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こんにちは、大沼竜也です。眠いね。 春が来た証拠かなと思ってるんだけども、月曜日、
土日の疲れが来たりしませんか? 仕事とかもね、なんかこうエネルギー、
エンジンがかかるまでちょっと時間かかるっていう人もいるかもしれませんね。 僕はとにかく花粉症がね、あの小学校の頃からずっとあって、
花粉症でさ、あの 少年野球やってたんですよ。
で、そうするとこう 球場、野球をやる球場とかクラウンドみたいなところって
だいたいね、木々に囲まれているわけです。 木々に囲まれている、その木々ってさ、
杉なんだよね、だいたいが。 もうね、ほんと小学校の頃からもう杉を見ると、
はー、でもげんなりしちゃうくらい、 あのー、杉が憎い。
って思ったりもすることもあります。今でもね。 あのちょっと、
まあ僕の住んでるとこも田舎なんであれなんですけど、 ちょっと車でボーンって山をね越えて、どっか行くぞーみたいな時は、
その山をさ、運転しながら見てると、 風でなんかこう黄色いオレンジ色みたいなのが、
ふわーってなったりすると、もうこの話してるだけで最後になってくるわ。 ゾゾゾゾーってなりますよね。
まあこれも、 なんだろう、ある種のトラウマ的なメカニズムで体に染み付いてるって言ってもいいのかもしれない。
でまあね、あの、 ある種、あのそういう花粉症とかと立ち向かうのもね、あの付き合っていくっていうのも、
えーと、僕らの工夫で、
いく分かは楽しく過ごせるようになると思うので、 風を止めようと思っても無理だし、水の流れを止めようと思っても、
それはね、あの、 傲慢な人間のエゴでしかないのでね。
花粉も頑張ってんだなと、スギも頑張ってんだな。 スギちゃんも頑張ってんだなっていう気持ちを持てるように、ちょっと現代医学の力を借りながら、
なおかつ体を緩めていって、 睡眠食事ちゃんとって、
あの共存していこうと思っていますって何の話してんだろうね、最初から。 最初の入りがちょっと長いのがどうかなと思ってるんですけど、
ちょっとあの僕のアイドリングも兼ねて話させてくださいね。
はいじゃあこう改めまして、今日は自己肯定感の話をしたいと思います。 自己肯定感っていう言葉よく聞けますよね、たくさん。
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もうここ数年ぐらいずっとかな、特にSNSとかでも多いし、 あの本屋さんとか行ってもこの単語っていうのはまあ見ないことがないですよね。
こう、自己肯定感低いのはダメ、高くしていこう、そうすれば全部が、まあ全部どうやらないか、まあ良くなっていくよっていうのが流れていく。
仕事がうまくいかないのは自己肯定感が低いから、恋愛も人間関係も自己肯定感が低いから、
それ低いのをなんとかできる。 そう書いてあるとさ、なんかこう気分が迷ってる時とか落ち込んでる時とか弱ってる時って、
なんか私自分自身がね、うまくできないから自己肯定感低いんだろうなと、高めたいのに高められない。
私が悪いのかなっていうふうに思っちゃうっていうことも結構あるんですよね、やっぱり。
僕は新給員をやっていたり、まあ対人支援Somatic Studioとか通じていろんな方のセッションしたりとか、
あとオンラインでやり取りをさせていただいたりとかしてるんですけど、悩みがいろいろあって、
最近になるとね、こういう自己肯定感という言葉がもう日本語として定着してきたからこそ、
自己肯定感を高めたいんだけど、うまくいかないんだと。私って自己肯定感が低いんですよっていうようなね、あの、
言葉をもらったりとかします。 その中には本もたくさん読んだし、
例えばアフォーメーションみたいなものとか、認知行動流行的な、なんだろう、こういうふうに思おうと。
それからジャーナリングって言って自己分析とか、自己理解みたいなものも一生懸命やったと。
なんかいける気がする。 セミナー行ったり、
仕事頑張って打ち込んだりして、 なんか私って最強かも。何でもできちゃうかも。
なんだ、やればいけんじゃない?みたいなね、
ある種のこう、高揚感みたいなものがそのために湧いてきたりすることもあるわけです。 だけどふとした瞬間に
やっぱり自分はダメだっていうふうに戻ってきちゃうと。 これを繰り返して何年も同じところを回ってる気がするって
いう方もいるんですよね。なんかずっと同じことを繰り返してるんじゃないかって不安になると。
そういう方の体のこととか、その人自身が感じていることってその人からしか聞けないのでね。
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あとは触れる場所にいて、僕がこう触って、 触りながら体がどう反応しているかっていうのも一緒に見ていくことがあるんですよ。
