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2021-10-18 08:24

【第216回】80歳になった親父に関するエピソード♩

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10月17日、親父が80歳になりました。元気で居てくれる事に感謝しています。現役時代、エンジニアとして世界20ヶ国以上で働いて来た親父はGoogle先生より何でも知っています(笑)努力家でした。
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日本語教師まっちゃんです。
私の親父が、昨日80歳の誕生日を迎えまして、無事に元気に迎えることができまして、
おふくろも77歳のキジュなんですね。
本当に、私の家族にとって記念日でした。
昨日はね。
ラジオを切りますけど。
ツイッターをしながら気がついたんですけど、
親父がエンジニアとして、世界20カ国以上で働いてきた、行ったことがあるとかね、
いう経験がですね、フランスのホシコさん、フランス大臣のホシコさん曰く、
なかなかそういう人がいないんじゃないかということで、
改めて、確かにそうかもしれないなと。
80歳でね、いまだ元気でね、健在でいることがあるっていう人がですね。
で、ちょっと思い出、私が覚えている親父の記録というのをラジオで録音したいと思います。
えっと、私が1978年シンガポール生まれなんですけど、
シンガポールには6年いたようですね。
若い時はまず最初に行ったのは韓国だったそうです。
高度経済成長期で、工業高校卒なんですけど親父はですね、
英検の3級だったかな、3級を取ったことによって、
当時その1960年代70年代英検3級を持っている人が少なかったようなんですね。
今でこそTOEICとかTOEFLとかの試験でバリバリ900点とか800点とかのネットルートはたくさんいますけども、
まあ今国際化もされましたしね。
英検を持っていたことで会社に入って、ひたしちゃったんですけど、
珍しいねと、ちょっと海外出張行ってこいと。
上司にも好かれていたようなのでね、行ったらしいんですね。
まず韓国に行ったらしいんですね。
韓国でエピソードとしてはですね、
職場の同僚とお酒を飲んで海に入ってですね、
溺れたと、溺れた経験があると。
職場の同僚が亡くなってしまったっていうエピソードはありますね。
親父は生き残ったんですね。
お酒を飲んでて、自業自得といえばそうなんですけど、
同僚が亡くなるという事故があったようですね。
親父はすごく強運の持ち主、先に言いますけど、すごく運が強い人なんですね。
もちろんその裏には努力もしてますけども。
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それから、私が生まれたシンガポールは6年行ったんですね。
お袋もついて行って、その間に私が生まれて、
私は7つ上の姉がいるんですけど、
今は横浜、藤沢市に神奈川県ですね。在住してますけど。
7つ上の姉はシンガポールで日本人学校に通ってた写真が残っております。
私は2歳になるときに家族みんなで日本に帰ってきた、広島県に帰ってきたので、
記憶するところは8ミリビデオと写真しかないんですけども。
20歳になるときに国籍を、日本国籍かシンガポール国籍か選べるとか、
そういうこともちらっとお話はありましたけど、
私は特に選ばずですね。
その時、人間関係がうまくいかなかったりしてトラウマが残ってたので、
うまくそういう選択できる余裕がなくてですね、
考える余裕もなかったんですけど、
日本人としてずっと日本に滞在しております。
親父がその後ですね、私が小学生になった頃ですね、
バングラディッシュからですね、今はスマートフォンですけど、
黒電話ですね。
黒電話で実家、家に電話をかけてきて、
親父は出張中だと。
私が小学校2年生くらいかな。
ひできよと。元気しとるかと。
電話かけてきて今どこにいるかって言ったら、
お父さんはバングラディッシュにいるっていう電話がかかってきたのを、
私は物心ついてましたので覚えてますね。
小学校6年生くらいの時には、
エジプトに出張に行ってたみたいで、
エジプトにですね、筆箱、筆ペン、筆箱ですね。
私の名前入りの筆箱をお土産として
持って帰ってきてくれたことも覚えてますね。
嬉しかったですね。
そういう単身婦人とか出張が多い人だったんですね。
そういう仕事でしたし、
それが私の家庭の中では普通のことだったんですね。
親父が仕事に出ていく、
お袋は専業主婦として家庭を守っていくという
当時の一般的な家庭で育ちました。
それから、
日本に戻ってきて、
全国各地ですね、
例えば長崎県とか徳島県、福島県、
エンジニアとして火力発電所を作る現場にいたんですけども、
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3年間、
そこで発電所を作るのに3年間かかるんですね。
3年間単身婦人で行って、
今度はどこどこに行けと会社からの命令でね、
単身婦人、単身婦人の連続でずっと家にはいなかったという記憶がありますね。
時々帰ってきたりして、
私が学校の夏休みとかでは、
例えば長崎県とか福島県とか遊びに行ったのが、
中学生、高校生の時ですね。
親父が一番ノリに乗っている時にですね、
独立も考えたみたいなんですね。
自分の経験を生かしてね。
私の今の年齢の時ぐらいに独立を考えたらしいんですけど、
不安定な生活になる家族を抱えて不安定な生活になるのが嫌ということで、
悩んだらしいんですけど、
会社に残ったという話です。
それから50歳ぐらいの時に、
工業高校卒の親父がですね、
後からまた話しますけど、
ヒカチの本社、東京の本社のですね、
本部長として来ないかってヘッドハンティングですね。
されたようで、
本社の中では東京大学卒とか慶豊大学卒とかね、
早稲田卒とかね、
本当に大学学歴社会だったので、
当時はね、
そういうところに行くのは断ったというエピソードもあります。
えっと、
それから、
私の実家に今も世界地図が壁に貼ってあるんですけども、
世界地図に自分が行った国とか都市に、
町にピンをね、
押しピンというかピンを挿してるんですけども、
それを数えたら20ヶ国以上だったんですね。
仕事とか旅行とかで訪問したことのある場所ですね。
本当にすごいですね、
と思います。
ちょっと親父に関するエピソードラジオは、
第1話はここまでにしたいと思います。
また話します。バイバイ。
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