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おはようございます。抜粋の精神科リブラでございます。
今ですね、ボイシーを聞いててね、僕の大好きなチキリンさんがですね、
今日の放送、今日なのか昨日なのか忘れましたけど、放送を聞いてたらですね、
チキリンさんがね、美術品を鑑賞するのが自分は好きだという話をされていて、
美術品を鑑賞するときに、彼女は社会問題をいろいろ考えるのが好きで、
いろんな意見を配信していらっしゃるわけですけど、
その社会問題と美術品の趣味がだんだん近寄ってきてしまっていると、
美術品というかな、美術的なものっていうのは、
例えば有名なところで言うと、ピカソンのゲルニカとかね、
ああいうメッセージ性があるものがあるでしょう、美術品って。
美術の一つの側面だというふうなことですよね。
社会問題あるいはポリティカルな問題に対してのメッセージって、
美術品にはあるものですよね。あっても別におかしくないというかな。
あってしかるべきというか、そういうものだと思うんだけど、
それがかつての今の時代とは違う、
例えば黒人の描かれ方みたいなものが今とは違う、
差別的なものだったりとかね、そういうものに関して、
一、エクスキューズをつけながら出さないといけないとか、
そういうことが今あれだよね、ポリティカルコネクティネスみたいなことでさ、
政治的な正しさみたいなものがいろんなものに求められている影響かな、
これに今チキリさん挟まっていらっしゃるのかなと思いますけどね。
ということに関する意見がうまく自分の立ち位置がまとまらないということで、
意見を言いたいけど意見がみたいな、そこまで全部聞いてないんですけど、
全部聞いちゃうと意見引っ張られるなと思って、聞く前にしゃべろうと思って、
自分でちょっとしゃべってますけど、
ということで、たぶんポリコレなんだろうな、今話しながら思いましたけど、
美術品の捉え方と自分の社会的な社会問題の捉え方みたいなものをどうすべきかみたいなことで
おっしゃっていらっしゃったんだけど、
僕の考えを聞いててちょっと思うことがあったんで撮ってるわけですけど、
やっぱりですね、美術はわかるんだよ。
美術に政治的なメッセージがあるのはわかるよ。
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だけどやっぱりゲルニカはただのゲルニカであってほしいな、やっぱ。
あくまでも差別的な表現があったにせよですよ。
それは美術品だと言い張れば、
もうそれはそれで一応切り離すと、政治的な問題とは。
いや、これはもう美術品だから、
これは社会的な意義なんかはないですよと。
例えば小説はこれは嘘話だってみたいなね。
村上春樹さんが書く小説でですね、村上春樹の小説でですね、
あれやっぱ村上春樹と呼び捨てにする方があれだね。
村上春樹に算付けすると知り合いみたいになっちゃうよね。
本を書く人は僕にとっては神みたいなものなんで、
村上春樹さんという人間は村上春樹、僕は知らないですけども、
僕にとっての村上春樹は村上春樹さんではなくて、
やはり村上春樹という神みたいな一般名称として使わせていただきたいなと。
今思いましたので、ここはあえて村上春樹ね。
この村上春樹の小説というものは、
フィクションとかファンタジーの話なんですけど、
そこにね、何か車の表現があってですね。
そのね、何だかな、忘れちゃった。トランクが違うな。
トランクの開き方かな。それはあれかな。
それ宮崎駿のカリオストロの城だったかな。
何かの開き方が逆だとかって言ったのはカリオストロか。
忘れちゃった。違ったかな。
でもとにかくですね、村上春樹の小説に出てくる場面が現実と違うと言う。
本当はここはこうなんだみたいなことを、
現実の何ていうかな、舞台が現実であったりするからね。
何か非難が、批判というか、非難というかがあって、
それに対して村上春樹さんが、ここはだから反論しているのは人間だからここはさんづけだよね。
村上春樹の小説に対する反論に対して村上春樹さんが、
面白いな。さんづけするとしないとでイメージが違うな。
さんづけするとやっぱり人間だな。
僕のお友達みたいな感じになっちゃう。
さんづけしないとやはりそれは一般名称みたいな近い感じで。
神だったり、ある種の固定的な存在になるんですね。
はい、続き。
村上春樹の小説に対する非難を村上春樹さんが、
