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暮らしが身体を壊す。暮らしが身体を直す。
2026-04-03 34:23

暮らしが身体を壊す。暮らしが身体を直す。

折坂悠太さんの「寂しさ」を聴いて、その余韻のまま一日を過ごした。

コーヒーを飲んでも、仕事をしても、なんかいつもと違う。あれ、今俺「丁寧な暮らし」してる?──そんな体験から始まる話です。

丁寧な暮らしって、お気に入りのアイテムで周りを囲むこと、時間を贅沢に使うことだと思わされがちだけど、

体がゴワゴワで苦しい状態で「今日はゆっくりしていいよ」って言われても、あんまりいい時間にならない。

逆に体がほぐれていれば、同じコーヒーでもパソコン作業でも全然違う手触りになる。


身体知性の話、感受性の話、感情資本主義の話。いろいろ広がりましたが、結局たどり着くのは「体が先に応答している」ということ。のんべんだらりと。



話している人について
https://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

感想

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00:09
今日は暮らしが身体を壊す。暮らしが身体を直す。というテーマで話していこうと思います。
ちょっとね、あのノートで記事を書いて、文章を書いてあげてたんですけど、
最近ちょっと文体迷子でさ、どういう風に書こうかなみたいな、デスマス調になったり、急にちょっと、
偉そうな言葉になったりとかしてるんですけど、いろいろちょっと試しているところなので、心温かく見守っていただけると嬉しいです。
でも結構ね、これ前々からなんか思ってたことだったんだけど、なんかいまいち言葉にしづらかったから、ずっと書けないでいたんですけど、
なんとなく意図はね、書けているかと思うので、ぜひ読んでみて、原文も読んでみてほしいんですけど、
なんでこれ書こうかと思ったかというと、最近、織坂優太さんというミュージシャンの方知っている方いますかね、織坂優太さん。
寂しさとか坂道という曲が僕好きで、平成というアルバムがあって、そのアルバムが好きなんですよ、楽曲たちがね。
ジャケットもすごい素敵でさ、シンプルに織坂さんの顔だけがあって、赤背景でっていうものがあって、
これ僕、森山直太郎さん、森山直太郎さんって、黙っているわけじゃないよ。森山直太郎さんが好きで、
YouTubeでたまたまそのおすすめで、森山直太郎と織坂優太は一緒に寂しさを歌ってたんですよね。
なんかすごいなーと思って、なんか彼らの楽曲って聞いてると、子供の頃、若い頃はあんまり感じなかったんだけど、
歌上手だなーくらいで、上手だなーってなんか上から見せるんだよね。
なんか歌が本当にすごい苦労とプロなんだなーっていうくらいにしか思ってなかったんだけど、
彼らの声質だったり歌い方っていうものと、あの楽曲のメロディーの流れ方、コード進行みたいなものとか、
そこに色付けされるご主人の楽器があるじゃないですか、いろんな曲で音を膨らませたりとか、
あれをひとまとめに聞いたときに、なんか懐かしいなーっていうような感覚が出たりするのってわかる方もいると思うんですよ。
03:10
全然違う経験してきてるはずなのに、織坂さんとか森山さんの人生のこと全然知らないけど、
彼らも僕のこと知らないけど、なんか共通する、呼び起こされる、あの時の経験というか、
肌で感じてた、体で感じてた、あの時の経験というものが呼び起こされるような気がしたんですよね。
で、その楽曲を聞いたときに、口ずさみながらさ、いい曲だぞーとかって無理やり子供たちの前で、
子供たちと車、幼稚園とか小学校行くときに流して、これすごいんだ、ちょっと聞いてよ、パパ聞きたいからーっつって、
いやーとか言われるくらいにして、いろいろ聞いて歌ってたりとかするとさ、
なんか一日がその楽曲の時を聞いている状態のまんま過ごせたときがあったんです。
意図してそういうわけじゃないんだけどさ、あまりにも楽曲が好きで気に入ったから、ずっとその曲の雰囲気でいたんですよ。
