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これは、いつもの放送とは違いました。 実験的に、備忘録をちょっと録音してみようと思っております。
備忘録ね。スカンクさんなんかは、もしかしたら 聞いてくれるかもしれませんけど、
まあちょっと試しに連絡がてら、 備忘録がてらですね。
思ったことちょっと取り留めなく話しますけど。
昨日、しるさんとみきさくさんの ラジオを聞いていたんだけれど、
善と悪の話が面白かったというふうに しるさんが言って、
今日は備忘録だから、 もうやりませんけどね。
それやってるとそっちに気を取られるんでね。 それはやりませんけど。
面白がらせようなやつは発生しませんけど、
聞いていたんだけど、 善と悪の話をしたんですよね。
善と悪という話をして、 それをしるさんが、
みきさくさんとどちらかさんは、 怖いと言ったけど、私は怖くないと。
私はそっちのほうがいいと。 善と悪が自分にとって有利、
自分にとっては不利というような 概念のほうがむしろいいと言った。
それはしるさんが優しい人だからだよ という話になって、
そうかそうか、私は正善説的に 善を捉えているのねとおっしゃったんだけど、
善と悪の話をしているのに、 正善説の話がおかしいでしょ。
それは正善説という言葉が、
あの場面ではオプシミスティック、 ペシミスティック、
楽観的オプシミスティックと 使われているんだよね。
楽観的であるということを正善説的に というふうに語られていたんだよね。
そうすると彼女はその段階で、 みんなはそれで納得していたんだけど、
つまり正善説、正を生まれながら 善なるものというのを楽観的というのと
言い換えていたということは、 楽観的なことが善なるものだというふうに
規定しているわけだよね。
なので僕らはやっぱり知らないうちに 善と悪というものをいくつか規定していて、
例えば楽観的であることが善で、 悲観的であることが悪だという前提が
既に概念の中に入っているわけですね。
これ普通の放送でいけるな。
普通の放送でいけるけれども、 これで始めたからこれでやるか、
ちょっと迷ったけど。
うん、えーと、
なのでそうだね、ごめんなさい、 一回ちょっと止めちゃったんで、
普通の放送にしようかと思って止めちゃったんで、 ちょっと分からなくなっちゃった。
なのでオプセミスティックな楽観的なものが 善というふうに正善説ということで、
もう既にいつの間にか決まっているんだよね。
そうしてみると正善説、正悪説、 生まれながら赤ちゃんが
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善なるものとして生まれてくるか、 悪なるものとして生まれてくるかという概念においての
善というのは、優しいとか素直とか、 楽観的だという概念に当てはまっていて、
正悪説的な、あと悪というものは、 悲観的であったり攻撃的であったり、
みたいな意地悪をするということだね。
意地悪をするということが悪だということになっているから。
正善説と正悪説というものがそもそも、 善と悪というものが規定されていないのに
相言葉がなぜあるかというと、 おかしいじゃないかとスカークさんが言ったけど、
つまりそれは、 善と悪というものをある程度決めてあって、
楽観的である、あるいはそうだな、 入話で攻撃しない、意地悪しない、
他者配慮がある、みたいなことを 善であるというふうに、
あれが中国から出てきた言葉だとすると、 そして日本でも馴染んでいるんだとすると、
社会にとって良いことだということが 規定されていて、
多くの多数にとっての善を善であるというふうに、
東アジアでは、 規定が最初からされているのに対して、
ギリシャでは、言うところによると、 ギリシャではもっと根本的な善と悪に関して、
もっと本質的な善と悪に関しての 善と悪の定義があって、
つまり善と悪というのは、 もっともっと分解していけば、
社会にと言っているけれども、 社会といってもいろいろあるわけだし、
つまり我々の今の社会にとってはと 言っているにすぎないわけだから、
社会の構造が、つまり宗教的な、 あるいはそういう価値の本質のところが変われば、
我々にとっての我々が変わるわけで、 そうすると善と悪も変わるという前提のもとに、
現段階での善というもの、社会での善というものを 善と規定した東アジアに対して、
ギリシャはもっともっと純粋な、 ピュアな意味での人間にとっての善、
つまり個人にとっての善というものを 善という風に規定したという違いなのかな、
どうですか、個人にとっての善、 それを社会にとっての善にして、
だから正善説という言葉がある、 それは楽観的そうだな、
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とりあえずこんなことかな、
そうするとスカンクさんの正楽説というものは、 楽というものは基本的に個人的な感覚で、
楽と楽しいということをおそらくだけど、 スカンクさんは善と考えているよね、
なので正楽説というのは、 ある種の正善説に近いよね、
オプシミスティックだもんね、楽とか、 最初から自分を傷つけようと思って生まれた、
どうか難しいな、違うか、
楽というのはもう少し、 善悪とは違う感情の問題だもんね、
善悪というのは価値判断の問題だもんね、
やっぱりだから正楽説は正しい、 ある種正しいかもしれないけれど、
正しいけど、善悪という価値判断とは また別軸の問題ですもんね、
なのでそんなの何とでも言えるよね、 正楽説も言えるし、
正善説も言えるし、だったら正、 正生きながら得ようとする説だって言えるよね、
人間はただ生きながら得ようとしているだけだ、 それを楽しようとしているのか、
生きながら得ようとすることが楽をしていることと 一緒かどうかは難しいところですよね、
なので正善説と正悪説に何か取って変わろう ということ自体が概念として少し難しいんじゃないのかな、
という取り留めない構想をちょっとしてみました、 実験的にやってみましたけどね、さようなら。
追加で、だから正善説、正悪説においての 善悪というものはそもそもの善悪の定義と違うんだね、
だから正善説においての善というのは 社会的善のことであり、
それは現時点であるいはその言葉ができた 当時での善であり、
正悪説という言葉、概念においての悪という 概念の内容はその社会においての、
その時点での社会的な悪、つまり悲観的であるとか、 それはちょっと分からないけど、
少なくとも今は悲観的であるとか、攻撃的であるとか、 自分の欲望で人を平気全然殺すとかね、
そういうものが悪だというふうに今はおそらく 規定されていて、どういうふうに生まれてくるのか、
ということなので、善悪の話と正善説、正悪説の話は、
ちょっとレベルが、段階が違う話なんだな、ということですね。
あともう一つ、最後に思ったのは、
これやっていて、微暴録を録音してみたら、 別に普通のいつもの放送と変わらないんじゃないか、
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ということで、もともと微暴録を流していたんだ、
思考がまとまっていないものに関しては、 スカンクさんとぶつけ合っているだけだし、
思考がまとまっていることを語るに関しては、 いつもの僕の放送だし、
なんだ僕は微暴録を垂れ流していたんだ、 ということが今わかったということで、
次からやめましょう。
事件失敗!