やった!初めて人から認められた! 吉田修一さんの小説、横道四の隙シリーズに出てくる一場面です。
主人公が自分で撮った写真がコンテストで家作に選ばれて、その嬉しさのあまり思わずこう呟くんですね。
人から認められるってことは確かに嬉しいですよね。 自分のやってきたことが報われる思いがします。
でも、これは一種の麻薬みたいなものだなとも思うんです。
人に認められることに大きく価値を置いてしまうと、人生が狂っていく。
人から認められるっていうのは、おまけみたいなものだと思うんですよ。
何かしらのやるべき仕事、本筋、これがあって、それにおまけとしてついてくるもの、これが人から認められるということ。
今回はその本筋を忘れて、人に認められることに価値を置いたお坊さんの末路、
そしてそこから得られる教訓についてお話ししたいと思います。
今回の物語の主人公は仏教一の悪人として知られるデイバダッタです。
手塚治虫さんの仏陀は確かサンスクリットの方の表記で大馬だったというふうにやってましたね。
彼が出家するところから物語は始まります。
デイバダッタはシャーピア族の出身と伝わりまして、仏陀の親戚にあたります。
このシャーピア族にはデイバダッタ、仏陀以外にもたくさんの男子がおりまして、
彼らは仏陀が出家して、その名声が広がりにつれて、次々に自分もお坊さんになりますということで出家をするようになります。
ところが一部の若者たちは出家せずに、そのまま在族の生活を送っていました。
仏陀にはその6人、一部の若者たちで6人の名前が挙げられておりまして、
その中には後には仏陀の住者になる月人になるアーナンダ尊者とか、
あとは十代弟子の一人に数えられるアヌルッタ尊者とか、その中にデイバダッタも含まれていました。
当時の古代インドでは一族の中から仏陀が出るということ、これは大変な名誉とされてたんですけれども、
それだけに出家しない親戚とかはものすごく白い目で見られるんですね。
シャア家族の若者でありながら出家しないっていうことは、彼らは本当はシャア家族じゃないんじゃないかと、
こんなふうに掛け口を叩かれる。
その声に耐えかねて、この6人はついに出家をすることになりました。
出家した6人のうち5人は順調に修行を進めていくんですけれども、
デイバダッタだけは低い境地のまんまでなかなか修行が進まなかったそうです。
そのせいもあって彼には人気がなかった。
仏教信者たちはことあるごとにお寺にお参りに行きまして、
自分がしたお坊さんのところにお布施を持参するんですけれども、
でもデイバダッタのところには誰も来なかったんですね。
だから、昔AKB48ってありましたね、AKBグループで握手会っていうのがあって、
人気のメンバーのところにはたくさんの人が集まるけれども、
その人気があまりないメンバーのところではガラリと誰も行立してない。
こういうことがあってすごくつらかったって言われている元メンバーの方とかいらっしゃいましたけれども、
そういうたぶん状態なんですね。
古代インドの仏教ではお坊さんが直接財産を所有するっていうことは
禁止されてたんだっていうふうに理解をされるんですけれども、
ただ近年では実はそうじゃなかったんじゃないかっていうことも言われてまして、
実際には何らかの形で財産を保有してたんじゃないか。
有名なのはグレゴリー・ショペンという学者さんですね。
彼はそういう指摘をしてます。
仏伝を詳しく見ると、裕福なお坊さんとそうじゃないお坊さんがやっぱり存在を知るんだと。
じゃあ裕福なお坊さんとそうじゃないお坊さんの違いは何だったのか。
結局のところ、人気があるかどうかなんですね。
令和だったら自分の人気の無さをそこで目の当たりにして愕然とします。
私は彼らと同じ時期に出家をして、同じ王族の出身だと。
でも彼らのもとにはお伏せを持った人々が殺到するのに、
自分のところには誰も来ない。
そう独りごちる。
でも彼は賢い人なんですね。
ただ不平不満をそこで漏らすだけじゃなくて、現状を分析します。