なんかこう素敵な映画を見た後のふわっとした感じ、なんか現実からちょっと離れたような感覚みたいなのにちょっと似てるかもしれない。
それを感じたときに、すごい心地よかったんですよね。
なんかいつも違うんだけど、そういう意味での違和感はあるんだけど、やっぱり音楽っていいなーって思ったんです。
で、これって、なぜその時の一日を過ごしているものって、いつも通り仕事をしていたり、
人に触って臨床とかしているというときも、受け答えするときも、なんかいつもと違う手触り感があるんですよね。
音を一つにしても、いつもだったらちょっとせかせかしちゃうものだったりとか殺伐としてくることもある。
だけど、その楽曲のときの自分のそのふわっとした感じ、楽曲を聴いているときのふわっとした感じっていうので、
コーヒーを飲むにしろ、パソコンを打つにしろ、本を開くにしろ、考えるにしろ、なんか違う感覚っていうものがあって、すごい心地よかったんです。
あれ、今俺丁寧な暮らししてる?みたいな感じになったんですよね。
06:00
そのときパッと湧いてきたんですよ。丁寧な暮らしって。
キーワードとしてはあるじゃないですか。丁寧な暮らしって。
いろいろさ、思い浮かぶるものが皆さん違うと思うのね。
お気に入りのアイテムで全部身をまとうものも、服とかも、コップにしろ、家具にしろ、布団にしろ、ベッドにしろ、靴にしろ。
いろいろなものとして、お気に入りのもので自分の周りを囲んでいくことで、
なおかつ自分を贅沢させる、時間的なその贅沢っていうものをしたりして、丁寧な暮らしをしていこう、ゆっくりとしていこう、みたいなニュアンスなのかなって僕は思ってるんですね。
多くの方もそうだと思うんだけど、何も別にお気に入りのアイテムとかじゃなくても、お気に入りの楽曲とかじゃなくても、
もしかすると、僕があの寂しさの楽曲を聴いたときのふわーっとした感じ、あの感じっていう中で生活すべてができれば、
お気に入りのコップを持ったときにそのふわーっとした感覚を呼び起こしてくれるから、
僕はこれが好きで、こういうものに囲まれたいなと思ってるのかもって思ったんです。
つまり丁寧な暮らしって、人は物とか環境とか、外的なところに目が行きがちだけど、
その内側にあるものを見ると、
外側の何かを立ち上がらせたくて、その外的なところに何かを求めてるのかもなと思ったんですよね。
ごめんなさい、咳がちょっと出る。花粉症で咳が出る。
何を話そうと思ったんだっけ?
そう、それを思ったので、ちょっと回そうと思ったくらいだったんです。
だから丁寧な暮らしっていうものが、つまりは僕らの体がどういう状態にあるかっていうところで、
結構規定されるのかなと思ったんですね。
だってさ、考えてもみるとさ、体ゴワゴワ硬くて苦しいなっていう状態で、
さあじゃあ今日は一日ゆっくりしてもいいですよって言われたとしても、
09:02
ずーっと腰がズキズキしてたらさ、なんか丁寧な暮らしをしても、
なんかあんまりいい時間じゃなさそうだったりもしますよね。
それだったらちょっと動いてた方がマシだなとか。
動いてればもしかしたらその用途少しマシになるからなのかもしれないし、
体が強張ってるのが故に、なんか不安なこととかが頭をよぎるから、
忙しく周りに応答している時間が多い方がもしかしたらホッとするのかもしれないしね、
その人にとっては。
丁寧な暮らしっていう一つの言葉と言葉によってのパッケージングっていうのが、
なんやねんそれみたいな。
うちの親父とかはさ、家族とかは結構せかせか働く商売人の一家なので、
なんだそれ、そんなの何がいいんだみたいな風に多分言うと思うんですけど、
多分彼らにとってはゆっくり家でのんびりしているよりも、
散歩してのんびりしているよりも、
お客さんを相手にして、
こう、やっぱ動きながらコミュニケーションとって、
端から見れば忙しそう、せかせかしてるって見えるかもしれないけど、
多分身体を持って存分にお客様とコミュニケーションとっている、
自分が生き生きと動いているっていう状態があるから、
彼らにとってはそれがもしかしたら丁寧な暮らしで、
他の方が求めているようなことを得ているのかもしれないですよね。
そう考えると、お気に入りのアイテムとか、
のんびりした時間とか、
リラックスしようみたいなところに囚われなくてもいいのかなと思うんです。
