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2023-09-15 18:36

ぼくの1995年(feat.キズキノ學校)

キズキノ學校で1995年の特集をされていたので、ぼくもどこかでこの年のことを話しておきたいと思っていたこともあり,お話ししました。
18分もありますので,聞く方は大変です。ご迷惑おかけします。
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キズキノ学校で、あんな時代もあったねと1995年というタイトルを見たときに、一瞬でですね、私の頭の中に様々な出来事が、つい昨日のことのように蘇ってきたんですよ。
お話の内容については、エンタメ系からスポーツから当時の政治、それから社会の動きですね、そういうもの全てリサーチされて、一つ一つですね、確かにその通りだなと思いながらお聞きしました。
そのうちですね、ぼくの1995年というものについてもお話をしておきたいなと思ったので、お話をしたいと思います。
1995年の年明けというのは、ぼくはシドニーにいたんですよ。日本人学校3年目ということで、もう帰国をするときでした。
年が明けたらもうすぐに引っ越しの準備しなきゃねって言ってたときですが、もうとにかく暑くてですね、日陰でも45度になるかのような、もう夏ですからね、めちゃくちゃ暑いんですよね。
でも気候はね、カラッとしているので、冷たいベッドのシーツの上に台の字になってじっとしていると、スーッと熱は逃げていって、というようなことだったんですけれども、
そんなんで今年が明けたんですけれども、もうすぐにね、毎日のようにね、煮作りを始めていたんですね。3年間分のものを全部煮作りをして置いていくもの、それから日本に送るものをしないといけないんでね。
いつ飛行機便に乗せるのかっていうようなこととかも考えながらね、相当いろんなことに頭を使っていくような年明けになりましたね。
そうしたとき、1月の17日、学校でですね、先生たち集まってくださいということで、何か日本で大変なことが起こったようですと。
今、領事館から電話がありましたので、皆さんにお知らせしますと、何が起こったのかということはまだよく分からなかったんですけれども、続々とその後にファックスが届きましてね、どうも大地震が起きたらしいということで、
日本中から来ている子どもたちですから、園舎の方に何か巻き込まれた人がいないかとかね、そういうことについて確認をしてくださいというようなことでしたね。
はい、外にいると本当に何も分からないんですけれども、当時はまだファックスだったんで、それで送られてきた写真とかも見ながらは、なんかすごい高速道路が倒れてるみたいなね、見ながら、何千人も亡くなっているというようなことにね、とても信じられなかったんですけど、
ケーブルテレビと契約してまして、毎晩夜オセアニアテレビというのをね、日本のテレビをNHKを2時間だけ見ることができたんですけど、ヒラリーとかもね、そこでずっと見てたんですけどね、もうすごい映像が飛び込んできて、今でも忘れないですね。
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前の年に卒業して日本に帰った子が、昼休みに体育館に行ったら、一人でバスケットして遊んでたんですよ。どうしたのって聞いたら、いやちょっと私ちょうど被災してしまってね、親が帰ってこいということ、帰ってこいっていうのはオーストラリアに帰ってこいということなんですけど、今オーストラリアの方に戻ってきて、今こっちで住んでますとか言ってたんで、リアルだなぁと思ったことを覚えてますね。
1月はですね、僕本を書き始めました。3年間ずっと書き溜めてきた。そして日本にね、パソコン通信でずっと送り続けてきたレポートを一冊の本にまとめようということで、本を作ったんですけど、3日間くらいほんと飲まず食わずのようにしてね、書いてました。
当時、前の年にWindows 3.1が出て、すぐに僕も向こうでパソコン買いましたね。そしてWordも買って、Word6だったですね。すでにアウトライナーが装備されてたんで、それを使って、A4で250何ページくらいあるような相当分厚い本になりましたね。
