00:00
ちょっと前に約束をしたんだけど、約束の直前になるとすごくこう、めんどくさくなってしまうみたいな経験したことある方いませんかね?
でも言ったら楽しいんだけどね。もうそんな迷ってるの忘れるくらい、
言ってよかったーって、けろっと変わっちゃうんだけど、なんかその直前になるとしんどくなったりとか、なんならこう仕事とかでもね、
できれば最初の取り決めとかルールみたいなのってあんまり設定したくないんですよね。一般的な言葉で言うと、約束をなかなか守れないっていう風に言うんだと思うんです。
守れないって言うとさ、ちょっとこう偉そう、守れよって話しちゃうんで偉そうなんですけど、実際はそんな偉そうとかじゃなく、
あざとかったりとか、寂しい自分の部分だなって思うんですよ。で、まあこれもなんでかっていろいろこう自分で考えたんですよね。
何しろ、僕自身約束守られないっていうことに対して、約束破られちゃうみたいなことに対して、全然嫌な気持ちになるっていうことが多分経験としてないんですよ、あんまり。
友達が急に予定変えても、それこそさ、僕がちょっと今日だるいなーって思った経験あるってことは、多分友達もそうなんだよ。
で、急に予定を変えたみたいな、ちょっとやめないとかさ、だるいからやめないとか、ちょっと用事できたからまた今度でもいいみたいなのとか、
もっと言うと、仕事の中とかでも治療の予約入ってて、クライアントからキャンセルの通知が入ったりとか、
中にはね、手入れにこういう訳があって、ちょっと移動してもらいたいみたいな風にお連絡いただける方もいらっしゃいますけど、
全然気にならないんですよ。何ならその時間に来なかったとしても、キャンセルの連絡入ってなくてもね、
全然気にならなくて、気にすることができなくて、何なら何か事故ったのかなとか、
何かに巻き込まれてるんじゃないかってちょっと心配になるくらいなんですよ。
だからそういう意味では連絡してもらえると安心なんだけど、
なんか今の時代感として仕事しながら、社会人として、
ダメだなっていうのは重々承知なんですけど、
03:05
それこそ予約入ったものに対してちゃんとお客さんを追ってかなきゃいけないとかさ、
キャンセル料ちゃんといただかないとそれはダメだよとかっていうようなことを言っていただいたこともあるんですけど、
もしかしたら子供時代にこう、男とはみたいな、どうすると構えてて余裕持ってんのかっこいいんだぞみたいな、
そういう教育論みたいなものも影響があるのかもしれないです。
約束が守られなかったとしても、
でもさ、自分が約束を破るときってのはかっこよくないじゃないですか。
全然。
実際にそうなんですよ。
ごめーんとか言いながら、
実際はあんまり多分気にできてないんですよね。
相手が怒ってないかな、大丈夫かな、このくらい、
こういうさもしい意識が向いてる、戸足ですよね。
この性質っていうのが自分で自覚もあって、
幸いそういう環境的な、職業的な特性も相まって、
組織っていうのを作らず、組織に属さず今は自分一人で活動をしているわけです。
雇用とかするされるとか、
その組織のルールみたいなのはできるだけ取り付けたくないんですよね。
正確に言うと、それを取り付けちゃうと、
約束の方に自分含めてみんなが合わせなきゃいけなくなるじゃないですか。
迷惑かけてしまうし、
だからその約束ごと、ルールごとっていうのをなるべく少なくして、
できればその時その時のみんなの感覚っていうところで過ごしていきたい。
このルールがあるから、この約束守んなきゃって思う時の、
胸がキュッとなるような嫌な感じね。
あの不快な感じを避けて生きてる。
それがお互いのためなのかなとも思ってるんですよ。
もちろんこれは褒められた話ではないし、
ある人から見たら最低だなって思うと思う。
ただ、この自分のある種欠陥について考えた時に、
ちょうど読み返した本が目に入ったんですよね。
養老武先生のバカの壁っていう本。
皆さんもご存知の人多いかなと思います。
2003年に書かれた本だそうなんですよね。
今からだから20年以上前だよね。
06:00
ここで養老先生がこういう風に言ってます。
