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自分探しの答えは、〇〇にある。
2026-04-01 28:03

自分探しの答えは、〇〇にある。

MBTI、HSP、エニアグラム。自分を知るためのツールは、たくさんあります。

でも、ラベルが増えても「自分がわかった」という実感が来ない、という方が少なくないんですよね。なぜなのか。

千葉雅也『センスの哲学』にヒントがありました。千葉はセンスを「直観的にわかること」と定義しています。分析して導くのではなく、パッとわかる力のことです。

この「パッとわかる」が機能するには、前提があります。身体が感じ取れる状態にあること。呼吸が浅く、肋骨が動かず、身体が「感じること」を後回しにしていると、直観の回路そのものが鈍ります。だからラベルで補おうとするわけです。

施術を重ねて身体が開いてくると、面白いことが起きます。「今日はなんか魚が食べたい」「いつもと違う道を歩いてみた」。小さな「選ぶ」が戻ってくる。自分を見つけたわけではなくて、身体が選べるようになっただけなんです。

「自分がわからない」のは、頭のせいではないかもしれません。

話している人についてhttps://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

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皆さんこんにちは。大沼竜也です。 身体の教養ラジオ。今日ものんびりと始めていきましょう。
今日はね、タイトルの通り、自分がわからないっていうことについて話していこうと思います。
自分がわからない。 こういう悩みって、近代病、現代病みたいに言ってもいいくらい流行ってますよね。
かく言う自分も、思春期とかは特にね、こういう悶々とした答えがないのかもしれないけど、すごくやっぱ苦しみました。
最近の自己肯定感とか、自己理解みたいなものの類だと思うんですね。自分も。
何かモヤモヤするっていうところですごく苦しかった。
実際クライアントの方でも、こういう症状と言っていいのか、こういう状態で苦しんでる方っていうのは結構多いと思います。
実際インスタとかポッドキャスト見てくださってる方の中にも、質問とかも結構いただいたりするんですよ。ありがたいことに。
いろいろ自己分析のツール使ったりとか、最近で言うとMBTIとかね、あとHSP診断とか。
自分なりにその適応障害の判断基準を自分で照らしてみたりとか。
とにかく自分のことを知ってみようっていうところから、やるといいよっていう言説もあるし、やってみようっていう風にやってくださる方って結構すごく多いんですよ。
真面目な方ほどやっぱそうですよね。
だけど、確かに自分ってこういうところあるなって納得するんだけど、
納得するんだけど、なんか実感が湧かないっていうことが往々にしてある。
自分のことなのに、なんか他人事のような気がする。
これによって、なんかその時はね、やる気が出たりとか興奮できるかもとか思うんだけど、
いまいちこう続いていかないっていうんですかね。
まあ知ったけど、なんか負に落ちないっていうことが結構あったりするんですよ。
いかにも有効そうなのね。自分のことを知ることで、なんか対処法がわかるとかさ、
なんかそういう文言で、いろいろ本を読んだりとか、自分のことを理解しようっていう風に努力をしたりすると思うんですよ。
これって実は、その頭で理解するっていうところが悪いわけでもなくて、
自己分析っていうのが足りないわけでもなくて、
継続力がない、努力ができないっていう、そういうわけでもなさそうなんですよ。
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体が閉じてしまっているのが原因かもしれないよっていう話をしていきたいと思います。
自己分析ツールって本当によくできてると思います。僕自身も。ごめんなさい。
僕自身もね、結果読むと、そうだよねそうだよね、確かに自分ってこういう人間なんだよなっていう風に、
なんかパズルがはまったようなアハ体験みたいなのが感じることもあります。
でもその納得感っていうのは、例えるなら、なんかこうレストランで美味しそうなメニューを読んでいる状態に近いんです。
このハンバーグは肉汁たっぷりで、絶品なんだな。肉汁っていうのかなこれ。
なるほど私はこういうのが好きなタイプだよなっていう風に理解していく。
実際に食べて、ああ美味しいこの柔らかそうなこうさナイフを入れてさ、
