一冊の本をお茶とともに味わう読書Podcast「本茶本茶」。
今回は鳳凰単叢 六雪銀花香を淹れながら、しんめいP『自分とか、ないから』を紹介します。
▼ 今回のテーマ
フィクションとしての自分/空っぽは最高/働く意味は気持ちいいから
仏陀から空海まで、東洋思想のレジェンド6人の教えを軽快な語り口で読み解く一冊。哲学や生き方、東洋思想に興味がある方におすすめのエピソードです。
▼ noteで読む
🍵 本日のお茶
鳳凰単叢 六雪銀花香(中国・広東省 鳳凰山 坪坑頭村/2023年冬茶・一回炭焙)
📕 本日の本
『自分とか、ないから』しんめいP(著)https://amzn.to/4vL4FZA
👤 話し手
Fuyuto
「静けさのデザインとケア」をテーマに、コーチング・プログラム開発を行うStudio Stillness代表。
note → https://note.com/honcha_honcha
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
サマリー
このポッドキャストでは、しんめいP著『自分とか、ないから』を紹介。本書は仏陀から空海まで6人の東洋思想家の教えを軽快に解説し、「フィクションとしての自分」「空っぽは最高」「働く意味は気持ちいいから」という3つのポイントを軸に、自己という虚構を手放し、より大きな存在との繋がりや心地よさを見出す生き方を提案しています。お茶と共に、自己という物語から降りることで得られる解放感と、現代社会で実践可能な密教の教えについて語られています。
はじめに:本と茶の紹介
こんにちは。本茶本茶へようこそ。
毎回一つのお茶を味わいながら、一冊の本をきっかけに、生き方の問いを一つ持ち帰る時間です。
静けさのデザインとケアを通して、創造性の器を育む、スタジオスティルネスのFuyutoがお送りします。
毎週水曜日19時に更新しています。
紹介する本『自分とか、ないから』について
今日ご紹介するのは、しんめいPさんの自分とかないからという一冊です。
この著者のしんめいPさんは、東大を卒業された後に大手IT企業に勤めたり、
離島で教育事業をやられたり、その後芸人になられたり、そして無職になるというちょっと変わった経歴を経て、
東洋哲学というものにハマっていった方になります。
東洋哲学本50冊読んだら、本当の自分とかどうでもよくなった話、というタイトルの記事を出したことをきっかけに、この著書を書かれたということなんですが、
本書は東洋思想、東洋哲学のとても有名なレジェンド6人ですね。
ブッダ、リュージュ、ローストソーシ、ダルマ、シンラン、そして空海。
これらの人々の教えを、軽快な切り口で紹介してくれる入門書になっています。
まさにちょうど2年前ぐらいですかね。
2024年の4月に初めて出版されたようなので、
僕が出会ったのはそれから少し、どうでしょう、半年、1年ぐらい経って、結構巷で有名になった時に、
新宿の本屋さんで平積みになっているのを買った、そんな記憶があります。
少し前に一通りですね、読んではいたんですけれども、来月、この新明Pさんが話をされる講演を聞きに行くことになったので、
少しその手前におさらいとして読み直した、そんなものになります。
本日の茶:鳳凰単叢 六雪銀花香
紹介したいポイントは3つあって、
1つ目が、フィクションとしての自分。
2つ目が、空っぽは最高。
そして3つ目が、働く意味は気持ちいいから。
では、その前に、まずは一緒に楽しむお茶から。
今日は、中国関東省の鳳凰山というところで作られた、
鳳凰炭草、六節銀花香という中国茶を入れてみました。
以前、このポッドキャストでも、鳳凰炭草についてご紹介したことあるんですが、
この鳳凰というのは、鳳凰山という土地の名前、
そして炭草というのは、一本の木という意味ですね。
この鳳凰炭草の木というものは、
もともとはすべて同じ品種が、さまざまな土地に広がっていったようなお茶になっています。
今回のこのお茶は、銀花香、銀の花の香りという香りの型になっていて、
清らかな感じですかね、爽やかな香りがしているものになります。
今日このお茶を選んだのは、まさに豊田哲学の回ということで、
中国茶にしようと思いつつ、今見ると意外とインドの方の方が多かったかもしれないですね。
インドと中国と日本にまたがる、そんな豊田哲学の回なので、このお茶を選んでみました。
ポイント1:フィクションとしての自分
ではここから本の紹介に戻ろうと思いますので、
皆さまもお気に入りの飲み物と一緒にお楽しみください。
これは冒頭でもお話をした通りですね、
仏陀に始まり、隆寿、老子と宗師、だるま、新蘭、空海という、
東洋思想、東洋哲学の代表的なレジェンド、6人、6組を、