彼らは自分、アイデンティティとか性格っていうのは
変わらないものだと思い込んでると。
一方で情報とか約束っていうのは変わるものだと思ってるんだって。
自分は普遍で約束の方が可変であると。
情報の方が可変だと。
だから平気で約束を破れる若者が増えてるっていう風に
言われてたんですね。
万物留天、情報不変。
養老先生はこの言葉で本来の順序を示していました。
体を含む万物っていうのは流れて変わっていくんだと。
情報の方がむしろ変わらないのであると。
一度書かれた数式は変わらない。
法則は変わらない。
約束も書いた瞬間から変わらないし
変わるのはそれを書いた人間の方だっていう風に言ってる。
ところが現代人はそれを逆にしてるんだと。
自分は変わらないもので情報は変わるものだっていう風に言っているんです。
なんでこの逆転が起きるのかって養老先生に言わせると
それは意識の性質によるって言うんですね。
意識は同じっていうものを好むと。
昨日の自分と今日の自分は同じ人間だっていう風に思いたがる。
一方で体の感覚っていうのは常に違いを拾っています。
差異を拾ってそれを知覚として僕らは認識してるんですよね。
今日の方と昨日の方は違うわけです。
今朝の呼吸は昨日の呼吸とは違うわけだ。
感覚はずっと変わったっていう風に言ってるんだけど
意識がそれを同じに塗り替えてしまうんですね。
型っていうのはこういうもんだと。
そうやって自分っていう意識を固定して
約束っていう情報を軽くしてるんじゃないかっていう風に言ってたわけです。
養老先生のこの切り口っていうのはさすがだなと思うわけです。
僕も大好きなんですけどね。
ただここに関しては僕ちょっと違う見方、
言い方っていうのもできるんじゃないかなと思ったわけです。
僕が約束を守らない、守れないっていうのは
情報が変わると思ってるからじゃないんですよ。
自分も友達もクライアントの方も
変わるものだっていう風に感じているからなんですよね。
昨日の自分と今日の自分は違うと
体が違ければ
朝起きた時の肩の感触が違う。
寒い日と暖かい日では呼吸の深さも違うし
一本の針を打った後の指先の感覚っていうのと
09:00
1日10人とか見た後の指先の感度っていうのは
まるで別物なんですよね。
僕は毎日自分自身の体の感覚っていうのを
仕事の中でもあるし、自分の趣味だったりっていうのもあるし
結構繊細に意識を向けている方だと思います。
だからすごく回想度は高く感じているんですよね。
日々自分の体の変化っていうもの。
おそらくみんなもそうだと思います。
自分が変わるから約束が変わるのは当然じゃないかなと思うんですよね。
だってそれを取り付けたのは自分だからね。
人だから、友達だから、クライアントだから。
友人の気は変わるし、クライアントの気も予定ができたり
仕事の進み具合によっても、下経周期によっても変わるかもしれない。
予想外に疲れることもあるし、もっと行きたい予定ができるってこともありますよね。
そっちを優先してもらった方が
友人とかクライアントのことを好きな僕としては何ら違和感がないわけです。
例えば沖縄にはウチナタイムとかっていうような時間間隔っていうのがあるらしいですよね。
僕も沖縄に住んだことはないんですけど
前にインターンしたところの節骨院の先生のつながりで
沖縄で節骨院やってる先生のところに一緒に遊びに行かせていただいたことがあって
そこで会う方々、特にタクシーとかが一番は
あとそのお店で流れる時間とかね
一緒に行ってくださった方、案内してくださった現地の節骨院の先生とか
その時間の流れ方っていうのはやっぱり違うなと思いました。
遠くでだいぶのんびりしてる方なのかもしれないけど
それでもやっぱり違う。本当にゆったりしてる。余裕があるっていうんですかね。
で、そのウチナタイムっていうのも実際によく話を聞いたりして
約束の時間に30分1時間遅れることそんな珍しいことじゃないよと
テレビ番組でもよくやったりしてますよね。
あれはちょっと誇張してるってその先生は言ってたけどね。
でもまあ全然30分1時間遅れるってなったら結構大変じゃないですか。
