「やりたいことが見つからない」は、心の問題じゃなかった ──ギブソンのアフォーダンスと、身体が灯す可能性の話
施術のあとに「帰り道、いつもの駅前なのに景色が違って見えました」と言われることがあります。街は何も変わっていないのに。
変わったのは、その人の身体でした。
知覚心理学者ギブソンは、環境には「行為の可能性」が満ちていると言いました。彼はそれをアフォーダンスと名づけた。でも同じ環境でも、身体の状態によって見える可能性はまるで違う。
「やりたいことが見つからない」は、意志が弱いからでも、自己分析が足りないからでもないかもしれません。身体が、世界からの誘いかけに気づける状態にないだけかもしれない。
今回は、ギブソンのアフォーダンスという概念を手がかりに、「同じ環境なのに世界が変わって見える」のメカニズムを身体の側からほどいていきます。
▼ 話していること
・ギブソンが知覚心理学の常識をどう壊したか
・アフォーダンスとは何か──椅子と象と幼稚園児の話
・炎の比喩──環境という燃料と、身体という酸素
・「やりたいことがわからない」の身体的な正体
・なぜ身体が開くと「良い方向」に火がつくのか
・人間関係もアフォーダンスである
▼ 参考
J.J.ギブソン『生態学的視覚論』
ブログ「身体知の書庫」第9回
感想
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はい、ノムオ沼です。今日はですね、施術の後に言われる、ちょっと不思議な報告をいただくという話を、皆さんに共有したいと思います。
帰り道に、いつもの駅前なのに何か景色が違って見えたんです、っていうようなね。
そういうポジティブな、何かいつもと違うっていう違和感?
こうした変化っていうものを、話していただくこととかがあったりするんですよ。
街並みとか変わってない。仙台の街並み。 その方はいつも仕事でその辺の道を行き来しているにも関わらず、
だけれど何かいつもと違うような感覚がするんだと。 なおかつその感覚がちょっと心地よくも感じられるっていうふうに言うんですね。
信号もコンビニもガードレールも全部同じなんだけれども、 だけど
仙台のちょうど僕の治療院の近くに、あたご上杉通りっていう 異常並木がね、綺麗な大きい道路があるんですね。
そのイチョウの 黄色。
イチョウの葉っぱが黄色に色づいてきたりします。 その色がね、目に飛び込んできた。
朝も ずっとそこを通ってる。夜帰り道も通ってるはずなのに、
なんだかすごく目に入って、 いつも林に通り過ぎるようなアーケードのところで焼き鳥屋の匂いを感じたと。
こんなところに焼き鳥屋さんあったんだ。 新しくできたのかなと思ったら、なんだかずいぶん前からオープンしていたようだと。
道端を歩けば猫がこっちを見てて、すごいなんかこう、人懐こそうにこっちを見てるような気がするっていうふうに言うわけです。
僕自身も似たような経験っていうのがあります。 汗水流して、働いた日に飲むビール。
これって一日中パソコンの前にこう座って仕事をするっていうのと、
その時に飲んだビールの味って微妙に違がったりするんですよね。
で、もしくはこうしんどい仕事でね、忙しかったりとか、
しんどい時期っていうのを抜けた時に、
うちの庭の木のところに、庭木のところに新しく芽が出てるっていうことにふと気づいたりっていうのがありました。
何一つ変わってない環境。
大きく変わってるわけじゃないのに、急に色づいて見えるような瞬間があったりします。
これ何が変わったのかって考えてみると、環境ではないんですよね。
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自分の体が変わったというふうに見ることもできるわけです。
体の状態っていうのが変わると、同じ環境から受け取れるっていうものが変わるっていうふうに考えます。
これを生態心理学の学問の中で鮮やかに言葉にしていったっていう人がいます。
この方がジェームズ・J・ギブソンって言います。
アメリカの知覚心理学者の方で、20世紀の心理学の地図を塗り替えた人だというふうに言われています。
ギブソンが打ち出した概念の中にアホーダンスっていうものがあるんですね。
今日はこのアホーダンスっていうのを手がかりに、同じ環境なのに世界が変わって見えるっていう現象を体の側から解いていきたいと思います。
先にお伝えしておくと、今日の話っていうのは普段の仕事とか人間関係、ひいては僕らが生きて過ごしているほとんど全般に当てはまる話です。
例えばやりたいことが見つからなくてとか、何をしてても楽しくないんだとか、環境を変えなければもう変われないんじゃないかな、この状態、抜け出せないんじゃないかなって、
そういうふうに感じている方にも聞いてもらえたら嬉しいなというふうに思います。
まずギブソンって何をした人なのか。
