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はい こんにちは
よろしくお願いします。 今日はですね
文学の話をいつも通りしたいんですけれども 最近ですね、なんか全然三島由紀夫の話してないなぁと思って、結構前はしてたんですけどね
そういえば、定期的にしないと 黙ってしまうのでね。三島筋が、筋肉が黙ってしまいますのでね。
お話ししたいと思うんですけど、でもただお話ししただけじゃ芸がないんでね 泉鏡花を最近読んだって話はしたんですけども
泉鏡花と三島由紀夫って僕のね、リスペクトする作家2人をね、対比させてお話したら
結構面白いんじゃないかなっていう感じもして、そんなことをね 他のことをやりながら考えてたんで、そういうことをねちょっとお話したいと思います。
よろしくお願いいたします。 対して、泉鏡花と三島由紀夫
そうですね、まず僕が最初に出会ったのは 三島由紀夫の方なんですけども、泉鏡花は後から知ったんですけども
さらに後から知ったのが三島由紀夫は泉鏡花を非常に尊敬してたっていうことですね。
すごく褒めてるというか尊敬していて、泉鏡花は本当にすごい作家で、ああいう作家になりたいって言っていますね。
泉鏡花の方は三島由紀夫を活躍し出すより前に亡くなってしまったと思うので、あんまり知らないと思うんですね、三島由紀夫のことね。
そういう作家の繋がりがあるってことは知ったんですね、僕が。
泉鏡花の作品っていうのは非常に美しくてですね、なんかこう有限な世界というか、三島由紀夫は煉獄とか言ってますよね。
煉獄的な世界って言ってますけども、つまり浄化されるようなね、非常にキラキラした関連的で美しい世界っていう幻想的な世界っていうね、要素があると思います。
でももちろん泉鏡花は関連的で幻想的だけじゃなくて、非常にリアリズムというかね、人間の生き方とかね、切なさとか、
そういうのを、社会と理想の対決っていうか圧力みたいな、争国みたいなのを描いてる作家でもあると思います。
風流戦などを読みますとね、本当にこう社会現象とかね、事件とかね、自然とかね、そういう文明の進歩と失われていく文化、自然、歴史みたいなとかね、そういうのとかを
余すことなく描かれていてね、本当に全体小説的っていうかね、ちょっと古い言葉で言うとね、総合小説とかね、そういう社会のこととかをすごくまるっと扱ったね、
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ちょっとの巨大な作品をね、描いてる作家だと思います。それは最近読んだ「灼薬の歌」とかね、参加評判記事もね、やっぱりこう社会と、
人間社会とかでも、人間社会だけじゃなくて、有限な世界、魔物たちの住む世界、怪しい世界を一緒に描いてるっていうね、それをもう見事な文章で自由自在にね、
描いてるっていう、一見水道教科の文章って自由が少ないというかね、あまりにも技巧的で、
描けることが少ないんじゃないかって言われたり、いけそう見えるんですけど、でももう、
やっぱり技巧が極まりすぎてて、むしろそれを突き破ってね、自由自在に描くものと文章が一体になってるようなね、
本当に素晴らしい絶品の文章。文章がいいだけではなくてね、内容も素晴らしい、本当にキビというかね、人間の感情とか、
人間以外の生き物とか、植物とかね、そのキビがね、
キビというか、震災の動きとか、怪しい、魔の冥府、魔道の存在のね、
好み化しとかね、醸し方とか、そのチラリと見せる、色気とかね、本当に素晴らしい
腕を持ってるね、作家というか、本当にすごい作家で、芸が、いずみ教会に対して芸があるなんてことは
口は避けてもいいね、つまりそんなの当たり前、いずみ教会は当たり前の天才ですから、全然そんな、
言いまでもないことですけれども、本当にすごい作家だと思いますね。
じゃあ、この辺で水間浩二で交代しますとね、水間浩二はもう本当に、これもまた天才でね、ある意味、
本当にすごい作家で、大蔵賞に勤めていてね、そこを辞めて作家になったような人ですから、エリート中のエリート、東大邦楽部、
2番目ぐらいに卒業したのかな、成績が。本当にすごい作家なんですけども、大蔵賞にそのまま勤めてたらね、