こっちの感覚、僕の感覚でもそうだと思いますよ。
本土の人間からするとそれがルーズに見えるかもしれないと。
でも沖縄で暮らしてる人たちの中では
それで関係が壊れるっていうことはないそうなんですよね。
来たら来たで始まると。
来なければ来なかったでまた今度。
12:03
そこには約束とかルールっていうよりも
今この瞬間の体の状態を優先してもいいっていうような
暗黙の了解があるわけです。
怒らないし責めないしだから相手も無理をしないと。
これにルーズとかだらしないっていう言葉を当てるのは
ちょっと乱暴だと思うんですよね。
これはだらしないんではなくて
お互いが変わるものだっていう前提を共有してるから成り立つ
ある種の繋がり。
かっこいい言葉で言うと絆とか
友情という風に言ってもいいかもしれない。
養老先生はアイデンティティを固定して
約束を軽んじるっていうような賑を批判している。
ちょっとこれ僕は少し違う場所に立ってて
自分もまた流れるものだっていうような
身体的実感がある。
だからこそ約束も流れると。
それだけのことなんじゃないかなとも思うわけです。
ここで引用してみるのが
カモチョウメ。
ホウジョウキです。
ホウジョウキって名前聞いたことある方いますよね。
僕も全部は読んだことないんですけど
有名な一文の中で
ゆく川の流れは絶えずして
しかも元の水にあらず
淀みに浮かぶ歌方は
かつ消えかつ結びて
久しくとどまりたる礼なし。
すごく有名な一節なんですけど
これってすごく身体性が現れた
言葉だなと思ったんですよ。
このチョウメっていうのは
単に無情を嘆いたわけではなくて
チョウメ自身が社会的な約束を手放した人だったと。
鴨川神社のみそぎの後ね
継承?
いいとこの生まれだったんですよね。
その後その地位を万全に
万尺に継いでいくはずだったんだけれども
この宮廷歌神としての地位を失ってしまった。
いろいろ一節によると
いろんな親族の反対だとか
追いやられたみたいな状態だったみたいですけどね。
そういう地位を失って
最終的に3メートル四方くらいの
家に一人で住んだそうなんです。
だから社会的な役割っていうのはほとんど持ってないんですよね。
身体だけの人って言ってもいいかもしれないし
今の言葉で言うと引きこもりとかニートとか
寄捨て人っていう風に言っていいかもしれません。
包条記っていうのは
15:01
中途半端なダメ人間なんです私はっていうような自覚を持って
全部を書かれてるっていう風に言われてるんですよね。
僕も全部は読んでないんですけど見た時に
その謙遜さというか卑屈さじゃないんですよね。
卑屈さではないんだけど
私はこういう人間でダメな奴だからっていうような
その姿勢っていうのは確かに感じました。
だけどこの蝶名、カム蝶名は
その包条の庵っていうところ、家で
いろいろ身体を動かしたり山を歩いたり
自然と交わっているんですよね。
それが包条記として残されているわけです。
約束も地位もない場所で
ある種身体だけが残ったっていう見方ができる。
そこで蝶名が見て感じてたものっていうのが
万物が流転する風景、流転する風景。
川の水が流れていくとか
泡が出来上がっては消えていく、泡沫。
煙が上がって消えていく。
この万物が流れていく風景そのものだったわけです。
ここからいろいろ派生していくと面白くて
行く川の流れ、この川の流れみたいなところで
そのいろんなものは僕らは流れていくんだよ
っていうものを表したものって西洋にもあるんですよ。
紀元前5世紀のギリシア哲学の
ヘラクレイトス、名前は聞いたことあるかもしれませんね。
同じ川に二度入ることはできないっていう風に語ったとされています。
同じ川に二度入ることはできない。
同じ川、例えば僕の地元だと
阿部熊川っていうのがありますけど
阿部熊川っていう名前は変わらないんだけど
そこを流れている水っていうのは
ただの一度も同じ瞬間っていうのはないんですよね。
そういう意味では同じ川に二度入ることはできないっていうのは
ピンとくるわけです。
この思想っていうのは
パンタレイっていう言葉で伝えられています。
万物は流れていく。パンタレイ。