その本が20年ぐらい経って、Kindle本で、25年前からのパソコン通信という名前で最終的には本にしたんですけれども、それを書き始めたのが1月ぐらいかなというふうに思います。
さて、そういうことをしながらですね、なんとか帰りの飛行機に乗ったんですけど、本当に大変でしたね。当時の写真を見たら、げっそりと痩せていました。こんな時代もあったねと、僕も思ったぐらいにこんなに痩せてたんだなというぐらいね、げっそりしてましたね。
だって前の前の日がね、前の日か、卒業式ですからね。卒業式と同時にその翌日にはもう帰国というようなすごい、僕当時6年生持ってたんですけれども、じゃあねって別れて、もう二度と会わないかもねみたいな感じで別れたんですけど、そういうようなことで帰ってきたんですが、帰りの飛行機の中でね、当時ファーストクラスだったんですよね。
ビジネスクラスで僕ら、当時はまだ外交官使いだったんで、外交官は当時はまだビジネスクラスとかで行けてたような、まだいい時代だったんでね、ビジネスクラスだったんですけども、僕らちょっと親子連れだったんで、あそこのCAさんがですね、ファーストクラスが一つ空いてるからそこに座って、行ってください、いいですよって言ってくれてですね、人生初めて。
そしてあの後にも先にもおそらくないであろうという、ファーストクラスにね、乗らせていただきました。こんなに広々としているもんかと思って、目の前にねテレビがあるんですよ。テレビでね見ました。フォレストガンプとスピード、この2本をね、帰りの飛行機の中で見ました。
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フライトは7時間少しだったんですけれどもね、その中でね見てしまったということで、本当にあの2つともとても良い映画でね、今でも思い出しますね。
帰ってきてですね、翌日、僕は外務省にね、行こうと思ってたんですね。外務省でこれまで持ってた公用料券、緑のパスポートなんですよ、外国管扱いなんでね。
緑のパスポートをボイドしてもらいに行かなきゃいけなかったんで、妻と子供をホテルに置いてまま外務省にね、行こうとしたんですね、地下鉄乗って。ところがね、またよってその翌日が旬分の日かなんかだから、ディズニーランド行こうとしてたけれども旬分の日にディズニーランド行ったら来とったら早いんだから、もう明日行っちゃおうよということで、急に予定変えてね、ディズニーランド行きました。
まあ同じでしたね、すごい人手だったんですけれども。帰ってきたんですよ、夜ね、品川の方に帰ってきたんですけど、帰ってこようとしたんですけど、バスが全然なくて、タクシーが全然なくて捕まらなくて、もうほんとひっそりしてたんですね。
なんでこんなにタクシーがいないんかねと思ったら、1台だけ来ましてね、やったやったって乗せてもらって、なんで今日こんなに人手がないんですか、タクシーも来ないんですかって言ったら、なんで何も知らないんですかって言うから、何ですって言ったら、たくさんの方が今日亡くなったんですよ。
サリン事件だったんですね。まだみんなサリン事件という名前もその事件にはついてなくて、サリンという言葉も当時まだみんな知らなくて、たくさんの方が亡くなったんですよと。それでちょっと今大変な状況で、今みんな出歩かないでね、ひっそりとしてるんですよということだったんですね。
サリンという言葉を聞いたのはその数日ぐらい経ってからですね、どうもあれはサリンというものだったらしいということで、サリンって何なんだろうと思って、初めて聞く名前でしたね。そしてそれがどうもオウムの仕業らしいというのを聞いたのも、さらにその数日後ぐらいじゃなかったかな、結構早い段階でどうもオウムの仕業だということが当時言われていました。
帰国した後にまだホテルに泊まっている頃ですね、もうすでにそこまで行ってたんですけども、僕は当時ですね、それ聞いて、その日の朝地下鉄に乗って外務所に行くつもりだったんですよ。虎ノ門あたりで降りてですね。
それで行こうとしてたので、もしそれで僕その日の朝行ってたらですね、何らかの巻き込みにあってるはずなんですよ。ところが急にね、ディズニーランド行こうって言って行かなかったもんだからね、巻き込まれずに住んだんですけど、なんかね、守ってくれてるものがいるなっていうのをね、その時にね、後になって思ったなという、そういう思いがありました。
