1. 万華鏡 Mangekyo | Japan through history
  2. JP#5|どうして足利尊氏は、敵..
2026-10-14 18:11

JP#5|どうして足利尊氏は、敵だった天皇のために天龍寺を建てたのか?【京都編】

竹林の小径や渡月橋で知られる、京都・嵐山。その中心にある世界遺産・天龍寺は、ある将軍が「敵だった天皇」のために建てたお寺でした。


建てたのは、室町幕府を開いた足利尊氏。弔われたのは、尊氏に自分の名前の一字を与えた恩人であり、やがて戦うことになった後醍醐天皇。天皇が2人いた「南北朝時代」の物語から、穏やかな庭の向こうに隠れた思いをひもときます。


▼ この回で分かること

・鎌倉幕府が力を失っていった理由(元寇と武士の不満)

・「尊氏」の「尊」は、後醍醐天皇からもらった一字だった

・天皇が2人いた? 南北朝時代とは

・なぜ尊氏は、敵だった天皇のためにお寺を建てたのか

・景色を借りる庭「借景」と、日本で最初の史跡・特別名勝

・天龍寺から竹林の小径、渡月橋へ。嵐山の歩き方


▼ 目次

オープニング

鎌倉幕府の約140年

後醍醐天皇と尊氏:味方から敵へ

南北朝時代:天皇が2人いた

なぜ天龍寺を建てたのか

嵐山を歩く

エンディング


▼ 全文文字起こしはこちら / Full transcript (Japanese)



▼ 次回

JP#6|金閣寺は、もとはお寺ではなかった?【京都編】


▼ パーソナリティ

新井大貴|福井県在住の英語コーチ。全国通訳案内士を目指して勉強中。TOEIC 930点、英検準1級。


▼ 英語を学び直したい方へ(英語コーチング)