実際臨床でも、
クライアントの方で、
いやこういう時間を取った方がいいんだろうなって思うんだけど、
なかなか取れないんだよねって。
逆にそれで悩んじゃうみたいな人もいるんですよ。
怖いですよね。
こういうところがまたSNSとか、
情報化社会の怖いところでもあり、
いいところももちろんあるんだけどさ、
それを丁寧な暮らしって言葉を聞いて、
自分の心身の安寧というものに気づけたっていう人ももちろんいるけども、
それを体感として、
やっぱ自分でつかめない限りは、
丁寧な暮らしってこういうものなんだろうな、きっと。
だからこういう風にしなきゃいけないけど、
なんかそれをできない私。
なんでこんなんなんだろう。
性格のせいなのかな。
幼少期にこういう経験したからかな。
12:01
星がこういう運命だからかな、みたいに。
やっぱりこう思考の中で答えを求めちゃうんですよね。
実感のどこで得られないとやっぱりそういう風になってしまう。
でもそういう方も、
僕のところに来てくれる方であれば、
僕の思想的なところもある程度見てくれてる方多いので、
やっぱりどこかで身体的な安寧というものがいいなっていう風に
多分分かってきてくれてるなと思うんです。
でも自分の力だけでは、
外側の圧力というものに負けてしまうから、
何とかしたいっていうところで多分来てくださるなと思うんですよね。
そうなると、ちょっとでも身体触れながら、
少し僕が補助するようなだけでサポートしながら、
こう触ると本人はどう感じるか、
ここをほぐしたらどうかっていうのを解剖学的に、
西洋的に東洋的に刺激していくとどんどん身体って変わっていくんですよ。
一瞬でもちょっとでも変化が出てくれれば、
あとは本人がこんなに肩ほぐれると気持ちいいんだ、楽なんだ、
自覚できていればなおさらだし、自覚できてなくても、
やっぱりね、施術しながら身体ほぐれる前と後では応答って結構変わってくるんですよね。
ふわーっと力の全身抜けてきてほぐれてきたっていうのを感じれば、
おのずとやっぱりそっちの方向に行きたがるのが本能ってものです。
ちょっとでも緩んだ、これ気持ちいいぞってなれば、
もっともっとほぐれる気持ちいい方向に行こうとする。
その方向に行ってくれれば、
身体がもう無意識にそっちの方に行ってくれれば、
それが正解だよ、そっちの方でいいんだよっていう風に理性でさらに追い打ちをかけてあげる。
こうすると身体的な、つまり本能的な身体合理性、
身体が合理的な方向に、つまり整った状態の方向に行ってくれるっていうのを、
理性で後押しすることができて、
生活すればするほど、いろんなものに触れていけばいくほど、
いい方向に行くっていうような瞬間が作れるんだと思うんです。
すごく人間的ですよね。
周りの環境とか外的な要因に影響されるだけじゃなくて、
15:04
それをこう理性で保管していく。
どっちにも偏っちゃダメなんだと思うんですよ。
身体的な、本能的なところだけで行ってしまっても、
多分どっかで行き詰まりになっちゃう。
かといって、理性のところだけで全部把握できると思い込んで、
こうやった方がいいに決まってるじゃん、みたいに、
脳の中に、思考の中に閉ざされてしまうと、
身体の声っていうのがどんどん聞こえなくなってくる。
知性っていう言葉がありますよね。
知る、性質、知性。
これって何も思考の中でいろいろ計算をしたりとか、
論理的な思考ができるかどうかっていうところだけじゃなくて、
僕らの、計算ができるとかだけが頭がいい悪いとかっていうところだけじゃなくて、
じゃあ、それだけが知性なのだとしたら、
野球でいう大谷君みたいなものがいたとする。
ピッチャーがボールをフンって投げる。
初級がインコース高めにグッと差し込むようなストレートが来て、
危ねえ、ペットボールになりそう、怖いっていう恐怖心を煽っておきながら、
今度外角低めのスライダーで外に逃げる球なんだけど、
膝崩しながらでもパコーンと打っちゃうみたいな。
これ思考がほとんど介入してない、
ある程度こういう球が来るんじゃないかっていう予想はするかもしれないけど、
その時にはもう体が無意識に反応するわけですよね。
でもそれは多分僕はできないですよ。
150キロ、160キロの球がポーン、ポーンって、