なんで自分にはお伏せが集まらないのか。
その結果彼は自分の境地が低く、修行が進んでいないからだと、こう結論付けるんです。
これは非常にまとえた結論なんですね。
ただこの後が良くなかった。
仏教では正しい努力とそうじゃない努力があるって言うんですけれども、
ここで真っ当に正しく努力するんであれば、
さらに修行に励むはずです。
でも彼はそうしなかった。
彼は物事の良し悪しを見分ける能力がない人、
そういう人たちになら自分は認められるんじゃないか。
自分はお伏せをもらえるんじゃないか。
こう思ったんですね。
見分ける能力を持った人たちは、
自分よりも境地が進んだ仏陀とか他の弟子のところに行ってしまうんですね。
だからそういうふうな考え方をした。
じゃあ誰が見分ける能力を持ってないかなって見渡してみると、
当時マガダ国という強い国があったんですが、
そこの王子にアジャータサッキューという人がいました。
彼が見分ける能力をまだ持ってない、分別がついてないと。
だから彼のところに行きまして、自分の能力を誇示して尊敬を得て、
そして多くのお伏せを得ることに成功します。
その結果デーヴァダッタは財産と尊敬の虜になってしまって、
さらに多くの財産と尊敬を求めるようになっていきます。
このあたりは私は人間の性質というものがよく現れてるなと思うんです。
欲望というのは基本的に増幅していくものですよね。
求めたものを手に入れて満足する、これはでもほんの一瞬のことで、
ちょっと時間がたったらもっと欲しい、もっと欲しいと、
さらに多くのものを欲するようになる。
尊敬されたいという思いもそうですね。
この気持ち自体は承認欲求の一つなので、
人間の根本的な欲求だと思うんですが、
でもデーヴァダッタはこの思いに取り憑かれていくんですね。
主体性が自分じゃなくて、承認欲求の方が主体性を持って、
それに貸し付くように、突き動かされるように、
デーヴァダッタは生きていくようになる。
それが現れたシーンというのがありまして、
ある時ブッダが竹林聖者というお寺で大衆に教えを説いていると、
いきなりデーヴァダッタが立ち上がりまして、次のような提案をします。
ブッダよ、あなたはお年を収めされて疲れ果て、老いておられます。
ここからは安らかにお過ごしください。
私が代わりに相談を討率しましょう。
どうか私に仏教相談をお任せください。
隠居しなさいと言っているんですね。
もうあなた疲れたでしょうと。
もう隠居して私に任せなさいというふうに言っているんです。
この言葉を聞いたブッダは申し出を断りまして、
デーヴァダッタを厳しく叱責しました。
ブッダに拒絶されたデーヴァダッタは憤慨しまして、
そしてブッダを殺害する計画を立てます。
自分の信仰者であるアジャータサッドゥ王子に、
私はブッダを殺害して仏教相談を手に入れますと。
だからあなたはお父さんを殺害して王になりなさいと。
それを真に受けたアジャータサッドゥはお父さんを幽閉して、
その後お父さんを餓死させてしまって、王位を散脱します。
この話は非常に有名で、実話だろうと言われているんですけれども、
浄土宗で独中されている漢無量寿教にも登場する話です。
一方のデーヴァダッタもブッダを殺害しようと思って、
山の上から岩を落としたりとか、酔った象を消しかけたりとか、
いろんな手を使ってブッダを殺害しようとするんですけれども、
結局はブッダの足の小指から出血させることに留まってしまって、
ブッダを殺害することは失敗に終わります。
そしてこれまでの悪事がすべて明るみに出てしまって、
アジャータサッドゥや仏教信者たちからの尊敬を失ってしまった。
すべてを失ったデーヴァダッタは既死改正の一手ではありませんけれども、
自分の存在感、教団の中での存在感をもう一回取り戻そうと思いまして、
5つの項目をブッダに要請します。
これ簡単にまとめて言うと、
もっと厳しくしようよと、修行がぬるいんじゃないかということですね。
具体的にちょっと例を挙げますね。
死ぬまで森で生活しようと。
