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みなさん、こんばんは。
いかいちかわ第221回目の放送が始まりましたけれども、
私はですね、このいかいちかわのパーソナリティーのうちの一人であるノスタルジー鈴木でございます。
普段一緒にお送りしているですね、もう一人のパーソナリティー、稲村ジェーンさんはですね、
実は、一緒に収録する意欲はですね、もう満ちていたわけなんですが、
この今日の収録というのは非常に変な時間なんですね。
というわけで、さすがにその時間には一緒に収録することは難しいであろうということで、
今回は私一人でお送りするということになっております。
で、私はですね、現在私が今収録しているこの日付というのは、
西暦でいれば2025年ですね。西暦2025年。
和暦でいうと令和7年。昭和でいうとですね、100年なんですね。
昭和が始まって100年目というか、昭和がもし続いていたら100年だというわけでございます。
で、その2025年の5月の25日のですね、24日の深夜と言った方がいいかなと。
ただ日付は変わりまして、5月の25日になって数十分経った状況というわけでございます。
で、実はですね、5月の24日に私、ある市川市内で行われたイベントで司会進行をですね、務めたわけでございます。
このイベントがですね、非常に私も司会を務めるということで、
そのイベント全体のですね、内容を事前にもある程度奨学していたわけですし、
実際当日数時間前ですけれども、半日ぐらい前ですけれども、
聞きながらイベント、登壇された方々のお話というのを聞きながらですね、
非常に感じることがたくさん本当にあったわけなんですね。
お話を聞きながら取ったメモとかが手元にありますので、
事前にいろいろと私が書いたメモなんかもあるので、
今日はそんな話をしたいと思います。
何をするかというと、何をするかというときにですね、何の話をするかということなんですけれども、
今日、5月の、今日というか昨日ですね、5月の24日に行われたイベントのタイトルというのが、
紙芝居で考える戦争と平和というものでした。紙芝居で考える戦争と平和というものなんですね。
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簡単に言いますとですね、紙芝居、2つの演目があります。今回ありましたけれども、
1つが戦の少年記。少年記というのは少年の時期ということですね。
少年記というのは1学期、2学期の記ですね。戦の少年記というもの、その紙芝居が実演されました。
もう1つが杏の花に包まれてというタイトルの紙芝居、こちらも実演されました。
異なる演者さんがですね、これをお話を読んだと、読むというか本当に演じるといったほうが近いですね、本当に。
これがメインのコンテンツ。そしてですね、この2つの紙芝居、合計で約1時間弱ぐらいですか。
これがあった後にはですね、市川と戦争についての話ということで、実際に市川市の江戸川通りですね、
さとみ公園とかの近いあたりに行ったと思いますが、そのあたりに少年時代、小学校、当時でいう国民学校に入る前ぐらいだったかと思いますが、
そのぐらいの頃を海戦、終戦かな、の頃をそのぐらいに迎えられた方が、実際に体験された戦争のリアルな生の声というのを直接お話を伺うという、そんな時間も今回はあったわけでございます。
そのタイトルというのがさっきも言った、紙芝居で考える戦争と平和というものなんですね。
紙芝居というもの自体がですね、戦前、戦中、戦後にかけて、特に子どもたちの娯楽、テレビがない時代ですし、ラジオはありましたけれども、ビジュアルで見えると。
絵本とか漫画というのも存在はしていたと思いますけれども、紙芝居というのが非常にですね、語り手の演じ家のですね、感情のこもったまさに役者ですよね。
絵本なんかね、夢聞かせとかももちろん今でもありますし、ありますけれども、紙芝居というのはまた、絵本ともまた一味も二味も違う魅力があるものだと思います。
現在はですね、どちらかというとその伝統文化みたいなものに近いものかもしれません。
そのいわゆる主流なメディア、娯楽のタイプではないわけですね。
ただ、しぶとく残っていて、非常に、例えば今日のイベントなんかでも、紙芝居を通じて、もちろんこの戦争を捉えたですね、様々な映像作品というのもあったりしますけれども、紙芝居で話を伝えるというのは非常に力があるなと思った次第でございますけれども。
ちょっと今日どんなイベントだったかというのをご説明したいと思うんですが、まず最初に一つ目に演じられた紙芝居が戦の少年記というものなんですね。
