大人の学びを阻害するもの
このポッドキャスト、「まなびのはなし」では、大人の学びをサポートしている2人が、それぞれ見つけた、考えたことを話したいから話しています。
今日もよろしくお願いします。
今日のテーマは、大人の学びを阻害するもの。
はい、そうですよね。学びの場って、理想的にはね、右肩上がりに学びが進んでいったらいいんですけど、
現実にはそうではないことって、よくありますよね。
ありますし、学習者の性格とかにもよりますけど、全てが自分のせいで学びが進まない、みたいな思うタイプの方は、阻害要因が全て自分にあると思っているタイプもいますし、
自分は頑張ってるけど、周りが阻害してくるんだ、とかいう捉え方もすることもできますし、
なんか、阻害要因って、いろんな形でありそうだなと思ってます。
で、たまたま今日、私、先日のコーチングのプログラムの話してましたけど、
アップビルド。
自分の学びが阻害された時間があって、頭の中に考えたいことがあふれてて、オンラインのクラスなので、
あ、これ、メモしとかなきゃ、とか、これ、カレンダーに入れとかなきゃ、っていう、たぶん雑念が残ってる状態で、私、授業のZoomに参加したので、
その学び以外の出来事が、頭の中にすでにあって。
で、よくなかったのは、その直前にコールを入れていて、で、そのコールが、自分のアイディアを膨らます時間だったので、
膨らんだ楽しい会話の後に、あ、時間だってZoomを切って、それでも15分くらいは時間あったんですけど、
あってもやっぱ、まだ頭の中がグルグルグルグル動いてて、いつも運動とかしてからクラスになるっていうスケジュールを組むことが多くて、
体が適度に疲れた状態で、コールに乗っていたのに比べて、今日は、自分のコンディションと雑念が阻害をしていた。
なるほど、頭がちょっと忙しすぎて、邪魔になったのかな。
コードの切り替えができなくて、物理的に画面が、Googleカレンダーが右の3分の1くらいに開いてて、
チャカチャカってやったりしているっていうところでも、振り返ると、あれはやっぱり、そんなに阻害要因と思ってなかったけど、やっぱり邪魔してたかもな、とか。
そう言われてみると、阻害要因というほど大きくは捉えてなかったですけど、
私、HSP傾向が強いっていうのがあって、散らかっている、目に入る情報が多いとか、音が多いとかっていうのは、学びに限らないですけど、あらゆる思考が妨げられる感じはありますね。
そういう時は、気づくんですか?その妨げられてるな、みたいな、その時に。それとも、後で気づくことなんですか?
事前にも気づきますね。なので、なるべく目に入らないようにしてますね。
私のごちゃごちゃな壁とか。
いやいやいや、Zoomの向こうは自由なんですよ。
そうなんです。
他の人はそれぞれなのでね、本当気にならないんですけど、私のいる空間、あと文字があると読んじゃうので、文字が多い場合。
言ってましたね。
なるべく減らしていかないと、私のCPUが足りない。
それが疎外用意になる。
疲れやすくなっちゃうっていうところですかね。
学びを疎外するなっていうのは、さっき友子さんがおっしゃった中で言うと、完全に自分のせいと思っているところが強いんですけど、自分のシャイネスですね。
なるほど。具体的にどの時にそれが出てきて、どういう影響を及ぼすんですか?
例えば何かをやって褒められる。褒められてしまうと、すごくシャイが発動してしまって、やらなきゃよかったとか、もうあれはやめておこうとかっていうふうに思ってしまいやすいので。
スポットライトが言い心地悪い。
スポットライト、期待とかね、注目をされるっていうのが、外からっていう言い方をするとそうなのかな。
周りに見られてしまった、目立ってしまった、みたいなのは、以後気をつけようっていうふうに、自ら疎外してしまうことがありますね。
逆の話で成長を承認されることが学びされる人もいると思うんですけど、
学習者の阻害要因
じゃあ、えみさんの場合は他者からどういう関わり方をされると学びは促進するんですかね?