弁述が上手いから政治家とかにもちょっとはなったかもしれないということも思いますけれども、それはわかりませんけれども、
そういうような人ですけどもね、文学はね、もうロマンチックというかね、すごくこう、
やっぱり観念的でね、現実の事件を取材して、やっぱりこう書いていくってね、もう本当に長編小説も短編小説もすごい書いていて、
評論もものすごく書いている作家でね、本当に戦後文学というか日本文学でもかなり、
異質でありながら巨大さはもう本当に類を見ないような作家の一人だと思いますね、そんな道を生きるんですけどね。
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三島幸男はね、泉強化がこう、すごく広い、広いというかね、
日本画に描かれているこう、絵の絵で浮世絵とかに描かれている波、北斎とかの描く波と立体的じゃなくて平面的な波ですね。
まあ底面的ということは、絵が我々にとっては平行に描かれている、垂直に立っているような波ですね。
こういう波の作家だとしますとね、やっぱり三島幸男はこう、横にね、こうグワーッと奥行きがすごい、
法上の海なんていうね、最後の大傑作もありますけども、法上の海がキラキラキラキラーって光ってるよね、こうフワーッと棒を落としたね、
すごいもう法上であり虚無であり、積み込むようなね、母であり父であるような海、そういう海をね、横向きの波を描く人だと思いますね。
それはまあ例えるなら、だから北斎のこう、とか波のいはちのこう、かき割り的な世界、もちろん三島幸男もかき割り的な場面を描いたりするところがあるんですけども、
泉幸男はやっぱりそういう、あくまでかき割りのね、カラクリが好きなんだよね、三島幸男っていうのは、カラクリ細工で、
カラクリで描かれた、歌舞伎の舞台のような海、垂直に立っている海なんですけどね、三島幸男は平行に立っている海、フワーッと。
そういう海の違いがありますね。海で例えるとね、実際海が二人の作品すごく出てくるんですけどね。山で例えるとね、やっぱりこう、泉幸男っていうのはね、山もね、冷方というかね、ちょっと女性的な山というかね、
ぼーっと、得体が知れない、遠くにあるような山なんですね。で、入ると魔境みたいな山でして、三島幸男はもっと垂直なんですけどね、山ですから、アルプスの後方というかエベレストを登りていくみたいなね。
そこでもうハラハラドキドキみたいな、すごい関連的な、超越的なところ、ここはもうすごい、僕なんかに伺い知れない、高みへ行くっていう思考がね、例えば金閣寺とかもね、金閣を燃やすなんて、すごいスキャンダラスかつ、ある意味不尊な行為じゃないですか、行動じゃないですか。
そういうのをバーって変えていく。そこが伝説的な、神話的な、プロメテウスとかね、プラトンの火とか、イデアの例えとかもそうだけど、火っていうものの魔力であり神秘性であり伝説的なもの、そういうのを神話性を取り戻すっていうね。
そういう序章誌かつ序って書かれてるんですけど、実は現代の序章誌ではあるっていうね、内面が外面化したようなね、現代の方法で書かれてる心理小説、金閣寺っていう作品がありますけど、
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三島由紀は本当にもう、すごい難解で難しくもあるし、単純明快で表面的なものの深さっていうことを言うんですよね、三島由紀は。だから身体を鍛えたりしてね。
イズミ教科はたぶん肉体とか鍛えないで、かなり痩せ男な感じの人なんですけど、痩せててなんかすごいほっそりして、いかにも端微的な作品を書きそうな感じの方なんですけど、すごい神経質な感じもあってね。
三島由紀はほっそりしてイズミ教科とかに近かったんですけど、鍛えたり鍛えたりして、それで表面っていうのを大事にしたんですね。
それは言葉っていうのが内面で、内面は外面を覆い尽くしてしまうような鎧のようなものなんですけど、それだと本当に文学として開花できないっていうことをね。
三島由紀は30歳ぐらいから、45歳になくなりますけど、30歳ぐらいから晩年まで体現していくんですね。
見事それを決実させたんですけど、そういうすごさがありますね。
イズミ教科はむしろずっとね、たぶん変わらずね、イズミ教科の人生をよく知らないんでね。
