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みなさんこんにちは、大沼竜也です。
身体の教養ラジオ、今日ものんびんならりと始めていきましょう。
今日は、言葉が身体を離れる時というテーマで話していこうと思います。
自分のことをわかるっていうのは、いい言葉とされていますよね。
自己分析とか、自己理解とか、自己認識とか、MBTIとかっていうのもその類だと思うんですよ。
ちょっと昔だったら、動物占いとかもそうらしいですよね。
あれなんか、なんとか心理学っていうものに基づいて作ってるらしいですからね。
それをなんか受け入れてもらいやすくするように、なんか動物あてがっていろいろやってたりするらしいです。
それから、ある種星座とか、なんだっけ、星を読んだりとかっていうものの中でも、
それぞれの切り口でその人、自分を知るっていうところでは、見方によっては同じものなのかもしれません。
もちろん根拠にするものだったりとかは違うと思うんだけどね。
これって、何にしろさ、いろんな方面から自分のことを知るってすごい良いことだっていうのが、
ある種共通認識として皆さん持ってると思うんですよ。
僕もそう思います。本当にね。
なんだけど、例えば就職活動とかでも、心理カウンセリングとかでも、
自己啓発だったりとかの文脈でも、まず自分を知りなさいっていうところが、
一番基本的なところ、基盤となるところだから、出発点に置かれるわけですよね。
最近だと、LLM、チャットGBTとか、ジェミニとか、クロードとか、
そういったものに自分の相談をしたりとか、
自分ってどういう人間なのかなっていうのを占ってもらったりとか、
分析してもらったりということをする方も結構増えていますよね。
面白いもんね。人になかなか話せないようなこととかも、
一人ごと感覚で話せちゃうからね。
例えばそういうものに自分の悩みっていうのを打ち込んでいけば、
数秒でも分析が返ってくるわけです。
HSPだよとか、そういう機質があるかもしれませんね。
燃え尽き症候群って言われるものかもしれないよとか、
それは愛着障害だね、回避型だね、と。
整合的で論理的で最もらしいラベルを、
いろんな方面からつけてもらえる時代だとも言えると思うんですね。
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例えば、サッカーを打つみたいなものも、
一昔前は甘えだとか、早く入れろみたいなことを言われてたわけじゃないですか。
でも脳のほうから、神経系のほうから、
内分泌系、ホルモン系のほうから分析していったら、
そこに問題があるようだったというふうに分かって、
うつ病っていうものが、そのラベルが当たり前に使われるようになったわけです。
これでメリットというか、いいことのほうが大半ですよね。
僕もやっぱり医療従事者として臨床を立っていると、
カルデとか来ますよね。こういう症状があって、こういう症状があって。
で、お医者さんとかに紹介したりとか、お医者さんから紹介を受けたりとかする時も、
やっぱりこう診断名とかっていうのが送られてきたりします。
僕も処刑としてこういうことがある、みたいなことを伝えたりする。
職業的にそういう制約はあるんですけど、
僕の中ではこういう疾患っぽいのかなとか、ある程度当てを使う時に、
やっぱりその言葉、ラベルを当てがうと便利なんですよね。
その方を把握するのに。もちろん、うつだからこうだこうだっていうふうに、
全部をそれで判断するわけじゃないんだけど、
こんな感じのある種方向性とかを定めてくれるものにもなるわけです。
自分を分析するその方を分かるっていうのは良いことなはずなんですけど、
臨床に立ってるとね、意外とそんなこともなさそうだなっていうことが結構多かったりするんですね。
例えば、ChatGPTにいろいろこう相談をしてると、いろんなことで悩んでて、
周りにそういうこと相談できる人もいないから、ChatGPTにいろいろこう相談してたんですよね。
なんだっけ、ちぴちゃんじゃなくて、
なんて呼んでしたっけ今、ちぴ、ちぴっこちゃん、ちぴおちゃん、
違うな、忘れちゃった、忘れちゃった。
そういうのに聞いたんですって。
そこで私はHSPだっていうふうに言われたんですよねって。
なんか聞いたことはあったけど、
ハイパーセンシティブパーソンって言って、