とんとんスコスコスコって入れていくとき、肉汁がブワーって溶けてきて、
鼻にその肉の香りが出てきてさ、ステーキソースの風味がフワーってなって、
口に入れると口の中でトローと溶けたりフワーとなったり、歯ごたえが肉のいい感じになったり、
腹減ってきた。自分で言ってて。
これまさに喉が唸るような、うまっていうような、美味しいっていうような、
生々しい体の反応っていうものがあるのが実感ですよね。
私は境界線が高いタイプだっていうような、ある種知識としてのメニューっていうものを手に入れたとしても、
実際に心が震えるような、体がこうするような体験、ハンバーグでいうその味が伴っていないと、
そうなってしまうと、いくらこのメニューを集めたとしても、
自分が分かったっていう手応えにはなっていかないんですよね。
本当の意味での自己理解とか自己分析っていうものには、
この体の観点を抜かしてしまってはなっていかないっていうことなわけです。
自分っていうのは、自己分析っていうのは、いわば過去の自分のパターンの集計なわけです。
あなたは今までこういう行動を取ったからこういう性格ですねっていうふうに言われていたりとかする。
もしくは先生術とか占いの類とか、そういうものがちょっと変わってくるかもしれないけど、
でもこれが自分だっていうふうに強く実感するっていうのは、
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その統計的なデータを見た時じゃなくて、これにそれを思い出した時に、
あ、そうだそうだって実感できた時なんだと思うんですよね。
つまり言い換えれば、今この瞬間に、過去のその時の瞬間に、
体が反応したっていうその実感なわけです。
ハンバーグ、あなたはハンバーグが好きですっていう自己分析が出たとする。
そんなのないか。なんかもっといい例えないかな。
あなたはすごい内向的で、すごくこう真面目に一人で黙々と集中するタイプですねみたいに言われた時に、
ああ確かにそうだな私ってそういうことやってたなーっていうよりも、
ああ確かに私一人で色々こう物事勉強したり本読んでる時って、
その物語、小説の物語の中で自分の心がこう震えていく。
胸が高鳴っていくような感覚っていうのがすごくやっぱ好きだと。
だから本読むこと好きで、この自己理解のところにもその自分が現れてるんだなっていう風に納得していくんですよね。
だから理屈抜きに、ああこれっていいな、好きだ、最高っていう風に思う。
理由は分からないけど、私ってファッション好きだなとか、
私って数字扱ったりするの、黙々とそういう数字扱ったりとかするの好きだなとかっていう風に感じているんですよね。
で一つ引き合いに出すと、センスの哲学っていう千葉雅也さん著の本があります。
そんなに古い本じゃないんですけど、ぜひ手に取った方もいるかもしれない。
まだ読んでないよって方はぜひちょっとちらっと見てみてください。
この中でセンスの哲学の本の中で千葉雅也さんという哲学者の方が、このセンスって何なのっていうことをいろんな角度から分析しているんですよね。
センスって皆さん何だと思います?
なんか僕はイケてるとかかっこいいみたいな意味合いで使ってたんですけど、
この千葉雅也さんが言ってたセンスっていうのはイコール直感的に分かることだっていう風に言っているんだと思うんです。
僕はそう読み取りました。
理由はないけどパッと分かる感覚っていうのがこの実感の正体なんだと思うんですよね。
だから言い換えれば自分が分からないっていう風に悩んでる人も体を見ていくとやっぱり怖まっていたりすることが多いです。
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呼吸が浅い、首肩がもうガッチガチに硬かったりとかね、お腹も緊張して内臓の動きとかも分かりはしないっていうこと。
もしくはね、本人の感覚っていうところでも分かります。
全然コリとか痛みとか苦しさとかないですよっていう方も触ってみるとものすごいガチガチだったりとか、
もしくはね、本人のその感覚っていうのが不快な感覚の方にすごくフォーカスが当たりやすいっていう状態もあったりします。
触ってみるとすごく柔らかいんだけど、不快な方に敏感なんですよね。
不調があった時に、例えば肩がギューっとこうこわばるとする。
そのこわばるっていうものに対してすごく敏感なんですよ。
もっとね、体が緩んでる瞬間っていうのもたくさんあるはずなんですよ。
お風呂、いろいろ話を聞いていくとお風呂がその方が好きだとか、鼻が好きだとかね。
音楽とかも聞くの好きで、一人でゆっくりする時間がすごく癒やしだっておっしゃるんだけれども、
