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皆さんこんばんは、大沼竜也です。 身体の教養ラジオ、今日ものんびんならりといきましょう。
私塾生の方とか、スマーティックスタジオのサポーターメンバーの方からとか、あと
インスタとかでもそうかな、同業者の方とか、同じような対人支援の仕事をしている方とかからね。
あの時々、大沼って
どういうふうに施術、臨床とか対人支援してるの?っていうふうに聞かれることってあるんですよ。
その時に
多分こうどういうところを意識しているのかとか、あとは実際にどういう手技を使っているのかみたいなのを
聞きたいのかなぁとは思うんですけど、 僕としてはこうなんだろうな
どこか一言を言って、その部分が
全部だと思われる、思われてしまうのもなんかもったいないなぁと思って、すごくなんか気を使うんですよね。
どういうとこ意識してるよっていうふうに言うのを、いろいろ説明しようと思うと、なんだろうな、例えば針とか
瞬間にやれば筋肉のどこどこを意識してこういうふうに動かすよとか
関節と構造がこういうふうに連動しているようなイメージでこういうふうにやるよとか
こういう症状の見立てするかな、こういう症の見立てするかなとか、いろいろこう具体的なものであればいろいろあるんだけど
何とも言えない部分ってやっぱあるんですよね。 これはさ、手仕事とかしてる方
いわゆる何て言うんだろうな、ブルーカラーって言ったらいいのかなっていう仕事してる方はよくあると思うんですけど
あの料理してる時に
レシピ運転の時間とかとかっていうとこ以外にも、フライパンこういうふうに回すんだよねみたいなのってこういうふうにしか言えなかったりとかするじゃないですか
どういうとこ意識してますかってこんな感じかなーみたいなぼやっとするところね 表現する方とかは余計にそうと思うんだ
歌う歌う方とか どういうふうに歌ってますかって言われても
喉をこうやってキュッと上げる感じかなーとか心を込める感じかなーとかすごい抽象的になりますよねやっぱり
モデルさんとかであればあのポーズとかさ、なんか形だけ真似したってあんなやっぱかっこよくなんないじゃないですか本当に上手なモデルさんとか美しい方とか
演技の仕事とかもっとそうですよね 音楽とかもそういう部類にあると思う。いくらこうリズムとかで解説
しようとしてもやっぱりそこからこぼれ落ちる部分があると思うんですよ だからそれと同じような感じで僕も施術する時って
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正直言えば分かんない部分もやっぱあるわけですなんとなくでできている部分 もちろん意識しよう言葉にしようとは
努力してるけど 全部は難しいかなとあえてそれを
SOMATIC STUDIOのメンバーとかの方に、私立生徒の方とかに伝えようとすると 触れてるよねクライアントの肌に触れてる
でそれで感じていて その時々コクコク変化する体
に対して応答してる でさらにそれを反応を見ながら促していく
こうやって押してみようかなみたいなことが
何だろうこう順番に起きてるわけじゃなくて この4つが同時に起きているようなイメージなんですよね
すごい速さででも考えてるわけじゃないんだよ 当たり前に触れてれば当たり前にそういうふうにね
なる これは何もなんか僕がすごいとかそういうわけじゃなくてみんなそうだと思うんです
多分こう 誰かと一緒に手を繋いで歩いたとかね
家族とかでもいいし恋人とかでもいいし手を繋いでこう歩っていたみたいなことと同じような経験だと思うんだよね
触れてる自分 あれってさ細かく野暮だけど細かく手で解説しようと思うと自分から握りに行ってるし相手からも握られ
てる握られにも行ってるし握りにも行ってるっていうこう
うーん出客 主従関係というのがすごい溶けた状態だと思うんですその境界線との非常に
曖昧になっていってる 溶け合っているような
状態なわけですよね これを思った時に
養老武先生の手入れっていう言葉を思い出したんです 庭の手入れ
体の手入れ 完全にコントロールするっていうわけでもなくて完全に放置するわけでもなくて
穏やかに応答し続けることっていうふうに 養老先生は言ってたんですよね
体っていうのは 庭の手入れみたいなものだと
ああすればこうなるっていうものを期待しないということでもあるわけです こうすればこうなる
ああすればああなる 例えば庭いじりとかさ