こうすると、やっぱりね、 首、背中、
胸隔、胸周りとか、それから肋骨の動きだよねっていうところ、 呼吸が浅かったり、
横隔膜周りも固かったり、お腹も緊張してたりとか。 中にはこう、
しゃべっ、臨床で触りながら、そのお悩みのこととか、 自分自身でこう悩んでる、苦しんでるっていうことを話してもらい出した途端に、
いろんなところがこう暴ってくるっていうことがあるわけです。 緊張してるんですよね。
何かから自分を守ろうとしている。 つまりこれは僕の言葉で言うと、閉ざされているっていうふうに言ったりします。
今日はこの話を、 だいたいね、今2026年でしょ。
1980年くらいの、 違うな、1890年か。
100年以上前ですね。 ある心理学者の言葉を手がかりに
解説をしていこうと思います。 今日この話をね、ポッドキャストを聞いていただいて、
自己肯定感っていう言葉に苦しめられてるっていうことに、 気づいていただける方が
いたらいいなと思います。 それでは、
まず、ウィリアム・ジェームズっていう方。
この話をね、この人の話を中心に今日は展開していきましょう。 アメリカの心理学と哲学の
父っていうふうに言われています。 哲学の父、心理学の父。
で、やっぱそうですね、1890年に出した 心理学原理っていう本を出されています。
この方のね、その本の中に有名な一節があるんですね。 例えば今まで、今もね、そうかもしれないんだけど、割と常識的には
悲しいから泣くんだと、怖いから逃げるんだ。
嬉しいから笑えるし、心もほどけてくる。 そんなふうに言うわけです。まず感情があって、体がそれに従うっていうふうに
一般論としては言ったりしますよね。 でもウィリアム・ジェームズはこう言ったんです。
それは逆だと。 泣くから悲しい。
逃げるから怖い。 笑うから嬉しいんだっていうふうに言ったわけです。
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つまり、体がまず反応している。 心拍が、心臓のドックンドックンが速くなって、
筋肉が緊張して、呼吸が変わると。 その体の変化を脳が読み取ったものが僕たちが感情と呼んでいるものだっていうふうに言ったわけです。
まあ130年前の話なので、今の神経科学とかから見れば単純すぎるところはあるんですよね。
体から感情の方に行くんだっていう一方通行を論じたので。 でも、あの
本当は脳と体の間っていうのは僕らの認識とその身体の間にはフィードバックのループがあるわけです。
泣くから悲しいっていうのもあるし、悲しいから泣くって両方あるんですよね。
でも、こういうふうな修正っていうのも
当時はもう感情っていうのが最初に湧き立ってきて、それが体の反応として出てるんだ、それ一辺との考え方だったものに、ウィリアム・ジェムスは言いを唱えた。
それらが合致して現代の理解につながっていってるわけです。 ここで僕が着目したいのは感情っていうものの基盤として体があるっていうことなんですよね。
これ自体は否定されていません。 皆さんもね、あの実感事としてあると思うんです。ほぼ同時に多分起きていますよね。
泣いてるから悲しいし、悲しいから泣くっていうの。 泣きそうになるとかっていうのもあるじゃないですか。
泣く時の感覚って独特ですよね。 多分それぞれ皆さん感じているものがあったりとか
表現の仕方っていうのも変わってくると思うんですけど、 僕割と泣くときってこの辺にくるんですよね。
鼻とか目とか、奥の方にツーンとくる感じで、フングフングみたいになっちゃうんですよ。
かっこいい男泣きとかができなくてね。 スポーツとかやってた時も
なんか最後の試合みたいになると、ちょっとこう 泣きながらも
笑いながら
こう、悲しい寂しいんだけど楽しく最後の試合をするみたいなのがあるじゃないですか。
あれ無理だったね。もうなんか ヒックヒックみたいになっちゃうんで、全部。
まあちょっとどうでもいいんですけど、こういう人のそれぞれ泣いた時の体の状態っていうのが多分あると思うんですよ。
思い出せる、ああこの感じだっていうのね。 その感覚と
実際に涙が出たりどうだったって言われた時に、いやー悲しかったとか寂しかったとか、怖かったとか
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いうそういう感情、ラベルがつく感情というものはセットなんですよね。 ここでちょっと自己肯定感の話に戻ります。
このね、自己肯定感っていう言葉を見てみると
最後の文字に感っていう文字があります。 感情の感、感覚の感です。
自己肯定の肯定というものは思考の領域なのかもしれません。 もしかするとね、そういうふうに解釈しやすいですよね。
自分を肯定すると。 でも感じるっていうのは