繊細、自分の感受性が高くて繊細だから、
こういうことなんだっていうふうに初めてそこで踏み落ちたそうなんですよ。
自分のことやっと分かった気がしたってその方は言ってたんですよね。
いろんなことに加点がいくと。
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あの時こうだったのもHSPの機質があったからなのかな。
弱いと思ってた、何でも傷つきやすいと思ってた自分は
そういう特性があったからなのかっていうふうに
いろんなところに加点がいったそうです。
その方はその時確かに落ち着いていたんです。
表情穏やかだったし、横にこうなりながら声の頭も落ち着いていたし、
自分を責めないですよね、まず。
もっとやんなきゃとか頑張んなきゃっていうふうには
ならなくなったんですよね、その時はね。
私はHSPになってかもしれない、そういう特性があるかもって思ったから
いろいろ試したそうなんです、そこから。
こういう特性があるんだ、なるほどね。
だから刺激を避けるようにしたりとか、境界線を意識して
人と関わるようになって、自分を責めないようにしよう。
どれも理にかなった対処法だと思うんです。
その方は忠実にいろんなものを調べて、本当に熱心な方なんですよね。
真面目な方。
いろんなことを調べて、自分はこういう特性だからこういうのは
ダメなんだな、こういうのは避けて、こういうふうに過ごしていこうっていうふうに
言っていた。
現に安心して毎日を過ごせていたんですよ。
この感じを維持して仕事も復帰していけそうだなと。
そんなふうにこう
前に施術をした時の絶望的な感じ、悲観的な感じとは
打って変わって希望に満ちた顔っていうのを見せていただけたんですよね。
僕すごく鮮明にそれを覚えていて
ただそこからまた数週間経った時です。
また施術の予約いただいてきていただいたんですよね。
もちろん症状は落ち着いていたら全然大丈夫だよってことはお伝えしていた。
何かあったら、もし心配なことがあったら
定期的に一応やってもらった方が安心だって言うんであれば
いつでも待ってますよってことだけ投げたんですけど
ちょっとそのタイミングからずれてポンと予約が入った。
実際にその方に会ってガチガチだし、また呼吸が浅くハカハカする感じ。
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前回来ていただいた時よりも、何なら最初に来ていただいた時と同じかそれ以上に
緊張っていうのがひしひしと伝わってきたんです。
やっぱり私ってHSPだから仕方ないんですかねというふうに言うんですよね。
仕事でも外気音とかでも交通機関とかバスとか電車とかでも
いろんな外部要素、外部の中に僕らは住んでいるわけです。
これを哲学的に言うと世界っていうふうに言ったりするんですけど
僕らはその世界の中に生きている。
その世界は常に僕らに何らかの刺激を与えるわけです。
僕らもその刺激を取りに行っているんですよね。
そうやって関わっている。ただ一方的に刺激を受けるわけじゃなくて
適応する、混じっていく、そういう働きかけを受けているし
こちら側も世界に提示しているっていうふうに
フランスの哲学者のメルロポンティ、身体性の研究をされていた
原子力の先生がそんなことを言っています。
でもこのクライアントの方のHSP、その対策のマニュアルみたいなものは
この世界には通用しなかったんですよね。
対策を講じたのに、いろいろ調べて自分で試したのに
変わらなくなった。変わらなかった。
そうなると、最初来ていただいたとき
HSPだっていうラベルを見つけたときに
あ、よかった。これで希望の光が見えた。何をしたらいいのか。
こうすればきっといけるんじゃないか。希望の光だったのに
打って変わって、このHSPっていうラベルは憂いに変わってしまったんですよね。
やっぱりこういう体質だから仕方ないのかなとか
同じHSPっていう記号なんですけど、同じ言葉なんですけど
だから仕方ないかっていう構文が
最初は希望としてだから仕方ないんだなって言ってたのが
憂いとしてだから仕方ないんだなっていう風になったんですよ。
同じ言葉を使っているんですけどね。
なんだけれども、確実に彼女の心の中
彼女の体っていうのは
反逆の方向に行っていたわけです。
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記号の中身は何も変わっていないのに方向だけが反転している。