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花とか草とか植物とかこう育てたことある方はわかると思うんですけど google 先生が言う通りに
この時期にこの時間帯この基本でこういうふうにしたから こうなるだろうって言ってもそうならないこともありますよね
やっぱり
見えてない部分が自分の中にあったりするわけだ でもそれをさ見えてない部分あるっていうものを
知らないんで 何だ言われた通り書いてある通りにやったのに何で何年だよって
はならないでしょう 植物に座って怒る人はいませんよね
ただ水をやって土を整えて日が当たるようにするっていうのと咲くかどうかっていうのは 花の側にもいろんな理由がおそらくあるわけです
この養老先生の手入れっていう言葉が僕の中ですごくしっくりきたんですね 臨床においてクライアントにどういうふうに向き合ってるか施術してるかというもの
多分僕がやってることっていうのも手入れに近いかなと思います 条件を整えて
体がクライアントの体が自律的に変わってくれるのを待つような状態 それをあえてまあその変わっていく公式みたいなものだとすると
注意を向けて 感覚を拾って動きを繰り返して体が変わっていくのを待つとこれをすごい
何回も何回も回していってるような状態ですね 同時多発的に起きていて
庭の手入れと構造が同じなわけです ただ
構造としては似てるんだけど植物と人間なんでね相手は 植物って意思を
持っていないって言ったらちょっと違うかもしれないね植物にも多分伸びる先を選んだりとか っていうのが多分あるよね意思はあるのか
でも人間と比べると
その意思の意識の向ける場所の変化量というものが全然違うと思うんですね 水と光と土があれば花ってのは花が望んだ方向に向かいます
ある程度それは予想ができるものでもあると思う でも人間ってめちゃくちゃ変わるんですよね
何でかっていうといろんなもの 情報とか刺激物っていうのはたくさんあるからです環境が
やっぱ動いて行動する生き物な分植物以上にいろんな変化をするわけです 前回の施術でこういう状態だったなぁ
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でお話聞いてた時に体に対してこういうイメージを持っている方だったなぁ と思ってたのが
次来た時にはさ まあ1週間後とかに来てくださったとしてもその間にテレビ
なんとなく見てたり電車広告チラッと見てたり意識もしてないんだと思うよ sns いろいろショート動画でさぁ見てたりとか
友達とかからちょっとした一言言われたとか それに対していちいち心が大きく動いてなかったとしてもいろんな影響を無意識に受けているわけです
こないだ肩こりのところがすごい気になって特徴的な動きをしながらほぐそうとしてたのが なんかもっと複雑な動きを
あのして自分の子ケアを し始めていたとかね
わっどう そのやり方どうしたんですかみたいにお考えすると
やだか sns でこういうのいいって聞いてって いうふうにあの自分らのやっぱ解釈を含めながら
また新たな子自分の体の当たり前というのを構成していくんですよ どんどんアップデートされていくんですよね
糸も簡単に変わっていくわけです 1週間前と全然体とかその考え方とか動かし方
当たり前というものがどんどん変わっていくんですよね 生き物っていうのは適応するものです
適応するものが生き残るってよく言うよね だから人間というのは植物に比べるとその適応する力が
適応する能力が高いとも言えると思うんです つまり意識を意識をどこに向けるかというところで自分を
意識の向け先というのを自分で動かせちゃう 動かせてしまうんですよね
だからこそ 相手が植物で庭いじりをするような庭の手入れをするようなものとはちょっと複雑になって
ちょっとっていうほどじゃないかもしれないな わかんないけど
クライアント自身が意識をどこに向けるかっていうところを意図できるように 意図してどこに向けるかっていうのをクライアントができるように促していく必要があるわけです
庭師の方が庭の手入れをするのと 僕らみたいな大臣支援の側が人間の体とか心っていうものを手入れしていく
っていうのはここがちょっと微妙に違うところなんですよね 人間に触れる時っていうのは僕自身大臣支援者側が相手が自分で自分の手入れをできる
ようになることっていうのを促していく そうするとやっぱり自分の体とか心