いろいろ来て揺さべられる、本能的に揺さべられてしまえば、
応答はできない。
でも大谷君はそれができるわけです。
これも知性だと思うんですよね。
これをアントニー・ダマシオとか、
スマティック関連の方は身体知性っていう言葉をつけました。
体が持っている知性というものね。
何か危ない気がするぞとか、
何か危ない気がするぞっていうものも、
ちょっと思考が生えてたりもするよね。
でもそのきっかけとなるもの、野生の感、いわゆる野生の感とか、
虫の声みたいなものっていうのは、
やっぱ最初の段階、一番最初の起こりとしては、
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それを起こしたのって身体知性だと思うんですよ。
体で何かを感じて、あれ?って思う。
それに対して思考でいろいろ解釈を後付けするもんで、
それがある種のオーカルトだったりとか、
スピリチュアルみたいなものに繋がっていくのかもしれない。
非常に人間的ですよね。
だからそういう物語を後付けてつけていくっていうのは。
でもその物語の方に飲み込まれてしまうと、
じゃあ体で最初に感じてたもの、
純粋な応答というものは、
失われてしまうリスクもあるわけだ。
陰謀論とかさ、っていうのも同じ類だと思うんですよ。
物語が今の時代を作っている、
僕らの人類史を作っているのは物語だとかっていうね、
あの、イン・ザ・メガ・チャーチっていう本がありましたけど、
本当にその通りだと思うんですよ。
やっぱ物語ってみんな好きなんですよね。
なんかその時、いい素敵なストーリーを聞くと、
僕らのそういう身体的な感覚、知性ってものがね、
呼び起こされるんだと思うんですよ。
論理的に整理されて、
ビフォーアクターが設定されてて、
こうなるよって合理的なとこばっかり見せられても、
僕らのその身体性っていうものが呼び起こされないんですよね。
でもそのストーリーっていうものに触れると、
漫画にしろ、映画にしろ、音楽にしろ、
人の話にしろ、
こういうストーリーがあって、
ストーリーを聞くことで、
こういう人がこういう風になっていった、
こういう努力を得ながら、
こういう辛いことをしながら、
こういう喜びを仲間と分かち合いながら、
こういう風になっていったみたいなね。
そういう経験を大成り小成りに似たような経験を僕らはして、
人間として生きている限り多分あるんだと思うんです。
多くの方が。
多くの方のそういう身体的な感覚っていうものを、
呼び起こさせてくれるような作品ってものが多分、
いわゆる名作って言われるものなのかなと思うんですね。
そう考えるとさ、
この名作、音楽にしろ、映画にしろ、
小説にしろ、物にしろ、
大好きなもの、陶器だったり、
服だったり、
骨董品とかもそうかもね。
にしろ、美術品みたいなものにしろ、アートにしろ。
21:03
それを見た時に、
身体性が呼び起こされる、
それだけの、どれだけ身体性が高いかによって、
その作品から受ける感動っていうものもやっぱり違うんだと思うんですよ。
感受性みたいな言葉をよく言いますよね。
これまた感受性が高いみたいな言葉っていうのもさ、
またちょっと一人歩きして、
またちょっといろいろここもね、
他の記事で書きたいなと思ってるんですけど、
感受性が高いっていうのはつまり、
身体的な共鳴が起きやすい、
自分の体の反応が起きやすい人っていうことですよね。
悲しい話を聞いたら、
すっごい悲しい時の体の状態っていうのが再現されるとか、
人が喜んで話してるのを聞くと、
自分の嬉しい時の感覚っていうのが、
ワッと立ち上がってくるような、
ある種そういう柔軟な体っていうのを持っているっていうことだと思うんですよ。
ただ感受性が高すぎてしんどくなるみたいなのは、
その身体がワーッと立ち上がってきた時に、
それをフラットに実感して、
理性でうまくコントロールっていうか、
介入することができないと苦しくなっちゃうなと思うんですよね。
トラウマとかだと結構説明しやすいんだけど、
嫌な経験、
悲しい物語を見た時に、
自分の悲しかった時の体の状態が再現される。
その悲しかった時の体の状態って、
やっぱり多くは苦しい感覚です。
胸がギューっと苦しくなって、
物理的にやっぱり筋肉の緊張が走る。