ギブソン以前の知覚心理学っていうのはおおよそこういうふうに考えられていました。
目から光が入ってきて、それが網膜に入ってきて、そこで像が映ると。
これを電気信号に変換して脳に送られてきて、脳がその信号を解釈して世界を理解しているんだっていうふうに、
大方の知覚心理学では考えられていた。
つまり外の世界からやってくる情報っていうのは不完全で曖昧なものであると。
それを脳が補正して構成するのが知覚なんじゃないかっていうふうに言っているんですね。
知覚っていうのは脳内推論の産物である。これが当時の正当な考え方でした。
ギブソンはこれに対して真っ向から異を唱えています。
いや違うと。そうじゃないよ。
環境そのものが既に十分な情報を含んでいるんだと。
脳が推論する前に動物は環境の中を動き回って光の配列の変化、ギブソンがオプティカルフロー、光学的流動というふうに言ったりします。
こういったものから直接的に世界の構造を知覚するんだというふうに言います。
つまり、知覚は脳の中で起きているんじゃなくて、環境と体が出会うところで起きているんだというふうに言うんですね。
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かなりラディカルな話になってきているんですけど、ギブソンが特に独創的だなと思ったのはこれからもう一歩踏み込んだところにあります。
今のは結構抽象的なものだったので、もっと具体的な話になっていきます。
環境というのは単なるものじゃないと。物理的な構造だけじゃない。環境はそこに住む生き物、動物にとって行為の可能性というものを含んでいるというふうに言うんです。
行為の可能性。この概念にギブソンはアホーダンスという名前をつけました。アホーダンスです。
アホーダンスって要するにこういうことです。椅子の高さがちょうど膝くらいだったらそれは座れる。だから椅子というふうに僕らは認識する。
地面が平らで硬ければそれは歩けるというふうに僕らは認識する。水面が穏やかだったら泳げるというふうに認識する。
こういう行為の可能性というものが環境の側に物理的に実在しているというふうに考えるんです。
つまり僕がそこに存在しようがしまいが、見ていようがいまいが、椅子の座面というのは膝の高さにある。
だいたいその高さにあるということですね。
でも同時にアホーダンスというのは環境だけのものではありません。
膝の高さの椅子に人間は座れるけどゾウは僕らの椅子を見たところで、ちょうどいいところにあるじゃん。
ちょっと座っちゃおうってならないですよね。
赤ちゃんも同じだと思います。
捕まり立ちするものに見えるかもしれない。
うちの子供とかは椅子っていうのをそこで立ち上がってそこからジャンプするもの。
ジャンプ台みたいに思ってますね。
つまりアホーダンスというのは環境の物理的な特性、どういう形、姿形をしているのかというのと、
動物の体の特性、僕らが持っている体の物理的な特性というものが出会うところに立ち上がってくるというふうに言うんですね。
ギブソン自身の言葉を借りるとアホーダンスというのは客観的でも主観的でもない。
主観と客観のこの二部法というものを超えているんだというふうに言うわけです。
二言論的な考え方では捉えきれないというふうに言うんですね。
環境にも動物にも属さない。
両者の関係の中に属するというふうに言います。
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さあどんどん掴みどころがなくなってきましたね。
とても仏教とかにも通じる話になってくるかと思います。
これがアホーダンスの面白さでもあってややこしさでもあります。
具体的な実験の話を引き合いにしてみましょう。
心理学者のウォーレンという方が人間が階段を登れるって知覚する限界を調べたんですよ。
どのくらいのどういう形だったら、どのくらいの高さだったら
僕らはそれを階段というふうにみなすことができるんだろうという。
この実験の結果、一段の高さというのが足の長さの0.88倍を超えると
登れないって判断する人が急激に多くなるというような実験結果が出ています。
この数字が大事なわけじゃなくて、
同じ階段でも足の長い人と短い人ではアホーダンスが異なるんですよね。
環境は同じなのに体が違えば行為の可能性っていうのは変わるっていうことです。
身長がちっちゃい、僕みたいにちっちゃければこれは階段じゃないな。
なんかちょっとこう、登れない段差って認識するかもしれないし、
僕の友達とか180超えてる友人とかもいるので、
何とも思わず普通に登っていくかもしれません。
ここからが僕の話になってきます。
アホーダンスについて考えるときに、
僕の中でこのアホーダンス聞いたときに思い浮かぶイメージっていうのが炎なんですよね。
