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考えすぎて思考がまとまらないー「実感に根ざさない記号」と「身体の知」」
2026-02-23 27:25

考えすぎて思考がまとまらないー「実感に根ざさない記号」と「身体の知」」

考えすぎて眠れない夜がある。ノートに書き出しても、AIに相談しても、答えが出ない。

でも、その「考えている」は、本当に考えているのだろうか。

哲学者・中村雄二郎は『臨床の知とは何か』の中で、近代科学が前提にしてきた「知」が切り落としてきたものを指摘した。個々の固有の状況、多義性、そして何より──知る者が身体を持ってその場に立ち会っているという事実。

鍼灸師として施術室に立つ中で、思考が止まらない方の身体に触れると、ほぼ共通した特徴がある。頸椎から肩にかけての強い緊張、板のような胸郭、浅く速い呼吸。身体が閉ざされたまま、記号だけが回り続けている。

このエピソードでは、中村の「臨床の知」を手がかりに、「考えているようで考えていない」という逆説をほどいてみます。ChatGPTの時代に思考の檻がどう補強されているか、そして身体が開き始めたとき何が起きるかについても話しています。

ブログ「身体知の書庫」と合わせてどうぞ🤲


感想

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はいどうも大沼竜也です。 今日はですね、あの
考えすぎる、考えすぎているっていう時は 考えていないのではないかっていう話をしたいと思います。
結構ね、あの僕の普段の発信とかも このんで聞いてくださっている方
考えることって嫌いじゃないっていう方多いんじゃないかなと思うんですよ。 僕も含めてね。
いろいろこう考えた結果、例えば自分はこういうふうにしようって思ったりとか
物事をこう考えて考えて 論理ではこうだなとか、こういう可能性もあるなとかいろいろこう
面白がりながらね、半分の時には そうせざるを得なくて考えないと不安でやっていけないから
考える必要がある。 そういうことがね、あるんじゃないかなって
自分を振り返ってももし臨床に立っててもこう感じること、思うことってのがあるんですよね。
今日はね、そんなヒント、そんな話のテーマっていうところから
ある本っていうのを引き合いに出して、その著者の方の考え方っていうのを引き合いにしながら、いろいろ解説をしていきたいと思います。
まず臨床ですね、僕の臨床の中でのお客さん、患者さん、クライアントさん、いろんな呼び名でいいんですけど
いろんなことを考えて、やっぱこう悩んでしまったりとか、ちょっと考えすぎてもう
この考えの暴走、思考の暴走っていうのを止めたいみたいなお話をする方もいらっしゃるんです。
あのね、個人的にはすごくわかります。頭がね、ぐるぐる回っちゃって、ああでもない、こうでもないっていう風にね、夜布団の中で悩んだりとかするんですよね。
そういう経験あるっていう方、多いんじゃないかなと思います。
寝てるからさ、別に新しいアクションができるわけでもないから、さっさと寝て、明日いろいろ考えて行動した方がいいよなって。
昼間はね、わかるんですけど、その時っていうのはね、そう思えないんですよね。そう思う余裕がないって言ってもいいのかもしれない。
で、多くの場合、やっぱり臨床で僕はそういう方の体に触っていると、もう何だろうな、首、肩とか特に上半身とかは顕著かなと思います。
頸椎とか肩、首周りとか、あともちろん胸骨とか肋骨周りとかね、それから呼吸っていうのも浅くて早かったりして、その辺、今言ったあたりとかを中心にして、人によっては全身かなり怖まって力んでしまってるってことがあるわけです。
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で、僕、臨床の中でこの人の力がちゃんと抜けてるかな、体どういう状態になってるかなっていうのを聞くだけじゃわかんないしね、触るだけでもわかんないこともあります。
その場合は揺らすっていうことを使ったりするんですよ。一つの手法としてね。
今聞いてくださってる方も試しにね、右手が空いてたら、手が空いてたら手をプラプラプラプラーってやってみてほしいんですよ。手を揺すってあげる。