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帰ってきたらね、すぐに欲しいものがあったんですよ。日本のね、CDが欲しかったんですね。CDがとても欲しかったんですよ。
向こうはね、当然のように売ってないからね。買ったものを送ってもらうしかなかったんですけども、欲しいのがいっぱいあって、ドリカムが新しいの出したというね、ラブラブラブだとか入ってるようなね、いつもいつでもだったっけ、ああいうのが入ってるようなやつとかね、ぜひ欲しかったんで。
それとあの、僕が大好きだったダンスユニットのZOOの中の人が、あの新しく作ったTRFっていうのがね、なんかあるということで、その2つのCDをね、急いで買いに行った思いがあります。
もう一つね、もう一つというかね、2つ欲しかったんですね。絶対これ早く買いたいと思ってたのが、MOですね。MO、フロッピーディスク1枚だと1MBしかないんだけど、もうすでに前の年にパソコンですね、Windowsパソコン買って、NARISOメモリが、まだね、僕80MBだったんですけど500MBかな、500MBぐらいのハードディスクにして、すげえ大容量とか言ってたんですが、
そういう時代になってましてね。で、それに合わせてMOっていうのが出るらしいと、これがね、あの結構250MBぐらい入るらしいぞということで、欲しくてたまらなくてね、日本に帰ったらすぐ買うぞということで、秋葉原にね、買いに行きましたね。すぐに買いに行きました。
それからもう一つ絶対欲しかったのがMDでしたね。MDはただ録音するだけじゃなくて、編集できますでしょ。名前も付けられる、中で切って順番変えられる。曲自体もね、切り切って、なんかね、できますよね。ここで切るみたいな編集がね。そういうのが大好きだったので、もうこれは絶対買いだと思って。
サリンがあって何も知らなくてね。その翌日ぐらいに秋葉原に行って、僕はMOとそれからMDと2つを買ってきたなというふうに思ってますね。
もうそれからね、やっと自分の住んでいる福岡に1週間ぐらいして戻ってきたんですけど。挨拶とかで引越しの片付けとかも大変だったですね。2年くらいなんかそういうのがね、ずっと長引いたような気がしますね。
6月ぐらいに確かオウムの朝原証拠が捕まるんですけども、そのくらい毎晩のようにですね、テレビで当時あってたのはオウム心理教の話題ですね。
ああいえば女優も毎日のように出てましたし、あと弁護士の人ですね。親も弁護士だからだったっけ。それからノモですね。ノーモア、ノモアとか言われてました。トルネード、ドーノ。この2人は毎晩のように出てましたね。
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それと同時にですね、5月ぐらいにはすぐにインターネット回線、インターネット始めました。ソフトを買わなきゃいけなかったんですよ。ブラウザとかね、メールを読むものとか、ニュースを読むものとか、そういうものは全部別ソフトだったんですよ、当時は。
一つ一つ全部別だったんです。それ以外全部まとめたパッケージにありましたよっていうのが4万円ぐらいで売られてたんで、もうそれ買ってきてですね。電話回線で電話をかけまくってました。ルーブル美術館に行ったとか言ってやってたんですけれども、すごい時代になったなと当時はやっぱり思いましたね。
でもまだ情報の発信ができる時代ではなかったです。初めて自分がホームページを作って発信したのはその翌年の96年ですね。ホームページが作れるソフトっていうのが初めて出たんで、それ買ってきて必死になって作ってね、しました。そこにメールアドレスを書いてたらね、メールが来てね、びっくりしたこととかがありますね。
僕のですね、ホームページ歴は1996年からです。当時のページが残ってたらね、これはね、すごいですよ。NFTにしていいぐらいありますね。
また95年はね、デジタルイラストを僕が始めた頃で、Wacom、今有名ですよね。スタイラスのペンでね、有名ですけれども、もうすでに当時出てて、僕も買ってきてですね。
ペインターというソフト、これもフォトショップと並んでね、ペインターって素晴らしい絵のペイントソフトなんですけれども、これまでね、Mac版しかなくて、Windows版は輸入しなきゃならなかったんですよ。
