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2023-12-23 10:28

小学2年のとき、先生たちが教えてくれたこと

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というわけで、小学2年生のときに私の身に起こった出来事、ルール、お話をしてきたんですけれども、
担任が大校の教頭も含めて6人も変わるという異常事態、こういう経験をしたことがある人はたぶんいないんじゃないかなと思いますよ。
今となってみりゃ、こうやって話のネタになるんですから、貴重な経験だったと思いますけれども、
自分の子供にもし同じことが起きていたらと思ったら、たまったもんじゃないんですよね。
実際、自分の子供も小学生なので、1人も小学校を3、6年間行きましたからね。
いろいろな先生にお会いをしまして、その度に結構、ああだこうだということもそれはなくはなかったですけれども、こんなことはなかったんですよね。
明らかに私の自我の形成にも影響があったと思いますよ。
小学2年生って本当に多感な時期だし、言語とかもその辺で固まってくるなってよく言うじゃないですか。
8歳、9歳くらいまでにいろんなものって固まってくるんですよね。
性教育とかもそれまでに施した方がいいよって言いますよね。
10歳とか超えちゃってくると、いろんなことを真面目に受け取れなくなる。
潜入感なくいろんなことに取り組めるのってその辺までだっていうような話はありますよね。
性教育も恥ずかしがったり、変に笑いにしちゃったりして、ちゃんと聞けなくなっちゃうみたいなね。
っていうすごい大事な時期、小学校の低学年ってそうだと思うんですよ。
この有様ですからね。
だからもう本当に私ね、すごくここで体感したというか考えたのが、
教師、先生って全然信用できないなってことなんですよね。
多くの方にとって、私も1年生の時はそうだったんですけど、先生ってすごく重要な存在じゃないですか。
大きな存在。
親と同じぐらいに大きい存在なんじゃないかなって思うんですよね。
だってやっぱり学校って1日の起きてる時間の半分ぐらいは学校にいるじゃないですか。
そこでずっと一緒にいるわけですからね。それは大きな存在であるのは間違いないところですよ。
そういう人たちっていうのが、どんな振る舞いをするのか、どんなことを自分に言うのかってすごく気になりますよね。
私が経験したのは何かっていうと、先生が突然いなくなるっていうね。
まあ親がね、突然いなくなるっていう人もいるとは思いますけれども、逆にその先生がいきなりいなくなるっていうパターン。
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案外経験なくないですか。皆さんね。
入れ替わりは当然学期の時にはありますけれども、学年ね。
担任の先生が途中で変わる。しかも6人もってそんなことあります?
いや本当に世の中で決め事とされてることだって、全く脆いもんなんだなっていうのは、その時に私も身に染みて感じましたよね。
大人が言ってることが信用できないみたいなところも、そこにすごく根付いてると思いますよね。
だから私その後、先生の言うことを全然信用しなくなっちゃって、いろんなことが起きるんですよね。
まあ良くも悪くもって感じですけど、大人が決めていることっていうのが意外と不確かだぞっていうことは、本当に子供時代にここで植え付けられた。
あと他にもいろんなことを感じましたよね。
私たち児童にとってすごく良かった片山先生っていうフォークシンガー先生は、一度の失敗でいなくなっちゃいましたしね。
今となっては彼が言ってた自分の教員免許は三流だっていうような言葉は一体どういう意味があったんだろうかと。
あとはね、山田先生のこともちょっと考えちゃいますよね。
まあ全部推測ですよ。憶測にしか過ぎませんけれども。
彼女もね、きっと教員免許は取ったものの、先生にするのになかなか厳しいねっていうような評価を受けたのか、あるいは自分でそう思ったのかどっちかだと思うんですよね。
ちょっと自信ないなって。それが何かたまたまお恥が回ってきちゃったらやっぱりうまくいかなかったっていうね。
私の子どもたちが通っている学校でもそういう学級崩壊の話は聞くんですよ。
幸いうちの子どもたちが行っているクラスではそういうことはないんですけど、同じ学年だったり近くの学年だったりそういうことが起きてますよって話は聞くんですよね。
先生も人の子ですからそういうことも当然あるとは思うんですよ。
仕事なんで労働ですから、うまくいくときいかないときって当然ある適正不適切はありますからね。
彼女もねああいう経験をしてしまうときっと教員としてその後も活躍するっていうのはなんか厳しい道だったんだろうなと、本当に全然知りませんけどどうなったのかということは思いますし、きっと先生になろうと思ったのには理由もあったんだろうし、いろいろ考えますよね。
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そして結局千葉先生っていうすごいスーパーおばあちゃんがやってきてすべてをビシッとしていったっていうね。
私は別に規律とか全然好きなタイプじゃないんですよね。ガバナンス嫌いって前も言ったような気がしますけど。
ただその有用性みたいのは認めざるを得ないと思ってるところもありまして、それは千葉先生の経験からですね。
千葉先生は全然タイバスとか振る人ではなかったですけれども、ある種の暴力性、言葉とかめっちゃ厳しかったですから。
笑ってるなーっていう感じだったんで。そんなことね2年生になってから言われたことない。
1年生の時の奈良先生もそんな言い方しなかったから。
大人はなめるっちゃいけない大人っていうのがそこで初めて見てる感じがありますよね。
先生っていうのがそこまで子供の目から見てもろくでもない人が多かった中で、千葉先生はこれちょっとなめられないぞ、手強いぞという感じをバンバンに出してたんですよね。
そういう、ある種の権威性じゃないですか。でも権威性が必要とされる段階あるなと。
人間には動物性みたいなのはどうしたってあるなと思うんですよ。
そうやって小学2年生の私の時のクラスがガサガサガサガサしてたのもやっぱり理屈とか理性とかっていうものが伴わない。
とりわけ子供はそうですよね。圧倒的な力社会だし、足早い奴が偉いというわけがわかんない。
でも考えてみると結局原始の時代と一緒ですよね。狩猟をしてた時って、狩りしてた時って足早いのがいいに決まってますよね。
鹿を追っかけるにしたってね。足の速い奴がおそらく強いっていう、一番餌を取ってくるっていうね。
そういう厳然たる事実があったわけじゃないですか。そう考えると足の速い奴を持てるっていうのは極めて理にかなってるというか、
わりかし原始の時代の本能に近いんだろうなと思うんですよ。
だから子供の世界ってすごく本当に力の強いものとかが如実に縦社会的なものを作る、階層を作りますよね。
そういう力社会だからこそ大人はやっぱりしっかりした自分というものを見せていかないと、
人様教育論は否定する気はないんですけども、友達みたいな親みたいなことよく言うじゃないですか。
うちのお母さんの友達みたいなんです。それはそれですごくいいことなんだろうと思いますが、一方でね、
親なり大人には権威や責任、責任を伴う権威っていうものがいってないといけないんじゃないかな。
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意外にね、味わい深いというか考えさせるのがこの木見塚先生の授業でね、あの人は何だったんでしょうね。
だけど、プリントを解かせることが授業になるっていうのって、実は結構なんかこれもね重大な問題というか、我々の学習って本来は別にそれで成立するはずなんですよね。
算数の問題の解き方とかはプリントに沿ってやってりゃできるようになるはず。少なくとも小学校のレベルとかそうですよね。
であればなぜ担任の先生はいて、何が担任の先生に求められているのかっていうのは、案外とあの人が一番示しているのかもしれない。
だってあの時期の2年1組、私のクラスが一番荒れてざわついてましたもんね。
そんなことでですね、小学2年生の話はこれで終わりなんですけど、小学3年生も結構ひどくってですね、みたいなね。
私本当に先生にはたくさんの思い出があります。
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