炎って実在するものではありますよね。
皆さんも見たことがあると思います。
絵に描いたりとか、実際に炎をキャンプとかバーベキューとかでも、
日常の中でキッチンで見てるっていう人もいると思う。
でもこれって物理的に何なのかっていうと、
形、触れるものではないんですよね。
燃料は触れたり物理的にあるけど、
それでもないし、
酸素とかっていうものでもないし、どちらでもないと。
この燃料と酸素っていうものが出会って、
ある条件が揃ったときに炎は立ち上がってくるわけです。
確かにそこに実在するのに、
それ自体は実体がないっていうふうにも言えるんですよね。
存在するのに実体がない。
それが炎としてアホダンスを適切に比喩するのに、
一番ぴったりくるかなって僕なりに思っています。
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環境っていう燃料、椅子っていう燃料と、
僕らの体っていう酸素が交わるところに、
行為の可能性っていう炎が灯っていくと。
キブソンが示したのは、
環境に燃えうるものっていうものがいくらでもあるんだよっていうことだったんですね。
さっきのウォーレンの実験が示したのは、
体の解分学的な構造です。
物理的な特徴、足の長さとか体の大きさっていうものが、
どの燃料に火がつくかを左右するっていうことでした。
ここまではキブソンが言っていることと同じですね。
でも僕が臨床の現場で感じているのは、
もう一つ別の層、奥の層なんですね。
足の長さが同じだったとしても、
体の状態によってこのアホダンスの受け取り方が変わってくる。
火のつきやすさが変わってくるってことです。
同じ人間でも体がガチガチに硬直していれば、
柔らかくほどけて自由に足が上がるような状態のときとは、
同じ環境から受け取れるものがまるで違うんですよね。
足を怪我したことがある方っていますかね。
あと腰を痛めたとかね、キクリ腰とか。
普段なんともない階段だったり段差だったり椅子だったりするのに、
ひとたび体を痛めると、ものすごい障害に感じるんですよね。
風邪ひいたときとか具合悪いときとかもそうだと思います。
なんの気なしに着替えたりご飯の準備したり、
子どもたちの相手とかしているのに、
ひとたび体を壊すとものすごい辛い苦行に変わったりします。
これは解剖学的構造だけの話ではないですよね。
体の質的な状態になります。
つまり僕が普段身体合理性というふうに呼んでいるものの話になってきます。
子どもを見ているとよく分かりやすいと思います。
子どもってちっちゃいでしょう。ちっちゃいでしょうって当たり前ですけど。
うちの子も今100センチ、110、20、30とかそんなもんなんですけどみんな。
身長の何倍もある壁を平気でよじ登ろうとして、
実際に登っていったりとかするんですよ。
大人の身長で換算すると、
僕が2メーター越えの壁とか見ても、
登る気にもならないですよね。
さっきのウォーレンの0.88倍のルールというものであれば、
構造的には登れないはずです。
そういうアフォーダンスを受け取らないはず。
でもスルスルと越えていくわけです。
登ろうとしていくわけ。吸い込まれるように。
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なぜかというとこれは筋肉が脱力しているとか、
関節が自由であるとか、
重力に逆らわない体の使い方を忘れていないから、
そうした体の在り方というものを子どもが持っているからとも言えるわけです。
つまり身体合理性が高い状態。
だから解剖学的な不利というものを越えていって、
アフォーダンスに火がついていくわけです。
これと逆の話をしてみましょう。
僕は治療院で毎回…毎回というわけではないけどね。
定期的にお伺いします。
いろんな心の悩みとか相談を受けていると、
やりたいことがわからないというキーワードをたくさん聞きます。
僕自身も経験したことがあるので、
SNSとかでもたくさんこういうキーワードが上がっていると思うんですよね。
これを多くの場合は心の問題、
心理的な問題として扱われることが多いと思います。
自己分析が足りないからじゃないかとか、
価値観が定まっていないからじゃないかとか、
キャリアカウンセリングを受けた方がいいねと、
進むべき方向をはっきりさせて、
ゴールが決まればそこに向かえるんじゃないか。
もちろんそうした経路が有効に機能する方というのもいると思うんですね。
でもひとたび体の側というものをこの議論の中に含めてあげると、
少し違う角度からものが見えてきます。
体が閉ざされているとき、
肋骨がガチガチで呼吸が浅くて、
首と肩に力が入っていて、
骨盤が前傾後傾、不自然な形に力んでいて、
こういう状態の方に何かやりたいことはありますかと聞いても、
多くの場合は分からない、それどころじゃないと思うわけです。