感じる、感っていうのは感じることだ。 自己肯定感というのはつまり自分を思考、自分を肯定する考え方とか思考というものじゃなくて、
自分を肯定的に感じている状態だっていう見方もできると思うんですよ。 じゃあここにウィリアム・ジェームズの動作図を重ねてみましょう。
じゃあこの、大丈夫だっていう感じってどこで生まれていると思いますかね。
自分を肯定している、自己肯定感を感じている、得ている時、 自己肯定感が高くなっている時、
ドシッとしているとかね、あの安心感を得ているとか、 自信を持っているような状態とも言えるかもしれませんね。
体で見ればそれがどういう、どこの体で、体のどこでそれが生まれているのかと。 呼吸が深くて、胸が開けていて、
方角膜も自由に機能を発揮できている。 肩の力が抜けていて、足裏でしっかり地面を踏めていると。
そういう体の状態の時、つまり体が合理的に使えている、機能している状態のことですよね。
そういう状態の時に僕たちは、言葉にしなかったとしても大丈夫だっていう風に感じている、そういう風にも捉えられるわけです。
逆に胸がもう閉じきっちゃって、ごちごちに固くなって、息も満足にできない。
肩がギューッと上がって、首も前の方突き出て、首肩周りも苦しい、痛い。
そういう体っていうのは、それ自体が大丈夫じゃないぞっていうようなシグナルを出し続けているわけです。
体としてはさ、そんなに力まないでいてほしいのに、力務っていうのは筋力を使うことですからね、エネルギーをたくさん使うことであって、
動かない、固まってギチーッとなっているもんだから、循環もうまくいかないわけだ。
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本当だったら時々コクコクと代謝を続けて、ちょっとでもこう新しい細胞に変えて、しかも健康な細胞に切り替えていきたい、
そういう新陳代謝のメカニズムっていうのが僕らには備わっているはずなんだけど、その機能を発揮できない状態なわけです。
体からしたら、もう存続に関わるわけですよね。生きることに直結するわけだ。
だから、これヤバい状態だぞと、大丈夫じゃないぞっていうシグナルをずっと体は出し続けているわけです。
つまり、思考で、考え方で、こうこうこうだから大丈夫だ、私は。
仕事でこれだけ結果も出したし、友達も何人このくらいいるし、子供も何人育てたしっていうようなね、
いろんなこう、結果を基に自分を、自分って大丈夫とか、自分ってすごいんだっていう風に言い聞かせようとするんだけど、
体が大丈夫じゃないっていう声を出していれば、その信号っていうのは途切れちゃうんですよね。
頭ではわかってるのに感じられないと。こう思いたい、自己肯定感高く、自分自信持った方がいいってわかってるのにそう思えないっていうところがあるわけです。
つまり、こう思考を思考で何とかしようとしているんですよね。
で、これウィリアム・ジェームズの言葉を借りてば、僕なりの解釈で言えば、体がまだ大丈夫っていう状態にないからだ、ないからだ、ないから、
神々だね、なんか今日。 体がまだ大丈夫な状態にないから、
自己肯定感ってものが得られない、感じられないっていう風に、そういう風にも言えるわけです。
ここでね、従来、誤解のないように言っとくと、従来のその自己肯定感を高めましょうとか、考え方、捉え方を変えましょうとかっていうことを否定するわけじゃないんですよ。
自己肯定感が結果として高まっていく状態ってのは、その経路は一つじゃないんですよね。
例えば思考から入るっていうものであれば
認知行動療法とか
カウンセリング、ジャーナリングみたいなものも
それだけじゃないんだけどさ
ありますよね。こう思ってみましょう。
枠組み考え方をちょっと変えてみましょう。
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自分のことを知ることで
視野が広くなって
良い方向に行く。
これで感情に影響が与えられて
変化が出る。実際にこれで
人生が変わったとか、
良くなった、苦しみから解放されたという方も
もちろんたくさんいます。
で、もう一つが
僕が特にお伝えしたいのが
体から入っていくという経路です。
呼吸を深くする。
胸郭を開いていく。
横隔膜を緩めて解いていく。
つまり体の物理的な状態っていうのを変えることで
体が発するシグナルが変わって
脳が読み取る感じっていうのが変わってくれると。
どっちが正しいかじゃないんですよね。
どっちも実在する経路、アプローチの方法になります。
ただ、今のこの自己固定感ブーム
確実に流行ってますよね、やっぱり。
体から入る経路っていうのは
ほとんど書かれていないんですよ。
こんなにたくさん溢れているのにね。
自己固定感の話をしているのに
感を生み出している体に触れていないっていうのは
結構不思議なことだなと思うわけです。
中には触れていないわけでもない。
