皆様、なぜかいつもこういう展開になるなとか、結局いつも同じような損な役回りをしてしまうな、などと感じることはありませんか?
例えば、実際はそうじゃないのに、なぜか勘違いをされてしまった。そして、それに乗っかってしまった。そんな体験。
確か小学生の頃、こんなことがありました。
子どもとは言え、大人げない。ちょっと荒っぽいお話ですが、ご容赦ください。
原因は、きれいさっぱり忘れてしまいましたが、なぜか同級生と喧嘩になった時のこと。
教室の中、二人っきり。
基本、私は口が達者と言いますか、体が動くというよりも、まずは口が動く人。
なんだかんだと言い合って、言い負かしたり、負かされたり。そうなりがち。
ただ、その時の同級生は、どうやらそうではなかったらしい。
揉めている内に、手が伸びてきて、顔をガリッ。引っかかれてしまいました。
「い、痛いっ。」
小学生の手なので、それほど深くはなかったとは思いますが、なにぶん、言い合いには慣れているものの、
引っ掻くなんて、したことも、思いついたことすらもなかったような。もう、びっくり。
しかも、顔。
「信じられないっ。」
悔しいやら、腹立たしいやら。
そんなわけで、「くぅっ」。私も、思わず反射的に、引っ掻き返しました。
もちろん、されたのと同じ場所目がけ。
ただ、見てみると、何の跡もついていない。
影も形もなし。
「なんで?
確かに引っ掻いたのにぃ。」
「あっ」、思い当たったのは、先生からの言いつけを守っていたこと。
「皆さん、手のひらの側から見て、爪が見えないように、きちんと切って清潔にしましょうね。」
そう言われていました。
「はいっ」、元気よく返事をしつつ、「そうかぁ。見えないようにしなきゃね。」
言われた通り、きれいに爪を短く切っていたんです。
家族に伝えて、切ってもらっていたのかも。ですが。
いずれにしろ、短い爪。
せっかく引っ掻き返したのに、何の痕跡も残せず、やられっぱなし。
「うっ。うぅっ。悔しぃ。」
なにぶん、小学生のこと。
思わず、泣いてしまいました。
本物の涙。
と、ちょうどその時、わいわいと他の同級生が教室へ。
そして目にしたのは、つるっとした肌のまま、どや顔の相手と、顔に引っ掻き傷をつけて、泣いている私。
皆、驚いて口々に、「大丈夫?どうしたの?引っ掻かれたの?」
泣きながら、「うん。」うなずきました。
心の中では、「引っ掻かれた。引っ掻き返したけど、ぜんぜん跡もつけられなかった。引っ掻くって、難かしい。」
そう思っていましたが、なにぶん、泣くのに忙しく、うまく言葉にならずじまい。
すると、「ひどいっ。あんまりだよっ。」
いつの間にか、皆が相手に怒ってくれ始めました。
「あれぇ?痕はついてないけど、一応、私も引っ掻いたんだけどな。」
結局、相手も私も、その勢いに流され、それ以上何も言えず、何も言わず。確か、私がかわいそう、という趣旨で終わったかと。
このお話、人生のプログラム=脚本から、考えてみます。
改めて、人生のプログラム=脚本とは。
承認欲求を満たす刺激=ストローク、
心の栄養源を得るため、私たちが小さな子どもの頃、自分で書いたもの。
大人になったら、その存在すら覚えていないのに、そのまま今も従っている。
始まりがあって、終わりがある。
無意識に書かれた物語、人生のプログラム、とも言えるもの。
自分はこんな人、周りはこんな人、登場人物の役割設定もあったりする。
その上で、起きているあれこれを、この脚本に当てはめて、再定義。
これが現実。
そう思い込み、脚本通り、自動的に進んだり、考えたり、感じたり。
合理的ではない、行動・思考・感情をしているとき、この脚本が関係している可能性が高い。
それほど、私たちの土台になっているものです。
今回の例、わいわいと教室に入ってきた時、同級生達が目にしたのは、
つるっとした肌のまま、どや顔の相手と、顔に引っ掻き傷をつけて、泣いている私。
舞台は調い、登場人物の役割としては、引っ掻いたひどい人と、引っ掻かれたかわいそうな人、
そして、かわいそうな人をかばう、優しい人たち。
瞬間的に、そんな設定がされたのかも。
その上で、起きているあれこれを、この脚本に当てはめて、再定義。
これが現実。
そう思い込み、脚本通り自動的に、進んだり、考えたり、感じたり。
それぞれの役割のまま、勢い良く、進むストーリー。
一度その流れに乗ってしまったら、事実はどこへやら、そのストーリーが現実となって、展開。
自分のことですから、私は悪くなかった。そう思いたいですが、実際はどうだったんでしょうか。
喧嘩両成敗。それぞれに、それぞれの言い分があったはず。
もちろん、先に手を出したのは相手。
どうなの?とは思いますが、文字通り、爪痕は残せなかったものの、私も引っ掻きましたから、それもどうなの?なんです。
ただ、泣いてうなずいている内に、みるみるかばってもらい、かわいそうな人役も、案外いいかも。
そんな気になって、乗っかってしまった節もあります。
今さらですが、ごめんなさい。
私たちの心の中にある、「親・成人・子ども」。
脚本は、心の中の「子ども」が書き、心の中の「親」が強化する。そして、心の中の「成人」の気づきの外にある。そう言われています。
特に、ストレス状態にある時、私たちはこの脚本に引っ張られ、無意識の内に従い、進んでしまうらしい。
その結果、ひどい人、かわいそうな人、優しい人という配役。それぞれの役割で、得られるストロークがあります。
そして、ストロークは、それを受けた行動が強化される。そんな特質があるもの。
ストロークを得るための脚本が、脚本で得た、一つ一つのストロークによって、さらに強化される。
私の場合、かばわれるかわいそうな人ストロークは、たまたまだったもので、どうやら強化されるまでには至らなかったようですが。
建設的で、居心地の良い脚本、役割ならOK。ただ、問題のある脚本、役割なら、見直したい。
脚本は、無意識に自分が書いた物語。問題があるなら、変えられる。自分が決めるだけ。