新明さんが自分の言葉で噛み砕いて、非常にわかりやすく紹介をしている本になります。
一貫しているテーマは、このタイトルにもあるように、自分とかないというところがあるんですが、
これは自分がないという何か虚無に落ちるような話というよりも、
自分がないことを受け入れる、自分がないことに気づくことで、むしろ楽になる、そんなような話になっています。
一つ目の切り口が、フィクションとしての自分。
まさにですね、この自分とかないというタイトルに接続されるのがこのテーマなんですが、
さまざまな人の思想や哲学を紹介する中で、本性を貫いている一つのキーワードが、フィクションというものですね。
このフィクションというのは、虚構とか、作られた、創作された物語というような意味合いを持つ言葉なんですけれども、
この本の中で言うと、例えば人間関係であったり、会社であったり、その中の役職であったり、
あるいは自分自身、悩んでいる自分すらも、全部フィクションであると、そんな風に書かれています。
この本の一番初め、ブッダの思想を解説するパートで、こんな一節が出てきます。
この世界は全部繋がりすぎている。
ちゃんと観察すると、これが自分、と言えるものが何もないことに気づくのだ。
無我、である。
すべてが変わっていく。この世界で変わらない自分を作ろうとする。
そんなことしたら苦しいに決まってるやん。
ブッダの無我というコンセプトを解説しながら、そしてこの話が続くダルマと禅のパートで、一気に日常のレベルまで降りてくる話になります。
一文用すると、自分がダメというフィクションに入ってしまった時、自分はできるという反対のフィクションを作り出していたのだ。
これ結構味わい深いなと思うんですけど、みなさんいかがですかね。
そもそもブッダのパートで、これが自分、と言える普遍的な自分って何もないっていうことを前提にしながら、
でも日々生活している中で、自分がダメだって思うことはしょっちゅうありますよね。
その度に、自分はできるという違う物語というか、認識で上書きしようとする。
でもよくよく考えてみると、このダメな自分というのも、できる自分というのも、固定化された自分なんていうものは何もなくて、
どちらかというと、言葉の魔術で見える幻のようなものだと、それがフィクションというふうにしんめいさんが解説をしています。
例えばですね、自分の身長が高い低いみたいなことも事例に挙がっているんですけど、
これって、よく自分が身長低いとか自分が身長高いって思う方いると思うんですけれども、
何もその固定化された低いとか高いなんていうものはなくて、
自分の身長が高いか低いかっていうのは、極論、場合によるっていうことだというふうに書いてあるんですよね。
例えば、180cmあったとしても、一緒にいる人が190cm、200cmの人であれば低いなるでしょうし、
仮に150cmしかなかったとしても、比べる人が140cmであれば高いとなるでしょうし、
結局その良い悪い、高い低い、みたいな何も固定された自分っていうのはいなくてですね、
フィクション的に自分たちが頭の中で生み出していると、そんなようなことなんじゃないかなと思います。
では、そうなった時に、仮に自分はダメだと思った瞬間に、
いやいや自分はできるんだと別のフィクションを作る以外に何ができるんだろうかというところに、
禅というのはシンプルな答えを出していて、一つ、言葉を捨てるんだということを語っています。
本文中にも、自分がダメと思った瞬間、言葉の世界に入っているなと認識するだけで全然違う、
そんなように書かれてたりもします。
ダメじゃないと無理くり別のフィクションで否定をするんじゃなくて、
今言葉の世界に入ったなと気づくだけでいい。
ダメだ、いや大丈夫なんだ、できるんだということではなくて、
そういうフィクションをフィクションで上書きする、その戦いを下りるということが近いのかもしれません。
じゃあフィクションを手放すと何が残るのかと。
ポイント2:空っぽは最高
それが二つ目の切り口、「空っぽは最高」というものに繋がっていきます。
これはですね、真蘭という方が空、空ですね、と書いて空という概念で定義をしたようなものなんですけれども、
空っぽになるということなんだそうです。
一文用すると、悟れないことを認めると空の方からこっちにやってくる。
先ほどの事例で言うと、自分は悟れない、いやいや悟れるんだっていう言葉のフィクションの世界から一歩引いて、
自分が悟れないということを認める、そのまま受け入れると空の方が向こうからやってくる。
そんなようなことが書かれているんですね。
この著者の清明Pさん自身、長らくこの空っぽであるということと戦ってきた、そんなことが書かれていて、
例えば、「空っぽは最高なのに、空っぽを隠すことに苦しんできた。」という一文であったり、
