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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、なぜを嫌がる大人たちというお話をしたいと思っています。 なぜという問いはですね、
僕は人生の中でもとても大事にしている問いなんですね。 常日頃なぜと問うていると言っても過言ではないという感じですね。
なぜと問うと、まあ何だろう、当たり前に思っていることが問題に見えてきたり、
問題と思っていることをなぜというと問題じゃなくなったりとかって感じで、なんでだろうな、
負荷をかけることでちょっと違った見え方をしてくるっていうのがあったりなかったりするよね、というところで、
なぜという負荷に耐えうるというか、なぜなぜなぜと繰り返していくと、いずれ耐えられなくなっちゃうんですけども、
耐えられないところまでなぜと負荷をかけていくと、新しいものの見え方をしたり、見えていたものがですね、
実はね、何にもなかったんだとかいうことに気づいたりするということで、とても思い込みから解き放すための問いとして重要な気はしているんですね。
思い込むことによって何かをできるということもあるけれども、思い込むことによって苦しむこともあると、当たり前ですけども、
その後者の方がですね、圧倒的に多い気がしていて、思い込むということがある種執着を生んで、その執着がですね、いろんな期待を生んで、いろんな期待がいろんなギャップ、その期待とのギャップによってね、
苦しみとか怒りにつながっていくんじゃないかなと思いますので、なぜなぜと問いまくることによって、別にそんな、なんだろう、執着するほどのことでもないし、
執着するにしても期待することではないよねとかってことがバランス取れてくるんじゃないかなと思うので、僕はですね、なぜを問うことで人はもっと柔軟になれるし、いろんな可能性に、
可能性というかいろんな視点からものを見る、いろんな正解に気づくことができる、いろんな間違いに気づくことができるというふうに思ったりするんですね。
で、このなぜって問われることを多くの人は嫌がりますね。特に大人になればなるほど、年を重ねれば重ねるほど、なぜと問われることを嫌がる人が増えていく印象があります。
同時に、なぜと問われることが好きなごく一部の人は、年を重ねれば重ねるほど、なぜと問われたくなっていっている感じがするんですよ。
僕なんかはですね、なぜが好きな人間だから、年を重ねるごとになぜっていうものを一緒に人と対話をするみたいな機会っていうのを
渇望していますし、どんどんなぜと問われたいし、問いたいしっていう感じなんだけども、僕がねどんなぜともっと問いたい、問われたいっていう欲求が高まるのと反対にですね、多くの方はなぜなんか考えたくもない、聞かれたくもないというふうになっていってるというふうに思うんです。
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どうしてみんなそんななぜを嫌がるのかなっていうふうに思うと、なぜって問われると自分がその思い込んでいるもの、あると思っているもの、
そうだと信じているものが由来でしまったり、信じているものが実は何でもないただの虚像だったりっていうことに気づいてしまう。そんなものに気づきたくないし、そこで気づいて何か
虚無感というか、もしくは悲しみであるとかっていうそのマイナスっぽい感情を感じたくないとかね、そういったところからですね、なぜと問われることを拒否しているんだろうなというふうに思うんですね。
僕は高校3年生の時に、なんだろう、高校2年生の途中まで、いや3年生の夏ぐらいまではあれだけみんな今この瞬間を生きていたのに、急に大学受験とか就職とか専門学校とか進路のことで頭がいっぱいになって、
僕がちょっと少数派すぎたんですけども、僕はね、進路を見てということで、高校卒業後に進路を決めずにですね、卒業することを決めて、バンドをやろうと思ってたので、別にそれか就職するとか専門学校行くとか大学行くとか行く必要もないバンドをやろうと思ってたので、僕の中では進路がある種決まっていたというのもあったんですが、
みんながどうして大学に行くの?どうして就職するの?ってことですね。なぜ?と聞きまくっていたらですね、さすがに嫌がられましたね。みんなその進路のことで頭いっぱいなのになぜ?って問われる。僕からしたらその進路に進むわけだから、なぜ?に答えられない人間がその進路を進んでいる意味がわかんないよって話なんだけども、みんなからすると、もういいから就職するんだから、なんで就職するとか聞かないでくれっていう、そういう状態でしたね。
なんで就職するか聞かないでくれて、もう僕からしたら意味がわかんないですね。就職するのになんで就職するのかがわからないと。じゃあ、100歩ずってなんで就職するんですか?って聞いて、それにね、安定するためだよって答えたとしたら、じゃあなんで安定するの?安定しないと生きていけないよね。なんで生きていけないといけないの?みたいなこんな感じで、なんでなんで?って言っていくと、もう4、5回問ううちにですね、なんでかよくわかんないよってところに行くわけですよ、人間っていうのは。
っていうことはですよ、なんでかよくわかんないことして生きてるってことじゃないですか。なんでかよくわかんないことして生きてるって、それってなんなんだろうって、僕からすると思うわけですね。もちろん僕もなんで生きてるのかってわかってないんですけども、なんで生きてるかわかんないってことに自覚的になって、もっとね、軽やかにね、だったら仮にこういうふうに設定して生きてみよう、まあその人生の理念みたいなものを仮に掲げてみて、そういうテーマ設定で生きてみようみたいな感じでやったりとか、
ちょっとね、そのないというベースの上に、仮にあるとしてこういう設定で行ってみようとかいうゲーム性というか、まあ自分の中で心地よい生き方みたいなのを模索できるんだけども、あると思ってますよね。生きるということがあると思っているというか、生きなければならないとか、
