじゃないっていうようなね、そんな感じがしますよね。
撮りに行ったことはもちろんあるし、稲田と自分のフィールドワークの対象なんで、結構ね、しっかり音を録音してるとこは結構ありますよね。
それが船の波の音の話で。
それで、次は天の朝日の3年間ね。すごいよね、カラスの音が結構ありすぎて。
天の朝日の3年間ね、講座では間抜けだったと話してるとね。
好きにすればと言ってるね。
僕が高校生の時に自転車通学してたんですよ。どれぐらいだったかな。上から宮津まで大体8キロぐらいあるんですよね。
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40分くらいかかってて、それで湾の周り通るとね、やっぱりすごく遠回りになるので、
一番ね、最短ルートが天の朝日通って、今名前変わったけど、宮津高校行くことなんですよね。
だからそういう感じでよく毎日行ってたんだけども、
その時に周りがね、今思えばいろんな音が聞こえている。自然の音が聞こえるなとかね。
外の波の音、そして内側の波の音の違いをね、ステレオパノラマで感じながらね、大学じゃないし高校に行ってたっていう。
贅沢なんだけど、当時思わないじゃないですか。
当時やっぱりね、高校生とか若い頃ってドバミンやっぱり出したいところでね。
今だとエナドリがそうですよね。エナドリすごい合法的麻薬だと思うんだけど。
まあそれに近い刺激がね、やっぱりね、音楽にはあるわけなんですよね。
音楽でもね、やっぱりすごくドバミンが出る音楽ってあるじゃないですか。僕はフュージョンとかアップテンポとかね。
僕はそういう曲も大好きなので、そういうのをね、聴きながら受験勉強、本当に二類っていうね、進学クラスだったんですよ。
今思えばね、45日、44番ぐらいのVP賞みたいな感じだったんだけど。
現役で医学部に10名ぐらい入るところ、兄弟も2人か3人入りますよね、現役で僕のクラス。
だから凄まじくね、受験なんですよ。
しかも僕は受験中学校まではね、そういうかなりレベル感の全く違うことをやってね、落ちこぼれたんですよね。
受験としても一浪しましたから分かんないんだよね。センター試験、共通試験、共通1位の最後のところだったんで。
そしてセンター試験の1回目でね、どれくらいだな、半分くらいも取れなかったかなっていうね、ポンコツ頭なんですよね。
ドゥイングでしっかり訓練する頭じゃないんですよね。
そういう感じでね、何が言いたいかというとストレスなんですよね。めちゃくちゃストレスが溜まって。
家は家でゆっくり親と話すとかね、おばあちゃんもいましたけどね、やっぱりそういう話し方じゃないじゃないですか。
やっぱりお家は良くしておくというかね、そんなに本音でガンガンガンガン。
逆に聞きやくなったですよね、家のいろいろな生活の諸々ってどこの家でもありますか。
それを割と聞く方のタイプだったんで、要はどこかで発散したいっていうのがあって、家ではもういろいろと勉強するって感じじゃなかったね。
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図書館行って勉強するっていう、それで自然と教養も深まったっていうのがあるんですけど。
だからそういう感じでやってるとね、通学論もね、ドパミン出したじゃないですか。
そういうところでやむにやまれずにCDウォークマンですよね、それを聴いたっていうね。
しかも割と音量でかい感じで、3年間ずっと聴いてましたよね。
当時は音楽再生の装置がCDとかテープだったんで、そういうのずっと聴いてましたよね。
割と大音量で。だから好きにした方がいいっていうのはそういうことですよね。
でもその都々人ってなんかあるから、全意識とか考えもしなかったし、
それは気持ちに余裕、心に余裕が出てきたときに必然性が出てくるわけなんで、そんな関係ないじゃないですか。
だから交渉の話って言われたらそこまでかもしれないけど、
必要に迫られた場合に全意識とかね、そういうのを感じたりとかね、
そういう他の周りの音も聴いた方がいいっていうことで、
生活が大変とかね、メンタルがいろいろな場合なんかそんなことをする余裕はないっていうか、
だからこの分野は流行らなかったりね、需要性がわからない。
やっぱり年取った人、40代、50代、60代くらいの人にそういうことを伝えるとなるほどっていうふうに思うんだけど、
なかなかね、でもその世代でもやっぱり生活が大変な人って結構たくさんいらっしゃいますよね。
分断というか、格差社会の自由経済主義の中での格差がどんどん離れまくってる時代ですからね。
だからそういうふうなところでやっぱり全意識みたいなことっていうのは、
えそらごとで言うかね、おままごとじゃないですかっていう状態ですよね。
だから僕もそれは高校生の時はそう思ってたと思いますよ、全然。
サウンドスケープの三の字も知らないし、全意識のことも知らないし、
そこに意識って何が益になるんですかっていうことだよね。
だからそういうことを感じていくと、効かないのは当然だし、そんなゆったりした余裕もないし、
たまにね、黄昏れる時ありますよ、天の朝で帰る時に。
家に帰るのもちょっとあれやし、お家に帰る前に、
当時から悪くない綺麗だとは思ってたんだけど、
そこでちょっと佇んだりとかしてね、すると声かけられるんですよ。
特に女の人に、旅行先、異旅行先だよね。
それでバイクに乗ってる女の人とかね、割と声かけられたりして、