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演じられた方というのは、このイベントをぜひやりたいということで、立ち上げた平井孝文さんという方でですね、普段から市川市内で紙芝居を演じたり、あと絵本の読み聞かせなんかもやったりされている方なんですね。
もともと千葉小川大学で働いておられたと、勤務されていたと。今はもうそちらは辞められているんですが、今でも市川市内の、特に普段障害者生活介護施設の支援員という働き方をされている方なんですけれども、平井孝文さんは。
紙芝居とか、絵本の読み語りを市内などの障害者関連施設とか、あとは小学校、あと高齢者の福祉施設とか、あと子ども食堂ですね、こういったところで活動されているということです。
あと、特に戦争なんかに関連する市川市とか千葉県に関連するそういった資料の収集にも力を入れてこられているという、そんな方でございます。平井さん。
平井さんはですね、私や稲村さんが所属しているフリースタイル市川というNPO法人がいますが、こちらでやっている市会議というですね、交流イベントでも登壇していただきまして、活動についてお話しいただいたりしたことがございますけれども、その平井さんが5月24日のこのイベントではですね、戦の正年記を演じ、実演されたということでございます。
戦の正年記というのはどういうお話かということなんですが、福井県、福井でですね、太平洋戦争を実際に経験された、その当時小学、当時の国民学校の3年生、4年生ぐらいのときに太平洋戦争が始まって開戦して、6年生のときに終戦を迎えたという形ですけれども、
その方、田中さん、田中幹夫さんという方の実体験、自伝的な小説が元々、戦の正年記というのがありまして、これの紙芝居バージョンだということなんですね。
なので、子供の目線で実際に体験した戦争のことが描かれた作品です。
リアルタイムで田中さんというのは、戦争を経験されたということでしてですね、
後年、田中さんは大人になられてから弁護士になってですね、2000年代になってからもですね、障害者の虐待の事件、3グループ事件というのが以前あったんですが、
それの裁判で勝訴を勝ち取ったり、勝訴判決を勝ち取ったりという目覚ましい活躍を見せられた弁護士の方です。
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数年前に残念ながらお亡くなりになったわけですけれども、日本子ども虐待防止学会の名誉会員でもあったということなんですね。
その田中美強さんが、体験された少年時代の福井での思い出というか、リアルなことを描いた作品、小説、これを紙芝居にしたものになっています。
この内容、非常に子どもの目線でですね、子どもの目線でそんなに先生との、学校の先生との交流とかですね、そんな思い出を割とあまり暗い感じではなく描いてはいるんですけれども、
ただ、けなげな子どもの目線でですね、いろんなことが語られていくのを聞いていると、紙芝居を見て聞いているとですね、本当に戦争というのはバカバカしいものだなと。
これはバカげているというよりは、本当に人間ともあろうものと言うと変ですけど、人間というのはそもそもバカバカしいのかもしれませんけど、そのバカバカしい人間がしてしまう最悪のバカバカしいことであるというふうに思うわけですね、戦争というのは。
はい、いろんな話があってですね、断片的にちょっと私、メモを取ったものとかをちょっと確認していきたい。
特に市川市の関連が少しあるものについて言うと、お話しするといいかなと思っているんですけど、福井でですね、福井は、福井の中でも都市部のところでは住宅が密集しているところというのがあってですね、そこでこんなことが行われました。
建物強制疎開。建物強制疎開。建物を強制的に疎開というのは、ちょっとこの後もお話ししますけど、多分このリスナー、1回市川のリスナーの方もですね、疎開というと学童集団疎開といって、東京などの都会に住んでいる子どもたち、3年生から6年生くらいの子どもたちをですね、田舎の方に親元から離れて、東京の親元から離れて、田舎の方に田舎のお寺とかそういうところに行って、
集団で寝泊まりするみたいなことを想像されるかと思う、そういう人が多いと思うんですね。実際その学童集団疎開というのは、全国で行われる、全国でというか、東京の方から田舎の方に行くというのは行われてですね、これも子どもたちにとっては辛い思い出というか記憶としてになっている人が多いと思うんですけど、