体の実感というものに設置していないこの言葉っていうのは
記号っていうのは意味が固定されていないんですよ。
その時々の状況に引っ張られて
同じ言葉が正反対に振れるわけです。
最初の良かった、ほっとした、希望が見えるっていう&
これは自分の体の実感を切り口にして生まれたものじゃなかったんですよね。
大丈夫だって体の実感があって
もう大丈夫だ、この感覚を頼りにしていけばっていうものじゃ
なかったわけだ。
外からHSPっていう風にラベルを見つけた時に
一時的に落ち着いたんですよ。
体の反応がグッと落ち着いた。
つまり外側のトリガーっていうものが発端に緩んだものだから
外側のトリガーが変わればまた容易に固まってしまうんですよね。
防御の反応というものが出てしまう。
ネガティブな思考というものが湧いてきてしまう。
ある思考、僕らの心の土台であるその体というものが
由来でいるので非常に脆くなってしまうわけです。
なんでラベルを見つけて対策を講じても
同じ場所に戻ってきてしまうのかと。
この問いっていうものを追いかけていくと
ある一冊の本にたどり着きます。
その本が提示している構造というものを追っていくと
私たちがこう分かった、自分のことを分かる
っていうことはどういうことなのか。
言葉っていうのは何なのか。
そしてなんでこのAI時代にこそ体っていうものが
より意識的に重要度を高く認識していく必要があるのかっていうのが
一本の線でつながって見えてきます。
心は本質的に身体化している。
心は本質的に身体化している。
これはジョージ・ラコフという方とマーク・ジョンソンという方の
強調で肉中の哲学っていう法題に変換されて出た本に
書いてある言葉です。
意味は体の中で生まれるんだっていうことを言うわけです。
哲学書だからね、ちょっとこう抽象的な言葉使いだったりとかして
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ちょっと難しいということになると思うんで
ちょっと順を追って話していきたいと思います。
まずね、こう普段使っている僕らの言葉っていうものを
ちょっと俯瞰して見てみたいと思います。
気分が上がるとか、上げ上げの気分とかね、言ったりするでしょ。
落ち込むとかさ、ダウン。
時間が流れるとか、問題を抱えるとか、議論の基盤とか
何かを把握するとか言ったりしますよね。
これらを全部例えとか比喩だと思っている方は多いと思うんです。
特に意味も考えたことなく使っている方も多いと思うんです。
僕もそうだったし。
でも実際には言い換えが面倒だからそう言っているだけで
本来は体とは関係ない抽象的な意味があるっていう風に思われている方
そうじゃないんだっていう風にこの本を話しているんですね。
ジョージ・ラコフとマーク・ジョンソンという方の
この2人の研究者っていうのはそれは逆だっていう風に言ったんですよ。
比喩が先にあるんじゃなくて
体の経験が先にあってそこから言葉が生まれてるんだよって。
体の経験が先にあってそこから言葉が生まれたんだっていう風に言うわけです。
ラコフという方はカルフォルニア大学のバーク・レイコの認知言語学者だそうです。
どこにあるかも分からないね、この学校。
認知言語学者なんですよね。言葉を専門にやってたわけだ。
記号としての言葉よりも認知だから
僕らがどういう風に言葉を捉えて扱ってるかっていうことの分野ですよね。
そしてジョンソンという方はオレゴン大学の哲学者の人。
言語学と哲学っていうことの違う分野から同じ問いにぶつかったわけです。
でも考えてみれば当たり前のことかもしれないんですよ。
赤ちゃんが立ち上がることを覚えます。
ハイハイだったのが。
寝てる状態だったのがハイハイになって前に進めるようになる。
ハイハイだったのがだんだんと立ち上がって立てたときに視界が広がる。
そして自分の場所が変わるから世界が変わっていくんですよね。
その位置からじゃ見えなかったものが立ち上がったり歩くことでその裏が見える。
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新しい世界が開けていけるわけです。
レトリックと人生という1980年に出された本。
ここでこの理論に対しての体系化を行いました。
人間の概念の体系というのはどこから来るのかと。