https://mosh.jp/public/landing-pages/62af8d92-faf3-4696-88a4-56711acd3f08


▼ お便り・お問い合わせ

番組の感想、取り上げてほしい場所、英語学習のご相談などはこちらから。

https://forms.gle/j9wwu5g1pWxiTMxF7

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:00
万華鏡 Mangekyo, Japan through history.
本番組では、日本の観光地を主に歴史の視点から掘り下げ、
誰もが知っている名所のまだ知らない物語をお届けしていきます。
この番組を聞き終わった後、その場所についてもっと知りたくなる、
いつもの景色が少し違って見える、そんな発見をお届けできたら嬉しいです。
パーソナリティーの新井大貴です。よろしくお願いします。
さて、今回訪れるのは京都の西、嵐山です。
嵐山は京都の西の外れにある山と川に囲まれた継承地でして、
天まで伸びるような竹林の小道や川に架かる五月橋など、
もしかすると写真や映像で見たことがある方もいるかもしれません。
そんな穏やかな嵐山に今回の主役である天龍寺がありまして、
嵐山を代表する世界遺産のお寺です。
しかしこのお寺が建てられた理由は、
嵐山の穏やかな景色とは全く違う激しい戦いの物語の中にありました。
天龍寺、これを建てたのは足利隆氏で室町幕を開いた武将です。
隆氏がこのお寺を建てたのはある天皇のためでした。
その天皇とは隆氏が戦った人物です。
なぜ敵のためにお寺を建てたのか、
今回はその謎を解いていきます。
前回の三十三間堂の回で御白河上皇が亡くなった1192年に、
源頼朝が正位大将軍になった、そんなお話をしました。
ここから日本は鎌倉に幕府を置いた武士の時代に入りまして、
鎌倉時代ですね。
この時京都には朝廷が残っていました。
つまり日本には京都の朝廷と鎌倉の幕府という2つの力の中心がありました。
ただ実際に国を動かしていたのは鎌倉の武士たちの方になっていきます。
そんな鎌倉幕府を大きく揺るがす出来事が起きます。
1274年と1281年、中国大陸を支配していたモンゴルの国、源が二度に渡って日本に攻めてきました。
いわゆる源公ですね。
武士たちは必死に戦い、なんとか源の軍を退けます。
03:03
ところがこれは外からの敵を守った戦いでしたので、勝ったとしても新しい土地が手に入りません。
命がけで戦った武士たちに対して幕府は十分なご褒美を与えることができませんでした。
こうして武士たちの不満が溜まり、鎌倉幕府は少しずつ力を失っていきます。
そしてそのチャンスを狙っていたのが京都にいたある天皇でした。
その天皇の名前は五醍醐天皇です。
五醍醐天皇はとても強い意志を持った人物でして、武士の幕府ではなく天皇自らが国を動かすべきだ。
そう考えた五醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと動き始めます。
その呼びかけに応えた武士の一人が足利隆氏でした。
実は隆氏はもともとは鎌倉幕府に仕える武将でして、幕府から五醍醐天皇を討てと命じられ京都に向かっていました。
ところが隆氏は途中で幕府を裏切り五醍醐天皇の味方につきます。
ではなぜ隆氏は幕府を裏切ったのか。
はっきりした理由はわかっていませんが、いくつかの説があります。
もともと足利家は源氏の血を引く名門でした。
その足利家が当時の幕府を動かしていた北条氏の下で不満を抱えていたとも言われます。
そして1333年、高氏たちの活躍もあって鎌倉幕府はついに滅びます。
源頼朝が幕府を開いてからおよそ140年後のことでした。
この時五醍醐天皇は高氏の活躍を讃えてあるものを贈りました。
それは名前です。
高氏はもともと高井に氏、これで高氏という字を書いていました。
そこに五醍醐天皇が自分の名前である高晴、尊敬の尊に治める、三随の治める、これで高晴の尊の字を与えたんです。
天皇から自分の名前の一つの字をもらう、これはとても大きな名誉でした。
06:06
なぜ名誉なのか見ていくと、当時人の本当の名前である忌み名というのはとても大切なもので気軽に口にするものではありませんでした。
その一字、自分の文字を一つ分け与えるというのは、あなたを特別に認めているという証となります。
しかもそれが天皇の名前の一つの字となれば、父にとってこれ以上ない名誉だったんです。
ところが二人の関係はすぐに崩れていきます。
幕府を倒した五醍醐天皇は天皇を中心とした新しい政治を始めます。
歴史で建武の神聖とか聞いたことある方がいるかもしれません。
ところがこの政治というのは貴族を優遇するものでして、命がけで幕府と戦った武士たちは結局自分たちは何のために戦ったんだと不満を募らせていきます。
その武士たちの期待を背負うことになったのが鷹内でして、鷹内は武士のそばに立ち、五醍醐天皇に暗記を翻します。
つまり自分の名前をくれた恩人と戦うことになったんです。
鷹内と五醍醐天皇の戦いは一心一体でした。
鷹内は一度戦いに敗れて九州まで逃れます。そこで力を蓄えて再び京都へと攻め上がっていきました。
そして1336年、京都を抑えた鷹内は思い切った行動に出ます。
五醍醐天皇とは別の人物、光明天皇を新しい天皇として建てました。
その天皇の下で京都に新しい幕府を開きます。これが後の室鉢幕府となりまして、1338年には鷹内は正位大将軍に任命されました。
一方の五醍醐天皇も黙っていません。
京都を駆け出して今の奈良県の山奥にある吉野へ逃れ、自分こそが本当の天皇だと訴え続けました。
そして日本には天皇が二人、つまり朝廷が二つ存在することになりました。
京都にある朝廷を北朝、吉野にある朝廷を南朝。これは京都が北、吉野が南にあるからこう呼ばれます。
この二つの朝廷が並び立ち戦いを続けた時代が南北朝時代となりまして、この混乱というのはおよそ60年続きました。
これを聞いているあなたがもしこの時代に生きていたらどちらの天皇に従えばいいのか。