違うでしょと。これ小説ですからというようなことをね。
いろんな場面でおっしゃっているような気がするな、何回か見た気がする。
これは小説ですからみたいなね。
宮崎駿映画のカリオストロの、
ボンネットの開き方が現実と違うみたいな言っている人がいたけど、
それも含めてですけど、アニメですからみたいなね。
分かるけど現実っぽく書いてあるから。
これじゃあ村上春樹の小説でイワシが降るとどう説明するんだよ。
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ジョニー・ウォーカーさんはどう説明するのよ。
あくまでもフィクションですよね。
ということで、これは小説ですとかこれは絵画ですといった瞬間に、
ポリティカルコネクトですと少し分離させてやっぱり僕は語るべきかなと。
美術館が自分の存在意義みたいなものを迷って、
ポリティカル的なメッセージを出し始めたっていうことを千切さんがおっしゃってたけど、
それは美術館の立場としては分かるんだけど、
僕は良くないことだと思うんです。
それは人間社会の発展にとって良くないと思う。
ポリティカルコネクトですというのは政治的な正しさというふうに言ったりしますけど、
この政治的な正しさとか正しい正しくないというのはものすごく思維的で時代に依存的でノリなんだよね。
ノリの一色になっちゃうじゃん。
今正しいと思われていることも正しいかどうか分からないわけだから、
それは美術というものはとにかく見て感じるもの。
社会問題とかポリティカルコネクトですというのは考えるもの。
美術品、小説、音楽は感じるもの。
フィールのもの。
そこのフィールの中に何らかの僕らが後にポリティカルな問題を見出したりとか、
後に何かしらの社会的な問題が隠れていたりとかっていうけど、
隠れていると感じているだけのことだからね。
作家がそのつもりで書いたと日記に書いてありますとおっしゃったとしてもですよ。
そんなものはその人がそういうつもりで書いただけのことであって、
物語にはその人の心みたいなものが投影されるので、
思考みたいなものはコントロールできるけれども、
感情みたいなものは投影は止められないものなんですよ。
例えば西野さんとかよくこういうメッセージを込めましたっておっしゃってるけど、
それはそうなんだと思うんです。
それはあの人の意識上の問題としては込めていると思うんだけど、
あの人の無意識化の感情みたいなものは計算されずに入ってくるんだよ、
プペルに例えば。
なんで僕らは彼があそこに込めたメッセージを必ずしも感じ取るのは限らないんですよ。
それがそいつは分かっていないというふうに西野さんは思うかもしれないけど、
それは西野さんが思うだけのことであって、
サッカーは自分の思うように見てほしいかもわからないですけど、
それはさ、シンクの考える思考の部分の話であって、
あとフィールの部分の感じる部分はさ、
それは投影法の話だからこっちがどういうふうに感じるか、
それはもうコントロール不可能で。
で、実は例えばですね、
僕が大好きなバベルという映画があるけれども、
あれは映画監督がどういうメッセージかみたいなことある程度述べていて、
人々は分かり合えないみたいな感じでメッセージをやっているけど、
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僕が見たときはまた別のメッセージを感じ取っているんですよ。
例えば、僕はすごく強く批判されたような気持ちになった。
日本人であることっていうのをずいぶん批判されたような気持ちになりましたけども、
アメリカ人と日本人、あれだ、どうかな、
美容によっては僕自分が日本人だからずいぶん日本人のことを
なんか冷たい、なんていうかな、厳しく書いているなって、
バベルという映画はね。
主演はブラッドピットで、
日本人は何だっけ、役所工事さんとかね、
誰だっけ、忘れちゃった、女の人忘れちゃったけど、
そういう映画がありましたけども、
必ずしても作り手のメッセージが、
メッセージとして伝わるわけじゃないんですよ。
そしてそれは伝わらなかったのが、
伝え方が悪いとかそういう問題じゃなくて、
作り手が込めているメッセージというものが、
意図的に込めているメッセージとか、
無意識でこもってしまうメッセージとかが入ってきて、
みたいなことだと思うので、
ということで、美術品に何らかのメッセージが
