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  2. #114【青空文庫】食べたり君よ..

古川緑波「食べたり君よ/菊池先生の憶い出」

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Furukawa Roppa title:Remembering Mr. Kikuchi

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食べたり君よ、古川六葉、菊池先生の憶い出。亡くなられた菊池寛先生に初めてお目にかかったのは、僕が大学1年生の時だから、もう二十何年前のことである。
当時、文芸春住者は造志ヶ谷金山にあり、僕はそこで先生のもとに働くことになった。初対面を間もなくのある夕方。
先生は僕を銀座へ誘って、夕食をご馳走してくださった。今なお、西銀座にダンスホールとなって残っているA1。
それがまだ、カッテージ風の小さな店で、その頃一流のレストランであった。学生の身分などでは、そんなところで食事をするなどお呼びもつかないことなので、
A1へ入ったのは、これが初めてであった。その上、まだ初対面から間もない菊池先生を前にしては、とても固くなっちまってドギマギしていた。
スープとカツレツとライスカレー。僕はそれだけ。
君は?
ああ、僕もそうさせていただきます。
で、スープからカツレツ、ライスカレーと順に運ばれるのを、夢心地で片っ端から平らげた。先生のスピードには驚いた。
スープなんぞはサジを運ぶことの激しいこと。みるみるうちに空になる。ライスカレーもペロッペロッと。
生まれて初めて食べたA1のそれらの料理。 そしてデザートに出たババロアの味。ソーダ水の薄味のレモンのシロップ。
なんという美味というもの。これに尽きるのではないか。 実に舌もとろける思いで、その後数日間何を食ってもまずかった。
しかし、A1の料理はその頃にして一人前5円以上かかるらしいので、到底その後自前で食いに行くことはできなかった。
正直のところ、僕はああいううまいものを毎日思うさま食えるような身分になりたい。 それには、
どうしても1000円の月収がなければダメだぞ。
よし、と、
発奮したものである。それから十何年経って、 僕は菊池先生の元を離れて役者になり、
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どうやら1000円の月収を約束されるようになった。
が、 なんということであろう。
戦争が始まり、食い物はどんどんなくなり、 A1も何も定食は5円以下のマルコートなり、
巷には鯨のステーキ、イルカのフライの匂いが漂うに至った。 文芸春秋舎に先生を訪れて、
僕はああいうおいしいものを毎日食いたいと思って努力を続け、ようやくそれくらいのことができるような身分になりました。
ところがどうでしょう先生、 食うものが世の中から消えてしまいました。
と言ったら先生は、 わははははは、
とまるで息が切れそうに、 いつまでも笑っておられた。
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