何もしたくないとか、
できる気がしないとか。
さっきのギブソンの話につなげれば、
環境自体はたくさんのアホダンスをはらんでいる。
可能性というものをはらんでいるんだけれども、
火がつかないんですよね。
炎が立ち上がっていかない。
以前の記事でも書いたんですけど、
体が閉ざされた状態というのでは、
身体不合理性、体が万全な状態ではなくなってしまうわけです。
そういう状態なわけです。
そこから現感覚として不快、
ちょっとやばいよっていうような体の声というものが、
シグナルが上がってくる。
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この不快な感覚というものは、
身体不合理性、つまり体がうまく機能していない状態を表すので、
極端に体はジャッジします。
今、生存が脅かされている。
死んじゃうかもしれない。
とにかくやばいっていう風に体はジャッジするんですね。
これによって僕らは無意識に防御モード、
閉ざされの状態に入っていきます。
花をめでている場合じゃないと。
僕らの意識、注意というのは、
脅威を探す方向に固定されて、
環境の中の可能性というのが見えなくなっていきます。
とにかく危ないから、
もう死んじゃうかもしれない、危険な状態だから、
自分の身を守るために、
ネガティブな方向に意識を向かっていくんですよね。
これを例えるのに、
視覚研究、目で見る視覚ですね。
この研究の中に、
非注意性盲目という現象があります。
非注意性盲目。
注意が特定の対象に固定されていると、
一個のものをしっかり見ようという風に
意識を集めれば集めるほど、
視野には入っているんだけど、
それ以外のものというものを完全に見落としてしまうという、
そういうリスクについて話している現象ですね。
見たことももしかしたらある方いるかもしれません。
有名なゴリラの実験があります。
ある動画を見てもらうんですよね、
被験者の方に。
その中に、
バスケットボールのパスの回数を数えてください
というようなアナウンスが出るんですよ。
そうするとバスケットボールを動画の中で
パスしあっているのが流れるんですよね。
これがまたいいテンポ感というか、
複雑なテンポ感だったり回数で、
1、2、3、4、5、6、
数えられているぞ、また数えられているみたいに、
どんどん意識がそっちに向くような動画なんですよ。
それを見ていると、
はい、終わりました。
じゃあ今何回パスできていましたか?
なんか、はい、みたいな答える。
今の動画の中に、
ゴリラが映っていたんですけど、
何匹ゴリラが何頭いたか分かりましたか?
というような質問が来るんですよ。
こうすると僕らは、多くの方は、
ゴリラなんか映っていたか?
確実にその後動画で確認すれば、
ゴリラ映っているんだけど、
気づかないということが起きてくるんですね。
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これが体が閉ざされている状態では、
これと似たことが
視覚全体で起きているんじゃないかという風に
僕は考えています。
この僕らの意識、注意というものが、
体の内部の不快な信号、不快なシグナル
というものだったり、
ネガティブに自分を守るために
何でも悲観的に見る。
そういう思考の方に固定されてしまって、
環境のアホダンスというものを文字通り
知覚できなくなっていく。
だからやりたいことがわからないというのは、
意思や性格の問題ではない
ということでもあるんですよね。
体の状態の問題であるということが
少なくないわけです。
環境を変えても体の状態が変わらなければ、
新しい環境でも同じように何も見えない
というものが続いてしまう。
走る道を変えたとしても、
部品が壊れたままでは車は走らないわけです。
手術の現場でね、
僕が臨床でいつも嬉しいなって思う
瞬間の一つっていうのは、
そういう風に最初に言っていた
やりたいことがわからないって言っていたクライアントの方が、
別にこういうのがいいんじゃないとか、
何かやった方がいい、趣味見つけた方がいいよって
僕が言うわけじゃないんですよ。
なんだけど、気づいたら
新しいことを始めている、
動き始めているっていうのを見るときなんですよね。
今特定の思い浮かぶクライアントの方が
過去のクライアントの方でいらっしゃるんですけど、
今の仕事も辞めたいんだけど、
何がしたいかわからないんだよねって。
特に趣味もないし、みたいなことを
言っている方がいたんですよね。
月に2回くらい定期的に製図に来られてて、
半年も経ってないと思うのは、
たぶん2、3ヶ月くらいだと思うんですけど、
最近陶芸教室に通い始めたんだよ
っていう話をしてくれたんですよ。
別に自己分析とかをしたわけでもないし、
キャリアコンサルタント?