ヨロタケ先生が万物留天と書いたときに
その源流っていうのはもしかしたらここから始まっているかもしれません。
おそらくもっと前からこの感覚っていうのはあったんだろうけどね。
東も西も今も昔も変わらずに
体が変わるってことを
川の流れで語った人たちがいたと。
ただこの万物は流れるんだ。パンタレイを知ったところで
僕らの生活ってのはそう簡単には変わりません。
なぜなら約束っていうのは流れない。
18:00
意識の側っていうところに属しているからです。
決め事だからね。
そしてこの約束を守る守らないっていう
この問い方そのものが
ある特定の枠組みに僕たちを閉じ込めていること
があるんじゃないかなと思うわけです。
哲学者の国文広一郎先生っていう方が
2017年に出した中道体の世界っていう本です。
意思と責任の考古学っていう本。
なんかコアで見ると難しそうな本だね。
見ると実際読みやすくて面白かったです。
私にとって補助線っていうよりも
地面がグラっと揺れるような本でした。
国文先生は東京大学で哲学を教えています。
スピノザっていう方を専門とする人で
小林秀夫賞っていうのを受けている。
名長ですよね、いわゆる。
僕たちの言語と思考っていうのを根底から問い直しています。
国文先生が掘り起こしたのは古代ギリシャ語にあった
中道体っていうような文法形式です。
現代の言語には能動体と受動体っていうのがある。
能動体っていうのは自分がする側ってことです。
する方ってことね。
私が約束を守るっていう方。
受動体っていうのは受ける側です。
約束が守られる。
このするかされるかっていう二項対立が
僕らの当たり前の思考の文法としてあるんですよね。
だけどこの古代ギリシャにあった
中道体っていうのは
能動体と受動体だけじゃなくて
その能動体と中道体の対立があった。
っていう風に言われています。
国文先生はアリストテレスとかスピノザの読解っていうのを通じて
この失われた当たり前の感覚
正確に言うとその文法形式っていうものを掘り起こしていっています。
能動体っていうのは行為は主語から出発して外に向かう。
約束は私が守る。私が約束を守る。
行為っていうのは私の意思から始まって
約束という対象に到達すると。
約束のために能動的に動いていく。
ところが中道体っていうのでは
過程が主語の中で展開する。
つまり変化が私の中で起きているっていう風に言うわけです。
私がそれを起こしたのでもなく
外からそうされたのでもなく
この両方のプロセスが私という場で
繰り広げられているっていう風に言うんですね。
21:01
つまりざっくりちょっと乱暴かもしれないけど
ざっくり言うとそうなるべくしてなるんだっていうことなんですよ。
中道体の構えっていうのは。
この区別っていうのは約束をめぐる
この僕の罪悪感みたいなものっていうのを
なんか的確に言い当ててる気がしたんですね。
僕は約束を守らない。
ある種の能動的な脅威ですよね。守らん。
って言ってるわけでもないし
守れない。中道体。
受動的無力。受ける側として
できないっていう風に言ってるわけでもないんですよ。
自分の中で何かが変わっていって
もちろんその自分を含む自分っていうのは
僕だけじゃなくて周りとか他の環境も含めた
自分っていうことね。
これらが全部一緒くたになって変わっていって
その結果として約束との関係が変わっていくと。
それだけのことなんじゃないかなとも思うわけです。
石で守るぞと決めたことだから
守るんだっていう風に決めたわけでもない。
能動的なわけでもない。
石が弱くて守れなかった。
申し訳ないっていう
受動的な無力っていうわけでもないわけ。
正しく言うと両方あるし
それだけでもないっていうことなんですよね。
体の中で起きた変化っていうのが
その約束っていうものとの
輪郭っていうのをぼやかしていくような。
国文先生はこの中導体っていうものが消滅したものと
僕らの現代を生きる僕たちにとっては
すごく馴染みがある意思
気合とか決めたからやるんだっていうような意思
その誕生っていうのが連動しているんじゃないか
っていうことを論じているわけです。
この中導体っていうものが言語から消えていく過程で