安定しなければならないとか、社会で認められなければならないとか、親は安心させなければならないとか、いう感じでどんどん思い込みが膨らんでいくと。
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最近でこそ少ないですけども、結婚しなければならないとか、家を持たなければならない、車を買わなければならないとかって思っている人はですね、減っていると思うけど、いまだにね、たまにそういう人に出かけるじゃない、出くわすと驚きますね。
それもね、しっかり自分の中でなぜを掘り下げた上でそう言っているのであれば、あ、なるほどなって受け入れやすいんだけども、いや普通家買うでしょとか、普通車ぐらい所有するでしょとかっていう、よくわからない理由で、なんかそう言っている人たちですね、に出会うと、まあちょっとね、どうしようもないなというふうに思ったりします。
僕の友人がですね、なぜっていうのを誰から構わず問いたがる人がいて、すごく時々トラブルになったりするんですけども、まさに今みたいな、なぜっていうのを掘り下げたくない人に対してなぜって掘り下げるのは、やっぱり負荷がかかる問いなので、やっぱり嫌がられますよね。
そもそもなぜっていうのは、さっき高校時代に問うても嫌がられていた問いなんだけども、その嫌がられている理由が若いうちとその大人になってというか年をとってから嫌がる理由っていうのが違う気がしてるんですよね。
若い頃、なぜって問われて嫌がるのは、面倒くさいよって感じだと思うんですよ。面倒くさいこと聞かないでって、いいじゃん、もうこれでっていう、面倒くさいっていう理由でなぜって問われることを嫌がってると思うんですけども、
この年を重ねてくるとですね、なぜって考えるのが怖くなってくるんですよね。さっきも言ったように、なぜっていうので負荷をかけると物の見え方が変わったりするんですね。
就職しないといけないよねって思ったけど、なぜって問われて、いや、しなくていいかもしれないって見え方が変わっちゃってますよね、例えば。
そうやってなぜって言われて物の見え方が変わることによって、今あるものをある種否定してしまう自分がいるかもしれないことが怖くなっちゃうんですよ。
日頃からなぜって問うていると、まあ細かい修正で済みますけども、例えば20年ぶりになぜを問うと20年分をひっくり返す可能性があると。
極端な話、大学卒業して22歳で就職して40半ばでね、なんで自分はこんな仕事してるんだろうって急になぜを問うと、この20年分の仕事全部を全否定するような結論に至るかもしれないんですよね。
怖いですよね。20年何してたんだろうっていうことになると怖いじゃないですか。だからなぜっていうのは本当はね、
常日頃から問いかけて修正していくというか、まあ今見ていた当たり前のことが、いや改めてなぜって考えてみるとちょっとこういう見え方がしたなっていう感じで、
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見え方のずれみたいなものをちょっとね修正していく癖というかね、人間ってやっぱずれていくと思うんですよ。例えばですよ、身体的なずれ、意識と身体のずれ、ちょっと話し飛ぶような感じするかもつながってるんでちょっと聞いてほしいんですけども、
意識と身体の動きのずれってあると思ってて、この間、僕水泳のレッスンみたいなのを受けてきたんですが、泳げないんですけどね、運動もあんましないんですけども、体を動かしてるんだけども、それをやっぱりインストラクターの方から注意を受けると、指摘を受けると、
自分が動かしてるイメージと実際の動きっていうのは全然違ったりとかしてるんですよね。背中をちゃんと伸ばしてる、反ってるつもりなんだけども、背中がちょっと曲がってたりとかするとか、
頭をちゃんと上げてるつもりなんだけども、頭が下を向いてたりするみたいな感じで、自分が動かしてるイメージと実際の動きっていうのがずれているみたいな。そんな感じで、ごめんなさい、話戻すと、何かを思っている、何かを認識しているっていうことが、かなり意識的になぜって通って、もう一回その見直してみないと、ずれてたりするんですよね。
実際のイメージと自分が当たり前に思っているイメージっていうのがずれていたりすると。だからその中性を修正をするためにも、なぜって日頃から通ってその微調整をしていくってことは大事なんじゃないかなって思っています。
なぜという問いはとても重要なんだけども、さっき言ったみたいに、これをずっとやってない人からすると刺激が強すぎてですね、いろんな何十年という歴史を否定してしまうというか、今の自分を全否定してしまうような結論にも至りかねないので、
なぜって問うのが、やってこなかった方っていうのは、ある種そのなぜという問いが暴力になってしまったり、激悪になってしまってですね、かえって危ないというのもあるなと。
なぜっていうのは、有用な方というか日頃からね、こう通っている人、そういうことに自覚的な人にとってはとても効果のある問いなんだけども、
ある種、それをずっとやってこなかった人からすると危ない。運動を全くしてこなかった人がいきなり過度な運動をすると怪我しますよね。そんな感じに近いなと思っています。
なので、なぜという問いもすごく有効なんだけども、激悪注意という感じで使い方も考えて、自分はちょっとあんまりなぜって考えてこなかったなという方はリハビリ型ですね、ちょっとずつ
慣らしていくということを意識してください。いきなりね、本質的なことをなぜって自分に問うてしまうとですね、本当に自分自身を否定してしまうようなことになりかねないのでですね、激悪注意なんですが、うまく使えばですね、そのチューニングに使えるというか、自分のね、認識を常に自分が思っているものとすごくね、そこがないようにしていけると思いますので、なぜっていうのはいい問いでもあり激悪でもあるということで、上手に使ってみてくださいという話でした。
本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。