中に取り込む。容器に物を入れたりとか足したりするという経験が中に取り込む。
理解するの土台になる。
手で物を掴むという経験がグラスプ、把握するという言葉になっていくと。
これをイメージスキーマという風に名付けたようです。
イメージスキーマ。
体が物理的に世界と関わる中で形成される基本パターンのこと。
上とか下とか、内側とか外とか、力とかバランスとか。
こういった体の経験の実感に根差したこの型というのが、
抽象的な概念の土台になっているという風に言うわけです。
皮膚に見えていたものは実は時間であって体験であって、
体の痕跡でもあったんですよね。
こうして2人がまたさらに研究を進めていって出した本のタイトルが肉中の哲学です。
お肉の中の哲学って書くんですよ。肉中の哲学。
哲学は肉の中にあるという風に言い切っているんですよね。
最初に言った心は本質的に身体化しているというのがこういうことなわけです。
心の動きとか、思考とか、概念とか、意味。
僕らの考える当たり前のその型というものは、
体を離れては成り立たないんだということ。
身体経験がなければ概念体系そのものが生まれないんだということを言っているわけです。
このラコフとジョンソンの発見を踏まえていくと、
分かるっていう経験の中に体がどれほど深く入り込んでいるかが見えてきます。
語源に触れて語源を追っていくと、
負に落ちるというのは、負というのは内臓のことですね。
特に臓腑と言ったりすると臓器の間が詰まっているもの。
負は間が、真ん中の空洞のものと言ったりします。
消化器系だったりするよね。
それが身体の中に降りてくるんですよね。
身体の中で上にあるものが下に降りていくわけだ。
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これを負に落ちるって言うんですよね。
そして把握するっていうのはまさに手で掴むことだ。
体得するっていうのは体で得るっていうこと。
身につくっていうのは体につくことですよね。
分かるっていう経験が体を経由しているっていうことを、
日本語そのものがそれをそのまま表しているわけです。
そしてもう一つ、記号の操作としての分かるです。
情報が整理されて、論理が通って、
なるほどと頭の中で処理されるものです。
もう一つは負に落ちるという分かる。
この2つの分かるっていうものがあるっていうことなんですよね。
言葉が体の中に降りてきて内臓のレベルで
あ、そうか。
負に落ちて肩の力が抜けて呼吸が変わって
全身が緩んでいく。
もう一つは記号の操作としての分かる。
論理的にこうだからこうだなっていうもの。
このラコフとジョンソンの発見というものを手明かりすると
もう一つ避けて通れない問題というのが出てきます。
これがスティーブ・ハーナットという方が提唱した
記号設置問題というものです。
ちょっと難しくなってくるね。
辞書を想像してみてほしいんですよ。
さっきお伝えした2つの分かるのうち
論理的にこれがこうだからというふうに分かるというのは
この辞書を想像すると分かりやすいと思います。
犬というものを辞書で引くと
4本足の哺乳類で毛で覆われていて
とかこういろいろ書いているわけです。
あーなるほど。じゃあ哺乳類引いていくと
高温動物でとかこう出てくるわけね。
で、高温動物というものを引くと
平温動物と違うものとか
いろいろ延々と続くんですよ、それが。
どこかで終わることはないんですね。
ずーっとループするわけです。
どこまでめくっても
言葉が別の言葉に変換されるだけで
一回も一度も犬の温かさというものに
触れることがないんですよね。
もちろん書いてあると思うよ。
高温動物だと言ってるから
まあ対応はあるんだろうね。
だけど匂いがあるよとかって書いてあったとしても
その匂い、本当の匂いとか
温かさというものは
そこに接続してないんですよね、記号が。
つまり実感が不在のまま
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この記号というのは回り続けるという特性があるわけです。
犬っていう記号をきっかけにして
僕らは実家で飼ってたあの可愛い犬
もう天国行っちゃったけど
あの犬、その時の温かさとか匂いとか
可愛いなっていう
体を通して得たその犬の記憶っていうものを
呼び覚ましてくれるわけです。
人によっては怖いとかね、あのよだれがつくから