疎開というのは実は、疎開という言葉自体は、疎というのはマレという字ですね、マバラとかそういうことですね。開というのは開くというわけです。ですから密で閉じているのが逆ですよね。疎開、つまり東京の、さっきの学童の疎開というと、東京の方に人口が密集している、住宅が密集していて人がいっぱい住んでいますので、
戦争もですね、1944年になってくるとですね、空襲というのは45年に始まってきますけれども、44年にもあったのかな、ちょっと私も細かくわかりませんが、45年に本格化しますけど、44年ぐらいからに閣議決定されて、44年、45年というふうに疎開というのが行われていたんですけど、
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子どもたちを密集していると攻撃の対象になってしまう。もちろん大人も対象になるんですが、子どもは田舎に逃がそうというふうに言うときれいに聞こえるかもしれませんけど、大日本帝国ではですね、子どもたちは戦争が続く限り将来の戦力になると、将来がある子どもたちを生かそうと、もちろん将来がある子どもたちを生かそうということよりは、
将来がある子どもたちを生かしておいて、いずれ兵士となって、敵国を打ち倒す戦力となってもらおうという目論みもどうやらあったようなんですね。
話が少し逸れましたけれども、そんな困難で子どもたちを田舎のほうにやるという、親もとを話してやるというのが学童疎開、学童集団疎開ということです。
親戚とかがいた人は、自分の親戚に頼って行った集団ではなくて、個別で行ったという疎開もあります。
さっき言った、福井でも行われた建物共生疎開というのは、建物を薔薇にする、つまり密集した建物があると空爆されたりすると建物が燃えるわけですけど、密集していると近くの建物に火がどんどん広がってしまうんですね。
日本の木造の建物ですと。というわけで、その被害を抑えるために建物を強制的に自ら壊してしまうという、本当にその話を聞くとバカバカしいと思うんですよね。
それを真面目にというか議会で決めて、そういうことをしようというふうに国が決めて、政府が決めてやっていったということなんですけれども、福井でそんなことがあったという。
紙芝居でも描かれました。市川でも実はありました。
市川市で建物の統制疎開というのがどういうところだったかというと、ちょうど終戦の年。
終戦は1945年昭和20年の8月ですけれども、直前ですね6月から8月にかけて根本、根本というのは河野大に今根本商店、根本勉強会、根本商店街というのがありますけれども、
根本、河野大の根本というところ、それから間間、今は市川間間駅とかありますけれども間間ですね、それから神殿、そして市川といったあたりで建物の強制疎開、建物を自ら壊して火災の影響を求めようということですけれども、バカバカしいですよね。
もうやるせない気持ちになるというか、もうそういう気持ちになるでしょう。
福井でもあったということなんです。市川でもあったということなんですね。
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この戦の正年記というのでですね、子供の目から見て学校の先生一人、非常に若い先生でですね、国側とか大日本帝国とか、あるいは学校の偉い、学校自体も国から監視されているわけですけれども、
その中でこの若い先生は子供たち目線でですね、非常に命の大切さというよりも生き生きと生きることとか、あと例えば障害のあるお子さんとかがいると、みんなでその人のためにやるというのは当たり前だよねみたいな価値観を当時、
日本に伝えたと明るく振る舞いながら伝えていたんですけど、ただ権力からは嫌がられたということですね。そんなことも描かれていました。
もう一つの上芝居の演目というのが、杏の花に包まれてというものなんです。これはですね、日本で最初にできた死体不自由時、死体というのは体ですね、肉体、体ですが不自由な人たち、子供たち、つまり身体障害者の子供たちのための学校というのが東京にありました。
光明国民学校、国民学校というのは小学校とかを指すものですけれども、児童が通うと、そこでの学童集団疎開の話、成田大学に当時この学校があったんですけれども、そこからですね、長野県の今でいう千熊市という市の方に、自然豊かなところに集団で疎開するという話です。
この光明学校の元教員である渡辺美沙子さんという方がですね、今回上芝居を演じてくださいました。
ご自身が、当時の光明国民学校、後の東京都立光明特別支援学校の教員となって、渡辺さんは20年勤めたということなんですけれども、後にご自身が勤務された学校のことを調べていて、ここで行われた学童疎開のことについて興味を持って上芝居を作ることになったということでしたね。