人間は行為を意思によって説明するようになったと。
あなたがそうしたんだからあなたに責任がある。
僕らにとっては当たり前にこう受け取れる文章ですけど
この論理っていうのは能動と中導っていう
この二項対立がなければ成立しないんですよね。
意思があるってことはそこに責任があると。
責任があるから約束を守らなければいけない。
ここに一つ答えがあるようにも思います。
現代社会が約束に固執するのは
それを頼りに回っているっていうのは
約束が意思と責任の体系に組み込まれているからなんですよね。
約束を守るってことは
ある種意思の強さの証であって
24:02
守らないっていうことは意思の弱さの証とされる。
社会的な評価に紐づいているわけです。
でも私たちの体、無意識っていうのは
その意思の中にはいないんですよね。
ここで少し臨床、僕の臨床の話を引き合いに出します。
臨床の中でクライアントの方の体に触れているときに
いろんなことがあります。
硬かった、ガッチガチだった方が
僕が意図的にもうクリティカルにここだって
飛行をついたわけでもないのに
ふっと緩む瞬間があったりするんですよ。
クライアントも力を抜こうと
意識したわけでもないその時はね。
ただ手のひらが触れていて、呼吸していて、
時間が流れていて、いろんな会話をしていて
その中で何かが緩んでいくんです。
特定のこの会話をしたから
この会話の時になると体緩むのかな。
もしかしたらこのツボを押したから
この筋肉をこういうふうにアプローチしたから
なるのかな。
いろんな要因は考えられるんだけど
その要因一つを再現したところで
もう一回緩むわけではなかったりもするんです。
もちろん有力な手がかりにはなるんだけれども
一個だけではないですよね。
つまりこの緩む、この肩が緩んだっていうのは
能動でも受動でもないわけです。
クライアントが緩めた、能動的に緩めたわけでもなく
僕が緩めさせた、クライアントが受動的に緩んだ
というわけでもない。
この過程っていうもの、この変化っていうものが
二つの体の間で起きているわけです。
僕とクライアントとそれを包む世界の中で起きているわけだ。
実はこれ、身体動態瞑想っていうふうに
僕が提唱しているその身体開発法
身体ワーク、セルフ規範方法の中でも
実は同じ構造を持っています。
ゆするっていうものとさするっていうもの。
ゆすることとさす、ゆすられること
例えばゆするにしたらね。
ゆする、ゆすろうとしているっていう能動的なものと
ゆすられているっていうこの手の受動的な姿勢っていうものが
だんだんと曖昧になっていくんですよ。
ゆすってるけど揺らされてるし
揺らされてるけどゆすっている、ゆすられている。
これはすごく中動体的なその分法を
実際に起こしたような状態だと思うんですよね。
27:01
メルロポンティ、フランスの哲学者のメルロポンティという方は
この現象というものを肉の過虐性というふうに記述しました。
なんかいろんな言葉が出てきて
ちょっとややこしくなってくるかもしれないけど
ちょっと聞いてみてね。
右手が左手に触れるとき
実際にちょっと聞きながら触ってみてください。
右手が左手に触れるとき
触れる側と触れられる側っていうのは
原理的に交換可能なんですよね。
主体と脚体がぐるぐる入れ替わるわけです。
右手で触っているんだけど左手は触られている。
でも逆を言っても成立するんです。
左手で触っていて右手は触れられているというふうに。
これがぐるぐる入れ替わるんですよね。
ギブソンの生態学的心理学、J.J.ギブソンという方
環境が体の行為の可能性を提供していて
体がそれに応答するというふうに言います。
主体と環境の間で起こるプロセスとして
視覚を記述したと。
宮台新二先生は中道体という言葉で
受動的能動とでも呼ぶようなあり方を論じています。
いろんな言葉が並ぶけど
つまりはいろんな方が別々の角度から記述した現象というものが
ここで合流してくる。
先にお話ししたギリシャ哲学
そこで言われていた中道体というものは
この右手で左手をさする。右手と左手をさすり合わせる。
左手で右手にさすられる。