放っておかれることです。
放っておかれること。
そこで見守ってほしい、苦悶ない。
苦悶ないですね。
一人で完結してるので放っておいてくれると、一番学びが促進されますね。
なるほど、面白いですね。
私、アメリカでお母さんみたいな大先輩の友達が何人かいるんですけど、
その一人に何回もDon't let your shyness hold you backって言われていて、
多分それを最初に言われた時に、それが私を引き止めているんだったなって納得したことがあったので、
最近はまた発動してるな、これは良くないなと思って、
shynessの方をコントロールするようになってきてはいますけど、
でもやっぱり学びの方を否定したくなってしまう、不思議な感情が湧いてしまいます。
なるほど、スポットライトが当たると期待値が一緒にくっついてくるんじゃないかっていう嫌だ、みたいなのもあるのかもしれないですかね。
プレッシャーみたいなものもなくはないですけど、それよりやっぱり恥ずかしいっていう気持ちですね。
なるほど、興味深いですね。
そういう学習者もたまにいるっていうことですかね。多分多くはないと思いますけどね。
できない自分から少しできるようになる自分になるとき、
例えばパブリックスピーキングが苦手な自分からもう少しできるようになる自分があって、
勇気がいるし、体力も時間も努力も必要みたいな、よっこらしょみたいな学びをするときに、
私のイメージだとやっぱりやるぞと頑張って行動しているときに、
私のやる気とか頑張る気持ちをシューってするっていう要因っていうのはいくつかあるような気がしてて、
私の場合は100点からの引き算みたいな感じで、ここもここもできなかったなみたいな思いがちな自信がもともとないようなところに、
そうだね、そこちょっとダメだったよねって私がマイナスに評価していることを同意されると、やっぱりかーみたいになってしまうので、
逆にできてたところを言ってくれる方が学びは促進されるタイプなんですね。
疎外する要因は多分自分の中のインナークリティックってね、内なる批判者って言いますけど、内なる批判者の仲間っていうのは疎外要因として要注意だったと私は思ってるんですけど、
そういう難しい学びの疎外要因、えみさんは、それもシャイネスもそうなのかな?
その膨らんでプシューってなるっていうのは、私がサポートする側として目撃するなっていうふうに思うんですけど、
私自身がまず膨らまないんですよね。なのでプシューともなりにくくて、自信がないのも日常だし、
インナークリティックと周りがもし乗っかって、あんまりそういうことがないんですけど、私のインナークリティックが優勝なので、
かなわないからあんまりないんですけど、でももしそうなったとしてもそうだよね、やっぱりと思うだけで、だからといってやめたってなりにくい。
承認の影響
ネガティブフィードバックにやられないっていう言い方はあるかもしれないですね。
私の場合、2つ超苦手なことがあるんですけど、1つは車のナビゲーションを助手席から支援することがすごく苦手なんです。
才能がないって言ったら結構わかんないんですけど、センスがないんですね。
Googleマークとかで曲がってとか声で出てるんですけど、フォローして言うだけという役割のはずなのに、いつも叱られるんですね。
ダメダメっていうのをラベルがつけられてる。
運転経験が少ないから、それだけのことですよね。
私の中では、いろいろ正当な声があるんですけど、やっぱり運転ができる人からすると、むしろ何も言わない方が安全のためにいいよ、みたいに怒られるぐらい。
頼まれるのに、ヘナチョコに言われるみたいなことをよく耐えてます。
もう1つは、同じ彼に話聞かないよねって言われるので、聞く力が低いと言われてるを家の中ではつけられていて、
自分の中では、少し改善努力をしているはずっていう自己認識があるんですけど、あんまり承認されないので、
小さな改善をしても、小さな成長をしても、認めてもらえないから、もう一層努力をしたくなくなるやい、みたいな感じに、つかることがいっぱい。
結構自分は直視して、ネガティブフィードバックを受け止めて、私は本当にもう少し努力をしていいんですって宣言してるし行動してるつもりなんですけど、
一歩の期待値に対して、たぶん0.1歩ぐらいしか改善しない。しかもその頻度が安定してないから、あまり変わってないっていう評価になって。
それはつらいですね。
ポジティブフィードバックがあっている人には、なるべくたくさんのポジティブフィードバックに触れてもらった方が良さそうですよね。
私の場合は努力承認をしてもらえたら、普通に頑張っていけるんですよね。
けど、評価の基準が成長のアウトカムに置かれると、そこに到達するのが楽ではないし、デフォルトの自分の行動を変えなきゃそこに立たないので、
いつもなんか学びは時間がかかるんだよとか言って途中から逆切れするでしょ。