今度しゃべったらお話しますけど、たぶんずっと自然に、もちろんロマンスとかドラマとかあるんでしょうけどね。
大崎光洋っていう先生に習って、その人もすごい偉大な作家ですからね。
その作家に習って、若い頃にやってて、その独立した後、すぐ独自の教授を開くっていうことですけども。
そういうね、二人の対比があります。
あとはですね、本当に二人は結構似てるともあるんですね。
非常に素晴らしい文章です。文章と内容の一致というか、文章で書くことと文章のスタイル自体が、
スタイルだけじゃない、内容だけじゃない、両方の見事な調和というか。
調和がものすごい爆発するカタルシスを最終的に生み出すんだっていうことですね。
だからもう、本当にカチカチってやっていって、最後にバーンと破綻というかカタルシスが起こるっていうのは、結構二人に共通している長編小説なんか。
そうですね。非常にありますけれどもね。すごく悲劇的って言ってもいいかもしれないですね。
悲劇的というよりね。悲劇。悲劇っていうのは一番文学というか芸術の中で難しいジャンルだとは思うんですよね。
悲劇はもう本当に難しいジャンルですけども。悲劇はハッピーエンドとするとね。
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悲劇っていうのはハッピーエンドではないけれども我々に深い感動をもたらすっていうね。
本当にすごいジャンルだと思いますけども。僕なんかどっちかというと悲劇的な方が好きだったり、どうしてもこうやって話してると悲劇的な方に行っちゃうんで。
冗談とか飛ばしちゃうんでね。全然悲劇的なものにリスペクトしかないという。全然そういう要素がない人間なんですけどね。
すごい作家ですね。悲劇詩人ですね。2人ともね。ものすごいね。こういう作家はなかなか出てこない。
泉卿か道前卿って2人とも出てこないと思いますね。作品の共通点で言うとですね、本当にもう漢文とかを2人ともめちゃくちゃやってるし、
外国の文学にも精通してるので、泉卿かも外国の文学に精通してるので、教養があるので、
すごく2人とも平仮名、漢字、カタカナ、英語というか海外の教養とか物語の豊かさとか、
自由自在な文体でね、物語を作っていく。高知な完成された物語を作っていくっていうのがね、
こういう小説家はもう憧れしかない。本当に感心しますね。感心ですね。感動しますね。
本当にすごい作家ですね。メカニカルな部分もあればね、常年の部分というかドロドロした部分とかもあればね、
そういうのが根前一体となった。アポロンとディオニソスが根前一体となったような非常にすごい作品ですね。
どっちかというと三島由紀はアポロン的なものを目指しつつ、やはりディオニソスの色彩的要素もあるって感じなんですけど、
泉卿かはもうさらからディオニソス的な感じがしますね。本当に共演というかね、
プラトンの共演って本がありますけど、共演が振り広げられるって感じですね。
本当にものすごい魂の共演みたいなのがありますね。ドラマが。泉卿かはね。
二人ともすごい作家ですね。やっぱりね、本当にこういう作家を二人も日本文学が持てて、かなり
私は日本語で読める、原文で読めるので、かなりありがたいですけども。もちろん古典にもね。
村崎石器部とか滝沢極手羽金とかね。伊原細角とかね。ものすごい作家がいっぱいいるんでね。
そういう作家も読めるんで嬉しい限りありますけども。もちろんそのくぞる国にね、素晴らしい作家がいるんでね。そこはいいんですけどね。
近代文学にね、泉卿か三島卿っていう二代教徒、もっといいんですけど教徒はね、もちろん他にもね。
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なんとかなんとかっていらっしゃいますけど、こういう共通したところがあればまた違うところもある作家。
こういう作家をね、得られたことは本当にラッキーって感じですけどね。
つい熱く語ってしまって15分ぐらい喋っちまいました。
まだまだね、話がつかないかもしれないですね。
この辺でいさまず区切りとさせていただきましょう。
ありがとうございました。
今回は三島卿卿と泉卿家についてのお話でした。
伊太郎でした。ありがとうございました。
では。