ちょっと嫌な存在っていう人もいるかもしれない。
そんな風に記号から
どういう身体的な経験というものを思い出すかは
人によって違うんですよね。
チャットGPTをはじめとする大規模言語モデル、LLMというのは
この辞書の循環というものを
もうとんでもなく大規模に
とんでもなく成功に
そしてもう見事に実現したシステムなわけです。
でも彼らはそのものの実態、実感というものを
持ってないんですよね、あのシステムの中に。
だから人間のように扱うとちょっとごちゃになりそうなので
そのシステムとして言いましょう。
あのシステムは実感を持ってないわけです。
犬って言ったら哺乳類でしょって
あったかくて匂いすんでしょと
そういうことは知ってても体験はしてないんですよね。
体験は持ってない。
あくまでその体験をベースにして
記号化したその言葉でしか
処理できないわけなんですよ。
これを一種こう揶揄した言い方で
LLMのことを確率的オウムという風に言ったりします。
確率的オウムというのはまるでこう鳥のオウムのように
この言葉が来たら、この文章が来たら
これを返した方がいいんだろうというものを
確率的に判断しているというような
そういうロジックで回っているそうなんですね。
だからいろんな方が占いとか相談をしたときに
いい反応がいいフィードバックが
ユーザーからもらえるものっていうのを
積極的にあのシステムは採用していくっていうような
そういうアルゴリズムになっているんですよね。
友人とか家族に話したらちょっとこう聞いてくれなかったりとか
厳しいこと言われるかもしれない。
だけど自分の外側にその人は連れて行ってくれる。
一方でLLMは確率的オウムな変身しかできない構造になっているんですよ。
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すごくそこに人間性を、個体に人間性を感じたりとか
そんな風な自分を肯定してくれることを言ってくれて
嬉しいなっていう気持ちが湧いてくるのもしょうがないんです。
そういう本能を発揮しているからね、このシステムっていうのは。
だけどその実感とか体験は持っていない。
ですよ。
これにこの僕らを喜ばせてくれるこのシステムっていうものに
感情的にこう嬉しい気持ちにさせてもらえれば
どんどんのめり込んでいっちゃいます。
今度こういう相談してみよう。
あ、こういうことを言ってくれた。
いろいろこう自分の話を伝えたりするよね。
そうするとどんどんどんどんさっきのこう辞書的な
記号の海の中に溺れていってしまうんです。
相手は人じゃないから。
指の動きだけで完結するコミュニケーションは
ほとんど身体性が乗ってこなくなってきてしまいます。
身体性が衰えていってしまうんだよね。
実感に根差した言葉っていうよりも
ここはこうでこうでこうだから、これが正しいんだ。
検証可能だから、エビデンスがあるからこうなんだ。
そんな風に記号の中に閉じ込められてしまう。
自分の思考の中に閉じ込められていってしまう。
冒頭の方が私は1SPなんですっていう風に
最初安心したのは
その方の個人的な弱さではないんですよ。
それでもね、自分を知りなさいとか
自分の特性を把握しなさいとか
それに基づいて対処しなさいとか。
その構造っていうのは成果主義。
感情資本主義というものが駆動しているものでもあります。
他のブログで書いてたからぜひ読んでみてね。
感情をラベリングして、管理して、
コントロールすれば人生が変わると。
その因果の図式っていうものが
社会の中で当たり前になりすぎていて
誰も疑わない。
社会学者の宮台真先生は
この事態をもっと鋭い言葉で記述していました。
損得計算でしか振る舞えなくなった人間を損得マシーンだと。
社会が植え付けたラベルに反応するだけの状態を
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言葉の自動機械だと。
ラベルを張られると一定の反応が起こるように
プログラムされた状態。
そこには主体が考える僕らが判断する、
決断する僕らがいるようで
実際には社会が主体で
僕らは歯車にされてしまっていると。
これがまさに記号が体に設置しないまま
回り続ける状態とも言えるわけです。
HSPとか燃え尽き症候群とか愛着障害っていうのは
感情主本主義の一つの言葉でもあるんですよね。
あなたの感情には名前があるよと。