それもさすがにもう10回ぐらい同じことを言ってるので、あまり説得力もなくなってるんですけど。
そういう風に分けてもらうと、私のシャイネスも努力承認の時なら大丈夫っていう気がしますね。
アウトカムを褒められるからシャイネスが出ちゃうのであって、努力承認だったら発動しないで済みそう。
そうなんですね。
ちょっとはあるけどね。まだ耐えられるかな。
面白いですよね。私も承認っていうのはそもそも概念はコーチングを学んでから学びましたけど、
承認にもいるだけでいますねって言ってあげる存在承認。
で、行動とか努力を承認するっていうのと、成長したねっていうのを承認するのと、
低点取ったねっていう成果みたいなところのいろいろあるっていう話を聞いた時に、
その前半の承認、自己承認も含めて、
それだけでも結構意味があることじゃんっていうのが意外と世の中には浸透してないんだなっていうのを改めて思うことが多く、
後半の承認された経験もスルー体験もあるけれども、
教育の影響かなとか、なかなか教育の影響かなとか思ったりもしますね。
その成果とか成長とかない場合は承認に値しないみたいに思ってます。
多いので、部下に褒めるとこを見つけるのが難しい。
褒めるところが見つからないって聞くことがあって、そんなはずはないでしょって思うけど、
本当にそういうふうに感じてらっしゃる方もいらっしゃいますよね。
その概念で一つつながるほどで、
ショーアップっていう単語があるじゃないですか。
そのショーアップって日本語で直訳がうまく私もできないんですけど、
そのショーアップの概念を元に知り合いの方で、
ブロードウェイで俳優をしている南さんという方が本を出したんですね。
で、ショーアップって面白いなって思ったのは、
彼女の定義だと、やらなくてもいいというオプションがある中で、
あえて何かをやろうとするみたいな。
例えば彼女の場合オーディションの申し込みをするかしないかっていうところだけでも、
確率ゼロだしと思ってしないっていうオプションもあれば、
出したらゼロじゃなくなるかもしれない。
0.00002になるかもしれないみたいな。
大人の学びを阻害する要因
そんな感じでとりあえずオーディションに行くことを申し込んで、
呼ばれたらショーアップするっていう。
それをやるかやらないかっていうところでも、
すごく大きな違いがあるんだみたいな話をしていたんですね。
承認するっていうのも、
オーディション受かったね、おめでとうっていうものだけにしか承認がないと、
いろんなモヤモヤを抱えながらも、
絶対無理だなと思いながらも、
オーディションのドアを開けるっていう、
努力承認っていうんですかね。
それとは違うから、
ショーアップにもっとスポットライトを当てた方が、
自分も他人ももっと幸せにというか、
生き生きといろいろな瞬間に元気が出るエネルギーの源がある、
みたいなことを言ってらっしゃってて、
そこに行くための一歩、
誰も見てないかもしれないけど、
踏み出していること自体が重要なストーリーの一ページだよね。
そういうなんか、挑戦しようとした段階から褒められるポイントを見つけるっていうのは、
割と今の子どもたちは上手かなっていう気がしますね。
子どもたち同士ってそういう細かいところだったり、
できなかったけど頑張ったよねとか、
やろうと思ったの偉いねとかっていうのをお互いに言い合っているので、
結構そういう習慣がついてきてるのかなと思ったりしますね。
自分に対しても上手くいかなかったけど頑張った、
みたいなことを言えるような子が多い気がしますね。
長い歴史の中で価値観とかって揺り戻しとかあったりするので、
言うだけでいいとか、
努力したことが素晴らしいみたいな感じの、
その先に何が起きるかとかに軸を置くんではなくて、
揺れている過渡期にあるのかもしれないですね。
ただ一方で、これなんかひっくり返っちゃうかもしれないけど、
そういう緩い学びが続いていくっていう意味では促進されている、
阻害されていないんだけれど、
瞬発的に強い負荷をかけるみたいな、
すごく努力するとか、
何かすごい高い壁を頑張って越えるみたいなのには、
そのタイプの商人だと脚力が足りない感じがあって。
それも僕も分かるんですよ。
分かるし、どっかで見たんですけど、
若い時はお金を払ってまで苦労しようみたいな。
買ってでもしろって。
やっぱりバランスだと思うんですけど、
重要な話だと私も思ってて、
商人シャワーを浴びることに慣れすぎていて、
せっかくもしかしたら成長のきっかけになる、
不愉快かもしれないし痛いかもしれない生徒っていうものが、
商人によって阻害されるっていうこともあると私も思いますね。
この間もテストの間違い直しをやっていた時に、
全然できてなかったのが急にできていたから、
えーすごいね、どうしてこれできたの?って言ったら、
答えを見て頑張ったって言われたので、
もう座ってるけど膝から崩れ落ちそうになって。
なんて言ったんですか?