その時の体の状態どうなってるかっていうのがなかなか思い出せなかったりするんですよね。
パッとは出てこないっていうのかな。
だけど、職場でのその自分、他の人たちと同僚とかと関わる時の、
嫌だなーって感じた時、思った時、その時の肩のこわまりとか、首の軋みとか、
お腹がグーって固まる感じっていうのにはすごく敏感なんだ。
なんでかっていうと、その方の言語化、使っている言葉のラベルっていうものが
不快に接続しているものが非常に多いんですよ。
あーこれ好きだなーって思ったものよりも、
私は引き続きが苦手なんだとか、私この仕事向いてない、好きじゃない。
なぜなら、今までの経験としてこうだから、私は生まれつきこうだから、
星がこうだから、相手があーだからっていう風に、
いろんなね、その自分の不快な反応っていうものを、ある種正当化させてしまうような
言説っていうものをたくさん自分の中に揃えてしまってるんですよね。
私は人付き合いが苦手だっていう、なんだろうな、
ちょっと最もらしい論理構造みたいなものを言葉で持っていることによって、
嫌だって思うってことは体が怖まってるんですよ。
体が嫌がってるっていう表現でもいいかもしれない。
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怖まって防御状態になってるわけだ。
これを肯定してしまうことになる。
さらにそこを、そこに焦点が当たるようなことになってしまうわけなんですよね。
でもね、ちょっとこう意識を見るところ、焦点を変えてみれば、
体がただ怖まって防御的な反応を起こしてるだけっていうふうにも言えるわけです。
嫌だなっていう思う人付き合いしてる時、体がふわふわに緩んでいて、
めちゃくちゃ心地いいような感覚っていうものが全身で感じられていた場合、
多分その会話って楽しいんですよ。
話せば話すほどどんどん体がほぐれていく。
体がどんどん気持ちよくなっていくっていう環境であれば、
多分その会話って楽しいはずなんです。
これがたくさん経験として積み重なっていけば、
あ、私って人付き合い好きだなーってなる。
で、体も緩んでるもんだから、存分に応答できますよね。
あの、のりつっこみとかっていうのがありますけど、
すごくテンポがいいと思うんですね。
そういう楽しい会話っていうのは。
独特なリズムっていうのがあると思います。
ある種、身体運動の延長なんですよね。会話っていうものも。
だからこそ、うっとこわばって固まってしまってると、
思うように言葉が出てこないし、
思うように相手の言葉もリズムよく入ってこなくなってしまうんです。
意味はわかるんだけど、身体的な交音ができない。
そうなると、やっぱりコミュニケーションっていうのは苦しくなってきますよね。
こうしたいのに、こういうふうに受け答えをしたいのにできない。
だから、いろいろそれの答え、解決策を求めて自己分析をしたりして、
私はこういう語彙力が少ないからきっと会話できないんじゃないかな。
本に書いてあったしな。
じゃあ語彙力たくさん学んで、行ったらできるかもって思うけど、
身体が問わされているから、
言葉がうまく出てこないっていうのは変わらなかったりもするわけです。
こんなふうにね、
身体っていうのは、感じることっていうのをどんどん後回しにしてしまう。
そういう癖が今の人間にはあります。
センサーがオフになっているからこそ、
どんなに頭でこれが私だ、これが私の強みだ、これが弱みだっていうふうに分析したとしても、
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肝心の嬉しいなあ、心地いいなあ、これ嫌だなあっていう信号が、
まともに脳に届かない限りは、
後回しになってしまう。
いわばすごいたくさん分析して、自分のこといっぱい文字起こしして、
表とかも書いてってやったとしても、
こうやって自己分析持ってても、
自分の身体の感覚、足腰っていうものがしっかりしてなければ、
麻痺して一歩も歩き出せないような状態になってしまうんですよ。
本当の自分っていう動かない正解っていうものが、
どっかに埋まってるわけではないんですね、つまりは。
自分っていうのは、探して見つけてあったって見つけるようなものじゃなくて、
日々の小さなその選択とか反応、
交音の中で、コミュニケーションの中で作られていく、
現象でもあるわけです。
今日はなんとなく魚が食べたいなあ、
いつもと違う道歩ってみたいな、
なんとなく今日こっち行ってみようかなって。
そういうちょっとした直感で何かを選べた時に、
そこに私、あなたっていう実感が少しずつ立ち上がっていく、
