1. 近藤ナオという生き物
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2025-02-21 16:47

#46「僕も含めて世界中の人達が釈然として生きていける世の中をつくるために始めた100種類の事②-⑧」

2種類目は「お金がなくてもある程度、快適に暮らせるビレッジ(場所)を作る事」。網膜剥離の原因になったタンザニアで車で横転した話と発起人の僕がいなくても日本のビレッジ作りがドンドン進んだ話

サマリー

このエピソードでは、近藤ナオがタンザニアでの体験や視力の手術について話しています。特に、交通事故による目の怪我とその治療過程、目の回復に向けた挑戦について詳しく説明しています。また、日本の南伊豆でのビレッジ作りでは、参加メンバーが協力し合って迅速に進んでいる様子が描かれています。特に、高齢者の住まいの整理や空き家問題に対する具体的な取り組みについても語られています。

タンザニアでのビレッジ計画
こんにちは、近藤ナオです。今日は、近藤ナオという生き物の第46回のお話をさせてもらえたらなと思っています。
今話しているのは、僕も含めて世界中の人たちが釈然として生きていける世の中を作るために始めた100個のことというか、
100個も始めていないんですけど、というので話をさせてもらって、今2個目の話をしていて、
その2個目の話から、タンザニアでまず、何かあった時には0円でも暮らしていけるようなビレッジを作るというのをタンザニアで始めて、
日本でも始めてという話をしていて、でも日本で始めた初日に僕がいなかったという話から、ちょっと脱線している話になっちゃっているんですけど、
何でかというと、タンザニアで一人で土の道を走っていたら、車の左前のタイヤがパンクして180度ぐるって回転して、
その時に左の目の上ぐらいを車の一回転、半回転したんで、それで頭を天井に打ったというので、多分その衝撃で、
左の方を打ってたから左目の方が余計、その時のショックで網膜が剥がれちゃって、でも右目もある程度ダメージを受けてたみたいで、
右目も角利になっていたっていうのが多分それ以外ちょっと考えられないんで、それが9月ぐらいの話で、12月ぐらいになってくって、
だんだんだんだん左目がちょっと本当に白くもやがかかってきて、これ何なんだろうっていうか疲れてるだけかなとか自作ボケかなとかみたいな国の移動も多かったからぐらいに思ってたんだけど、
さすがにやばいなって思って年末病院に行ったっていう話を今してるんですけど、その中でタンザニアで横転した後、
その車をタンザニアの経済の首都のダルウェスサラムの車の工場っていうのかな、修理工場、日本人の友達がやってる中古車屋であり中古車修理工場みたいなところがあって、
車持っていくと安心だなと思って、それでレッカーを頼んだら、レッカーなんて本格的にやってる会社とかはないので、
その辺で車持ってる人がかつ5万円とかもらえるんだったらもうやりたいみたいな感じで手を挙げてくれた乗用車が来てロープで引っ張られたっていう話だったんですけど、
ロープはすぐに切れてしょうがないからその辺に生えている木を切って、木の太い枝みたいなもので車を引っ張って、
それで砂の道はそれで乗り切ったんですけど、アスファルトの道に出てきたっていう話までしていて、アスファルトのところまで出てきて、
今後木が折れたらすぐに木を調達できないなって思ったのが、その辺で鉄工をやってる人を探し始めるんですよね次は。
鉄の溶接ができるところを探してたから、まずは鉄を買おうみたいな感じで鉄の棒をまずゲットして、
ゲットした後溶接ができる人を探し始めて、溶接できるところに行って鉄のところに2つのフックを付けさせるみたいな感じで、
その場ですぐに作れる人を探して発注するっていうのがなかなか態度としては面白いというか素晴らしいなと思って見てたんですけど、
それで結局1時間ぐらいかかったら鉄製のものが出来上がって、それを繋いでアスファルトの道は比較的快適に進み始めました。
アスファルトの道から普通に走れたら2時間ぐらいって感じなので、まだまだレッカーなんですごいタラタラ走り続けるんでめっちゃ時間かかるんですけど、
途中で急ブレーキをしちゃった時があって前の車が、それで僕の車がガンって荷重がかかった時に鉄の棒がグニって曲がるんですよね。
曲がったまま行くかみたいな、これを強引に直したら折れるんじゃねえかって思ったのか彼らは。