この身体動体瞑想の中で
その現象に触れるための物理的な回路を提供しているわけです。
ちょっと話が飛躍したので
約束の方に話を戻しましょう。
約束を守る守らないというのは
意思の問題として語られているということなんですよね。
つまりは。
だけど身体というのは
その約束を作った。
約束をしようというふうに動いた身体というのは
意思の外で動いているわけです。
こういうふうにしよう。
毎日朝5時に起きてこれこなそうと思っても
身体はそう反応してくれないわけですよ。
なんでかというと身体は中動体で動いているからだ。
心臓は
ドクドク脈打とう。
1分間にこのくらい脈打とうというふうに
意思して動いているわけではないんですよね。
呼吸は呼吸しようと意思しなくても起きてます。
24時間365日僕らは
30:01
意識しなくても呼吸というのが起こっている。
眠ろうと思えば思うほど
眠りは遠ざかったりすることもあるわけです。
逆に眠らないようにしようと思っても眠っちゃう時もある。
バカの壁で養老先生がそう指摘していました。
意識は自分がいつ登場して退場するかすら制御できない
というふうに
言っているんですね。
僕が感じている冒頭で話した
自分は変わるものだ。他者は変わるものだ。
という実感というのは
体が中動体的に動いていることの
つまり意思によってではなくて
プロセスとして常に変化し続けている
ということの結果なのかもしれないなと思ったわけです。
約束が守れないのではなくて
体が変わっているんだと。
そして体が変わった後に
昨日の約束というのが
今日の体にはピンとこなくなる。
それだけのことなのかなとも思うわけです。
もう減り口にしか聞こえないね。
こうやって言うと。
それも一理あるかと思ってもらえたらいいと思います。
僕は全然自分を肯定するつもりはありませんので。
こんなこと言ってたら社会回らないしね。
約束を守るというのは
なんで守らないと困るかというと
社会の基盤だからなんですよ。
決めたからこうするとかどうこう
よりも僕らが生きている
この社会の構造の中で
この約束というのが前提にあるからですよね。
信頼の条件でもあって
契約の前提でもあるわけだ。
ビジネスも法律も医療も教育とかも
約束の上に成り立っているんですよね。
ここまで多くの人数
世界人口何人いるんだ?
60億人?70億人いるのかな?
これが全員じゃなくても
各国の大きさだと
日本だって外いますよね。
僕だってやっぱり成立の予約には
時間通りに待ってます。
これは守ってますね。
ただここで一つだけ立ち止まって
考えてみたいことがあるわけです。
現代社会というのが
約束に異様な重みを置いているというのは
約束が意思であり
責任であり
信頼であり
それが人格だっていうような
ちょっと歪んだ
等式、数式っていうものに
組み込まれているからじゃないかな
と思うわけなんですよ。
33:01
そのなんとなくが通用する
間柄であれば全く問題はないと思うのね。
ところがそれが
社会的にすごく重要な
システムとして駆動していることによって
約束を守れないから
信頼できない
人格がおかしいんじゃないかっていう風に
それがイコールで結ばれるのは
ちょっと変なんじゃないかなと思うわけです。
約束を守る人は意思が強くて
信頼できて
人格的に優れていると。
約束を守れない人は意思が弱くて
信頼できずに
人格に問題があると。
この等式っていうのは
当たり前に
僕らの中に染み付いている気もするんですよね。
でも国文先生が掘り起こしたように
意思っていうものの概念そのものが
歴史的に構築されたものだ。
人工的に構築されていったもので
何なら昔は中道体っていうものがあって
それが言葉から消えて
能動柔道の二個対立っていうものだけが残ったときに
僕らのこの行為っていうのは
全て意思に帰属されるようになってしまった。
あなたがそうしたのだからあなたの責任だと。
この論理っていうのが
約束の道徳性を支えている。
何ならこれだけが約束の道徳性を支えてるんじゃないかなと思うわけです。
だって約束の時間に来なくて連絡もなかったからって言って