どうしても体の状態っていうのは
言葉にしづらかったりする部分もあると思うんです。
このなんとなく大丈夫だ、
なんとなく自分に自信あるっていうものって
ほんとなんとなくっていうのがすごく適切で
それだけ多くの情報を払っているんですよ。
物理的な体で言えば
ほんと細かいレベルまで話せますよね。
肩の力が抜けてるから大丈夫とかさ。
ちょっと昔の言葉で言えば
腹が座ってるから大丈夫とか。
もっともっと細かく言えば
第一肋骨と第二肋骨の間の六感筋も
歯間をしていて
いつでも収縮できる。
すごい万全な状態だ。
もっともっと細かく言えば
内臓のどこかとか。
もう細胞レベルでもそれっていうのは語れるかもしれません。
つまり体を解いていってその状態にする。
なおかつ
思考認識の捉え方っていうものも一緒に広げていく。
この両方の経路っていうのが
すごく重要な観点だと思うんですよ。
中にはこの思考からアプローチするっていうところでも
このなんとなくの感覚っていうのをすごく重んじた
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アプローチ方法っていうのもたくさんあります。
たぶん僕のこのポッドキャストとか聞いてくださっている方とか
発信とかSomatic Studio入ってくださっている方とかは
そのなんとなくのところにたぶん
気づいているんだと思うんですよね。
実感事として。
それを何だろうな。
言葉として定義することで
より現代的な情報
インターネットとか
テキストベースのコミュニケーションとか
発信とかそういうところに載せやすくなるので
あと信頼性っていうのもあまりありますよね。
信頼性。
言葉にできないと
なんかふわっとしたものとして
扱われてしまう。
だから分かる、感実感を持っている人同士でしか
共有できないっていう
ジレンマがあったわけです。
それを言葉で伝えていくっていうのは
難しいことでもあるんだけど
実際僕が発信を通じて
その言葉とかね、僕が言っていることをきっかけに
その方が持っている実感っていうものを
思い出してもらえるっていう体験を何度もしてきたので
楽しいんですよ、やっぱり。
セッションをしてたりすると
それってこの感覚かな
今思い出したんだけど、もう30年も前くらいのことかもしれないけど
どこどこに当時の付き合ってた
誰々と一緒に行って
その時にこういうことがあって
その時すごく胸がボワーンとした感じがあったんだよねと
なんかあの時この人と一緒にいたら大丈夫だなっていう感覚が
あったかもしれないなみたいな
言葉にはできないけれども
これを感情とかのラベルで言えば
幸せとかでくくられちゃうかもしれない
でも一口に幸せとか
言ってもそこに内包される
そういう感覚っていうのは
人によっても微妙に違うし
深さとか広がりっていうのも全然変わってくるんですよね
だから人の幸せな話聞いてもピンとこなかったりとかするわけだ
お金持ちになれれば幸せだよとか
仕事で成果出せば
求められれば幸せだって言うけど
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いやーこんなにそういうから仕事でこんなに頑張って
こんなに収入も上がったけど
でもずっと虚しい感じが抜けないとかね
それはまさに自分の実感っていうものが
自分の内側にしかないからなんです
幸せになりたいっていうのは
分かりやすい評価のラベルを得ることじゃなくて
自分が実感した
かつての幸せの感覚っていうのを
もう一度得たいなと思うんです
これは遺伝子レベルで多分組み込まれているものでもあると思うし
なおかつ自分で今までにね
おそらく大きいもの小さいものか問わず
何かしら経験しているはずなんですよ
美味しいもの食べたらそれなりに幸せじゃないですか
話し出そうとしたら
友達と同じことを言って
しかもタイミングも被ったみたいになったら
それなりに幸せじゃないですか
あの時の体がフワッとする感じとか
ワッと湧き立つような感じとか
あの感覚っていうものが
体が解けている
つまり合理的な
良い状態にあるっていうことの裏付けでもあるんですよね
そうした実感っていうものを感じているのは体
体っていうのは物理的な存在です
つまり触ることができるし
動かすことができるし
感じることもできるわけだ
こうなのかもしれないな
ああなのかもしれないな
思考の中でいろいろ動くっていうのも
もちろん一つ重要な経路だと思うんだけど
こういうふうに思ってみよう
捉え方を変えた時に
何が変わるのかといったら体が変わるんですよ
仕事しんどいなーって思っていれば
しんどいことに向き合うときは
やっぱり体固めたくなりますよね
防御したくなる
感じたくもないからね
だとしたら
じゃあこの仕事は
お客さんの目の前のこの人の笑顔のために頑張るんだ
