▼今週のトピック
仏教における権威の役割と危うさ/
悪行を重ねた大天の衝撃的な出自/
救いの言葉との出会いと出家の道/
阿羅漢と目された大天の知性と嘘/
弟子たちの不信感に対する強引な弁解/
王の裁定と多数決による教団分裂/
死後も物議を醸した大天の最期/
伝説に隠された教団の正当性主張/
伝承の矛盾から考える実在の大天像/
知的謙虚さがもたらす現代の利益
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▼パーソナリティ:大忍貫道
1987年生まれ。福岡県出身。花園大学文学部卒。尾張妙興寺僧堂にて修行。現在は九州内の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。
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サマリー
仏教における権威の役割と信仰の複雑さについて解説する回。仏陀没後100年頃の教団分裂の伝承として、規則解釈を巡る対立と、大天という人物の出自や悪行、そして彼がアラカンと目されたことで生じた信仰上の対立と教団分裂の物語を紹介。大天の伝説は、後世の教団が自らの正当性を主張するために創作された可能性も指摘しつつ、知的謙虚さの重要性を説く。
権威と信仰の複雑な関係
かんどう和尚のはじめての仏教
権威って聞くと、それだけで悪いものかのように感じたりするんですけど、
果たして本当にそうなんですかね。
全く意味のないものだったら、権威って存在しないのではないでしょうか。
権威があることで、何かしらの利点があるから存在するんじゃないですかね。
確かに権威には恐ろしい側面もあります。
公正院が思考停止に陥ったり、誤りが修正されなくなったり、
善悪の倫理観が歪んでしまうってこともあります。
一方で権威が存在することによって統一的な見解が示されて、
解釈が乱立するのを防ぐっていう利点もあります。
仏教の場合は、この権威に加えて信仰という要素が加わるので、
問題はさらに複雑になっていくんですね。
今回の話は権威と信仰についてのお話です。
仏教教団分裂の二つの伝承
前回、仏教組織がブッダが亡くなって100年ほど経ったときに
分裂をしてしまったっていう話をご紹介しました。
あれは規則をどのように解釈するかで意見が分かれたものでしたね。
時代が経つにつれてどんどん仏教組織は地理的にも拡大していくので、
それまでの規則では対応できない事例がたくさん出てきます。
そこで現状に即して規則を運用していくべきではないかっていうグループと、
いや、ブッダが決められたものを勝手に解釈はいけないっていうグループが
対立をして分裂をしてしまった。
これが前回お話したことの話の前容になっています。
そしてインドの南方の仏教ではこの仏教分裂の伝承が認められています。
これは組織運営という大変実務的な話になっているんですね。
それだけにリアリティがあるなと思うんですけど、
実はこれとは全く異なる仏教教団分裂の伝承が
インドの北方の仏教グループに伝わってまして、
こちらは実務ではなく信仰に関わる話なんですね。
今回はその話をご紹介したいと思います。
大天の衝撃的な出自と悪行
序盤は少々センシティブな話が続くんですけれども、
ちょっとご容赦ください。
昔、インドのマトゥラーという地方に一人の商人が住んでいて、
妻を埋め取り、その間に一人の息子が生まれました。
名前をマハーデーバと名付けます。
マハーっていうのはこれ大きいってこと。
そしてデーバっていうのは神様、天という意味です。
イタリア語で女神のことをディーバって言いますけど、
これデーバとディーバってもともと語源が一緒です。
このマハーデーバを漢訳して大天と大きな天で大天というふうに呼びます。
お父さんは遠くで開けないようしてた。
キャラバンみたいなものだったんですかね。
そういう状態なのでこの大天はお母さんと二人で暮らしてたんですけど、
あるときこのお母さんと大天は男女の中になってしまいます。
そのことがお父さんにバレそうになったので、
二人は凶暴してお父さんを殺害します。
この父親を殺すっていうことは、
仏教では地獄行き確定って言われてる悪業なんですね。
その後二人はことが明らかになるのを恐れて、
今まで住んでたマトラを離れて、
遠くにあるパータリプトラという土地に逃亡します。
そこで息を潜めながら生活をしてたんですけれども、
あるときもともと住んでたマトラにいたときに親しくしてたお坊さんが、
たまたまパータリプトラを訪れてたタイミングで再会してしまうんですね。
大天はこの地において、
自分たちの悪事がばらされるかもしれないってことを恐れて、
このお坊さんも殺害します。
このお坊さんはアラカンだったって言われてるので、
アラカンを殺害してしまったことになるんですね。
これは仏教ではさっき言った父親殺しに並ぶ重罪です。
その後さらに大天は、
お母さんが自分以外の人と男女の関係になっているってことを知って、
激怒して、そしてお母さんも殺害します。
この母親殺しも、このさっきの二つに並ぶ重罪です。
ただ時が経つにつれて、
救いの言葉との出会いと出家
大天の心に後悔の念が生じてくるんです。
そのようなときに仏教のお寺にお参りに行くと、
お寺の門の外でお坊さんが次の祝を唱えていた詩です。
これを唱えていたのを耳にします。
以前には悪い行いをしていた人なども、
後に善、良いことによって償うならば、
その人はこの世の中を照らす。
雲を離れた月のように。
これ、私は結構好きな詩なんですよ。
これは、もともと仏陀の弟子であった、
領旗殺人鬼であったアングリマーラが戒心した後に、
出家して、あらかになったことを踏まえて、
仏陀が唱えた詩なんですね。
いいじゃないですか、すごく。
人はどれだけ悪くても、ちゃんと戒心できるよと。
戒心したら、世の人々を導けるような存在になるよ、
ということをここでは言っているんですけれども。
大典はこれを耳にして、
あ、自分もそうなりたいと思って、
出家することを決意するんですね。
知性と嘘:大天のアラカン疑惑
出家した大典は、もともと聡明だったらしくて、
あっという間に全ての経典を暗証できるようになるんです。
ただこれね、知性とは何かっていうのを
考えさせられる話だなとも思うんです。
当たり前ですけど、
勉強ができるとか、暗記力が優れているってことと、
物事の良し悪しをちゃんと判断したり、
倫理観を有しているかって、
別の話だっていうことなんですね。
だから知性とは決して、
勉強ができることとか、
暗記力があることを知性と言うわけではない、
ということなんです。
大典は加えてお説法も上手だったらしいんですね。
暗記力もあって全部の教を覚えているし、
お説法も上手だってことで、
どんどん周囲の評価が高まっていくんです。
その結果、大典ってアラカンなんじゃないの?