答え見ちゃったか。
見ちゃったか。
見てなんか学んだのかな。
それで結局何も理解していなかったりすると、
そうじゃないんだよな、頑張ってほしいポイントがなって思っちゃったりすることが。
面白いなと思っていて、
それがまた今日のたまたまのアップビルドの授業のコンテンツが、
Turning up the heatっていう炎のダイヤルを上げるみたいな直訳すると、
コーチってもともとは心理的安全性を担保して支えてあげて、
伴奏して寄り添ってみたいな比較的愛があふれる側面と、
相手にチャレンジする、相手が勇気を出して飛び込んでいかなきゃいけないところに行きたいと言ってるんだから、
それを押すみたいな、そこのバランスが重要なんですけど、
やっぱり多くのコーチはその前半部分に偏る傾向があって、
最初に学ぶ人とか特に。
今回のレッスンは、あえてどうやってあいつの居心地の悪いところに入ってもらうか。
学習者の環境要因
重要なのは、私たちが居心地の悪いところに入っていく必要がある。
あえて自分たちがコーチとしてどうやったらいいかってもう訓練されてある程度わかるんですけど、
そこを手放してリスク取っていくみたいなことがレッスンのポイントだったんですね。
その結果、クライアントが行きたくない部分、
向き合いたくない感情とか、出したくない感情を抑えるバリアが破けるみたいなことを、
どうやったらコーチとして責任としてやるかみたいなところだったのと、
すごく今の話が繋がるなと思って、
子供たちに承認ばっかりしてると、せっかくの強いバネが与えられる機会を奪ってるかもしれない。
心を鬼にするっていうのも愛だと思うんですよね。
あえて言いにくいことを言ったり、あえてチャレンジを課したりして、
上がっておいで、越えておいでっていう念を送るみたいなのもね、
強い愛だと思うんですけど、
そのことで折れちゃうのが怖くてやめておくっていうサポーターもいるのはわかりますね。
私たちは下手すると学びを促進する話題になりがちなので、
本当。
話にフリップすると、相手が壊れるんじゃないかとか、居心地悪くないんじゃないかっていう気遣いとか恐れとか、
空気を読んで。
空気を読んだり、角に守ってあげなきゃとか思ったりする。
コーチとかティーチャー側の内面のものが阻害するっていうのは一つありそうですよね。
そうですね。
家保護とかもそうだと思いますけど、やっぱりサポートする側の恐れっていうのが、
阻害要因になるっていうのがありますね。
ありますね。そこが面白いですよね。
確かにな。
もちろん他にもあるんですよね。
例えばさっき言ったような、せっかく新しいスキルを学んで応用しようと思ってる時に、
全然できてないじゃないかみたいな。
多分英語学習者でもあると思うんですけど、
せっかくちょっと上手になったかもって自己効力化が高まりそうな時に、
全く高まる経験を周りがさせてくれないみたいな、
そういう環境要因とかもありそうですよね。
そうですね。私はアメリカと日本で英語学習者を見た経験があるので、
その経験を比べると、アメリカではやっぱり英語をみんなが当たり前に話しているし、
他の人の英語を英語の先生でもない人がチェックするっていうのは、
比較的少ないですけど、
日本で学んでいる人にとって、これは疎外要因の一つだなと思うのは、
学習者同士が割と他の人の英語を査定してしまうみたいなことがあって、
確かに。こっち側でそういうことはあんまないですね。
疎外する学びの経験
なんだろうな、日常じゃないので、日本だと英語を話すっていうことが。
だから、あの人英語を話しているとか、ネイティブ発音じゃないとか、
あそことあそこを間違えているとか、
そういうことを現実的につつき合ってしまう場合もあるし、
そうではないのに本人がつつかれているんじゃないかっていう風に、
ある種妄想を膨らませてやめてしまう。