力が抜けていれば、指一本一本まで揺れている、揺すられているっていう感覚がわかると思うんです。
物理的にもしっかり揺れていますよね。ところが、ギュッと手に力を入れてみてください。
ギュッと手に力を入れると、揺すっても全く揺れないんですよ。揺らす力とも同化しちゃって全く揺れない。
これがね、力みが今そこにあるのかどうかっていうのを知る一つ、わかりやすいアプローチの仕方かなと思います。
これがクライアントの方に僕が施していくと、全然揺れない。ガチガチになっちゃって。
ちょっと力抜いてみましょうかーみたいなね、いろんな言い方をしたりするんですけど、
ララーっとしてみてくださいって言っても全然力入ってないですよって。
力抜いてるつもりなんだけど、みたいに反応するっていう方も結構多いんですよね。
考えがもう暴走してしまう、思考が暴走してしまうっていうものと、自分の体の力みが抜けないっていうところ。
つまり考えないとやってられない。その不安に耐えられないっていうもの。
これって考えすぎることしかできなくなっているっていうふうにも言えると思うんです。
考えすぎて苦しいんではなくて、苦しいから考えることしかできなくなってしまっているのかもしれない。
今日の話は、その考えてるようで考えていない、考えられないっていう逆説っていうのを、
中村雄二郎っていう一人の哲学者の力を借りて解いてみたいと思います。
中村雄二郎先生、この方は明治大学で長く教団に立っていた哲学者の方です。
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1992年に出した臨床の地とは何かっていう岩波新書で確かに出てたはずです。
この本をもとに、いろんな黙々と気づきをいただいたんですね。
今日の話はね、もっと感じましょうとか考えるのやめましょうとか、そういう話じゃないんですよ。
考えることと記号をこねくり回すこと、思考をこねくり回していくことっていうものは別なんだっていう話をしていきたいと思います。
中村先生、中村雄二郎先生が何をこの本で書いていたかっていうと、すごくシンプルなんですよ。
近代科学が前提にしてきた地の形、普遍的な法則を求める論理で一義的に説明すると、主観を排除して客観的に見るんだ。
これはものすごい恩恵をもたらしてきました、僕たちに。
医学も心理学もこの枠組みがあるからこそやっぱり共有できたし、明確にこう、論理的に理解することができてきた。
ところが、医学も心理学もこの枠組みが、この枠組み自体が一見するとわかりやすくて、
僕たちの恩恵をもたらしてきたこの枠組み自体が切り落としてきたものがあるんだっていうふうにこの本に書いてあるんですね。
個々の固有の状況、物事がいくつもの意味を同時に持つこと、そして何よりも知る者が体をもってその場に立ち会っているというような事実。
中村雄二郎はこの切り落とされた地っていうところに臨床の地っていう名前をつけました。
個々の固有の状況、物事がいくつもの意味を同時に持つこと。
そして今回僕がね、あの面白いなと思ったのが、3つ目の知る者が体をもってその場に立ち会っているっていうこと、そこについてなんですね。
これを中村先生の言葉で言うとパフォーマンスっていうふうに定義されています。言葉をあてがわれています。
パフォーマンス、体をもって立ち会うことということです。
どういうことか。
僕が手をあてて触れているとき、相手の、例えばね、こう皮膚の硬さ柔らかさとか柔軟性とか乾いた感じしっとりした感じ。
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その奥まっている脂肪の厚さ厚み硬さ、その奥にまた筋肉があったり骨があったり、さらには呼吸のリズムだったり。
ここに触れるとくすぐったがるなとか、ここに触れるとなんか力無、緊張するようだなとか、それから体温の変化とか。
いろんな情報が手を触れることで感じる、得ることができます。
これは客観的な距離をとって眺めるものではないですよね。
僕の手と相手の体っていうものが出会うところに初めて情報が立ち上がるわけです。
触れたらこうだろうなっていう想像とか、本にそれが書いてあるからとかっていうものとは違う、そこに一時情報があるんですよね。
検査データとか画像診断では見えない層っていうものが触れることで開示されてくるわけです。
科学の知っていうのが扱えるのは、ある種数値化できる層だけなんですよね。