って噂が立って、
しかも大典も特に否定することなく、
ちょっとアラカンっぽい仕草をしながら、
振る舞いながら生きていくんですね。
そのようにして、
もう周囲は完全に大典をアラカンと勘違いした状態で、
月日が過ぎていくんですけど、
弟子たちの不信と大天の弁明
あるとき大典は朝起きると、
無精をして神具を怪我してしまうんです。
そのことを弟子に指摘された大典は、
これは悪魔が仕組んだ策略によるもので、
アラカンでもこういうことがあるんだって弁明をします。
また別の機会には弟子の関心、
良い書をしようと思ってですね、
お前はアラカンになったって告げるんですけど、
このアラカンになったって告げられた弟子は、
自分がアラカンになった自覚が全くないんですね。
それで、本当ですか?って
僕自覚ないんですけどって質問するんですね。
その疑問に対して大典は、
いや、わからないこともあるよって回答するんです。
さらに別の機会に、
アラカンになったって告げられた弟子が、
アラカンになったら、
いろんな自分の中の疑惑がなくなるって言われてるんですけど、
私、あるんですけどって質問するんですね。
それに対して大典は、
またそういうこともあるよって回答するんです。
さらに別の機会に、
大典によってアラカンになったって告げられた弟子が、
アラカンになったら、
自分で僕はもうアラカンになったなってわかると、
そういうふうに伝えられてますと。
でも私は自分でアラカンになったって
わからなかったんですけどって質問するんですね。
それに対して大典は、
そういうこともあるって回答するんですね。
さらに別のある時に大典は、
自分がお母さんやお父さんやアラカン、
そういう人たちを過去に殺害してしまったってことを思い出して、
苦しいと声を出してしまうんです。
それを耳にした弟子は、
アラカンって苦しいとか言わないんじゃないですかって思って、
問い詰めるんです、大典は。
そしたら大典は、
いや、あれはそういうことじゃないんだ。
苦しみっていうのは仏教の真理だろうと。
それがあるから出家しよう、悟りに至ろうと思うんだ。
だから私はあえて口に出したんだ。
このように弁明するんです。
これらのことを次第に大典は、
論争、王の裁定、そして教団分裂
自らの論理として固めていくようになって、
ついには講習の場においてそれらを主張するようになった。
周囲のお坊さんたちはびっくりして、
いや、大典何言ってるのと。
最高の悟りの段階であるアラカンの権威を貶めてるんじゃないかと思って、
ここで論争が出てくるんですね。
でも決着がつかないんですね。
それで王様が仲裁に入ります。
しかし両者の主張を聞いても王様判断ができないんですね。
困った王様は大典にどうすればいいかって尋ねるんです。
なんで大典に尋ねるんだと思うんですけど。
尋ねたら多数決とったらいいですよって提案されるんですね。
おそらく大典は自分の方が人気があることは分かってたんですよ。
王様はそうかって言って多数決とったら大典のグループの方が多かったわけです。
それで少ない人数であったグループは到底納得できませんよね。
フェアじゃないので。
ちょっとこの場所にはいられないってことで
パータリプトラから別の場所に引っ越すんですね。
後から大典たちが間違ってて
他の場所に行ってしまったお坊さんたちこそが
正しかったってことを王様は知るんです。
後悔して彼らに戻ってきてくださいって伝えるんですけど
彼らは応じてくれなかったんですね。
この出て行ってしまった少数グループの人々は
インドの北西部カシュミールっていう場所
現在のパキスタンとかのあたりですね。
この地に定住をしたんだと。
これによって仏教組織は分裂をしましたっていうのが
インドの北方の仏教グループで伝承された
仏教分裂の話なんです。
大天の死後と伝説の信憑性
この話一応後日談もありまして
その後大典っていうのは天寿を全うしてなくなるんですけど
人々は悲しんで立派なお供え物を捧げて
遺体を火葬しようとします。
でも火がつかないんです。
このパターン、ブッダの時もありましたね。
ブッダの時にはマハーカスサバ朝道が来たことでつきましたね。
でも大典はそうじゃないんです。
火がつかないなって言って周りの人々が困ってたら
なんかよくわからない人が来て
大典は立派なお供え物が燃えてなくなるのが惜しいんだと。
だから犬のうんこでお供え物をけがせって言うんですね。
なんかすごい話だと思うんですけれども。
周囲の人たちはしょうがないかって言って
しょうがないのかわかんないんですけど
その通りにお供え物を犬のうんこで汚すんですね。