学童疎開なんですが、私は今回上芝居を演じられたお二方よりもだいぶ若い世代にあたるわけですけど、学童疎開というのはどんなものかあまり知らなくてですね、よく映画とかドラマとかで描かれることがあるのは知ってますけれども、
今回、上芝居のこのイベントの司会をするということを自分でも調べたりしたんですけれども、こうしましてですね、いろいろと自分が勘違いしていた、勘違いというか、なんとなく教えたぼんやりした感じが全然違うなと。
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例えば、集団疎開、みんなで一緒にですね、子どもたちがみんなで一緒に田舎のほうのお寺とかに宿泊をするということで、戦争ではあったけれども、東京とかよりは戦争の直接の被害は少ないと思われる田舎のほうにみんなで行ってですね、お寺とかに住んで寝泊まりしてご飯も一緒に食べたりしていると。
そういうのを聞くとですね、林間学校みたいで楽しそうだみたいな、ぼんやりしたのんきなことを思わず思っちゃうところもあったんですけど、ちょっと調べてみると、そんなのんきな発想とか感想とか想像はですね、遥か銀河系のカナダに吹き飛んじゃうぐらいのことで、実際にはすごくつらいこともいっぱいあったようなものなんですね。
この杏の肌に包まれているの、中で語られる学童疎開、集団疎開ではですね、現地でそんなにつらいことがあったように描かれてはいなかったんですけれども、そこまでは。
でもそうはいっても小学生なのでですね、小学校3から6年生だと思いますけど、学童疎開の対象というのは、親元を離れて長い期間暮らすというのは寂しいですし、疎開先のお寺とかではですね、夜な夜な子どもたち、3年生とかいると言うとすごく小さいですよね。
だから親と離れて暮らすのでも悲しくてずっと泣いて泣き声が、夜中にシクシクという声が響いていたみたいなお寺もあったと聞きますね。
あと学童疎開でもチョコレートをちょっと食べていまして、うまくついて、クランキーというロッケの食べてますけど、戦争のときの話を、
いちかわで戦争を体験された方、さっき紹介した平井孝二さんという方が、いちかわで戦争の体験の話をされていましたけど、今みたいにお菓子なんか全くないということと、常に空腹だということですね。
そんなことを言ってましたけど。
戦争が終わって、疎開先の田舎から家があった場所に戻ると、家が破壊されていて、東京なんかが空襲されてますから、住む場所がなくて、しかも親も両親とかなくなっているみたいな、いわゆる戦災孤児になってしまうと。
疎開して命は助かったけれども、戦後親もなく、孤児となって、駅とかで生活したと。
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食べていくことも、生活の大変なんでも、仕方なくやむにやまれず、盗みとか働いたりするわけですね。
切れ事をまさに言っていられない状況だと。
でも、栄養失調で亡くなっちゃう子どもとかも多かったということですね。
こういうこと、紙芝居の内容もそうですけど、
今現在、例えば、ロシアとウクライナの戦争というか、侵略もそうです。ロシアによるウクライナへの侵略とかもそうですし、
ずっと続いていて、2年前の10月以降、激化していますけれども、
イスラエルによるパレスティナへのジェノサイドですね、民族一つを消しちゃろうというぐらいの、人類の最も弾めき行為の一つだと、本当に怒りを込めて言いたいんですけど、
そういったこととか、他にもいろいろあります。
トルコの方で迫害されているですね、クルドの人たち、日本にも今来ていますよね。
あと例えば、ミャンマーですね。ミャンマーは内戦があってですね、軍事制限。内戦がありまして、そこでロヒンギャという少数民族、差別されている民族がいて、近い市にもロヒンギャの方が来ていたりしますけど、
そういう戦争とか、人と人のいさこざというか、殺し合いですね。殺し合いというか、一方的だったりすることが多いわけです。現在行われている、そういうものは。
そこで非常に弱い立場、差別されている立場の人とか、障害のある人とか、女性とか子どもとか、そういう人たちが大体犠牲にあうわけですね。本当に馬鹿馬鹿しいというか、一つもいいことなんかないわけですよね。
その疎開のことを描いた、庵野花芽に包まれてというものなんですけど、そんなお話でしたけれども、いろいろとお話聞いてですね、あとそれから一つ目の、育成の正念期、こちらのお話も聞いていて、
例えば、育成の正念期というのは、学校の校庭でですね、校庭を耕して畑にして芋を巣、芋の芋畑にすると。芋というのは割とすぐ育って、お米とか作るよりも簡単に作れて、そしてお腹に一応そのお腹は膨れるということなんですね。戦争でそういうふうになっていたということなんですが、