呼吸も浅くなるし、
手足ももしかしたら冷たくなるかもしれない。
動機もドキドキドキってしてきて、
人によって油汗が出てくることもあるかも。
こうなった時にその感覚に飲み込まれてしまうんですよね。
ギューって固くなってきたんだったら、
それに気づいて、ふっとはいかんはいかんって、
力を抜けばいいだけの話なんですけど、
本人はもうそれしかできなくなっちゃって、
それに飲み込まれてしまっている状態ね。
ある種、すごく野性が強いとも言えるのかもしれないなと思うんです。
で、その野性が強い、感受性が高い、
身体的な共鳴が起きやすい、
そういう身体性が高い人が苦しい状態になった時に、
24:01
今あふれている腸音っていうのは、
そこを餌にしてビジネスにしていく、
金に変えていくっていうようなものがあったりするんですね。
これを感情資本主義とかっていう風に言ったりします。
物語を人々のその身体性を喚起して、
商品を買ってもらうっていうところに利用して
やっていくっていうものが結構あったりするんです。
この商品は私のためのものだ、
この商品があれば私のこのモヤモヤは晴れるのかもしれない、
っていう風に利用されてしまう。
これも難しくってさ、やっぱり支持されるものっていうのは、
本当そうだと思うんですよ。
感受性、身体性を喚起させるものであるっていうのは、
すごく素敵なことなんだけれども、
最初からそこを目的に、
人々の感情を揺さぶるんだっていうところを目的に
作ってる商品って、
なんかね、順番が違うっていうことに対しての嫌悪感なのか、
やっぱり偽物感っていうものがそこにあるのかもしれないけど、
僕はすごく嫌なんですよね、それが。
ただ純粋にこの映画を撮るときに、
人々に伝えたいというか表現したかった、
誰かにこれを共有したかったっていう、
なんかすごく個人的な動機から始まるものが、
多分そういう作品であったほうが、
なんかいいなって僕は思ったりもする。
こういうことを妻とかに話すと、
ちゃんとおじさんになってきてるねって言われるんですけど、
あの、そういうふうに思うんですよね。
子供、自分の子供とかにこういう話をしたら、
はいはい出ました、おじさんの卵と、みたいに多分言われるんだろうけども、
だから伝え方とか話し方は気をつけなきゃなとは思うんですけど、
やっぱり僕はそう感じている、今のところ。
でもね、なんかこう、そういう感情資本主義的なところで
生み出された作品の中にも、明らかにやっぱ、
僕だったり他の人、多くの皆さんを、
多分いい方向に連れて行ってくれるものとかも、
空発的に起きたりっていうことももちろんあるんだろうと思うから、
一概に批判はしないんだけれども、
あからさまにそういうのを感じるものっていうのも結構あるわけです。
27:00
いわゆる、なんだろうな、こう、
ランディングページみたいなのはそうかもしれないね。
あの、僕、いやでもちょっとまた話が長くなりそう。
サジー、サジーって皆さん覚えてます?
覚えてますって今の若い人は知らないかもしれない。
数年前って言っても、
ちょうど生まれるか生まれないかくらいだから、
多分6、7年前くらいかなと思うんですけど、
サジーっていう、なんかこう、すごい貴重な果物が、
どっかの遠い国のところで取れて、
それを、それがすごい良いものだから、
ちゃんと製品化できるような努力を重ねながらそういう製品作れました。
飲んで、いろんな栄養素を摂取できる。
特に女性の悩みとかにもすごい効果的ですよみたいな、
売り文句で出してる商品があったんですよね。
僕そのLP、ランディングページ、
そのインフルエンサーとかが当時のね、
これすごい良いよみたいな感じで出してたんで、
妻がこれちょっと飲みたいみたいなこと言ったんですよ。
僕そのLP見た時に、
すごい売る感じ、いかにも通信販売って感じのやつで、
なんか嫌だなみたいな話をしながら、
一応飲んでみるか、みたいな。
妻も妊娠中だったので、
まぁいいって言うんだったらちょっと試してみようみたいな感じでやったんですよね。
そしたらさ、飲んだらすごい良いんですよ。
なんか僕も単純なのかもしれないけど、
実際に飲んだら味も僕はそんなに苦手じゃなくて、むしろ好きで。
飲んだことある方います?