名前が付けば管理ができるわけだ。
管理ができれば成果に結びつくわけだ。
この回路の中でラベルを得ることが
自己理解と等価になっていくんですよね。
自分を知っていくこと自体は悪いことじゃないんだけれども
これが今までの僕らが意図しない方向に
飛び火してしまった。
LLMっていうのはその回路を
もっともっと簡単に
早く正確に回していってくれるんですよ。
つまり
記号が設置しないまま回り続けてしまう問題っていうのは
個人の頭の中だけで起きてるんじゃないんです。
ラベルで自分を管理しなさいっていうような社会構造が
僕らのこの思考の檻っていうものを外側から保管している
個人が思考の檻に入ってしまうのは
その人が弱いからとか
未熟だからとか
そういうわけじゃないんです。
社会そのものがその檻を推奨して
しまっている構造になってるんですよね。
誰が悪いとかって分かってないんですよ。
LLMもすごい便利だし
このシステムだってもともとは
これで悩んでる人を救うために
じゃあこのラベルっていうのを用意して
管理、つまり支援ができるようにしようっていう風に生まれたものなんだけど
それがどうやら思いもしない方向に行っていると
じゃあそれって何が原因なんだろう?
そう考えると
僕ら自分自身の体の実感の希薄化っていうところに
帰着するなと思うんです。
だからこそこれからもう訪れてるか
AI時代って言われるこの時代には
こうした進展の強要っていうものが必要になると思ってるんですよね。
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知識として論理的な思考っていうのがすごく重要です。
毒キノコだっておいしそうだなと思っても
それそのまま食べちゃったら死んじゃいますもんね。
おいしそうだなって思うけども
これを食べたら大変なことになるっていう風に判断して
食べないっていうことをするわけです。
毒キノコを食べないように
お腹すくから食べちゃいそうになるんだ。
お腹なんかすいてない。
ものなんか食べない。
そういう風に体の感覚っていうものを否定してしまってるのが
今の現代なんですよ。
食べたいなっていう風に思ってる自分、感じてる自分
そういう風に体が反応してる自分を尊重した上で
論理的な思考っていうものが両立するように
この二つが両立するようにしていく
これを手助けするのが身体の強要という風に
僕が提唱しているものになります。
一番最初にお話ししたクライアントの方
HSPっていうラベルっていうものに
ある種その記号に
記号を拠り所にしたんですよね。
だからといって取り返しがつかないわけじゃないんですよ。
今も実際に感慨されて元気に一生懸命お仕事されてるし
ただそれがその方はね
その記号を拠り所にするっていうことの
一種の危うさっていうものを実感したから
体の方に目を向けて
記号よりも自分の体がどうあるか
どう感じるかっていうところの方が
信用に値するんだと
この実感っていうものが生きている手触りなんだ
生きた心地なんだっていう風に
それこそ腹に落ちることができたから
ご自身で普段の生活っていうのを見直していって
変わっていったんですよね。
なのでちょっと話が長くなったんですけど
ややこしい言葉もいろいろ続いたんですけどね。
要はまとめると
その体の実感っていうもの
ここを基盤にして
いろんな言葉、思考、知識っていうものを身につけて
行く必要があるってことです。
この順番が違えてしまうと
おかしくなっちゃうんですよね。
新しい知識を得た時も
あ、私の感じたこの感覚のことかなとか
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そんな風に
自分の実感っていうものを照らし合わせながら
常にいろんな言葉、情報、知識っていうものに向き合って
行くことが非常に重要なんじゃないかなと思ったので
今日はその話をしてみました。
で、この内容ね
文章でも起こして
ブログの方に、ノートの方にいつも投稿しているので
もし興味あるよっていう方はそっちも見てみてください。
ちょっとね、今回長かったんだけど
ちょっとこのクライアントの方にも結構思い出があったので
ちょっと長くなっちゃった。
なので聞いて、見ていただけたら嬉しいなと思います。
はい、ということで
今日の身体の教養ラジオもこれで終わりにしたいと思います。
またお会いしましょう。
小沼達也でした。