昔、ブッダも出家者当初は森で生活をしてたんですけれども、
その当時出家者っていうのは森で生活するっていうことが当たり前だったようです。
でも仏教の場合は途中からお寺、建物が寄進されるようになっていって、
お坊さんたちが室内で生活をするようになるんですね。
それに対して贅沢じゃないかと、
そういうことをディヤバッタは言ってるんですね。
で、2番目が死ぬまで卓発で得た食事だけを食べること。
卓発で食べる食事っていうのは、
やっぱりいろんなお家の残り物をもらってますから、
それを混ぜて食べるのであまりおいしくない。
実際にブッダも初めてそれを口にしたときには、
吐きそうになったっていうふうに記述が残ってます。
でもだんだんと仏教組織が人気になっていくと、
この裕福な人たちから食事に招かれて、
ご飯をご馳走になるってことが増えるんですね。
そういうのを贅沢だからやめたほうがいいと、
ディヤバッタは言ってます。
それで3つ目、死ぬまで糞造営だけで生きていくと。
糞造営っていうのは、
もともとは出家者っていうのは自分の衣服を、
死体置き場のご遺体が着てた衣服とか、
そういうものを切れ端ですね。
これを縫い合わせて1枚の衣にして着用をしてたと。
でも仏教が人気になっていってからは、
いろんな裕福な人たちから1枚の大きな綺麗な布をもらうようになっていく。
それを着てたので、それは贅沢だろうとディヤバッタは言ってるんです。
そして4つ目は、死ぬまで木の下で眠ることと。
これは最初と1番目と重なりますね。
室内で生活をしてますから屋外にしなさいということです。
そして5つ目、死ぬまで魚や肉を食べないことと。
日本ではこれはあまり知られてないんですけども、
もともとの仏教では一定の条件の下では肉魚食べていいんですよ。
その条件というのが3つあって、
自分のために殺されているということを見てない。
自分のために殺されたと聞いてない。
自分のために殺されたと疑ってない。
この3つの条件を満たしているのであれば食べてもいいとされてました。
肉食を全面的に禁じるというのは中国で出始めた考え方になるんですね。
こういうふうに聞いたブッダは要求を退けます。
それは好きな人がやればいいと。
そうやりたい人はやっていいと。
でもみんなに強制する必要はないと。
このようにブッダに拒絶されたディヤバッタは、
他の周囲のお坊さんたちに、
ブッダが言っていることと私が言っていること、
どちらが正しいと思いますかと。
私に賛同する人がいれば、
私と一緒に行動を共にしましょうと呼びかけます。
すると、まだ分別が十分についていない新米のお坊さんたち500人が、
ディヤバッタが正しいと思って、
彼と一緒に行動を共にするようになります。
ここでディヤバッタ派みたいな派閥が出来上がっています。
彼らは自分たちの主張を他のお坊さんたちにも広めまして、
仏教相談の分裂を加わらせるようになる。
そしてついに相談から離脱する、分裂して出て行ってしまった。
ディヤバッタ一行に出て行かれたブッダは、
自分の二大弟子であるサーリーブッダ尊者とモッカラーナ尊者を
彼らの元に派遣をします。
この二大弟子が来た時にディヤバッタは、
この二大弟子も自分に同意してくれたんだと、
賛同してくれて来てくれたと、大変喜ぶんですけれども、
でもサーリーブッダ尊者とモッカラーナ尊者の狙いはそうじゃなくて、
このディヤバッタについて行ってしまった間違ったお坊さんたちを説得して、
元に戻す、こういうミッションを追っているんですね。
ディヤバッタが油断している隙に、
このディヤバッタの弟子たちに説得しまして、
そして彼らがまた元に戻ってしまう、
仏教相談に戻ってしまう。
もうほとんどの弟子がいなくなってしまったディヤバッタは、
大きな衝撃を受けまして、ショックのあまり病に伏せるようになって、
やがて重篤な状態になってしまう。
死の足音が近づく中、ディヤバッタはブッダとの面会を望むんですけれども、
その途中で生き絶えてしまって、地獄に押してしまったと伝えられています。