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一番感じている近くで感じているっていうかそのものだよね のはやっぱりクライアントなので
あくまでそれを補助していく側になるわけです 言葉遊びになるかもしれないけど庭師が庭師を育てているような感じなのかもしれない
でこういうふうな意識を僕は持っているわけですけど あの
それ以前にね
うん やっぱりそういうふうにこういう状態に至るまでこういう姿勢を取るに至るまでに
やっぱりいろいろこういう曲折がありました 施術者側こっちが体に触れるときにここの筋肉がすごい硬くなってるな
だからこうしてみようかなっていう考える瞬間がやっぱりあります 悪いことじゃないよ
これって一見合理的な判断に見えるんだけど でも実はここに落とし穴が隠されている場合があるんですよね
目の前の体に触れているつもりなんだけど 自分の頭の中にある自分の当たり前に触れているということがあるんですよ
例えばさ 肩が右肩が凝ってるな右肩の
僧帽筋ってとこが硬くなってるなってことは 僧帽筋が硬くなるっていうのはこういう動作だからきっとこの人はこういう性格だったり
こういう仕事をしてるんじゃないか だからこういう治療をしようみたいに
コミュニケーションじゃないんですよ もうなんか推理だけみたいになってるんですよね
相手が動かない前提で自分の推察だけで 施術を進めていく支援を進めていくっていうのは
ある種コミュニケーション破綻しているわけです 自分がそう感じるからそうだろうなと
アトラスに書いてあったから解剖学者に書いてあったから絶対そうなんだろう こういう論文見たことあるしエビデンスもあるからきっと間違いないだろう
とかの類ですね ちょっと強めに言うとこれはカルト宗教的なもので
知識で体をわかったつもりになっちゃってるわけです 知識で心をわかったつもりになっちゃう
目の前のクライアントと会話コミュニケーションしているようで 無意識に相手を自分の物語に回収してしまうっていう構造なんですよね
できっとこの人はこういう人だろうっていうふうに思い込んだ瞬間に目の前の クライアントとの接点というものが消えていきます切れちゃいます
そうすると言葉尻を折っちゃうんだよね いついつから痛くなってこの辺が痛いなーって言ってたもの
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クライアントの方だってぼやっとしてるんですよその感覚とか記憶とかっていうのは だけどああいうふうに言ったからきっとこうなんだろうみたいに
そこで突っ走っちゃって言葉尻を折っちゃって一個に収束していかない コミュニケーションがどんどん2人が離れていってしまうっていうことがね
なんかこう勉強すればするほどなんかそういう風になっちゃう 落とし穴っての大きくなるんじゃないかなと思います
だから勉強しない方がいいっていうわけではないんですよもちろん この現象
この状態っていうのを対象化っていうと多分違うんだよね 客観的になりすぎてるからっていうわけじゃなくて
むしろ多分同一化が起きてるんだろうなと思うわけです 自分の思考の枠組み自分の頭の中でこさえたそのナラティブ物語っていうのと
目の前のクライアントの心とか体っていうのを 同一視しちゃう
体を 心を自分の思考で歪めてしまうんですよね現実を自分の頭で歪めてしまうっていうことだ
僕の手が触れているのは僕の体験実感と 知識が作った
おそらくこうだろうなっていうあくまで推論推察であって 今ここにある目の前のこの人の心とか体っていうそのものではないって
いうことですよね 限りなくそっち側そっちの方向性ではあるんだけれども完全にそうではないって
いう ことを
うーん そう思いなさいって言われても多分経験しないと
それぞれも何か記号で空虚になってしまうわけです ような気がします
でこれってさ 少しずつ触って変化を感じ取ってっていうものを
やっぱこれこそなんとなくの領域で経験していくことで
みんなこの落とし穴にはまっているのか はまりそうになるのかっていうのを気づくようになるように思うんですよね
でこれって何も コミュニケーションって言っちゃったけど臨床ってコミュニケーションだと思うんですよ
こっちが促してあっちが来てくれて暗いのが来てくれて こっちが施してであっちの反応を見ながらさらにこっちも施してっていう
ふうに 2人三脚で進めていくものなんですよね
