▼今週のトピック
仏教を世界宗教にしたアショーカ王/
マウリヤ朝の成立の遠因となったアレクサンドロス大王/
ギリシャ文化が仏像に与えた影響/
兄弟を殺害し即位したアショーカ王の非情な過去/
カリンガ戦争の惨劇から仏教徒に転向/
公共事業としてのストゥーパ建立/
アショーカ王の聖地巡礼がもたらした宣伝効果/
考古学的発見で証明されたブッダ
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▼パーソナリティ:大忍 貫道
1987年福岡県生まれ。花園大学文学部卒業。臨済宗妙心寺派。尾張妙興寺僧堂にて修行。
2011年より九州地方の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。
SNSでも仏教の情報発信を行い、Instagramフォロワーは4万人を超え、Podcastフォロワーは2千人を超える。
感想
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かんどう和尚のはじめての仏教。10万。これは何の数字かというと、古代インドのある戦争で命を落とした人数です。
その戦争を起こした王が、後に仏教を世界宗教へと押し上げる存在になります。歴史というのは時々信じられない展開を見せるものです。
前回、前々回と仏教組織の分裂についてお話をしました。組織というのは基本的に分裂すればするほど弱くなる。これは政治の世界でも企業でもよく見る構図ですよね。
では仏教はどうだったのか?分裂した後、衰退をしていったのか?そうではないんです。むしろここから、前世紀へと向かっていきます。
なぜか、圧倒的な力を持つパトロン、いわば国家規模のスポンサーが現れたからです。その名を、和尚家王。日本ではあまり知られていないかもしれませんが、歴史上極めて重要な王様です。
中国の陵の武帝や日本の聖徳太子も、その誠実性を反としたと言われています。奈良の飛鳥という地名が、和尚家に由来するという説もあります。今回は、この和尚家王の生涯をたどりながら、仏教がいかにして国家的プロジェクトとなる最盛期を迎えていったのかを見ていきたいと思います。
まず、和尚家王は歴史上すごく有名な王様なんですけれども、彼は初めてインドを統一した王様なんです。世界史でもテストに出てくるんじゃないですかね。本能寺の編で死なずに、天下統一を果たした織田信長みたいに思ってもらったらわかりやすいかなと思います。
この和尚家王のおじいさんがすごくて、おじいさんの代にのし上がって、マウリヤ王朝と呼ばれる王朝が築かれます。おじいさんの時代すごく大変で、日本でも戦国時代があったように、インドもそういう状態だったんですけれども、日本より大変だったんですね。
日本の戦国時代は国内の有力な勢力同士の抗争だったわけですけれども、和尚家王のおじいさんの時代のインドは日本みたいに海に囲まれていないので、陸路を通じて外敵が侵入してくるんです。しかもその外敵が当時世界最強だった。もっと言うと世界史上最強の一人に数えられるギリシャマケドニアのアレクサンドロス大王なんです。
この名前、世界史に詳しくない方でもご存知ではないかなと思います。世界史を外観すると、このような外敵に襲われているときって、襲われている側には2つのリアクションがあります。
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一つは、それぞれが自分たちの利益だけを考えて内輪揉めをするパターンです。これでダメになった国ってものすごく多いです。もう一つは、外敵の存在により内側が一致団結するパターン。この和尚家王のおじいさんのマウリア王朝は、この校舎のパターンでできた王朝なんです。
そういうマウリア王朝の存在などによって、アレクサンドロス大王たちは疲弊をして、インドからの撤退を余儀なくされるんです。でもそれだけではなくて、アレクサンドロス側も補給戦線が伸びすぎてるんですね。ギリシャマケドニアからインドってすごく遠いじゃないですか。
本拠地の近くで戦ってるんであれば、物資とか兵牢の補給というのも簡単なんですけれども、マケドニアからはるかに離れた場所に来てしまっているので、調達ができないんですね。
加えて兵士たちも長い間遠征生活によってストレスも極限状態になってた。そういう状態の中で撤退するってなるんですけども、その撤退の最中でアレクサンドロス大王は亡くなってしまうんです。
これは余談になるんですけど、この時にインド北部、ガンダーラに残したギリシャ人たちの影響で仏像が制作されるようになります。それまでは仏像って作られてなかったんですね。だから初期の仏像、ガンダーラの仏像っていうのはギリシャ朝国そっくりです。