どういうふうにキャリア住んでいくかみたいな
そういう相談をしたわけでもないですよね。
ただ、ふと体を動かしたくなってきて、
体が良くなってくるとね、
体を動かしたくなって、
休日に散歩をしていたら、
いつも通っていた道のはずなのに、
陶芸教室の張り紙を見つけたそうなんですよ。
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こんなところに陶芸するとこあるんだっていう風に
ちょっとやってみたいかもっていう風になって、
行ってみたら楽しかったと。
前は全くそんな張り紙とか見なかった。
気づかなかったのに、
それに気づいて、
さらにそれにやってみようかなと思って、
やってみた。
さらにそこから楽しさも見出せることができた。
なんならその張り紙に出会う前にも、
体が以前の状態では散歩に行く気もなかったわけですよね。
これがアホダンスの添加というもので説明が付けられると僕は思うわけです。
身体合理性というものが少しずつ回復していって、
閉ざされの状態から開かれの方向に動いていった。
注意というものが僕らの意識の向ける場所というのが
危ないもの、危険なもの、身を守らなきゃいけない
やばいものから解放されていって、
豊かなアホダンスというのを知覚できるようになった。
陶芸工房というのは以前からそこにあったし、
行為の可能性としては環境にあったわけです。
陶芸工房はいつでも生徒を受け付けていたわけですよね。
そこにチャンス、機会、可能性というものはあった。
だけれども、そのクライアントの方の体が
閉ざされていたときはそこに火がつかなかった。
炎が立ち上がらなかったわけです。
体が開いたことで、同じ環境の中に
新しい可能性が灯ったというふうにも言えるわけです。
こういう話をクライアントの方から聞くたんびに
思うんですよ。環境を変えることだけが
解決策ではないんだなということを改めて思います。
もちろんね、明らかに有害な環境から離れるべきだ
ということはもちろんあると思います。
神道を滅却すれば、
火もまた涼しいとか言ったりするじゃないですか。
集中すれば火も涼しいのだみたいな。
涼しいって思い込むことはできるかもしれないけれども、
そういう風に涼しい状態の体を再現するように
することはできるかもしれないんですけど、
ずっと火の中にいたら怪我しちゃいます。
火傷します。体を壊すわけです。
でも、何をしたいかわからないから環境を変える。
今の状態がまずいから環境を変えるというのは
一つのリスクとして、体が閉ざされたまま
場所だけ移すということになりかねないわけです。
もしかしたらまた、その賢悪な
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人間関係というものを、そういう炎を
場所を変えるだけで、変数を変えるだけでまた再現してしまうような
体の癖というものが、もしかしたら
皆さんの中にもあるのかもしれない。
ギブソンが教えてくれているというのは、いつも
環境というのは可能性に満ちているということです。
これは、いい可能性も悪い可能性もですよ。
いろんな可能性がある。
僕が臨床で感じるのは、その可能性に火を灯すというのは
体の質的な条件、体の状態にもよるということです。
体が開かれて
アホ男性の天下の感度というものが上がっていく。
それは分かったけど、たまたまいい方向に
行ったんじゃないのって。
体が開かれて可能性が増えれば悪い方にも行くんじゃないのって
思った方もいるかもしれません。
これもまた実は大事な着眼点で、
僕なりの考え、見解を述べると、閉ざされの状態でも
アホ男性というのは火が灯るんです。
深夜のポテトチップスとか、
SNSを無限にスクロールするとか、
お酒とかタバコとか、ドラッグもそうかもしれない。
衝動害とかもあるかもね。
これらも環境に実在するアホ男性を受け取って
こうした行為につながっているわけです。
でもこの時に何が起きているのかというと、
その現感覚、快不快というその感覚の解像度が
荒いということです。
体の快と不快というものを自分で
無意識に感じられていれば、
無意識に僕らは快の方を選択します。
快の方というのは身体効率性、つまり
体がいい方向に行くような状態のことです。
この快という羅針盤を一つ持っていない、
感じられていない、そういう体の状態だと
進化的に配線されている短絡的な快、
例えば砂糖とか脂肪とか、
社会的承認要求とか、こういった
興奮させるようなドーパミンですね。
これにだけ火が灯ってしまうわけ。
人間として得り分けというのは
これができなくなっちゃうので、
生存欲求という本能的な可能性に
閉ざされてしまうわけです。
ずっと砂糖を摂っていれば身体、
身体合理性の方に向かうのかというと
そういうわけじゃないですよね。
脂肪とか社会的な欲求という承認を求めた先に
30:00
幸せがあるのかというとそうじゃないということは
多くの方が感じていることだと思います。
一方で身体合理性が高まるとどうなるのかというと
添加感度というのが上がると同時に
現感覚の改造度も上がっていく。
身体合理性の方を無意識に僕らは選択するように
できているわけです、人間というのは。
現感覚というのは身体を構成する全てのシステムの
物理的状態が発する快と不快の信号でした。
どの信号の精度が上がるかというのは
どのアホダンスが自分の体にとって本当に不快か
感じ分けられるようになるということでもあるわけです。
30:54
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