一体になっていく なんなら溶け合っていくようなイメージを持っていいかもしれない
でもこれって施術だけの関係じゃない 施術者だけ支援者だけの問題ではないと思うわけです
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施術者って今になって思うけど言いにくいね 施術 施術者
ちょっと話それちゃったねえっと あなたのことはわかってるっていうふうに
思っちゃう時ってやっぱあると思うんですよ 普通にコミュニケーションとってもね友達家族
同僚初めて会った人ああこういう人ねと こういう人だよなっていうふうに思った瞬間に僕たちって目の前の
実像のその人を見なくなってしまうわけです これはいい悪いの問題ではなくて僕らの仕組みなんですよね
いちいちその人を見てたらやっぱ脳があのキャパオーバーで疲れちゃうから 1回体験したこととか危険がないなっていうふうに判断したものっていうのは
いとも簡単に見逃すようにできてるわけです 節約のためにね
自分のことはわかってるそれと同じように自分のことはわかってる 私はこういう人間でこういう性格なんだって思った瞬間に
自分が無意識にどう反応してるかとか本当に自分はどう思ってるのと感じてるのか どう応答反応してるのかっていうものを
分かんなくなっちゃうんですよ 自分の頭の中でこさえた
狭い世界の中でいろんなものを同一化していってしまうんですね これが言葉ではよく聞く分かった気になることが
分かった気になっちゃダメだよとかっていうのはこういうことが内側で起きているんです よね
そう考えるとさ分かった気にならないっていうふうに
なんだろ若い頃に目上の人とかに言われても 肝に銘じてその言葉を置いておくことしかできないんですよね
分かったんじゃそういうふうに しようと思ってもその瞬間からカチッとできるようになるものじゃなくてそういう姿勢で
いろんなことの向き合いながらやっぱり分かった気にならないって 目の前の人のことを
いちいち感じたりいちいち応答したりっていうものが必要なんだなっていうふうに多分 気づいていくものなのかなと思うわけです
分からないまま触れるしかないんですよね どれだけ関係が深くなったとしても
どれだけ知識がついたとしても経験がオフになったとしても分からないまま相手に触れていく
体に触れていく心に触れていく っていうのが
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言うならば僕が一番大事にしていることなのかなと思いました この筋肉は硬いなって思って触る手と
まあこの体今どういうなんでこういうふうに固くなってんだろうな 何かあるんだろうな
分かんないけど分かんないけどなんかあるんだろうな この分かんないけどこうなのかなっていう姿勢は
非常にこうなんだろうなコミュニケーションというか探索において重要の構えになるのかなと 思うわけです
はっきりしろよって言われやすい時代だからさ 早めに答えを出すことがいいことのような風になってしまってるけど
多分そうじゃないんですよね 建前上その経済活動の中では
そういうことが必要になる場面もあるんだとは思う 現状ねこの世界のこの経済社会の中では
でも僕はその体とか心の観点から見た時に やっぱりこれが経済社会資本主義社会の
歪なところで人間の身体とか心っていうものを無視した設計になってるんだなって思う わけです
だからといってそのさ今の経済社会を批判してもしゃあないって その中でもいかにその身体性を
捨てないで 育んでいくかっていうところが
なんか僕らだったり次の世代を生きる子供たちにとっても重要な態度になるのかなと 思うわけです
ちょっと話が大きくなっちゃったけどこういう なんだ一つの態度として姿勢として構えとして
僕が提案しているのがその身体の強要っていうものなんですよね 例えばその中でお伝えしている瞑想法身体動態瞑想って言います
まあ体動かせば体操法とか身体ワークと思ってもらえればいいと思うんですけど 腕を上げましょうって言えば
腕を上げるっていうなんとなく人それぞれのなんとなくの上げ方が自動でこう 走るわけです
腕上げてって言っても上げ方多分人には違うね 女性だったらもしかしたらこう
これちょっと偏見になるかな 一般的なイメージでね
ちっちゃく上げる人もいれば脇がバーって大きく上げる人も多分いると思う そのなんとなくっていうものが
実際に人によってすんとんでもないバリエーションを持っているわけなんですよ だから