結局直さないままそれでダラダラダラダラ行くけど、曲がっちゃってるからたまに下向きに曲がっちゃったからそれがコンコンコンコンアスファルトの道路に当たり続けて、
いつかこれは壊れるんじゃないかっていう感じでコンコンコンコン音がし続けるみたいな感じになってくるんですけど、
それでも何とかレッカー始まって修理工場にたどり着くのに多分10時間ぐらいはかかったかなっていう感じなんですけど、
視力回復と人生の挑戦
何とか無事に工場に着けてお金払ってダレスラムの方にある僕が友達たちと経営してるコーリビングの方に何とかたどり着いたっていう感じだったんですけど、
それが原因で多分幕白になっていて、それで12月28日に大阪の大学病院の最終営業日に朝から並んで、
そしたら先生が今日は手術してあげるから夕方まで待っててって言われて、それで緊急手術してすぐ入院になったっていう感じなんですけど、
もともとは12月28日に左目の手術をして、その後1月5日ぐらいまで待って左目がある程度見えるようにならないと、
右目すぐ手術しちゃうと両目がまじで見えない生活になっちゃうので、本当病院の中でもかなり暮らしづらいよっていうことで、
4日間とか明けてから手術みたいな感じで長いなと思いながらだったんですけど、
左目の手術が終わった後に僕がタンザニアでこういうことやってるとか、世界中で何かやってるっていう話とかを先生と話をしてたりとか、
あと手術中も網膜薄離って全身麻酔じゃないので喋れるんですよね。
その先生、関西の人だからなのかわかんないですけど手術中とかも結構喋りかけてきたりするんで、
手術自体も2時間とか結構長かった気がするんで、その間僕の話をいろいろいろいろしてて、
28日手術終わって29日に近藤さんちょっと左目どんぐらい見えるとか言って、下の方だけ本当にちょっと見えますみたいな、
下って言っても本当に自分の足の先、真っ直ぐ立ってると足の先から20センチぐらいしか見えてないみたいな状態だったんですけど、
それぐらい見えてたらギリギリトイレとか行けるかなみたいなこととか言われて、
近藤さんは長い間病院に入れておくと危ないっていうか無茶しそうなタイプだよねみたいな、
あとは近藤さんみたいな人は早くなるべく世の中に戻してあげたほうがいいかなと思ってきたから、
もうそれぐらいしか見えてない状況でもいいなら明日右目の手術もやってあげようかって言われて、
そういう点あるんだみたいな感じで、12月の30日かな先生は出てきてくれる、やってあげるよみたいな形で、
めっちゃ俺のことわかってくれたんだなと思って、もちろんやりますみたいな感じで30日に右目の手術もしてもらって、
そうするとそこからまた8日間ずっと下を見続けるっていうのはまた続くので、
1月の5日か6日ぐらいまではもうずっと拝み続けるっていう感じで、
ご飯食べる時も下向いて食べれるように立って低いテーブルで食べさせられるみたいな感じでご飯も食べてたりとかしてて、
ただ下向くと辛いって思っちゃうから、せっかく年末年始だし10日間祈り続けるっていう設定にしようと思って、
年末年始祈り続けますって人には言ったか忘れちゃったんだけど自分にも言い聞かせて、
すごいゆっくりゆっくりって言ってもめっちゃ下向いてるから辛いんだけど、目も見えないからスマホとかもテレビとかも見えないので、
その時に助かったのがポッドキャストの存在でしたね。
なのでポッドキャストをずっと聞いてて、特にずっと聞きたかったけどなかなか時間が取れなかったので、
あの時はコテンラジオが一回いろいろ聞きたい回を気になってるのがいろいろあったので、コテンラジオをめっちゃ聞けて、
すごい勉強になったし本当にこの人たちすごいなと思いながらポッドキャストに助けていただきました。
それで目が見えるようになってきたっていうか1月5日6日ぐらいから下向くのは確か解禁されたような気が、
もっと長かったのか何か忘れちゃったんだけど、それで結局1月の11日とか12日とか予定よりも1週間ぐらいは早く退院をさせてもらえたんだけど、
でもまだ全然視力は落ち着かないのでなんかぼやぼやするし、
45年間、44年間か付き合ってきた視力がいきなり両目の視力がめっちゃ変わったので、
すごい付き合いづらいし右目と特に左目が視力がほとんど戻んなかったので、
左目めちゃくちゃ目が悪かったんですけどそれももっと悪くなって固定されちゃって、
右目のほうが見えちゃうからガチャ目っていうかなんかわかんないですけど、
なのでめちゃめちゃ生活もしづらくてっていう状況で、そんな状況でビレッジに戻って整理もされてない自然のところで木切ったりとか整備するとかっていうのはかなり過酷だったし、