足の引っ張り合いなのか、できないといけない、
脅迫的な考えなのか、
そういうのはもったいないなと思うときはあります。
今日はかねのところに近いのかもしれないですけど、
あるべき像が一つしかないとやっぱりつらいだろうなと思っていて、
大人になってから英語を学んだ人にはアクセントがある。
そのアクセントがあるのが嫌なことのように、
できる限り子どもにそれをさせたくないから、
ネイティブのような発音するためには何歳から英語を日本でやったほうがいいかしら、
みたいな話をちょうどこの間、友人が言っていて、
それだけ癖のない英語をしゃべれる子どもにしたいんだって、
すごい強い願いが伝わってきたんですけど、
メディアとかいろいろな影響で、
こういうアクセントの英語がきれい、
インストールされてるからだと思うんですよね。
その伝わるかどうかに軸が置いてるわけではなくて、
ネイティブのように話せることにゴールが置かれていて、
子どももまだ8ヶ月とかなんですね、その方。
いつからやらないとネイティブっぽい発音になる隙間を逃すのか、
みたいな聞かれ方をしたので、
業界での話かもしれないですけど、
なんか周囲からこの時期にこれをやらないと
ネイティブアクセントの道が閉ざされるみたいな、
インストールされてるのかしらってちょっと思ったんですよね。
学習者が頑張ろうとしている中で、
そういうふうに周りが一つの方向に固まっているっていうのは、
ちょっと残念な感じがしますよね。
今のお話で思い出したのは、
Never make fun of someone who speaks broken English.
It means they know another language.
英語がブロークンだってことは、
他の言語を知ってるっていう証拠だよっていうね。
そういう考え方はね、もっと広がるといいなと思いますよね。
私のようにコメントされて伸びる子は、
たまにやっぱ発音が難しい英語とかがあったりして、
何人かに言われたことあるんですよ。
トモコは2つの単語話せるぐらいだから、
日本語より全然すごいよみたいに言われて、
そうか、そうかみたいな感じで私は。
アメリカの人たちってよく言いますよね。
なんか出てこなかったりすると、
君の知ってる英語の量は、
自分が知ってる日本語の量よりずっと多いよみたいな。
そういう感じで言ってくれるので、
私は結構のびのびと生きてるんですけど、
同級生で中南弁のスペイン語が母国語の方がいて、
彼女も確かにナマリが強くて、
だけどみんなもニューヨークの人だっていろんなアクセント慣れてるので、
気にしないんですけど、
彼女が過度に謝罪とかを言えるし、
しゃべってる間に、
ごめん、私ちょっと伝わらないかもしれない。
ごめん、私の英語出てこない。
ごめんってたくさん言うので、
せっかく話してることも素敵だし、
意見とか中身が重要なことを持っているんですけど、
ちょっとその自分のあるべき姿とのギャップが、
あまりにも頭の中にありすぎて、
私はちょっとコミュニケーションの邪魔になることがあるんですよね。
彼女の言語の学びのジャーニーって、
私もそうですけど、
永遠にずっと続くものじゃないですか。
だからできてない部分を気にすると、
永遠に気にすることがあるので、
相手に伝わっている部分があるだけでも、
上等じゃないかみたいに思って、
ここどうしても分からなかったら聞き返すじゃないですか。
って思うんですけど、
やっぱりその中で起きていることが疎外するってあるなって思いますね。
コミュニケーションを疎外するかどうか
そうですよね。
コミュニケーションを疎外するかどうかは、
相手にもよったりしますけど、
でも本人の学びはその自意識によって疎外はされていますよね。
もったいないな。
そういうこの人の学びが疎外されているなって気づいたとき、
何かすることってありますか?