高校生だしね、何してんの?みたいな感じでいろいろ話して、
じゃあどっか行こうよって言われて、すごい言われたことあるよね、何度か。
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行こうかなと思ったんだけど、やっぱり家に帰らなくちゃって思ったんで、
そこら辺はちょっとすんどめしましたけどね。
だからそういう感じ、余裕とか疲れてぼーっとした時に、
大人の人がね、女の人でもなんでも、
そういうオーラで近寄ってこられたってことが結構あって、
やっぱり今は余裕みたいな感じでね、いろいろと生活とかそこら辺の手合わせますけど、
そんなにね、えらすなことじゃないですよね。
そういう感じの生活してますからね。
間抜けじゃないんですよ、その時はその時で頑張ってたんですよね。
間抜けとは言ってないよね、本当にAIの野郎。
みぞしりという場所、1日から2、3分、そこには何の?と、
さっき言ったようにその船屋があるんですよね。
宇治海で多少似てるよね。
稲城も青島の自然の防波堤があるように、
麻生海も自然の防波堤のように天名幸があって、
そこの内側にあるっていうところなんで、話した通りですね。
禅意識という言葉を21年の4月の第1回から使っている。
使っているんだ、その前は何と呼んでいたか。
大学院の頃、禅認行、聖火台の最初の頃、
名前がつく頃、どういう風に思っていたのか、
どう説明していたのか。
どう説明していたかな。
やっぱり選択聴取、集中聴取っていうことだよね。
選択聴取や集中聴取にあふれた領域というか、
何て言うのかな。
でも全部研究の対象とか、調査の対象とか、
捜索の対象みたいなものは全部意味があって、
やっぱり刺激のあるものというか、
意識の上に上ってくるものとして扱っていたから、
曖昧なものって研究で扱うことって嫌がるじゃないですか。
だからそういうことはあんまりね、
禅意識は言ってなかったと思いますよ。
いつ頃言ったのかな。
やっぱりサウンドスケープの扉とか、
2010年あたりぐらいから言い出したんじゃないかね。
そんなに昔じゃないんですよね、思えば。
音楽以外、音楽とか声とかはね、
見立つ音だからそうだけど、
それ以外の音にも注意を向けようっていう、
音の分類レベルでは言ってたけれども、
意識の内面とかね、そのあたりからの音の捉え方、
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それがどんな音であっても、
意識・禅意識でくくれるわけじゃないですか。
内側からの音の分類っていうことは、
ほとんどしてなかった気がしますよね。
外側にある音の分類ってのはあるけどね、
それはすごくセイファーにしてもね、
あとチリ学者の人も言ってますけれども、
音響生態学の、
そういうのは外側の音だから、
内側のところからのっていうのはないので、
意外と2010年ぐらいからやってたぐらいかなと思いますね。
そして、見た世界に自分は映らない。
講座で話した。それに気づいたし。
見た世界には自分は映ってない。
これね、僕カメラずっとやってたんですよね。
小学校の時、父親がカメラが好きで、
いろいろ一眼レフを借りたり買ったりしてもらいましたけれども、
コンタクスとかニコン使ってましたけどね。
それでやっぱりね、
撮影するときに自分は映らないというか、
自分を伝えたときにすごく違和感があったんだよね。
なんかすごく恥ずかしいみたいな感じがあったんで、
そういう意味でやっぱりね、
写真は自分が映らないという、
メディアを通して風景とか環境を見るときに、
そういう風に感じましたよね。
なので、小学校の時に、
今はデジカメだけど、銀円カメラで
現像しないと見れなかった時代です、写真がね。
そういうときにね、やっぱり現像が上がってきたときに、
僕を写している状態で、
記念撮影とかそういうとこありますけど、
そういうときに自分が見えてくるっていうのが
あるわけなんですよね。
だから、写真というメディアを通して、
自分とか他者とか、
写ってる写ってないとかね、
自分が写ってない風景にしてもね、
写真は一部分しか切り取ることができないじゃないですか、風景の。
録音なんかは、自分が喋ると自分が存在すると。
でも、だいたい無視構成のマイクとか使う場合はね、
全部の音が入ってきますよね。
前後左右上下みたいな感じのね。
だからそういう感じの音の捉え方みたいなのは結構、
カメラと違うな。
メディアを介してね、
端っこにいるとか真ん中にいるとか、
自分が写ってる写ってないとかね、
やっぱり録音って自分が出やすいんだよね。
マイク触ると音が出るし、
息するとノイズになるしということで、
それが写真にはないよね。
写真って視覚だけ中心でやったらいいんだけど、
そこにその生きてる行動みたいなのが伴わないから、
音っていうのはすごく扱いづらいというかね、
写真は扱いづらいし音は扱いづらい。
録音は難しいけど、撮影はまた違う難しさあるけれども、
自分の気配をね、
普通にデフォルトで消してしまうのがやっぱり写真なので、
そういう意味でやっぱり思ったんじゃないですかね。
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ということで着いたので、
結構今日も本質的な話ができたなと思うので、
出すかどうかは分からないけど、
ということでした。