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というスタイルの知的瞑想ラジオ、夕方の雑談です。
今日の雑談は、以前ですね、ライさんのライブの中で
日出処の天子というね、例の聖徳太子が隋の養大に送った国書の話が出てて
それにピーンと出ましたね。それについては改めて話をしますという風にね
僕はその中で書いたんで、今日はそれについてのお話です。
題して、日出処の天子の国書を送ったのは聖徳太子ではないというお話です。
いや、これね、じゃあ、水戸天皇だろうとか、そういう簡単な話でもないんですよね。
この日出処の天子、日没する処の天子に使いを送る筒柳屋という、この有名な一節で始まる国書は
隋書東夷伝和神の城というのにね、書かれている。隋、中国の正式な歴史書ですね。
その中の一部に書かれていることなんですよ。
これにはね、隋の養大の時に和国から国書が来ましたと。
そこに日出処の天子を生むと書いてあったんですね。
これはね、起こったわけですね、養大がね。
大和朝廷の力が強くなってきて、それまでの私たちはあなたの親家ですよという、そういうような付き合いじゃなくて
日出処の天子が日没する処の天子、どちらも天子を名乗って
大統の外交を求めたという画期的な国書であったということで
大和朝廷の力がそれだけ強くなってきたんやねということを表すものとして
とても有名になっているものなんですよね。
一般的にはね、当時日本からそういう国書を持って行ったのは
県隋氏であろうから、聖徳太子が送った小野の妹子が持って行ったんだろうというのが定説ですね。
ところがところが、これは日本書紀に全く出てこないんですね、この話ね。
日本の正式な歴史書であるはずの日本書紀に全く出てきてなくて
中国の隋書だけに出てくるんですよ、この話。
おかしな話と思いません?
ものすごい実績じゃないですか。大統の外交を求めたんだと。
自分たちの国ってものすごい力があるんだよと。
それなのになぜ書かないの?忘れたんだろうという話じゃないですよね。
正式な歴史書ですからね。なぜ書かないと。
簡単な話、これは大和朝廷が送った国書ではなかったからだと。
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聖徳太子ではなかったところではなく、隋古天皇どころでもなく
そもそも大和朝廷が送った国書じゃないというね、そういうお話ですね。
隋古天皇うちの話でございます。
隋書にはですね、和国の王が送ってきたって書いてあるんですよ。
その和国の王の名前はね、国書にこう書いてありましたと。
阿弥陀利子彦って書いてありましたというわけですね。
阿弥陀利子彦。
でもね、そういう人っていうのはね、日本の当時の王様をひっくり返しても
誰もいないんですよ、そういう名前の人ね。
でもその時の王様はね、隋古天皇であって
阿弥陀利子彦って男の名前なんで
いや隋古天皇は女帝なので違うよねと。
じゃあ摂政であった聖徳太子じゃねえということになってるわけですね。
じゃあ聖徳太子とか馬屋殿とかね、書きゃいいんだけど
なんで阿弥陀利子彦という名前になってんのという話なんですよ。
で、いろいろ学者の人たちが考えたのはね
いや死者である尾野の芋子はね、祖先が阿弥陀利子彦なんですよと。
だからその死者の尾野の芋子の祖先の名前と間違えたんじゃねということになったわけですね。
で、阿弥陀利子彦って書いてあるのが誤りで
本当は阿弥陀利子彦なんじゃねと。
だから尾野の芋子の祖先を書いてるんじゃねという。
要は随所が間違ってたんじゃねということで
今一般的に聖徳太子ってなってるわけですよね。
間違いが重なっただけなんだよというわけですね。
いやいやおかしいでしょ。
国史ですよ正式なね。
正式な歴史書である随所にね
その死者の間違えたからというようなね、あるかと。
おまけに国書を持ってきたわけですよ。
国書ってね王様の名前を書かん国書ってないですよね。
阿弥陀利子彦ってそこに書かれていたから
正式な歴史書に阿弥陀利子彦って書いたわけじゃないですか。
なんでそこに死者の祖先と間違ってたから書いたとか
いやその国書には名前が書いてなかったんじゃねとかね
そういうふうな話になるのかというね。
まあちょっと比べてみましょうかね。
国書に阿弥陀利子彦って書いてあったから
阿弥陀利子彦って随所に書かれた。
なのか。
それとも向こうの人が死者と死者の御の妹子と喋っていて
その祖先が阿弥陀利子彦だったよと言ってたから
それと間違えて正式な歴史書である随所にそう書いたと。
どっちが納得できますかねということですね。
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そして実はですね、阿弥陀利子
本当はね書かれていたのは阿弥陀利子彦でさえないんですよ。
彦っていうのは彦というところを比べるという字に当ててあるんですけど
実際は彦じゃないんですよね。実際は北なんですよ。
つまり阿弥陀利子彦じゃなくて阿弥陀利子彦なんですよね本当はね。
これ一体どういうことであるかと。
いやいや男は彦って呼ばれていたから
これ彦じゃねえと北じゃなくてやっぱり彦なんだよと。
つまり向こうの人が北と比べるという字を間違えたんじゃね。
もともと彦だったんじゃね。
だから本当は阿弥陀利子彦っていうのは向こうの人が間違えって書いたんであって
本当は阿弥陀利子彦だったんじゃねという
もうダブルトリプル間違い説なんですよねこれね。
要は一般的に言われている聖徳太子が国書を送ったというのは
20、30の向こうが間違えたんじゃねというのを積み重ねた上でそうなっているんですよね。
ということなんですよ。
なぜこんなことをしなきゃならないかといったら
当時の王様って大和朝廷しかいないはずだという家庭がもうあるから
で、無理やりこじつけている、そういうこじつけをしなきゃならないというわけであってね。
いやあ、違うんじゃないのという話なんですね。
で、ここから帰結するのはこの国書を送ったのは
水戸天皇の摂政である聖徳太子じゃなかったという話ですよ。
トリプルの間違いじゃないと水戸天皇、聖徳太子になっていかないんですよね。
はい、この国書を送ったのは和国の王、雨のたれし穂子という人だったわけです。
これが一番簡単な話なんですね。
さらにさらに驚くことにですね、実はそこには和国とすら書いてないんですよ、本当は。
和国じゃないんですよ、和じゃないんですよ。
人弁にですね、なんて言うんですかね、これ。
のを書いて、てんてんてんて書いて、女て書く。
太という字なんですよね。
太国王というものが送ってきたと書いてあるんですよ、和国じゃないんですよ。
で、これはやっぱりこう、いやこれは字の書き間違いで和国じゃねえになっているんですよね。
さらにほら、四つの間違いが積み重なっているんですよね。
いやこれ、和国じゃねえになっているんですが、実は太国と書いてあるんですね。
そこに書かれているのは、都は大和という都だって書かれているんですよね、随所にね。
大和という場所をね、都とする、太国の王様が送ってきたんだよって随所にそう書いてあるわけです。
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もう全然大和朝廷の話じゃないですよね、これね。
さらにですね、随は送りはしたけど、日本に行こう。
その大国に使者を送ってるんですよ、ハイセイセイっていうね。
これが大国にやってきた時に、そこにあったものとして随所に書いてあるのはね、阿蘇山がありと書かれているわけですね。
これどこ、山と違いますよね。
日本書紀にもそもそも記述がない。
このひいずるところの天津云々の国書は、国土の阿蘇山という山がね、国土にあって、
山対という都のある大国の王阿弥の太利氏、北郷が随の陽台に送った国書であったという、そういうお話でございます。
信じるか信じないかはあなたの勝手です。
という雑談でした。いかがだったでしょうか。
はい、じゃあまた。