武士たちも家族や親戚の中でさえ北と南に分かれて戦うことがあったと言われています。
09:04
それほど日本中が割れてしまった時代だったんです。
そして1339年、後醍醐天皇は吉野の地で京都に戻ることなく亡くなりました。
最後まで京都への思いを口にしていたと伝えられています。
後醍醐天皇が亡くなったという知らせを受けて、高氏はある決断をします。
後醍醐天皇の礼を弔うための大きなお寺を建てる、それが天龍寺です。
選ばれた場所は嵐山の麓で、ここにはかつて亀山殿という天皇家の礼宮がありまして、この礼宮というのは後醍醐天皇にもゆかりのある場所でした。
高氏は後醍醐天皇にゆかりのある地に彼を弔うお寺を建てたんです。
ではなぜ高氏は敵だった天皇のためにここまでしたのでしょうか。
理由としては一つではなかったと考えられています。
まず一つ目は恩人への思いというところで、高氏にとって後醍醐天皇は自分の名前に尊敬の尊、鷹の字をくれた人でした。
心のどこかでは尊敬する気持ちを持ち続けていたのかもしれません。
二つ目は霊を鎮めるためと言われていて、高氏の人々は恨みを残して亡くなった人の霊が災いをもたらすと信じていました。
京都に戻れないまま亡くなった後醍醐天皇の霊をきちんと弔って鎮めたい、そんな思いもあったと言われています。
三つ目はあるお坊さんの勧めでして、高氏に後醍醐天皇を弔うお寺を建てるように勧めたのです。
そのお坊さんというのは武装祖籍という禅のお坊さんでした。
武装祖籍は後醍醐天皇にも高氏にも尊敬されていた人物です。
恩人への思い、霊への恐れ、そしてお坊さんの勧め、いくつもの思いが重なって生まれたのが天龍寺だったんです。
ちなみに天龍寺という名前にはこんな話が残っていまして、高氏の弟である足利忠義がお寺の南を流れる川に金色の竜が舞う夢を見た。
そこから天龍寺と名付けられたと伝えられています。
この大きなお寺を建てるには莫大なお金がかかりまして、高氏たちは中国の元都の貿易に船を送りまして、その貿易で得た利益をお寺づくりに充てました。
12:03
この船は天龍寺船と呼ばれています。
元といえば元寇で日本に攻めてきたあの元でして、
元寇から60年ほど経ったこの頃には、日本と元の間を商人の船が行き来するようになっていました。
かつて日本に攻めてきた国との貿易で、かつての敵を弔うお寺を建てた。
そう考えると少し不思議な縁なるものを感じるかなと思います。
天龍寺はこれまでに8回も火事にあっています。
今の建物の多くは明治時代以降に建て直されたものです。
でもその中で700年近く前の姿を今も残しているものがあります。
それがお寺の奥に広がる庭、草原地庭園です。
実は自分も天龍寺を訪れた際に一番心に残ったのがこの庭でして、
池の前に座っていると時間を忘れてずっと眺めていることができました。
そして後から知って驚いたこともありまして、
この庭は池や石だけではなく、その奥に見える嵐山の山々までを庭の一部として取り込んでいることです。
遠くの景色を借りて庭を完成させる、これを釈迦、借りるに景色で釈迦と言います。
なのでこの庭は季節が変わるたびに山の色と一緒に全く違う表情を見せてくれます。
もう一つ天龍寺には印象的な竜がいまして、八島という建物の天井に描かれた雲竜図です。
この竜はお堂のどこから見上げても目が合うように描かれていて、八宝睨みの竜とも呼ばれています。
金色の竜の夢から名前がついたお寺にふさわしい、迫力のある竜です。
日本語と京都の文化財の一つとして世界遺産に登録されています。
最後に天龍寺と一緒に楽しめる嵐山の歩き方を紹介させてください。
まずは天龍寺の庭を楽しんだ後、庭を北へ進むと天龍寺の北門に出ます。
そのすぐ外に広がっているのが嵐山で最も有名な景色の一つ、竹林の小道です。
15:03
両側に背の高い竹がどこまでも続く、およそ400メートルの道です。
自分が歩いた時にまず感じたのはその空間の涼しさなるものでして、竹に日差しが遮られていて空気がひんやりしています。
上を見上げると竹の間から光が差し込んでくる、写真を撮るには本当にぴったりの場所です。
ただどうしても昼間は混み合っていますので、静かな竹林を歩きたい場合は朝早い時間帯がおすすめです。
また嵐山に来たら都月橋も外せないですね。
都月橋という名前は鎌倉時代の亀山天皇が月夜にこの辺りで船遊びをしていた時に
つまり曇りのない月が足を渡っていくようだと呼んだことから名付けられたとも言われています。
ちなみに天龍寺が建てられた亀山堂の亀山も嵐山の隣にある山の名前です。
天龍寺も都月橋もこの土地を愛した天皇たちの物語とつながっているんです。
竹林で涼み、天龍寺の庭で景色を楽しみ、最後に都月橋で川の音を聞く。
そんな晩日の過ごし方をぜひ試してみてください。
今回は嵐山の天龍寺のお話でした。
自分の名前をくれた恩人であり、そして敵でもあった後醍醐天皇。
その天皇を弔うために足利尊氏が建てたのが天龍寺でした。
穏やかな庭の向こうにはそんな複雑な思いが隠れていたんです。
そして南北朝の混乱は足利が亡くなった後も続きまして、
この混乱に終止符を打ち二つの朝廷を一つにまとめたのが足利の孫足利義満です。
1392年のことでした。
京都で最も有名な建物の一つ金閣寺を訪ねます。
実はあの金閣寺もともとはお寺ではなかったんです。
その謎を一緒に解いていきましょう。
最後に一つ告知させてください。
自分は今英語を学び直したい方に向けて英語コーチングを行っています。
学生の頃の英語をもう一度やり直したい。
日本のことを英語で話せるようになりたい。
そんな方はぜひ概要欄からチェックしてみてください。
この番組はSpotify、Apple Podcasts、YouTubeなどで配信しています。
今回の話を聞いていいなと思いましたら、ぜひお好きなアプリでフォローをよろしくお願いします。
18:03
最後まで聞いていただきありがとうございました。
お相手はパーソナリティの新井大貴でした。
18:11

コメント

スクロール