それの連続なんですよね。
臨床の現場でも体が緩んでくることで、
それまで私何がしていいか分かんないな、
やりたいこと分からないなっていう風に言ってた方も、
何かふと散歩したいなあと思って散歩始めたとかっていう風にね、
口にし始めたりします。
何か体を動かしたくなって、
気づいたら毎日走ってるわっていう方もいたりします。
劇的な変化じゃないかもしれないけども、
明らかに外から見ても変わってますよね、それってね。
成功してる人は毎日このくらい走ってるらしい?
やってる奴がいるから俺も負けないぞ。
私だって努力してこういう風に成功するんだ。
だから走るぞっていう時よりも、
走ると楽しいから、走ると気持ちいいから走るんですっていう方であれば、
どっちが続いていくかって考えたら、
もう答えは明らかだと思います。
治療の中でも僕自身はこういうことをすごく意識してます。
自分でもそうだったからね。
こういう風に決めた。
こういう風にやるぞ。
自己分析をして私はこうだ。
だから自分に合った戦略はこうだから、
これを決めてずっと続けるんだ。
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しんどいんですよね。
でもそんな生き方。
ちょっとあえてそんな生き方って言いますけど、
身体っていうのが、僕らっていうのが生きた存在っていうものを、
存在だっていうものをある種こう無視したちょっと暴論にも思えたりするので、
ちょっと強めに批判しておこうと思います。
そういう戦略的な生き方みたいなものね。
いや、戦略的な生き方そのものを批判してるわけじゃないんだけど、
そこに身体制が入り込んでいるか、
そういう余地があるかっていうのは非常に重要なところだと、
僕の立場からするとすごく思うわけです。
実際それで体壊してる方がたくさんいるからね。
そんな風に今まで努力で頑張って生きてきた方にとっては、
物足らない部分があるかもしれないね。
苦しくないから。
でも苦しくないっていうところで、
自分がどういうふうに動いていくのかっていうものを、
ちょっと俯瞰するように、
ある種その直感っていう無意識の部分で、
自分がどう反応していくのか、
自分が何を選択していくのか、
自分はどんな人と関わろうとしているのか、
どんな人が目の前に現れるのか、
どんな仕事が降ってくるのかっていうのを、
ちょっと俯瞰しながら、
どうなっていくんだろうな、
自分ってワクワクするような気持ちっていうのを、
こういう直感で自分のことに気づくっていう瞬間が増えていけばいくほど、
なっていくんだと思うんですね。
とにもかくにもやっぱりさ、
いろんな人に関わっていったりとか、
いろんなことを経験していったり、
つまりは実感していかないと、
自分っていうのは分かる用がないんですよ。
どれだけ分析してもね、
言葉の中で分析しても、
言葉とか記号の中で分析しても、
それは結局過去に自分が実感したことを記号化して、
組み合わせているに過ぎないからです。
もちろんそれが意味ないってことはないんだけれども、
ここに書いてある自分の自己分析の結果って、
あの時のこういう感覚に接続してるな、
この感覚のことだなっていうふうに、
ただの記号として扱うんじゃなくて、
自分の実感として、
自分の中に置いておいてほしいんですよ。
そういうふうな癖をね、
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ちょっとでもつけておくことで、
体が選ぶ力っていうのかな、
なんかそういうものが身についていくのかなと思います。
僕がこう、SOMATIC STUDIOとかの中で、
お伝えしている身体の教養、
身体の教養っていうのは、
まさにそういうことなんですよね。
なんかそれが自分探しの、
ある種迷路から、
抜け出す唯一のルートでもあるんじゃないかな、
というふうに思います。
自分が分からないのは、
まとめるとね、
自分が分からないっていうのは、
あなたの、なんだろうな、
能力が劣ってるとか、
努力が足りないからとか、
診断結果が間違ってるっていうからでも、
ないんだと思うんですね。
ただその感じるための回路みたいなものが、
体の懲りと一緒に閉じちゃってる。
それによってその実感に続く、
言葉っていうものが、
忘れちゃってるっていうことがあるんだと思います。
頭で一旦自分を探すのを、
一旦ちょっと止めてみて、
まず深く深呼吸して、
まあありきたりだけどね、
深呼吸して自分を、
体を緩めていくとか、
まあそうするだけでも、
今ちょっと力んでたなーって、
気づくことにもなるし、