そうですね。
関係性があるという前提ですけど、
客観的に起きていることを伝えますかね。
もしすごい仲の良い友達とか、
また自分が先生で彼女が学生とかだったら、
彼女が言っていること自体はすごく意味があるんだけれども、
自分のデリバリーの仕方に意識が向きすぎていて、
それが他の人に対するインパクトに影響を与えていると思うという
主観とアクトを合わせて伝えるみたいな
フィードバックのセッションでもそんな話しましたけど、
っていうのを関係性がある相手には言いますかね。
関係性は絶対ですよね。
このことがこの人の学びを妨げているなと分かったところで、
それを言わずに過ごすことの方が圧倒的に多いですよね。
もしかしたら本当に気づいてほしいんだって思ったら
問いにするかもしれないですけどね。
例えば彼が会社の会議でカッカしたとき、
この人はこの今の状況からのリーダーとしての学びを抽出するには
冷静になる必要があるなとかって思って、
何に一番怒りを覚えたかとかまず聞いたりとかして、
それがどういう影響を今及ぼしているかとか、
大人の学びを妨げる要因
自分で気づいてもらえるか分からないけど、
とりあえずそういう声を投げて去るみたいな感じですかね。
関係性があって、その人の学びが起きるといいなという願いがある場合だから
何かするわけですよね。
さっきも言った心を鬼にするって本人にとってもエネルギーが必要なことなので、
それを裂くだけの相手かどうかっていうところはありますよね。
あとは関係性もあって願いもあるんだけれども、
これは専門家、例えば心の専門家が
何をしないとその疎外要因には向き合えないなって思うときもある。
うん、ありますね。
が、どんだけ思いがあってエネルギーを費やしても、
むしろあまり良いことにならないなみたいなケースもあるな。
そこの線引きも必要ではありますね。
あと普通に寝た方がいい。
あ、ゆめさんも言ってたじゃないですか。
多分、時効性増やしてたら、
寝た方がいいんじゃないですかっていうのは言えそうです。
睡眠不足はもう絶対疎外要因ですからね。
そんなにエネルギーなく伝えられるメッセージかもしれない。
確かにな。
関係性もあって願いもあって、
自分の範疇でどうにかできそうな要因だった場合に限って
私の場合、例えばコーチングっていう文脈で
一つには離れられるんだったら離れることを推奨しますかね。
疎外要因と環境化。
離れるっていうのは物理的に離れるっていう場合と
自分の中でそれこそ線を引いて
ここからは私のエリアっていうふうに区切るだけでも
少し離れることができたりしますよね。
脳という力。
確かに。
そうですね。
そうか、それも関係しますね。
あとはそれに似てますけど
そもそもの目的とか目標を思い出すことで
その小さなとらわれ必要かなって思ってもらいたいっていうのはありますね。
確かに。そのリマインダー役とかそっちに視点をシフトする。
リマインドするだけで
そっか、そんなことに使ってる時間もエネルギーもなかったっていう風に
自分で切り替えられることが結構あったりしますよね。
だってね、何か目指してることがあるっていうことは
例えば足を引っ張る人が近くにいたとしても
そことは全然違う次元の
全く別の世界のことを思い描いているはずなので
そっちに早く行きましょうっていう
誘い出しみたいなことはできるかもしれないですね。
確かに。
いや、さっきのショーアップの南さんの本でも
ブロードウェイの舞台を東京かなんかで見て憧れて
いつかそこに立つんだってなった時
周りの人誰も応援してくれなかった。
やめとけって言いますよね。
そう、そう、モニュメーションとかね。
英語も喋れたわけじゃなかったし
っていう理由はいっぱいあって
ダメダメって言われてたんですけど
やっぱ彼女は目的があったっていうのは
ゆまゆみさんが言ったような
強さになるなって思いましたね。
あと最後一つあるとすると
本人のバイアスとか思考のパターン、癖みたいなものを
少し目を向けさせるっていうことも
効果がある場合があるかなと思いますよね。
やめておく理由をすごく並べて
失敗したらきっと周りをがっかりさせるから
やめておきますみたいな
自分で妨げている時には
本当にそう、いつもそういう風に思ってしまうのかな
投げかけて
それが変わるかどうかはわからないですけど
少なくとも揺さぶってみるぐらいのことは
するかなと思いますね。
だいたい願いと恐れが背景にあって
しかもそれは見つけるとね
あれこれってどういうことだろうって
また頭が働き始めると思うんですけど
バイアスの裏にはいろんなものが潜んでますからね。
我々を含めて。
今回は大人の学びを阻害するものについて話しました。
紹介した情報や関連する過去のエピソードへのリンクは
情報欄にまとめています。
よかったらご覧ください。
番組をフォローしていただけたら嬉しいです。
それではまた次回。