ビレッジ作りの進行
手術して1ヶ月2ヶ月とかは目に傷がついている状況だから目にゴミが入ったりするのとか本当に危険だから、
そういうところ行ってホコリだったり木の粉とかが本当に目に入らないようにしなよっていうか行っちゃダメだよってめっちゃ注意されてたんですけど、
案の定作業はしないという約束で1月20日ぐらいに僕は日本の南伊豆のビレッジには行ってしまうんですけど、
でも本当全然作業とかは全然できなくて、でもその時にめちゃくちゃびっくりしたのが1月5日から一応みんなで山を買ってやる気のある人たちで集まって作業を始めたけど、
ホッキ人といえば僕がホッキ人みたいな形だったので、僕がいない状態でどれぐらい活動が進むのかっていうのは自分の中で全然わからなかったんですけど、
もうめちゃめちゃ進んでて本当にあれは感動しましたね。
本当僕全然リーダーとかではないし、リーダーのない世の中みたいなものとかを作っていきたいって思いもあったので本当に嬉しかったですね。
そこで一緒に住み込んだメンバーのうち4人はタンザニアの方のビレッジ作りも一緒にやってくれた人たちだったからノリもわかってるし、
タンザニアより日本だし言葉通じるし楽だよねみたいなのも含めてガンガン進んでいったのは本当に感動しましたね。
でも日本のビレッジ作りの場合で小民家とかがついてる場合って最初掃除から始まるんですよね。
タンザニアとかはもう何のインフラもない土地を買ったのでもう全部ある種片付いてるというかだからもう作っていくことからできるんですけど、
日本の場合ってだいたい古い家って女性の方が寿命が長いのでおばあちゃんが最後一人暮らしをするっていうケースが多いなと思っていて、
おばあちゃんが捨てられなくてどんどん物を溜め込んだり段ボールとかお菓子の箱とかそういうのもどんどん溜まっていく家とか本当に多いと思うんですけど、
溜めに溜めでいつか片付けなきゃとかで実家に子供とか帰ってきてもガンガン片付けるわけにいかないからおばあちゃん生きてるしみたいな感じで、
そうするといきなりおばあちゃんは超体調悪くなっていきなり病院に行って入院してもう家に帰ってこなくなるみたいなケースがすごい多いので、
だからだいたいおばあちゃんからすると大事なものたちばっかりだったと思うんですけど、僕らから見るとゴミ屋敷状態じゃないですけど本当に部屋数でいったら6部屋7部屋、
クラム入れても7部屋ぐらいあったかな、そこがベッドのところ以外はほとんど物だらけみたいな家になっちゃってたので、
それをまずガンガン顔片付けて、売れるものっていうか、このフィギュアとかこの人形はいくらとかって売れるものっていうよりは鉄は売れるので、
鉄と銅線を分けて素材を売るみたいな感じですね。
理想はそこで一個一個メルカリとかにアップして売れたらお金も手に入るしいいなと思ったんですけど、
それはやっぱりもうめんどくさいし、本当にやるのが得意な人がいたらやってくれたらよかったけど、なかなかめんどくさい行為だったので、
もうそれはいたメンバーたちの判断としてはもうそれはやらずに売れそうな素材だけはなるべく分けて、
薪になるっていうか燃料になりそうな木のものたちは燃やすようにして、それで料理作ったりとかしようっていうので、
それ以外の売れないものたちっていうのは近くの産業廃棄物処理場に持って行って、
1キロが何キロいくらみたいな感じで処理代を払って引き取ってもらうみたいな形でどんどんやって、
まずマイナスっていうかある荷物をなくしてゼロの状態に持って行くっていうところまでの作業が、
日本の空き家を買ったりした時のケースにたまにある状況なんじゃないかなと思ってます。
特に最後、おばあちゃんとかが最後住んでたみたいなところは本当に荷物の量が多いっていうのをよく聞きますよね。
それでまずどんどん、
それはやっぱり住み込みでやってるから本当に作業が早いっていう部分もありますね。
起きた瞬間からとかやりたければ作業はすればいいし、寝ずにやりたければやればいいしとか、
現場に住んでるってすごいなっていうのもまた感じたんですけど、
それで僕が行った1月5日に住み始めて、そこから2週間後ぐらいにはほとんど物がないっていう状態まで行って、
空き家問題の取り組み
少しずつこのクリエーションのフェーズにもなってきていて、すごいなと思って見てました。
またこれ長くなってきたので、日本のビレッジ作りの話はまた次回に続けます。
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