でもこの人の今日のこの瞬間の体の質っていうのは一般法則には還元しきれない。
それこそが目の前のこの人にとって一番切実な現実なのにも関わらずそれができないと。
ここで冒頭の話に戻ります。
考えに考え抜いてそれでも答えが出ないと。
これを中村雄二郎先生の言葉で言うと、これは科学の知の枠組みだけで自分の人生を処理しようとしている状態に似ているというふうに言います。
自分を客観的に分析して、こうすべきだ、こうあるべきだっていうような法則に当てはめて、論理的に正解を出そうとする。
でも転職、例えばね、転職するかどうか迷ってるんだよーとか仕事どうしようかなー今の仕事しんどいしなーみたいな。
そういう時に転職すべきかどうか迷ってるみたいなものがあると思います。
すごく個人的な悩みですよね。
立場が変われば決断というのも変わってきます。
その立場っていうのは、ただ単にね、子供がいるとか貯金がこんくらいあるからとか、この職は世界情勢的に有望かどうかとか、そういう一般的なものだけじゃないはずなんですよ。
個人の微妙なね、持ってる体の能力だったりとか、今までの経験だとか、好きか嫌いかっていうものがすごく大きく関わってくるわけです。
変数を入れれば必ず答えが出るっていう方程式ではないんですよね。
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そうなのかもしれないけど、それで正しい言葉を出していくには、変数、考えなければいけない変数っていうのは本当に膨大になってくるわけです。
現実的ではない。
僕はこの状態を思考の檻っていう風に呼んできました。
体が閉ざされた、離禁で緊張して、非合理的な、不合理的な状態になっている。
平たい言葉で言うと、緊張して怖がって不健康な状態になっているということです。
自分の身を守っているようなものね。
こうすると感覚っていうものが自分の中で得られません。
今自分がどういう状態なのか。
健康に生きれているのか。
生存を脅かしていないで元気で生きられているのか。
こういう一時的な情報っていうのが脳に行かない場合、脳は不安を思えるんですよ。
自分の体どうなっているんだ。
とにかくなんかあんまり良くないみたいだぞ。
健康な状態とは程遠いようだ。
ずっと体力貸せているし、ずっと呼吸浅いし、はかはかしているし、血糖値も異常だ。
こういう情報だけ、不快な情報、不合理的な、身体制不合理的な情報っていうのが立ち上がったとき、
体が閉ざされているというふうに僕の言葉では言います。
不安になった脳っていうのは実感が伴わないがゆえに記号が記号を生むような思考のループに入っていきます。
言葉で知っている実感の伴わない自分はこういう人間だから、きっとこうなるに違いないとか、
あの時ああしていればとか、自分の体の実感に接続していない。
こういった記号の操作が延々と続いていってしまうんです。
つまり考えているように見えて中村が言う意味では考えていないわけです。
なぜかというと体が不在だから、実感が伴わないからっていうふうにも言えるわけです。
体を持ってその場に立ち会うこと。
このパフォーマンス、中村先生の言葉で言うパフォーマンスが欠落していることが原因なのかもしれません。
記号の世界に閉じた思考っていうのは記号が現実に触れていない。
推論に過ぎないわけです。記号の世界に閉じた思考っていうのは現実に触れていない推論に過ぎない。
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現代にこの話を置き換えてみます。
中村雄二郎先生がこの本を書いたのは1992年なんだそうです。
僕が1歳の時ですね、これね。
平成初期。
インターネットすら普及してないですよね。
Windows 95とかもこの時はまだなのかな、もしかすると。
でもこの本が指摘した問題っていうのは30年以上経って、
この時代よりも遥かに切実になっていると思うんです。
ChatGPTに例えば、いや、転職すべきかな。
私、そういうふうに聞くと、整理された回答が返ってくると思います。
メリットとテメリット、これのリスト化を出してくれるかもしれない。
業界を分析してくれるかもしれないし、
自分の分析のフレームワークっていうのも出してくれるかもしれません。
論理的であって、網羅的であって、
