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【教育論】なぜ国語の授業は嫌われるのか? Being vs Doingの落とし穴
2026-04-30 07:49

【教育論】なぜ国語の授業は嫌われるのか? Being vs Doingの落とし穴

作品を味わうbeingではなく点数や教員解釈を押し付けるdoingが蔓延。多様な解釈の差分が見えず学生は疲弊する国語教育の課題。
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サマリー

国語の授業が嫌われる理由として、作品そのものを味わう「being」ではなく、教員の解釈や点数といった「doing」が重視される現状を指摘。多様な解釈の差を理解できず、学生が疲弊してしまう国語教育の課題について考察する。

導入:日常と話題の転換
おはようございます、小松でございます。 今ちょうどお昼を食べて、また大学に戻る予定なんですけど、
学職も結構、大学の中に4つか5つぐらいあるんですよね。 ただなんかね、ちょっといつも最近は
外に行って、どんな店があるかなとかですね、そんな感じで 散歩がてらの
お店を探してるんですけどね、ちゃんぽん屋さんがすごい 美味しいんですよね。だからそういうところで
食べるというか、今日お皿うどん食べたんですけど、すごい めちゃくちゃ美味しくって、なんかあの
いやヒットですね結構。大盛り食べながらという感じで、 ちょっとね、やっていこうかなというふうに思います。
それでね、あの
えっと 今日はあの
ちょっと話が全然変ですけど、国語みたいな話をしようかなって思って、 国語がなんでこう嫌なのかみたいなね、そんな話をしたいなと思います。
国語が嫌われる理由:教員の主観と受験
それでその国語が嫌いなっていうのは、受験の話なんですよね。 国語ってね、小学校から中高とあって、僕もそんなに嫌いじゃなかったんですけど、
特に他の音楽とか、僕は理科の生物がすごい好きだったんですけどね、 そこまで飲み入り込めなかったというか、時にちょっと苦痛なことも考えてしまったんですけど、
そういう気持ちになったのはなんでかなみたいな、そんなことをちょっと今日は学生と話し しててね、思ったことがあったんですね。
それはね、国語、具体的には作品とか文章ですよね。 文章は一応、そのもの、例えば小説とか論考とかいろいろあるんだけれども、それ自体に
それぞれの人の解釈があるじゃないですか。 もちろん
文章っていうのは、主観的に書かれるもの、論理性はあるんだけれども、人間がもちろん書くものであるし、最近AIが書いたりはしてますけど、
基本は人間が出すものとしてのアウトプットとして文章がありますよね。 その文章そのものを受け止めたり読んだ人っていうのは、それぞれの解釈があると思うんですよ。
ただですね、授業でそれを扱うとなったら、ある程度の自信はあるかもしれないけど、教員、その文章を扱う教員の主観、解釈が入るじゃないですか。
だからその答えというか、普遍的な文章に対する捉え方っていうのが、なかなか厳しいというか、ある先生はAの方向というか、E風に言うし、
別の先生はこの文章ダメとかね、ダメっていうのも感情的にダメって言ってるのか、論理破綻があるからダメって言ってるのかわかんないけど、
それが全然E、悪いが変わってくるわけですよね。そういうところがあるから、結構、生徒とかそういう人にとってはどこを基準にして捉えたらいいのかということがさっぱりわからないから、
結果、嫌になるっていう、そういう残念な傾向っていうのがあるんじゃないかなと思うんですよね。
僕なんかは素直な方で、先生がこう言うからそうなのかなっていうふうには思うんだけど、同じ文章を別の先生が捉えた場合は全く解釈が変わってきますし、
あとね、やばいのがね、受験ですよね。受験勉強とかの入試の問題に国語ってありますよね。
するとね、途端にわかんなくなるんですよ。文法的なことは元より解釈とかね、自分の思うことを述べようとか、作者は何を意図して書いてるのかっていうのはね、
ちょっと抜き出して書いたりとかする場面ってあるじゃないですか。あそこが厄介なんですよね。それで全然答えが納得いかないまま、
なんかこう、たくさん文章があるなみたいな、入試問題があったりとか点数尽きられるなっていうような、そういうね、ちょっとしたこう、
破綻というか、矛盾がね、すごくあるなっていうふうに思うわけなんですよね。それで僕の話になっちゃうけど、僕の文章、
自身の経験:教科書掲載と問題集の矛盾
ミミスマの文章でね、機会を捨て町へ出ようっていう文章ありますよね。
で、あれが数年前のね、ちくま書房の国語の教科書になったんですよ。載ったんですよね。僕の文章が教科書に載るってやばいですけど。
で、それに伴ってね、文章の問題集がね、いろんな出版社から作られて、僕のどこに送ってくるわけですよね。
小松さんの文章、使ったのでね、使用料はいくらですからお支払いしたいけど見本しようという感じでね、来てるんだけど、
自分が書いた文章でね、それを自分が説くわけですよね。出版社の意図によってするとね、間違うんですよ。
僕が書いた文章でこれ間違ってるよみたいな、これおかしくないですかね。
自分のね、文章をネタにして書かれた入試問題が解けないっていう。これもね、入試問題の出題者の意図が入ってる、主観が入ってるから、
その主観の触れ幅、そして主観がね、もたらすその差分がね、ありすぎるから、どこを基準にとったらいいのかっていうのが、さっぱりわからないっていうのがね、
BeingとDoingの落とし穴
あると思うんですよね。だから結果、大事なことはね、その文章そのものを楽しんだりとか、
めでるっていうか、そういう視点を与える教員がいたらいいし、親でもね、知り合いでもいたらいいんだけど、それがないまま、
点を取るための手段であったりとか、ノルマとかね、ドゥイングのばかりでやってると、そのビーイング的な文章の楽しみっていうのがパージされてしまってね、面白みが減ってくるわけですよね。
しかもそういうのが若いうちにあればあるほど、もったいないですよ。解釈の前にやっぱり文章としての存在、
そういうのがやっぱりないと、もったいないなっていうのがすごく学生と話してて思ってね、僕それがね、言語化しちゃったんですよね。
理系学生と国語嫌いのギャップ
というのは、僕のいる大学の理系的な学生っていうのは、プログラミングめちゃくちゃ得意なんですよね。
スクラッチは元よりね、Pythonとかね、P5とか使ってる人が多いんですけど、それが得意って言うんですよ。
でも国語が嫌いって言ってるから、これ何事かなと思ってね、つまりプログラミングも言語みたいなもんじゃないですか、それが分からないっていうのが一層かなと僕は思うんですよね、国語もね。
それがね、解釈としてちょっと残念だなっていうふうに僕は思うので、そういうところで僕はちょっとね、違和感感じたので、それを言語化してみると、
やっぱり国語っていうのは、その室内先生の解釈があるから面白みが減るんじゃないかっていうか、もったいないにじれがあるかなと思ってね、それをちょっと考えてみて今日は喋ってみました。
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