この瞑想法の中では手を上げましょうっていうよりかは その自動のパターンというものがこれを専門用語で身体図式って言ったりするんですけど
その自動プログラムみたいなものが走らないように 肩甲骨と鎖骨と腸腕骨が構成しているこの肩関節を
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居場していってみましょうみたいにちょっとこう 構造物理的な指示みたいなものもしたりをします
ちょっとこれ例が悪かったのなぁ でもねそういうふうに考えるとそういうふうにお伝えすると
当たり前の腕の上げ方 っていうよりも
分かってそういうふうに動かすんだねっていうふうに自分の体感じながら上げようとする ようになるんですよね
身体図式にそういうパターンはない当たり前の動きの中で ここの肩関節をこう上げるみたいなパターンがないもんだから
体は探索しながら動き始めるわけです つまり分かった気になれない動かし方っていうものを提案することで
体は新しい動き方っていうものを見つけていくんですよね こうやって触れている感じている応答している促しているっていうふうに冒頭で4つに分けたこの言葉っていうのは実際には4つに分かれてないっていうふうに言いました
伝えるために分けてるんだよっていうふうにね なんでかっていうと言葉にした瞬間にやっぱり失われるものがあるからなんです
これは言葉記号っていうもののある種の宿命であってメリットデミリットがやっぱあるんですよね
記号に残しておくことで遠くの人にも伝わるし 時代を跨いで伝えることができるわけですよね
でも今さあの古典を読んでも例えばこう漢語とかさ日本の古文とか皆さん覚えてるかな覚えてる人いるかな
古文とか読んでも何に書いてあるか全然わかんないじゃないですか そんなもんなんですよ記号って
なんだっけ洋々明るくなりけり光輪みたいなありましたよねあれなんだっけ全然違うね絶対違うことはわかるんだけどな
そういう古文を見た時にこういう風景なんだろうなっていうものがやっぱりね
当たり前を前提にしてやっぱその時代自体で言葉というものが記号として生み出されていくので
やっぱそこのコンテクストとかまで知らないとわからなかったりもするわけです
何百年経てばそのぐらいわからないこともある記号に変わっていくし何なら僕らが人と喋ってても
わかんない記号言葉というのがあるわけです
例えば僕の友達がコーラって言ったらゼロカロリーのペプシのコーラだけど僕がコーラって言ったら絶対コカコーラの
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普通のノーマルのコーラなんですよ
コーラコーラって言っていくだけでもそこのさ何となく当たり前の部分が抜け落ちていくと一向にコミュニケーション収束していかないでしょ
コーラって言った時に何が何のコーラを指してるんだろうとか何でコーラ飲みたいと思ってるんだろうっていうところまで
無意識にねいちいち考えてたら大変だから無意識に
自分のその身体感覚とか相手の身体性ってとこまで判断材料に乗ってくるかっていうところは非常に
人間としての関わりでは重要な部分になってくるのかなと思うんです
気づかなくて見えなかったとしてもいいんだと思う
おそらく何かあるんだろうなってわかんないけれども
ただ私はこの人と関わっていたい君に関わっていたいんだっていうような姿勢っていうのが重要なのかなと思うんですよ
何なら僕も臨床で全然クライアントの方に気を使えない方だと思うのね
こうあるじゃんタオルをこの位置でこのタイミングで出したら便利だとかスリッパさっと揃えるとかさ
あれが本当できない
先輩ですごくそういうのが上手な方がいて
かっこいいなそういう風に僕も紳士的にやりたいなと思ったけど
頑張ってはいるけれどもやっぱりあのレベルもう10年以上前だけどさ
10年以上の前のあの先輩のように未だに振る舞えないんでね
でもその武器調なりに必要としてくれる方もいらっしゃるし
それでも関わりたいという風に思ってくださる方もいるのも一つ事実なのかなと思うわけです
だから優れているか優れてないかじゃないんですよね
その構えっていうところがおそらく重要なのかなと僕は今思いたい
思っています
多少正確に伝えようと思って
どういう風にやってるのって聞かれた時に正確に伝えたいと思って
僕の語彙の限りをね尽くして伝えれば伝えるほどに