こもってしまったり込めたりするのは勝手だとは思うんだけども、
そこは勝手に込めたり、勝手に込められたものであるだけのことであって、
それをどう読み取るかは自由ですけども、
そこをポリティカルコレクトネス的に、
今の物差しで、尺度で決めつけてしまったりとか、
そこを求めてしまう、
正しさみたいなものを求めてしまったら、
僕らは、例えばそれはね、
そんな社会はね、
これちょっと宗教的なことが好きな人は嫌かもしれんというか、
キリスト教的なことが好きな人は嫌かもしれないけど、
そんな世界は聖書が正しいと思っているのと同じバカな世界ですよ、はっきり言って。
そんなものは答えがあると思っている人たちの世界だよ。
それはアホな世界だよ。
知能が低い人たちがやる生き方なんだよ。
そもそも聖書に書いてあることが正しいなんて思うこと自体がおかしいんだよ、
って僕なんかは思っていますけど、
人間の社会というか、
世界には聖書は本当は存在しないんですよ。
あんなものは人間が作ったものですよ。
なので僕らは常に迷って常に考えて常に苦しみながら生きていくしかないと僕は思っているわけですけど、
そこで苦しくて耐えられない人が聖書に逃げるし、
僕からするとそれは捉え方ですからね、
聖書に逃げるし、
あるいは信仰宗教みたいなもっとわかりやすく言ってくれるものに逃げるし、
あるいは昔でいうとジャニーズ、ジャニー・オタンみたいなジャニーズに逃げるし、
あるいは短時間的に逃れられるという存在としては、
東京ディズニーリゾートみたいなアイドリングシステムみたいなものに逃げるし、
あるいは僕の周辺でいうと西野明宏オンラインサロンみたいなものに逃げるし、
あそこには西野明宏さんが言っていることが正しいという物語があるわけで、
あるいは岡田斗司夫さんのサロンに逃げるわけで、
あそこには岡田斗司夫さんが言っていることが正しいという答えがあるわけで、
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僕らはすぐ答えがあるところに逃げたくなる。
それは考えるのが大変だから。
あまりにも考えられない人はそういったところに逃げっぱなしになればいいと思うんだけども、
本当はそれは答えではないんですよ。
それは単なる個人の感想、
それってあなたの感想ですよねの域を出なくて、
それは実は聖書だって同じことであって。
ということで本当は答えなんかないところで迷って暮らさないといけないときに、
メッセージが一つになってしまう。
今の基準のポリティカルコレクトネス、
それ以外は美術品でさえも芸術品でさえも、
要は小説で嘘を言っちゃダメっていう嘘というか、
小説で言っていい嘘は一種類ってことになりますよ、そうすると。
今の基準に乗っかった。
なんかまるでさ、ドラマでさ、
犯人が逃げるのにシートベルトするじゃん、
最近の日本のドラマってね、なんかって言うじゃん。
バカなの?って言うさ。
バカなんですよ。
で、バカ向けに作ってるからですよ、そりゃ。
なんだけどさ、
そういうところにさ、
染まるの嫌だな、
頭使って生きていきたいな、
っていうさ、
で、考えるためにさ、
それもね、やっぱあんまりね、
考える種が少ないとやっぱりね、
相当賢くないと考えられなくなっちゃうから、
はっきり言うと、僕程度の頭脳でも
考えられるような世の中にしてほしい。
それが僕のポジションからの意見になるわけです。
僕よりもね、
頭の良い人はさ、
何もなくたってさ、
コレクトネスの一種類だってさ、
それ以外の可能性を自分の頭の中で構築してさ、
これおかしいなとかさ、
これはこうかなとかさ、
考えることできると思うんですけど、
僕程度の知能だとやっぱり、
何かポリティカルなコレ、
1個だけ出されると、
なかなかそれ以外のことに気づくのは、
なかなか僕としては難しいかなと思って、
そうすると、
もう僕の人生はもう、
なんか、
なんていうかな、
あともう政治を見て、
信じて生きるだけの、
なんかカスみたいなことになっちゃうから、
そういうのは嫌だなと思ってですね、
やっぱりね、
美術品みたいなものの、
政治的な正しさみたいなものは、
絶対に求めちゃダメだって、
思いました。
そんな世界は嫌だなぁと思いましたの、
マッキー。
今日は感想を述べただけで、
もうちょっと着いちゃったので、
さようなり。
じゃあちょっと駐車券を取ってくるか。
いい天気だね。
めちゃくちゃいい天気です。
はい、さようなり。