こうやって外敵がいなくなったマウリア王朝は、次にインド国内に目を向けて統治に力を入れていく。そういうフェーズに入っていきます。その結果、アショウカ王の時代にインドア大陸をほぼ征服をしてしまう。その領土っていうのは、北は現在のアフガニスタン辺りまで含まれていると考えられているので、相当広大な半島を獲得しています。
ここまでは歴史的な話になるんですけども、ここからはアショウカ王の生い立ち、人となりについて見ていきたいと思います。アショウカ王は紀元前250年頃の人で、ブッダが亡くなってから100年から200年ほど後の人と考えられています。
マウリア王朝の2代目の王様の息子として生まれるんですけれども、お父さんとあまり折り合いが良くなかったと言われていて、若い頃には地方に派遣されていたと言われます。でもお父さんが亡くなった段階で首都に戻りまして、王位についたと。でも王位につくときすんなりつけなくて、アショウカ王はたくさんの兄弟がいたらしいんですけれども、この兄弟たちを殺害して王位についたと言われているんですね。
王様になる人にとって一番の性敵って、いつの時代もどの国でも兄弟なんですよね。だから兄弟同士で争うっていうのは世界史あるあるというか、王朝あるあるだなというふうに思うんですけれども、こうやって王様になったアショウカ王は当初はすごく残忍な性格で、暴虐アショウカとか残虐アショウカと呼ばれていたと言われています。
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でも即位して8年、カリンガという国を攻めたときに10万人もの人々が犠牲になってしまう。これが暴動と言ったことですね。これにアショウカ王は大変ショックを受けたと言われています。どれだけショックだったかがわかるのが、この時の出来事っていうのをアショウカ王は石に掘って残すんですね。これが今も残っています。
このような悲惨な戦争を経験した後に仏教徒に転向したと考えられていて、それ以降は仏教の教えに基づいて国を統治することを志すようになっていきます。これを中国の領の武帝であったり日本の聖徳太子はリスペクトするんですね。
そういった中でアショウカ王が行った政策の一つが、ストゥーパを大量に混流するという事業です。ストゥーパっていうのはブッダの遺骨を埋葬した場所に建てられた建造物のことですね。
ブッダの遺骨っていうのは8等分されてそれぞれストゥーパが混流されたというふうに経典にはありますけれども、それを掘り返してさらに細かく分骨して大量のストゥーパをインド各地に混流する、こういうことをやったんだと。
どれだけの数を混流したかというと8万4千、8万4千だと多分持ってます。8万4千っていうのはインドではたくさんという時に使われるテンプレート的な表現なんですね。
でも実際に現代にもこの時のアショウカ王が建てたと思われるストゥーパ、いくつか残っているんです。世界遺産になっている三安地のストゥーパもアショウカ王じゃないかというふうに推定されています。
だから8万4千がどうかわからないんですけれども、たくさんのストゥーパを混流したっていうのは事実と考えられています。ではなぜアショウカ王はこれだけのストゥーパを混流したのか。
学者さんたちの中にはストゥーパは混流に携わったり供養することによって亡くなった後に来世に天に生まれ変わることができる、こういう信仰があったのでアショウカ王はいろんな人たちをたくさんの方々を殺害したことの恐れからこれだけのストゥーパを混流したのではないかとこんな推測がされたりします。
ただ私はそうではなく純粋な政策だった可能性があるんじゃないかなと思っています。確かにアショウカ王は大勢の人を殺害したのでしょうけども、敵を倒すっていうのは当時のインドのクシャトリア王族階級の人々にとってはカーストの中の義務でもあるんですね。
これをインドではスバダルマって言ったりしますが、それぞれのカーストにはそれに応じてふさわしい行動、義務というものがあるんだってされるんです。だから基本的にはこのアショウカ王の行動っていうのは正当化されていたと思うんですね。もちろん内面的には反省していたと思うんですよ。先日に残しているくらいなので。
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でもそれよりも統治者として統治する都市の民のために供養をすれば天に生まれ変わることができる。そういうストーパーをいわば公共施設として各地に混流した。これが実際じゃないかなと私は思うんですね。現在において病院とかを作るような感じじゃないですかね。