で、僕店に行って輸入してもらってですね、買ってきて、本当に鉛筆なら鉛筆っぽく、水彩は水彩っぽくっていうようなね、そういうのを描ける、憧れのソフトだったんですけれども、それを買って僕はデジタルで絵を描き始めたのが95年でした。
はい。忘れてはならないWindows95ですね。これ11月の23日じゃなかったかと思いますね。11月22日の夜中ですね。当時僕は友達と一緒に飲んでましてね、9時ぐらい、まだずっと飲んでたのか、11時ぐらいになってじゃあねって言ってから別れて、どうするの今からって言ったら今からね、Windows95買いに行くって言って別れたんですよね。
で、タクシーに乗って天神っていうところのベスト電機に行ったらもうブワッて並んでるんですよね。しまったと思ってね、その最高日に着いて、そして0時になった途端にベスト電機が開きまして、わーっとみんなで中に入ってね、もう山積みになっているWindows95のパッケージを掴んでですね、そして買って帰りました。
やったーと思ってね、もう当時Windows3.1はやってたんですけれども、Windows95、本当にこれはですね、もう今に続くWindowsの大元ができたような時ですね、この95っていうのはね。でもやっぱりテレビではね、Windows95はMac87っていうね、看板を持った人がやゆりしているようなのを見ましたけれども、
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実はまだMacのOSにはね、まだ立ち打ちできないようなものだったんですけれども、そのうちWindows98とかね、Millennium Editionとか、MEか、それからXPですね、長く続く王者になったXPですね、そういうのが立て続けに出ていくという、その一番走りです。
まだCDドライブが付いているパソコンを持っている人がまだ少ない頃で、まだフロッピーディスクだったんですよ。で、そのWindows95は45、6枚組だったんですよ。で、フロッピーディスクを45、6枚、特価1回ね、次のディスク入れてください、次のディスク入れてくださいということで、特価1回ね、それを入れていって。
僕、そのWindows95を夜中の0時に買って帰って、同時にオフィスも95かなんかでアップデートしてたんで、Wordも入ってる、Excelもアクセスとか、まあ必要なのは全部入ってるやつも一緒に買ってきて、それらもう全部40枚組ぐらいなんですよね。
そういうの全部インストールしてたら、朝までかけてインストールしてましたけど、翌日が23日金曜感謝日だったんで休みだったんでよかったんですけど、まあ寝ることもなく一日中触ってましたね。はい、そういうようなことでしたね。
95年、それが僕の95年でした。実はその大変だっていうのは、そういう帰国とかサリンとかね、大震災だとかね、そういうのも一般的には大変だったんですけど、僕自身がめちゃくちゃ大変だった時で、帰ってきた途端ですね、学校まだ残り1年あるなと思ってそこに戻るつもりで楽しみでただいまーって帰ったんですけども、人事異動になってましたね。
教育委員会の主事になってたんですよ。なんでそんなもんにと思ったんですけど、まだ若いですよ、35ですよ。でも教育委員会の主事ということでですね、もう2年間、ほんとつらい2年間を過ごしました。
帰ってきてね、向こうで学んできた教育の仕方をすぐに活かすぞーと思ってね、もうほんとに腕が鳴るような気持ちで帰ってきたのに、それがね、全く使えない2年間となってしまったということで、そしておまけにパワハラがめちゃくちゃ横行していた時代でもあって、毎日のよりやっぱり上司からいじめられてね、もうほんとにつらい2年だったという。
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まあそういうこともあったもんで、僕の中の95年というのはね、ビビーンとね、自分の感情に刺さるんですよね。はい、というようなことで、すみません、18分も喋ってしまいました。自分の95年というのをね、鉄山さんが今日配信してくださったので、僕もちょっとね、話ししときたいなと思ってお話ししました。
18分もお付き合いいただいた皆様、ほんとにありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
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