相手の物語に回収されてしまうっていうような隙を広げてしまうこともあるわけです
だからこそあのぼやんとした状態でできるだけ相手にこう
汲み取りたいと思っていただける方に伝えたいなっていう気持ちがあるんですよね
あのこの話するといつも思い出すのが
読売ジャイアンツ野球の長島修行監督って皆さん知ってるかな
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知らない人ももしかしているかもね
長島さんっていうこう野球選手がいたんですけど
この人ってすごいなんだろうな野生的って言ったらいいのかな
非言語的なこう自分なりの野球理論を持ってるんですよ
めちゃくちゃ打つしめちゃくちゃ活躍するんだけど
どうやってやるんですかどうやって打ってんですかって言われると
クッとやってバーンってやるんですよっていう風に言うのね
だからもう記号としてのほぼ意味を成してないんだけど
でも確かに長島さんは感じてそういう風に意識をしているわけだ
意識をしてそういう風に感じているわけだ
ほとんどオノマトペみたいな指導ですよね
で身体の教養も実はこれと同じようなことを僕は意識してます
体に意識を向けましょうっていう風に言ったところで
その言葉というのは記号に過ぎないので
本当にこれなってるのかなってやっぱなる方もいるんだよね
答えがやっぱ欲しくなっちゃうんだ最初は
だけど体が良い方向に行ってるなっていうものを
自分で実際にこう促していって実感していくことで
ああこれかという風になってくるわけです
もちろんいろんな言葉で表現されるものでもあるけれども
内側でその経験しているものっていうのはすごく似通っているものだと思うんです
生き物として人間としてなのかな
感じるもの言語の前段階のものだと思うんです
言語が発達するそれ以前の感覚ですよね
だからいろんなことを学んで
失敗しないようにこういう風にしたいっていう風にやろうと思っても
完璧な条件揃ってから始めようと思っても
多分それは無理なんですよね論理的に
だってそこには知識とか考えていたとしても実感がないから
体のピースが抜けているからです
だから迷走法とかって大した失敗もないじゃん
やって怪我するとか恥ずかしい思いとかするわけでもない
お金を失うわけでもないし
だから実感しながらちょっとずつ調整していく
身体の教養を身につけていくってことは
冒頭でも言った自分の体とか心を手入れしていくっていう
そのやり方っていうものを身につけることでもあるんですよね
完全に伝わる言葉っていうものはないし
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完全なアプローチっていうのも多分ないんだと思います
僕の提案とかこういう風にイメージしているよみたいな
指導というものも不完全だし
他のどんなアプローチもやっぱり抜け落ちる部分があるんだと思うんです
ただその不完全さというものを意図しているか意識しているか
知っているかどうかっていうとこには大きな差があるんだと思うんですよね
知っているんだって思っているものと
これ分からないけど知りたいっていう風にこう関わっていく
やっぱ大きな違いがあると思うんですね
自分の手が知らないものに触れているっていうことを知っている
その態度というものがまた手を変えてくれる
僕らの受け取り方促し方関わり方というものを変えてくれるなと思います
こういう質問ちょこちょこをもらって
いただくのでもし良ければ 今回のpodcastを参考にしていただければと思います
もちろんねあの対人支援職じゃなくても 人間関係とかの悩みってやっぱ誰しもあるんだよね
誰か誰だったかな心理学者で有名な人が 兄者か人間関係のあ違う人生の悩みの100%が人間関係によるものであるっていう
もう数百年前に言われてるんですよね こういう関わり方みたいなものを意識しながらやっていくと
すごく楽だし楽しい ものになるんじゃないかなと思います人間関係ってものが
酸いも甘いも ひっくるめて
楽しく飲めながらりと いければと思います
ということで今日のポッドキャスト 身体の教養ラジオは終わりになります
また 聞いてくださいぜひぜひあのフォローとかもしていただけると嬉しいです
あんでそうだ最後あの4月3月末かな 4月から始まる
私塾の日記の募集 がですね3月末にちょっと応募予定だったので
もし気になる方はインスタグラムの方ちょこちょこチェックしてみてください それではまた会いましょう失礼します