そしたら火がついてあっという間に燃え尽きてしまって
灰だけが残ったんだと。
こういう灰だけになっても
普通はアラカンとか悟った人の灰っていうのは
信仰対象になるのでみんな欲しがるんですね。
でもその瞬間に突然灰になった瞬間に暴風が起こって
そして大典の灰は吹き飛ばされて
跡形もなくなってしまいましたっていう
こういう誤実談が入ってるんですね。
これらの話は北西インド本拠地にした
節一切有無っていう仏教のグループが持ってた
複数のテキストに載ってる話なんですけど
その節一切有無の本拠地がカシュミールなんですね。
そこから察せられるように
この話っていうのは節一切有無の人々が
自分たちの正当性を主張するために
作られた話なんじゃないのかっていう疑念を持たれてます。
仏教には五百罪って言って
ある五つの行為をすると
必ず地獄に落ちますよってされる行為があるんですね。
それがお父さん殺し、お母さん殺し、アラカン殺し
仏陀の体に傷をつけること
そして仏教の組織を分裂させることなんです。
大典は仏陀の体に傷つけること以外
全部やってることになるんですね。
でもこの時点で仏陀は亡くなってるので
仏陀の体に傷つけることは不可能です。
だから現実的にできる五百罪は
全部大典は網羅してることになってる。
だからそれだけ悪いやつだったんだってキャラ付けされてるんですね。
このあたりもちょっと話ができすぎてるなっていう感がないですか。
だから創作された話なんじゃないかって言われたりするんです。
ただもしそうならこれ創作された話なら
矛盾から探る実在の大天像
ちょっとおかしな箇所もあるんですね。
大典が分裂して大典間違ってるっていう風になったって言ってるのに
その後も尊敬されてた様子がこの葬儀から最初伺いますね。
みんな悲しんで立派なお供え物を持ってきたって書いてあるじゃないですか。
あれ尊敬されてないとそんなことされませんよね。
ちょっと矛盾するんですよ。
徹底的に悪役として描けばいいはずなのに
そうはなってないんですね。
やっぱり王様も大典を支持してたし最初は。
人々も彼を尊敬してて
さらには彼にはたくさんの弟子もいたわけですよ。
そういうところから大典っていうのは
もしかすると実在の人物だったんじゃないかと。
実際にパータリプトラでは尊敬をされてて
節一歳産のこの伝承に言われているような悪因ではなかったんじゃないか。
そういう風に仮定をするとこれまでの矛盾が解消されて
話の辻褄が合うんですね。
ただ辻褄が合うからと言って断定するってのはこれも危険なことですね。
知的謙虚さと現代への教訓
前回お話しした南方仏教に伝わっている伝承も含めて
どれが本当かはわからないし
いずれも本当じゃない可能性もやっぱりあるんです。
途中で知性の話したんですけれども
優れた知性を持つ人っていうのは
知的謙虚さを持ち合わせているってことが指摘されます。
こうに違いないって拙速に決めつけたりしないで
様々な可能性も考慮した上で
ああいう可能性もあるね、こういう可能性もあるねってことを
信案して慎重に判断をする。
そして自分の判断が間違っている可能性ってものにも留意をして
一度出した答えも変えることを厭わないんですね。
これが知的謙虚さだと。
私はこの異なる2つの仏教相談分裂の伝承にも
同じ態度が求められるんじゃないかって考えてます。
おそらく2つの伝承の元になる事件はあったんだと思うんですね。
でもそれが分裂に繋がったのかっていうのは
これはわからないです。
ただその中でもこれらに現れる規則をどう解釈するのか
アラカンという信仰対象をどのように扱っていくのか
これらは当時のお坊さんたちの問題意識が反映されたものに他なりません。
そのことを知って学ぶこと
これは現代を生きる私たちにも確かな利益になるんじゃないでしょうか。
仏教の最盛期と次回の予告
このように組織が分裂をすると普通は弱体化をしていきますね。
でも仏教はこの後弱体化するどころか
最盛期を迎えていくことになります。
そこにはある一人の王様の存在がありました。
次回はそのお話をしたいと思います。
今回も最後までご視聴いただきありがとうございました。
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番組の運営やまたこれからの仏教にとってすごく大きな力になりますので
よろしくお願いいたします。
それではまた来週お会いしましょう。
15:33
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