体験実験型ニュースメディア、ラボトロニカ。 ここは、日常の素朴な疑問から都市の巨大な心理構造までを科学する最前線。
とある日の昼下がり、研究室には友人の結婚とマンション購入をめぐる 熱い議論が漂っていました。
最初に口を開いたのは熱血研究員、塩目。 感情豊かでドジなところもありますが、研究への純粋な情熱は一一倍です。
いやー、友人が念願のマイホームを手に入れたって連絡してきたんですよ。 毎月のローン返済は胃がキリキリ痛むらしいんですけど、
賃貸の頃とは満足度が桁違いだって熱弁されちゃいまして、 壁と天井の厚さが段違いで、隣の物音すら聞こえない圧倒的静寂が手に入ったんだと。
その熱弁に淡々と応じるのは、塩目を支える専属サポートAIロボット、ナギ。 膨大なデータを調薬し、常に冷静沈着な正論で場を切り裂きます。
防音性能の向上は確かに生活の質を直接押し上げます。 それで塩目さんも触発されて引っ越しを検討する気になったのですか?
まさか!僕の部屋はラボから徒歩3分、 家賃38,000円の木造モルタルですよ。 ただ寝に帰るだけの箱ですからね。
通勤時間ゼロこそ至高です。
でも、もしこだてを買うなら、屋上に全自動開閉式の天体観測ドームを作って、 庭には湿度完全管理の熱帯温室を建てたいんですよね。
塩目さん、寝に帰るだけの家に何を壮大な妄想を抱いているのですか? 観測ドームも温室もこの研究所にすべて揃っています。
しかも研究経費で使い放題です。 言ってみれば、あなたはこの巨大施設を我が物顔で賃貸しているようなものですよ。
うっ、身も蓋もない同性論で心を殴られた。
偶の音も出ない正論に打ちのめされた塩目。
その日の夜、少し寂しさを引きずりながら大通りのラーメン屋ののれんをくぐりました。
しかし、醤油ラーメンをすすっていた彼の鼻を、場違いに洗練された高級香水の香りがくすぐります。
引き戸を開けて現れたのは社会人文系シンクタンク、アーバンインサイトの所長黒石。
ふんわりとした茶髪のショートケアに、ぱっちりとした目元、抜群のスタイルを際立たせるミニスカート姿でさっそーと現れた彼女は、
白波所長の大学時代の同級生であり、白波との間には謎の因縁を持つ、仲が良いやら悪いやらの美しき肯定師です。
すいません、大盛りチャーシュー麺、麺固めで。
あら、奇遇ね塩目君。
く、黒石所長、なんでこんなラーメン屋にいるんですか?
あたしだって、ラーメンが食べたくてたまらない夜くらいあるわよ。うちのサテライトオフィスも近所にあるしね。
ねえ、お隣いいかしら?一人で食べるより、かわいい男の子の困った顔を見ながらの方がスープもおいしくなるもの。
からかわないでください。都会派エリートの黒石所長がこんな脂ぎったカウンターに座るなんて、天変地異の前触れですよ。
そんなことで天変地異が起きてたら、地球が何百回滅亡しても足りないわ。
それより塩目君、さっきから深いため息ばっかり。何か悩み事?
家が近所なら私のタワーマンションに寄って行く?長めのいい部屋でじっくり相談に乗ってあげるけれど。
いえ、結構です。昼間に持ち家と賃貸の論争をしていて、ローンを組んで城を買うのか、大人の真の幸せなのかって考えていただけです。
黒石の指先がしおめの膝へ伸びたその瞬間、ラーメン店の引き戸が静かに開きました。
威勢のいい店員の声の隙間を縫って、店内に満ちたのは絶対レイドの霊気。
ラボトロニカの最高責任者にして冷徹なカリスマを誇るSSR級の美貌上司、しらなみ所長の降臨です。
人の部下に安っぽい色仕掛けをするのはやめてもらえるかしら、黒石。
し、しらなみちゃん、なんでこんなラーメン屋に。
別にいいでしょ?近くで重要な契約を済ませてきた帰りよ。
大将、大盛りネギラーメン、背脂ぎっとぎとで。
美貌に反して注文がチャンクすぎる。
黒石、さっきのあなたの不細ストレス分析、なかなか筋が良かったわよ。
え、聞いていたの?
あ、相変わらず隙がなくて綺麗って見惚れてる場合じゃないわ。
ええ、所有の満足度を殺す最大の要因は不動産そのものではなく、過大な住宅ローンという持続的不細にある。
極めて科学的で妥当な結論ね。
数字が自分に降りかかるまで想像力が鈍化するのが大衆の心理的欠陥よ。
でしょ?感情よりも理性とデータを優先するべきなのよ。
希望とデータが相反するときに希望を取るから破綻するの。
過剰な不細を抱えずに資産の流動性を保つのが真に賢い大人の生き方よ。
ええ、その通り。
だから私も南暴走と九州の防波堤まで徒歩10分の中古こだてを2件、先ほど一括キャッシュで購入してきたわ。
これで住宅ローンによるストレス値は完全なゼロ。
所有の恩恵だけを100%享受できるわね。
強すぎる。ローン対賃貸の論争を圧倒的資本力の一撃で消滅させた?
ちょっと白波ちゃん、庶民の葛藤論争を身も蓋もないパワープレイで殴り倒さないでよ。
何を言っているの。実家の太さで言えばあなたの方が私よりはるかに潤沢でしょうに。
しおめ、こいつの実家は国内最大手の中島財。
ダメダメ、白波ちゃんストップ。私は家柄とは無関係に地力でシンクタンクを立ち上げて戦ってるんだからそこは絶対に秘密。
中島財閥?あの日本を代表する超巨大コンツェルン?黒石所長ってガチの超特大お嬢様だったんですか?そんな人がカウンターでチャーシュー麺を?
ああバレちゃった。黒石は母方の旧姓なのよ。白波ちゃんバラした罰として学生時代にあなたが私に冷たく超傲慢なセリフであれしてこれしてくれたのをしおめ君に全部暴露してあげるから。
昔の話を蒸し返すのは非論理的よ。大将、チャーシュー追加で。
あれとかこれとかって知りたいような、知ったら最後のような、なんだか国家規模の教者たちの修羅場に巻き込まれている気がする。助けてなき君。
見栄と生存不安、そして過大なローンがもたらす幸福度の減衰。データが浮き彫りにする残酷な現実の前に確かなのは身の丈に合わない不才こそが人の自由を奪うという真理でした。
賑やかなカウンターの片隅で二人の妻女の火花を見つめながら夜は更けていきます。今回はここまで。それではまた次回、新しいデータとともにお会いしましょう。
このポッドキャストはデータと風景の間を描くウェブマガジンラボトロニカの提供でお送りしました。