なんとなくこれ楽しいかも、好きかも、
なんとなく嫌かもっていう、
ぼやんとしたものこそ大事に、
してあげてほしい。
その時必ず体っていうのは反応してます。
いいなー好きだなーっていう時、
体は心地いいはずです。
なんとなく嫌だなーっていう時、
体はなんか嫌な感じがするはずです。
どこかが固まって怖がってるはず。
いつもよりね。
でその直感っていうところで、
今日のお昼ご飯とか、夜ご飯とか、
着るお洋服っていうものを選んでみる。
なんかこれいいぞ。
この服にはこの色が合うからなーとかさ、
あのー今日はこの場だからこういうのがいいなーって、
もちろんそういうのも大事だと思うんだけど、
それでやっぱりいいなーって、
気持ちが盛り上がるなー、
つまり体がこうしてるなーっていう感覚があるからこそ、
私これがいいなーなんとなくっていう風に言えるわけですよね。
よく心の中にギャルを買いましょうとかっていう言葉あるじゃないですか。
あれ僕すごく好きで、
全然自分はギャルじゃなかったんで、
ギャルじゃなかったんでって、
男の場合ギャルっていうのが、
ギャルをっていうもんね。
あれってすごく身体的に生きてるみたいなことでもあると思うんですよね。
あのーよく若者言葉でヤバいとか、
もう今は若者じゃないかヤバいっていうのは、
僕平成初級生なんですけど、
24:00
あのーヤバいとかっていう言葉は普通に使ってたけど、
よくさ本とか新聞読むと、
あのー若者の語彙力が低下してて何ちゃら何ちゃらとかって書いてあるのよく見てました。
でもそのヤバいの中にいろんな意味合いが含まれてる。
日本語ってそういうのすごく多いんですよね。
一つの言葉でいろんな意味を持ってるみたいなもの。
文脈によってそのヤバいの意味が変わるっていうものもあれば、
ありますよね、文章の中で。
その時の相手の応答によって自分の言い方とか反応によって、
そのヤバいの意味合いが変わってきたりもするわけだ。
ある種すごく身体的な表現、言語でもあると思うんです。
ヤバいっていうのは何か良くないとかさ、
あのーそういう直感で生きる、
つまり身体性が高いからこそできるのが多分ギャルの生き方なんだと思うんですね。
なんかちょっとテーマが変わってギャルの話みたいになっちゃったけど。
何が言いたかったかっていうと、
自分っていうのは頭の中だけじゃなくて、
あなたの骨とか筋肉とか皮膚とか人体とか内臓とか、
そういった全部ひっくるめてのその体の感覚の中に隠れている。
あなた自身っていうものがそこに隠れているはずだよっていう話でした。
だからね、あの自己分析、自己理解みたいなものを書いたりとかしてもいいんだけども、
その時にじゃあ自分の実感としてはどうだろうって、
実感に負に落とせるかっていうところを一つ基準にしてあげるのはすごく大事。
なおかついろんな人と、
あ、そう、本を読む、若者用、本を読め、街に出ろっていう言葉が多く好きなんですけど、
本を読むのは大事なんだよ。
こうやって記号を知ったりするのね。
自己分析でこうだこうだって知るのは大事なんだけど、
その、あ、こうだなって納得した、負に落ちるなみたいな体験っていうのは、
街に出てやっぱその体感を増やさないと話にならないんですよね。
だからやっぱ人生経験が豊富になればなるほど、
いろんなものを読んで、いろんな音楽聞いて、いろんな映画見て、
感じるものって変わってくるんですよ。
頭の中に思い浮かぶものってね。
だからこそそういう身体経験、身体的な経験たくさん増やすために、
街に出て、人に触れて、いろんなもの食べて、
いい思いも嫌な思いもひっくるめて、
体で言えば嫌な感覚もいい感覚もたくさん受け取ることで、
その時々の小さな反応っていうものが積み重なって、
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自分というものが分かってくるんだと思います。
だから僕自身も、俺ってこうだなーみたいなものって、
なんとなくぼやんとはあるけれども、
時々ここと変わっていくものだとと思っています。
変化していくもの。
変化していくものだっていうところに自分の軸を持てると、
ある種、今の言葉で言うレジリエンスとかね、
自分のある種のしなやかさというか、
繋がっていくのかなと思います。
ちょっと取り留めのもない話だったけれども、
1週間ぶりのポッドキャスト、こんな感じで終わりにしたいと思います。
それでは今日も一日のめんならりといきましょう。
またぜひ聞きに来てください。大沼達也でした。
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