その友達のこと嫌いになるわけじゃないしね。
お前頼むよって
約束の時間守れよ
どんくらい待ったと思ってんだよって
そりゃ言うと思うよ。
言うとは思うけど
それくらいじゃないですか。
こんな根に持つ必要もないし
人格を否定するほどのことでもないよね。
前のブログで
感情資本主義っていうものの
本についての話を書きました。
感情をラベリングして
その感情を管理して
成果に結びつける社会。
約束っていうものも
またこの体験の中にあるんじゃないかなと思うんです。
起源を守るとか
納品するとか
この仕事にコミットするとか
約束の遂行っていうのは成果であって
成果っていうのは評価であって
評価っていうのはつまり市場価値になるわけです。
約束を守れない人間は
この市場から退場させられるということなんですよね。
この市場からだけとも言えるわけです。
養老先生が言う農家社会。
あらゆるものが意識の論理で管理された社会。
36:01
ここにおいて約束っていうのは神聖なものになります。
なぜかっていうと約束っていうのは
意識が作った同じの最たるものだからです。
例えば来週の何曜日の何時にっていうような約束っていうのは
来週の水曜日に
あなたの体がどんな状態であろうと
どんな状況に置かれていようと
同じ場所に同じ時間にいることを要求するんですよね。
体が変わっても約束が変わらない。
周りが変わって
その影響を受けて自分が変わっても変わらない。
これこそが万物留天長方方辺の構造そのものであります。
約束が変わらないっていうのは約束が意識の産物だから。
体は毎日変わっているのに。
意識が同じっていうものを維持しようとする。
養老先生が言ったことはやっぱり正しいんですよね。
ただ養老先生が憂えた身体性の無さの
現れ方っていうのがちょっと違うんじゃないかなと
日々体に触れている自分からは
異なるようにちょっと見えました。
養老先生がバカの壁で描いた
憂えた現代人っていうのは
自分は変わらないと思い込んでいる人だった。
僕は逆に自分が変わることを
知りすぎている感じすぎている人間なのかもしれません。
うまく適応できていないとも言えるかもしれませんね。
史上に適応できていない。
今回のBotcastで喋っているのも
ノートとかで出しているその記事の中から
喋っているんですけど
自分への弁明みたいで
聞いてられないかもしれないけどね。
でもこれ僕もそうだし
やっぱりよく聞くんですよ、仕事の中で。
クライアントの方がドタキャンしたんだ
ムキーみたいなね。
友達が約束守ってくれなくてとか
それこそ男女関係とかでもあると思います。
お付き合いしたのに、結婚したのに
つまり契約したのに
そんなの守れないなんて最低だと。
いやでもちょっと待ってよと
そんな寂しい関係性ないじゃないかっていう風に
思う場面が結構あって
自分のこと言われてるようで辛かったのかもしれないけどね。
でももったいないなと思ったんですよ。
それだけじゃないじゃんだって、人間関係って。
それをちょっと今日書きたいなと思ったんですよね。
話したいなと思ったんです。
自分は変わるものだっていうような感覚っていうのは
39:03
やっぱり臨床に立ってても生きてても毎日感じます。
クライアントの体を触っててもそう思う。
1回の施術ですっごい変わるっていうこともあれば
3ヶ月とか数ヶ月も半年とか1年とかかけて
ゆっくり変わっていくっていうこともある。
何なら上がったり下がったりを繰り返しながら
だんだんと収束していくっていうのが
一番多いんじゃないかなと思います。
これで特殊な感覚ではないと思うんですね。
これ聞いてくださってる方の多くが
自分の体って確かに変わってるような
気分って色々変わってるもんな。
天気でも低気圧が近づいてれば
頭は痛くなるしなとか
疲れてればイライラしてるし
忙しくなって子供のことでバタバタしてくると
やっぱちょっと気分も沈みがちになっちゃうとか
売り上げ上がんないだけでも
もう世界の終わりだって
ような気持ちになっちゃうとか
全然あると思うんですよ。
逆によく眠れたら
よく眠れた日の朝っていうのは
もうこんなに世界って明るいの?