結構独特ですよね。
なんか渋い感じだったり酸っぱい感じだったり、ちょっと甘み入ってて、
いかにも体に良さそうな無害じゃない味っていうのかな。
ちょっとリスク所定飲んでますみたいな感じがまた体に良さそうな感じもするんですよ。
そういうのを飲んでたら、すごい次の日の寝起きもいいし、
一日元気に動ける気がするしっていうので、
すごい良かったんですよね。
しばらくたぶん続けてたんじゃないかな。
まだ飲んでたの。
で、僕がそれをランディングページとか見た時に、
この商品こういうものですよってストーリーに載せられて、
だからこういうのを特別科学でこういう風にご提供しますっていう風に
売り文句に出された時にすごい嫌悪感を感じた。
だけどなんだかんだでそれを購入して実際飲んでみたら、
すごく良い状態っていうものが自分の体に起きたわけです。
体感としてそれがあったわけだ。
30:01
それが科学的にどうなのかとかわからないけども、
実感として良くなったっていうのは一つの事実ですよね。
こういう経験もあったりするんですよね。
感情資本主義っていうのに対してすごく嫌悪感を感じつつも、
でもやっぱりその商品と出会うためには、
なんかそういう道のりもあるんだろうなとかって思うと、
僕もこうやって話したりとか、
皆さんにいろんなことをお伝えしたり、
実際施術したり、
セッションしたりっていうところでお金を得ている意味としては、
資本主義の中に身を置く、
自分としてはなんかちょっと複雑な気持ちになるわけです。
どういう風に皆さんにこれを受けてもらえるかな、
でもあんまりわざとらしくしたくもないな、
でもわざとらしくある程度しないと、
実際に手に取ってもらえる人も少なくなっちゃうかもなっていう、
そのギリギリの悩みみたいなものが、
多分多くのビジネスバーソンだったりとか、
クリエイターの方の悩みのところだと思うんですよ。
多分これに対しては答えはないんじゃないかなって今のところは思ってて、
言うて今まだ35、36くらいの若造が何言ってんだくらいに、
5、60歳の方とかには言われそうかもしれないけど、
今のところはわかんないです。
でもだからといって、
いや、買ってもらわないともうしゃーないんだからそっちに振り切るとか、
いやもうこれわかってもらえなくてもいいから、
俺はこの路線で行くみたいなものも、
どっちも独りよがりには感じるし、
どっちがいいんだろうなーみたいなものを抱えながら、
こうやってポッドキャストとか聞いてくださっている皆さんの反応とかをね、
実際に見ながら、実際にその声とかっていうのを聞きながら、
面と向かってそういうリアクションとかいただきながらやっていくっていうのが、
何より自分の思考の中に閉ざされなくて、
一番いい状態なのかなっていうふうにも思うわけです。
なんかいろいろちょっと話が広がりすぎちゃったけど、
何の話しようと思ったんだっけ最初。
丁寧な暮らし。そうだね、丁寧な暮らし。
つまりは僕らが感情が動くときとか、
こうだみたいに確信を持って何かをするとき、
もしくはなんとなくこうかなーみたいに思うときっていうのは全部、
やっぱこう体が先立って応答してるんですよね。
そう考えると体を少しでもいい状態に整えてあげて、
なおかつそれを理性で理解していく。
すごくこう、物語的な素敵な、
33:03
素敵な表現をするとすれば、
それが体の声を聞くっていうことにもなるのかもしれないし、
って思ったんですね。
はい、そんなことを
堀坂ゆうたさんの平成っていうアルバムの
寂しさっていう曲から、
いろんな試作を重ねていたところで、
今日ぽっときはこの話をしたいなと思って話させていただきました。
いやー今日の分だらりって感じだったかな。
ちょっとせわしなかったかな。
わかんないけど、
またちょっとこういう話盛り込みながら
ちょっとでも皆さんの
いいなって
身体合理、
身体合理性の方に向かうような
生きた心地、手触りっていうものを
呼び起こさせられるような話になっていたら嬉しいなと思います。
ということで、身体の教養ラジオ大沼達也でした。
今日も分だらりと皆さん一日、いきましょう。
34:23

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