それを聞いてですね、私は思ったというか、思い出したこととして、昔、いま市川市というとフルーツ、果物でいうと果樹園でいうと梨畑がとても有名ですよね。
当時、戦争、太平洋戦争とかの前とかの時代はですね、梨も当時もあったんですけれども、桃もですね、桃が栽培されていてですね、桃の畑というか桃林が岩田にもあったりしましたし、富賀の山辺りにもあったと。
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今の京成電鉄がある線路の周辺とかも結構桃の林が広がっていて、例えばママさんグフォージの階段の一段の上から見るとですね、春になると桃の花がパーッと咲いて、ピンク色の花が咲いて綺麗に見えたということだったりとか、
当時、例えば東京とか横浜とかの方から汽車に乗ってですね、ママの方まで来て、その市川の桃の花を観覧しに来るというぐらい桃の名所だったということなんですが、戦争になると桃の花がいくら綺麗でもお腹は膨れませんし、桃というフルーツは主食じゃないのでですね、そんなものは戦争には必要ないということというか、そこの桃の木を全部切ってしまって、
全部かどうかわかりませんけど、もともと砂地だったということもありまして、栽培に適しているということもあって、桃を桃の畑に変えちゃったということがあるんですね。もしかしたら戦争がなかったらですね、今頃、京成電鉄の線路の辺りとかは桃の畑で、桃の林で溢れていた可能性もあったと思うんですね。
ごめんなさい、さっきちょっとクランチでてくれていましたが、今またお腹すいちゃって、牛肉ソーセージをちょっと今食事していますけど。
戦争の少年期の方では特にそういう言及があったのが、戦争していて普段の学校生活と全く違うことをしなきゃいけなくなった。畑を作ったりとか、いろいろ避難の訓練とか、武器を持っての訓練とか、そんなことばっかりしていたので、勉強したいなという気持ちになったということなんですね。
これまでそんなことを考えることは一回もなかったけれども、勉強したいと思うぐらい、勉強じゃないことばっかりさせられていた。本当にバカバカしいことですよね。
ところでですね、今回、ためしばゆーで考える戦争と平和というのはもちろんいつやっても良い企画ですけれども、今年はご存知の通り2025年ということで、1945年の大洋戦争の終戦から80年なんですね。戦後80年。
そういう節目の年でもあるということです。昭和として見ると100年目であるということもあるんですね。
たまたま調べていたら本当に偶然でしかないんですけれども、日露戦争が終わってから120年なんですね。日清戦争が終わってから130年なんです。
もっと言うと、大日本帝国の陸軍が来てから140年だということなんですね。明治時代にやってきましたけれども。
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もともと河野大に大学を作るという話があったんですが、それが飛んだしちゃって江戸川を渡ってくるのは結構大変だということとかいろんな理由があったみたいで。
その土地を陸軍が目をつけてそこに東京でいろいろと分散してあった軍隊をそこにまとめて持ってきたと。
あと病院とかも作ったと。その病院が今の河野大病院になっているわけですけど。
日清日露戦争、そして第一次世界大戦のことはちょっと分かりませんけど、日中戦争、大変容戦争に至るまでここが軍隊の育成とそこから派遣していくと。
そしてまた戻ってくると。戻ってこらない人も残念ながらもちろんたくさんいましたし、生きて帰ってきたけれども、
いわゆる今で言うPTSDというか過剰なストレスを浴びて帰ってくるので、トラウマとかを得て帰ってきていて、精神障害を患ってしまう人がたくさんいたということで、
その人たちが入院する病院として、当時河野大陸軍病院と言われていましたけれども、戦時精神疾患問題に対応する専門病院として、陸軍の病院として非常に大きな意味を持ったということなんです。
いろいろと調べてみると、河野大陸軍病院に収容された精神障害患者の総数は14,453人もいたということなんですね。
患者さんの診療記録というのが、病床日誌というのがつけられていたんですけれども、軍はそれを焼却せよと、証拠を残すのみたいな形で言ったんですけれども、
それをこの病院の方では抵抗して、秘匿に保管されて、今でも8,000冊以上、8,002冊が現存しているという非常に貴重な資料です。
こういうのを見ていても、もちろん戦争なんてバカバカしくて、はずべきことをすること自体が大問題ですけれども、