でも逆に空っぽになってしまった時、初めてやりたいことが向こうからやってきたのだというようなことを書かれたりもしています。
中身がないということを必死で隠そうとしてきた。
あるいは隠すための別のフィクションを信じようとしていたけど、隠すのをやめた瞬間にやりたいことが向こうからやってくる。
あるいは隠すことをやめた瞬間に最高の空っぽというものに出会える。
そんなようなパートになっています。
結構ですね、この本を通してこの空っぽという言葉、あるいは空っぽは最高であるという言葉がよく出てくるのが印象的であります。
ここまではですね、固定化された自分を手放す、あるいは自分の言葉で作られたフィクションを手放す、そして空っぽになるというある種引き算の話をしてきたんですが、
ポイント3:働く意味は気持ちいいから
ここから三つ目の切り口、働く意味は気持ちいいからというものに移っていこうと思います。
最後はですね、空階の密教のパートですね。
この密教というのは社会に対してめちゃくちゃ肯定的だと、あるいは禅というものは死に向かっていたフォーカスが、密教というのは生、どう生きるかということにフォーカスを与えている、
ちょっとこれまでとは違う方向性の学びがここから得られるというふうに書いてあります。
確かにですね、先ほどの話で本当の自分がないとして、そして自分が良い悪いみたいなフィクションもない、手放す、空っぽになるということを実践していこうとすると、
本当にあれですよね、修行というか何もしないみたいなことがゴールになるのかもしれないと思うんですが、
一方でこの世でもちろん生きていかなきゃいけないし、いろんなことをどうしても考えちゃうという中で、
最後この密教の学びというのはもしかしたら現代の中で一番取り入れやすいものなのかもしれません。
この密教においてはですね、自分というもの、自分というストーリー、自分というフィクションを捨てた瞬間に、
全てが繋がると。
自分がないのであれば、この世の全てのものと自分は繋がっている。
すなわち自分イコール宇宙であるし、自分イコール大日如来。
大日如来というのはブッダの中のブッダと紹介されていますが、全てが繋がっているんだというふうに捉える。
自分というものがフィクションであるのであれば、自分自身というのはどんなに大きな存在にもなり得る。
だからこそ自分が大日如来にもなり得るんだという大きい割れ、大我というコンセプトがあるんだそうです。
もう一つ密教に特徴的なのは、欲というものを否定しない、むしろ肯定するというところがあるそうで、
何か自分が欲を持ってしまったということを否定するというよりも、もっとでっかく欲をしちゃおうと、そういう考え方なんだそうです。
例えばお金をいっぱいゲットしようと思うだけじゃなくて、お金をいっぱいゲットしていっぱい人を助けようと、より大きく考えていく。
こんなふうに自分自身も大我、より大きな存在と繋がって同一になっていく。
そして欲も大欲、もっともっと大きく欲をしていく。
そういうことをしながら、この新明Pさんが気づいたところで言うと、働く意味というものに出会ったんだそうです。
その働く意味というのは、気持ちいいからだった。
このより大きな存在、宇宙とか大きな存在と繋がりながら、人助けをする、より欲を大きくしていくことで自分が消える。
その結果、めっちゃ気持ちいいということが、この新明Pさんが仕事の意義として最後感じた、そんなようなことが書かれています。
これはなかなかきっとレベルが高いんだろうなと思いつつ、自分の中でまだその境地にはもちろんたどり着いてはいないものの、
自分とかないからという本書自体のコンセプトというものが、何か自分というものがなく虚無、まっさらであるということよりも、
より大きなものと繋がっている、同一である、自分が消える、そのフィクションの中から自分が消えていくことで、
何かより大きな意義とか気持ちよさみたいなものに繋がっていく、そんな世界があるのかしら、なんていうことを僕は受け取りながらこの本を読み終えました。
まとめと学びの活用
少なくとも先ほど少し紹介した、自分がダメだったとか自分ができるとかってふと思っちゃったときに、
それ自体はフィクションであって、言葉の世界に入り込んでいるなと、自分で気づくこと、
そんなことから何かこの本の学びを活かしていきたいなと思うようになっています。
はい、ということで今日は、中国茶、方黄炭素、六節銀花香というお茶をいただきながら、
新銘Pさんの書かれた、自分とかないからという一冊をご紹介しました。
ノートでも記事を書いていますので、よろしければご覧ください。
またフォローをどうぞよろしくお願いいたします。
それではまた。
17:37
コメント
スクロール