こんなに色づいて見えるの?とかね。
印象でもやっぱありますよ。
体が軽くなったことで
今でもね印象に残ってるのがあって
本当に関与したばっかの時だね。
針をして目がね
見えるようになったのかな。
目が見えるようになったって
視力が悪かったわけじゃないんですけど
体が軽くなったことで
家に戻って
パッと縁側の河原見えるその庭を見たら
色んな花が咲いてて
花が咲いてることに気づいたらしいんですよ。
何か思い出したら数年ぶりなんじゃないかと
思ったそうなんですけど
こんなに色鮮やかに
自分家の庭があったんだ
っていうことに気づいたっていう方もいました。
そんな風に感じる世界も変わっているとき
そしてその時の気持ち
気分っていうものが変わっていっている
っていうのは
つまりは体が変わっていってる
っていうことなんですよね。
つまりこれって
自分が変わっていってるっていうことなんです。
ただ単に気分が変わったとか
ただ単に体調が変化してるとか
ただ単にコンディションが変わってるっていう
枠だけじゃなくて
それって自分が変わってるんですよ。
条件だけが変わったわけじゃなくて
自分が変わっていってるんです、それって。
メルロポンティもこう言ってます。
42:01
体こそが自分の世界への唯一の媒体だと
私っていう思考する自分と
世界
周りの人だったり
周りの草木だったり
仕事だったり
いろんな外部っていうものをつなぐのは
体でしかないと
でも僕らは
この体っていうものを
当たり前すぎてなかなか認識にのもんなくて
世界で起きたものを
あたかも自分の考えの中で
捉えたように錯覚してしまう。
これが回り回って
外で起きてもないのに
自分の頭で考えついたこと
っていうのが
あたかも現実であるかのように見えてしまう
っていうことも起きてきたりするわけです。
ちょっと話が反れちゃったんだけど
約束の側に寄り添えば
体を無視して
同じ自分であり続けるっていうことが求められます。
変わらない自分でいなきゃいけない。
そのシステムに
社会構造に合わせていかなきゃいけないからね。
でも体の側に寄り添ってみれば
前に決めた
前の自分が決めた
約束っていうものに合わなくなる瞬間ってのは
必ずやってきます。
流れているものだからね。
どっちが正しいっていう話ではないと思うんですよ。
やっぱりこの社会の中で
生きていて
それから受ける恩恵っていうのはたくさんあります。
ご飯が当たり前に食べれて
当たり前に友達と
日曜日に約束をして
一緒にカフェに行ったり飲みに行ったりとかできると。
約束を守るっていうことの大切さは十分に分かっているんですよね。
僕もみんなもそうだと思います。
ただ体が変わるっていうこと
つまり自分が変わるっていうことを
もう少しだけ
その考えの中に
入れてあげてもいいんじゃないかなと思うわけです。
約束が
壊れることっていうのを恐れるよりも
信頼がなくなっていくっていうことを
角にひも付けて恐れるよりも
自分の体はこう感じている
こう動きたがっている
こう動いちゃっているっていうものを
固定してあげる。
その方が
なんか人間らしいんじゃないかなっていう風に僕は思うわけです。
もしね、あの
なんか決めたことできないんだよなとか
約束守れないのって私だけなのかな
社会不適合者なのかなって
僕みたいに思って悩んでる方がいたとしたら
そんなこともないと思うんです。
45:00
僕もこうやって普通に仕事してるしね。
この感覚っていうものを
抑えつけるわけじゃなくて
ある種認めながら
うまく付き合いながら
社会的をしていくっていうことが
僕ら
ただ本能で生きる動物だけではなく
かといって合理的な世界
社会の中での
物差しだけで生きるっていう
機会だけでもなく
その両方が高度にこう
交わって成り立っているのが
人間なのかなと思うので
そのためにも体の実感っていうところを
大切にしながら日々を
一緒に過ごせていければいいなと思っています。
はい、ということで
どのくらい喋った?ちょっと長かったかな、今日。
なんかいろいろこれを書きながら
いろんな面白いものをしてたら
思考があちこちしながらも
いろんな人の顔を思い浮かべながら
思い浮かんできて
なんかちょっと今日の記事は
いつも楽しいんだけど
今日は特になんかちょっと
ほっこりした気持ちになったんですよね。
このポッドキャストを聞いて
何かこう思い出される記憶とか
思い出とか
自分の考え方とか
あった方
それでちょっとでも
ほっこりした気分になれたらいいなと思います。
これ自分でダメなとこだよなって思わずにね
そういう自分もいるよなって
そういう友達もいたよな
今もいるよな
何よりもその時に
自分の体では何を感じていたのか
その感覚っていうのを頼りにしながら
自分の体では何が起きてたんだろう
っていうものを
ちょっとこう振り返るきっかけに
してもらえたらなと思います。
多分そこに
自分のその生きた心地というか
実感というものがあると思います。
はい、ということで
じゃあ今日はこのくらいにしておきましょうか。
あ、なんか今日はあれだね
最初のタイトルコールしなかったけど
身体の教養ラジオ
これで終わりになります。
今日ものんべんならりと暮らしていきましょう。
またお会いしましょう。
ありがとうございます。