記録を、今でも公文書を改ざんしたり、廃棄したりというありえないことが行われているのをご存知だと思いますけれども、
そんなことをしちゃいけないというのはよくわかりますね。
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市川市で市川駅の近くで、紙芝居で考える戦争と平和というイベントがありまして、
さっき紹介した2つの紙芝居以外に、市川にお住まいの平井さん、平井ひろはるさんが、
実際に小学校入る前からの経験をお話しされていて、非常にインパクトが大きいものばかりだったんですけれども、
今日この放送でお話しするには盛りだくさんすぎるので、また別の機会にお話ししようかなと思っていますけれども、
本当に生々しいお話でしたね。
市川市と戦争の関連というのも実はいろいろとありまして、
今日私司会だった、今日というか昨日、日付が変わって、今日、昨日となっていますけれども、司会を務めながらですね、
平井貴文さんもいろいろと途中途中でエピソードを挟み込んでくださいましたけれども、
私も少しだけエピソードを挟んだりしていたんですけれども、
そこで話した内容を改めて別の機会に未開地化でもお話ししたいなというふうに思っていますね。
ちょっと思ったのがですね、これもまたいずれ別の機会で話そうと思いますけれども、
今この市川も空爆もされていますし、
この日本列島で、沖縄を含む日本列島で、北海道もそうですが、
現実にあった戦争に関連する様々なこと、戦争そのものというものが、
この場所でかつてあったもの、遠い時代にあったものと考えるのではなくて、
そしてもう一つ、例えばですね、パレスナでの行われているひどいこととかを、
今行われている、今遠い場所で行われていることと考えるのではなくて、
いずれも地続きであるし、自分と全然関係ないことではない、自分と大いに関係があると。
たまたま今自分が平和に日本にいるけれどもということですね。
そうではない可能性もあったわけだからということを考えなければならないということはすごく思ったということですね。
もう一つはですね、例えば市川市で今年こんなことがあったの知っていますでしょうか。
神室大のスポーツセンターの中にある神室大球場が改修されて、神室大スタジアムとしてですね、
今年の1ヶ月か2ヶ月前にオープンしたんですね。
その記念として、確か市川市の少年野球チームと市川市議会の議員さん、一部そうじゃない人もいたみたいですけど、
チームが野球の試合をして対決して、少年チームが圧勝したわけですけど、
政治家の方々はですね、この素晴らしいスタジアムで野球をやりましたって言って、
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笑顔で写真撮ってSNSにアップしたりしている。
それ自体が悪いとは全然思いませんけれども、そんなことがあったわけですが、
実は神室大スタジアムが今あるところ、その周辺にはかつて何があったのか。
さっき言った神室大の軍隊があったのだ。
そしてこういうことがあったのだ。
そういうこととセットでやっぱり語り継いできたなということは改めて思いましたね。
そういうふうに私は思ったのでですね、今後なんか、要は戦争のことを語ろうというのはもちろんそういう語りもあるんですが、
今の、なんかその、いちかえして何か新しいトピック、ニュース、イベントあったときに、
実はそこで過去に何があったか、別に戦争に限らないんですけども、
以前はこんな感じだったんだよというようなことがあったりすると思うんですが、
そこで過去のことと直接結びつけて話すことを語ることによって、
今の自分と関係ないことじゃないんだよという気持ちになれるだろうと、
その効果は非常に大きいんじゃないかというふうに思った次第でございます。
はい、というわけでですね、第221回目でしたっけ?
というですね、1ヶ月間は送ってきましたけれども、
そろそろ今日の放送も収録を終了したいかなと思います。
ちょっと番組中にですね、お聞き苦しかったかもしれませんが、
クランキーというチョコレートのお菓子、チョコ菓子とですね、
それからDHAが入っていると書かれていますけれども、
なんかお魚、フィッシュソーセージ、魚肉ソーセージ、
これを交食して召し上がってしまいましたけれども、
はい、また今日今お話しした紙芝居で考える戦争と平和から、
実際に私が司会をしまして、そこで司会をしながら感じたこと、
考えたことみたいなことは語りきれませんので、
また次回どうなるかわかりませんけど、
近いうちにそのお話もできればなというふうに思っています。
はい、それではまたお耳に借りましょう。
いかいちからのパーソナリティ、ノスタルジー鈴木でした。