一見すると考えてくれたように見えますよね。
でもここにも体がありません。
つまり実感が伴わない。
固有の状況っていうのを固有のまま受け止める態度っていうものがないわけです。
パターンの当てはめが中心になっているわけ。
こうしたChatGPTを代表するLLMって言います。
これはね、記号操作の天才なんです。
これは本当にその通りだと思います。
僕も今LLMがないと、AIがないと、本当仕事にならないくらい
毎日のように触って助けてもらってます。
でもこれはあくまで道具としてなんですね。
LLMの回答を読んで、あ、なるほどなと思いながら
結局何にも決められないっていう人が増えているっていうことあると思うんです。
言い換えれば思考の檻っていうものが
テクノロジーによって成功に補強されてるってことでもあると思うんですね。
記号の解像度っていうのがいくら上がったとしても
そこに体の解像度、つまり実感の解像度、強さっていうものが
追いつかなければ僕たちは自分の人生を生きているのではなくて
自分についての情報を処理しているだけになってしまうと思うんです。
これは生きている自分とか友人とか家族とか仲間っていうものではなく
経済的な効率性だったり会社の中での効率性だったり
政治とかそれぞれの国の中の合理性の中で
生きていくっていうことでもあるのかなと思うわけです。
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でも僕らには生きた体っていうものがあります。
生きた体を持った仲間たち、家族たち、友人たちっていうものがいます。
その体の合理性っていうものを置いてけぼりにして
他の社会の合理性っていうのを優先させていった先には
何が待っているのか結構怖い話だと思っているんですよ。
でもそれだけではないです、もちろん。
例えばその身体的な接触っていうものを通して実感を取り戻していく。
身体の強要っていうのを身につけながら自分の実感を身につけて取り戻していく。
そして回数を高めていく。
施術とかそういった自己検査っていうものを重ねていくうちに変化が起きていく方が多いんです。
その変化っていうのはしかも劇的ではありません。
ビフォー、アフターとして明確に言えるものばっかりでもないんです。
例えば年収が上がりましたとかね。
例えばこれができるようになりました。
そういうふうに言葉では明確には評価としてはしにくいから言葉にしにくい。
だから最近悩まなくなったっていうのも
そういうふうには言わなかったりもするんですね。
明らかに悩むこと自体は減ってきたかもしれないけど
悩んでたことも忘れてしまうからです、健康になればね。
それでいいんですよ。
でも逆にどういう声をよく聞くのかっていうと
なんか考えてないんだけど
動けるようになった気がすると。
なんかそう言われれば元気になってきたかも。
朝起きた時に散歩に出るとかね。
理由は特にないんだけど
健康だと思ったからちょっと朝歩こうかなと思った。
そういうことをきっかけに外に出歩けるっていう人もいるかもしれないし
なんとなしに外に行ったっていうこともあるわけです。
そこに意思は関係してないんですよね。
体がそれを求めていて
無意識に体がそうやって行動に移して
意識は後から追いついてくるわけです。
先生この間さ近くにラメ屋さんできたでしょみたいに
臨床の中で話をもらったりします。
あ、なになにさんのお住まいも知ってるんで
なになにさん散歩でもしたんですかみたいに言ったら
あ、そうだね私散歩してるねみたいな。
そんな風にね自分の認識に至らないこともあったりするんですよね。
元気になっていくことって。
他にも仕事の打ち合わせで
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準備してたことと違うことを口にしちゃったと。
で後から振り返ると
なんかそれが的を得てた。
準備してたことと違うことが突然に口に出て思いついたっていう
そういうひらめきにつながっていったりもする。
どうしようかなーってずっと迷ってて
先延ばしにしてた決断決めかねていたものっていうものを
なんかあれなんでこんな悩んでたんだろう
別にこれでいいじゃん。
てかむしろこうしたいわ。
そんな風に論理的に結論を出したわけではなくて
だからもうこれでいいかもしれない。
こうしたいっていう風に
