一つ目の切り口は、生き延びるためではなく生きるための表現。
本文から一文引用すると、生き延びるというのは生活するためにお金を稼ぎご飯を食べるなど、
日常生活のインフラを安定させる行為です。
これは生命維持のために必要不可欠な一連の営みですが、それだけが目的になると徐々に辛くなるものです。
この渡辺幸太郎さんは、今話したような生き延びるという行為と、生きるという行為を分けて語っている。
そんなところから始まっていきます。
じゃあもう一方の生きるとは何かというと、一人一人にかけがえのない絶対的価値のある人生を送ると。
それこそが人生の目的である。
そんなことがこの生きるという言葉に込められた内容であり、
まさに本書のタイトルが、生き延びるためのではなく生きるための表現手引きというふうになっている。
そこがポイントかなと思います。
実はですね、この生き延びると生きるの違いの対比みたいなものは、
過去ですね、扱った遠畑海斗さんのカウンセリングとは何かというところにも出てきていた考え方かなと思っています。
その本の中でですね、遠畑さんは、生存と実存という二つの概念を取り出して説明をしていました。
生存というのがこちらでいう生き延びる方ですね。
どうやって自分の生活自身を守っていくか、最低限生き延びていくかという生存と、
実存、これはいかに生きるかという方、より自分らしく自分の人生を歩んでいくかという実存。
この二つを扱うときに、実存というものは生存を前提とすると、
いかに生き延びるかということをクリアしない限り、いかに生きるかという問いには立ち向かえない。
一方で、この生存、どう生活するかということを守ることで、
より長期的な人生とか実存、いかに生きるかということが死んでしまうことがあると。
言葉を借りると、生存は時に実存を犠牲にする、
そんなようなことを話しながら、この生存を目的としたカウンセリング、
そして実存を目的としたカウンセリングを分けて解説をされていたなというふうに思います。
こういうふうに、戸畑さんは生存、そして実存と呼び、渡辺さんは生き延びると、生きると呼ぶ。
言葉は違うんですけれども、似たような構造になっているなというふうに思うのと、
そして渡辺さんは表現そのものというふうに位置づけています。
表現者になることを通して人は自己開示をできる。
そして自己開示によって、たとえば仕事の場であっても鎧を脱ぎ去ることができる。
表現は技巧を磨くことではなく、生きる態度そのものを更新する行為になります。
作ることは、生き延びる私を生きる私へと反転させる力を持っている。
そんなふうにおっしゃっているんですね。
この表現というのは何も上手い下手ではなくて、生きる態度の更新であると。
作るということは、生活のために何とか生き延びるということを超えて、
かけがえのない一人一人の人生を生きるというところにつながっていく。
そんなことが、この本書における生きると表現のつながりだったりします。
そうしたときに、より表現するということへのハードルが上がるような、
少しとっつきづらさが感じられるような気がすると思うんですが、
切り口の二つ目は、いつの間にか表現していることに気づくというものになります。
やっぱり表現しなきゃとか、自分らしさを出さなきゃとか、
それこそ自分の人生みたいなものをより豊かにする表現みたいに、
どんどんどんどんハードルが上がっていくと、
途端に手も止まるし、表現というものが億劫になる。
なんかそんな感覚ってあると思うんですが、
でもですね、渡辺さんはこういうふうにも言ってるんですね。
自発的かどうかに関わらず、人は表現している。
具体的な行動をとるかに関わらず、存在するだけでも、
人は他者と関係を結ぶなどして、いつの間にか表現している。
冒頭で紹介したこの表現の定義、
人の存在や行為に起因して生じる変化というものがここにつながってくるんですが、
何も表現というのは、自らプロアクティブに行動を起こすということだけではなくて、
存在しているだけで、すでに表現をしているんだということ。
もう存在するだけでも表現をしているということであれば、
何か自分が少し思ったことを世に出してみるとか、少し実験をしてみる。
それは必ずしも世界に対して訴えかける必要はなくて、
とても個人的なものであっても、その表現をどんどんと加速させていく。
そんなことの背中を押してくれるような一文かなと思います。
さらに面白いのは、読むことと書くことの関係ですね。
渡辺さんはこうもおっしゃっていて、
そもそも人間の身体や生理学に基づくならば、読むことと書くことは常に同時で起こっている。
私たちはすでに表現を始めている。という一文があります。
ものを読むということは、あまりその表現というふうに捉えられることって少ないと思うんですが、
誰かが書いたものを読みながら、その作者を追体験して、
一方で自分の中で何を受け取り、何を受け取らないか、
それを読みながらどんな解釈や意味を生成するかという点において、
すでにそれは表現になっているんだというのはとても面白い点だなと思いました。
そしてやはりそういう存在しているとか、読みながら表現しているというレベルにおいて考えると、
個性というものも多分に自分から探しに行くまでもなく現れているんじゃないかと。
意図的に何か個性みたいなものを込めようとしなくても、
あるいは自分で隠しているつもりであっても何かにじみ出てしまう。
そんなものが自分らしい個性、あるいは自分らしい表現の個性というものであり、
何も頑張ってひねり出すというよりも自然とにじみ出る、そのものを受け入れる、
そんなところから個性ある、あるいは自分の表現というものは始まるのかなというふうに思います。