もしくはなんだろうな
お金をちゃんと稼いで子どもたちのために
そのためにやるんだ
ちょっとした捉え方が変わるだけでもしかしたらね
体っていうのが解けるきっかけになるわけです
どこに意識を向けるか
考え方っていうところでも
体の構えが変わるわけだ
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つまり思考の方に
思考捉え方を変えて
私が変わったっていうふうにも言えるかもしれないんだけど
そこには体が実際変わってるっていう事実もあるわけなんですよね
だとしたらそうした思考のアプローチっていうものも
体の物理的な体へのアプローチっていうものも
両方やってあげたほうがいいじゃないですか
できるだけ
全体を見て
余すことなく
介入していってあげるのが
最もこう
自分がいい方向に進むための
変わるための
まっとうに生きるための
重要な教養の一つなのかなと思うわけです
この具体的なね
体の解き方みたいなものが
いわゆるマインドフルネスとか
瞑想法とか
なんでもいいと思うんだ体を動かして楽しいな気持ちいいな
っていうものであればね
その中でも特に
じゃあ体を解くって考えたら
物理的な構造に沿った動かし方っていうのを
してあげたほうが力抜けやすくなるわけですよ
とんでもないプリッジの体制してさ
力抜いてくださいって言われても
急に言われても難しいじゃないですか
腰痛めちゃったりしそうですよね
首痛めちゃったりね
だからこそ
ランニングがいいって聞いて
走ったからいいかって言うと
違うよねもちろん
ダンスがいいって聞いたからダンスすりゃいいのかって言うと
またそれも違うわけだ
肝心なのはそれを
楽しいな気持ちいいなっていう
実感とすり合わせながらやっていくということなわけです
そのためには物理的な構造を理解した
動かし方、アプローチの仕方っていうのが
一つ答えになる
クガソマティックスタジオでお伝えしている
身体の教養の中でお伝えしているのは
こういう構造っていうところに
クリティカルにアプローチするための瞑想法なんですよね
身体動体瞑想って言ったりします
自分の考えを無にする
っていう風に考えている
そういう思考の中に閉ざされた瞑想法ではなくて
本来の瞑想法
つまり今ここの感覚って言ったりするじゃないですか
今ここに集中しようみたいな
今ここっていうのはつまり身体の感覚なんですよ
身体の実感っていうのは今ここにしかないわけです
あの時幸せだったなっていう感覚を頼りにするのはいいんだけど
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すごく重要ですよ
こんな感覚だったなって想像しているのは過去のものなんです
頭で作り出しているものなんですよね
その頭で作り出しているものと
今自分が感じているものっていうのを
すり合わせて両方感じていく必要があるんですよ
これを繰り返していくことで
じわじわと身体が変わっていきます
傷が治っていくように
ストレッチしていると筋肉がだんだん柔らかくなるように
筋肉がだんだんとついていくように
僕らの思考の土台、感情の土台っていうのは身体だ
そしてその身体っていうのは物理的なものなので
ちょっとずつ変わっていくわけです
はい、ということで最後に一つだけ
自己肯定感が低いっていう言い方には
肯定すくる力っていうのが自分の中にあるべきだと
それが足りないっていう前提があるようにも見えるんですよね
これはね、マーケティングとかセールス的な意味合いも
多分強いんだと思うんですよ
自己肯定感欲しいって思ってもらった方がやっぱ売れるからね何でも
でもこれも体の側から見るとちょっと変わって見えると思うんですよ
もっとフラットに見える
体がまだその大丈夫な状態にないだけかもしれない
あなたの力が足りないわけじゃなくて
そもそも土台が今その状態にたまたまないからだって
そしてその体は変わると
ほぐせばほどけるし、動かせば感じられるし
関われば反応するしっていうことです
つまり体には希望があるんですよね
ウィリアム・ジェームズが130年前にこう開けた
切り開いたその道、扉っていうのは今もね
繋がっています
ちょっとそれたりとかもしてるかもしれないけどね
感情は体の中で生まれると
つまり自己肯定感も例外ではないと僕は思うんですね
今日のこの話が皆さんの体を緩めるものになったらいいなと思います
詳しくはブログの身体値の書庫っていうところ
最新記事にも書いてますので
もうちょっと詳しく知りたいぞっていう方は
ぜひそっちも覗いてみてください
より詳細に書いてましたので
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ということで今日はここまでにしましょう
じゃあ皆さん今日ものんべんならりと暮らしていきましょう
また次回