先ほどアショウカ王がカリンガの一件を公開したことが石に彫られて今も残っていると言いましたが、それ以外にも膨大な数のアショウカ王の言葉が石に彫られて現在も残っています。それらを見る限りアショウカ王は統治への意識が非常に高い。行政の仕組みに関しても詳細に研究していることがわかります。そういう人なのでストーパーもその一環として見るのが自然なのではないでしょうか。
いずれにしてもこのストーパー事業によりインド各地にストーパーが混流されることになり、次第にストーパーはインドを飛び出して国外にも広がっていきます。東南アジア、ミャンマーですね。ミャンマーではパコーダになりますし、日本では五重の塔になります。
この時にアショウカ王がストーパーを広めなかったらおそらくこうはなってなかったと思います。今とはまた違う風景になってたんじゃないかなと思います。そしてストーパーがインド各地に混流されるっていうことは当然ですけど、仏教も王様のお墨付きで各地に広がったっていうことです。
これ仏教組織から考えるとものすごくありがたい事業でもあるんですね。自分たちは何もせずに勝手に布教されていく状態になってるんですね。このような状態に加えてもう一つ仏教がブレイクする後押しになったのがアショウカ王による仏跡巡礼です。伝承によるとアショウカ王は軍隊を引き連れてブッダゆかりの聖地を巡ったと言われています。
ブッダが生まれた場所、ブッダの故郷、悟りに至った場所、ブッダが亡くなった場所、それぞれの聖地を参拝するたびに五体統治の礼拝を行って涙を流したと。屈しながらに至っては気絶してしまったと言われてますけれども、そしてそれぞれの聖地に多角のお帰せをしていくんですね。
実際にそれぞれの聖地にはアショウカ王が訪れたことを示すアショウカ王石柱が建てられて、これも今も残っています。こういうふうにインド史上屈しの王様であるアショウカ王が熱心に仏跡を参拝している姿、これを家臣や民衆たちは見ているわけです。しかも一回じゃないんです。これ何回も巡礼を挙行しているので、これ何よりの宣伝になるんですね。
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現代でもアメリカの大統領選とかでインフルエンサーとか有名人がたくさん出てきて、各候補者の宣伝をしますよね。この古代インドにおいてアショウカ王が信仰している姿っていうのは、それをはるかに凌駕する効果があったってことが想像されます。
仏教が栄えるときは必ずそれをバックアップしてくれる人々の存在がありました。この番組もそういう形でいろんな方々にバックアップしてもらえたらなと思っているんですけれども、決してお坊さんだけで成り立ってきたわけではない。それがアショウカ王と仏教の関係性から読み取れるかと思います。
最後にアショウカ王の石柱によって考古学的に証明された仏陀の存在についてお話しして今日の配信を締めたいと思います。仏陀が歴史上の人物なのか、それとも学運の人物なのか、これ実は長い間はっきりしてなかったんです。
でも19世紀の末にネパールのタライボンチ付近でアショウカ王の石柱が発見される。そしてここにこの土地がルンビニーであるということが書いてあった。これで長い間不明になっていたルンビニーの場所が確定をします。
加えて、この石柱には古代文字が彫ってあって、解読の結果、ルンビニーは仏陀生誕の地であるので、祖勢を免除し生産の八分の一だけ収めるものとすると、こう記してあることがわかったんです。
最初にアショウカ王は仏陀が亡くなって100年から200年ほど後の人と説明しましたが、100年や200年の間に学運の人物が実在と誤解されるようなことありますか?
日本に置き換えたらよくわかりますね。そんなことないですね。たった100年や200年、歴史的にはですね、それぐらいの短さでは学運の人物が実在と誤解されるようなことって起こらないんですよ。
それで考古学的に、仏陀の存在、実在はまず間違いがないだろうと認定をされました。
次回はインドにおいて仏教が多様化し、日本に伝わった大乗仏教が生まれた経緯までお話ししたいと思います。
今回も最後までご視聴いただきありがとうございました。番組のフォロー、レビューをぜひよろしくお願いします。
また、仏教の伝統にのっとり、この番組は寄付によって制作されています。まだまだ皆さんのお力が必要な状況にありますので、サポーターにご加入いただき、番組の運営に力をお貸しいただければと思います。
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申し込み方法については、概要欄のリンクから入っていただければなと思います。
それではまた来週お会いしましょう。
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