無意識に体が直感的に感じたと。
これがね思考の檻から出るっていうことだと僕は思っています。
頭の中の記号操作っていうものが止まって
身体の地
中村雄二郎の言葉で
身体を
臨床の地っていうものが動き始める。
自分が今ここに身体を持っているっていうような事実から
地が立ち上がるようになっていると。
もちろん施術だけで全部が解決するわけじゃないんですよね。
むしろそれだけでは足りないことが多いです。
あくまできっかけ。
長い散歩に出たり
友人と会話をしたり
好きな音楽聴いたり
子供と遊んだり
嫌な時間もそうです。
嫌な人と触れたり
あーめんどくせーなーと思いながらやる。
その中にもいろんな発見がある。
そしてその発見をするっていうのは
もちろん身体です。
身体を使って世界に触れていく。
他者に触れていく。
子供に触れたり音楽に触れたり。
嫌なものに触れていく。
こういうあらゆる時間というのが
僕たちの思考の檻の壁というものを薄くしていくんだと思っています。
ここまでの話ちょっと整理してみましょう。
今日話したのは
考えすぎてしまうっていうのは
実は考えているんじゃないのかもしれないという話でした。
中村雄二郎という哲学者。
この方は近代科学が前提にしてきた
地の枠組みというものが
身体を持って立ち合うという地の層というものを
切り落としてきたというふうに指摘したんですね。
僕自身臨床化として付け加えたいのは
思考の檻に閉じ込められている方の身体というのは
ほとんどの方が閉ざされているということです。
論理的に考えても
おそらく身体がそういう状態にあるからこそ
閉ざされてこわばって
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不合理な状態になっているからこそ
現実に触れられない、実感を持てないからこそ
思考は暴走して
記号をこねくり回すことになってしまう。
そして今AIの時代、LLMの時代
この檻というのは
さらに成功に補強されつつあると思っています。
でも身体が解け始めると
開かれ始めていくと
こんなに記号をこねくり回さなくても
論理的な解釈、正解というものを追い求めなくても
考えなくても動けるようになってきます。
もちろんこれが全部言ったわけじゃないんだよ。
そうだけど考えすぎて
答えは出ているはずなのに決められない。
だからまた考えてしまう。
こういった思考の檻の中で
苦しむということは
必要ないんじゃないかなと思うんです。
そこまでして苦しむ必要はない。
これは考えるのをやめたわけではなくて
言い換えれば
身体ことを考え始めたという風にも言えると思うんです。
もし今お布団の中とかベッドの中とかで
皆さんが寝てて
ちょうど今頭ぐるぐる回って
だからちょっとPodcast開いたんだよね
YouTube開いたんだよねという方が
いたとしたら
たまにあるんだよとか毎日そんな感じだよという方が
いたとしたら
ノートに書き出したりとか
AIに相談したりとか
答えが出ないなという風に思っているんだとしたら
それは
あなたの知性が足りないわけではないんですよ。
考えてないからではないんです。
この知性というものが
身体から切り離されているからこそ
空回りしているだけなんだと思うんです。
考えることの手前に感じることがあります。
中村優次郎が一生懸けて示したのは
そういうことだったんだと思うんですね。
あなたの体というのは
頭が出した答えというよりも
ずっと前から何かを知っているかもしれないです。
詳しくはブログの
身体値の書庫というところがあります。
そこにも今日話したことを
より詳細に書いてあったので
ちょっと面白いじゃないかと
もうちょっと色々聞きたいよという方は
ぜひチェックしてみてください。
もっともっとこういう話を聞きながら
自分の身体性というものを知っていきたい
深めていきたいという方は
ぜひSomatic Studioのサポータープランで
実際に自分の体にどう触れるのか
27:00
そして一緒に稽古をしていったり
瞑想の時間をとっていく
サービスというのも充実していますので
ぜひ遊びに来てください。
ということで今日はここまでにしましょう。
またお待ちしています。
それでは。
27:25

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