大切フードを大切にしすぎて大切じゃなくなった時に無理やり食べてきた。
もちろん、好きなものも最後に食べる。トイレも済ませて、手洗いして、色々片付けた後、そのくらい、本当に最後の最後の最後。
一食の物語のフィナーレを優雅に飾りたいと願ってきた。
大好きなガストの「チーズインハンバーグ」の食べ方ルーティンは、まず外側の楕円を少しずつ削ぎ落とし、中心の「チーズ密度の最も高い四角形」を聖域として最後まで守り抜く。
しかし、いざその聖域に箸を入れる頃、私の大好きなチーズは、時の流れと共に冷え固まり、もはや「これってチーズだったっけな」と首を傾げるほどの無機質な塊へと変貌している。
私の「家」と呼んでいるほど愛している「しゃぶ葉」でも、同じ過ちを繰り返す。
せっかくのしゃぶしゃぶ食べ放題でも、ケチを発揮し、お肉3皿限定というストイックなプランを選び、その貴重な3枚を最後のフィナーレにとっておくのだ。
しかし、肉を温存している間に野菜やカレーで胃袋はパンパンに膨れ上がる。
結局、最後には「いかに肉を小さくするか」という、もはやしゃぶしゃぶへの冒涜とも言えるほど湯がきまくったボロボロの肉片を、苦し紛れに胃へ押し込む。
最初にお肉をしゃぶしゃぶすれば、そのエキスが鍋全体に広がり、後から入れる野菜たちをもっと美味しくしてくれたはずなのだ。チーズも、とろけているうちに食べれば、それは間違いなく「チーズ」として生を全うできたはずなのだ。大切だからって大切にしすぎるのが正しいってわけじゃないことを子育て本にも書いてありそう(知らんけど)
「大切にしよう」という決意は、時に食べ物を「泣き散らかした後の肌」のようなパサパサの状態へと追いやってしまう。
冬の間、撫でるだけで決して剥かなかったみかん。救急救命のつもりで慌てて剥いたときには、水分は逃げ出し、口に残る皮だけが「遅すぎたよ」と私を責める。
イチゴにしてもそうだ。真っ赤な肌に白い綿(カビ)が生えたとき、YouTubeの知識は「根っこまで腐っているから捨てろ」と警告する。けれど、イチゴという尊い存在を前にすると、私の脳は「そこだけ切り取れば大丈夫」という都合のいい嘘を信じ込んでしまう。追熟しない彼らにとって、「今この瞬間」こそが全盛期なのに、私は目が慣れるまで眺めていたいというエゴで、彼らの命を枯らしてしまうのだ。
そんな、結局あらゆる色を無駄にしてしまう悲しい私に、「シャインマスカットを真っ先に食べていいんだよ」と言ってくれた人がいた。
「自分を喜ばせれば、また新しいマスカットがやってくる。それ以上の喜びが舞い降りてくるから、遠慮せずに食べていい」
その言葉は、私にとっての「許可証」だった。自分には忍者めしの硬いグミがお似合いだと思い込んでいた私に、宝石のような果実を真っ先に味わう資格があるのだと教えてくれた。
食後、満腹になれば人は誰しも少しだけ頭がおかしくなり、紙飛行機を折るだけで楽しくなれる。だからこそ、最後のフィナーレを豪華にする必要なんてないのかもしれない。最初に最高の記憶を刻みつけ、最後はどうでもいい…?からこそ、満腹という幸せな「ぼんやり」の中で終わればそれでいいのだ。確かに最初の方が味覚も冴えてる気がするよ。
好きなものを、好きなときに。大切に思うからこそ、その命が輝いているうちに私の血肉にする。それが、大切フードへの一番の報いなのだと、今は強く信じている。
【食い意地ラジオについて】
9/14 、くいしんぼうの日に生まれた私は日々食べ物や食事の時間を抱きしめて過ごしています。食に対して毎日真剣に、全力で、血眼で向き合った結果、食事を睨むくらい食い意地が止まらなくなってしまい、1日中食のことしか考えられなくなってしまいました。そしてなんでも食べるようになってしまいました。食いしん坊がただ自由に暑苦しく、うざったく、食への愛と食い意地を爆発させているラジオです。
自我強くてごめん。
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