スピーカー 2
ダイアログカフェ。筋書きのない対話から新しいアイディアと自分自身に出会う場所。この番組は様々なテーマで楽しみながらお届けします。
古新舜さんをお迎えしての3本目なんですけど、今回は古新舜とは何ぞやっていうところを掘り下げる全貌を知る回でございます。
まあ、肩書がいろいろあるのかなって思うんですけど、ちょっとどんな肩書があるか思いつく限り。
スピーカー 1
映画監督・脚本家・小説家・作詞もやって、インプロバイザーという即興演劇の表現者もやっていて、アクティブラーニングの教育者・文化事務学の研究者・サービス学・ウェルベイングの研究者、
あとは、この度、IQ上位2%が入れるジャパン名作家になります。
スピーカー 2
幅広いですね。
いろんな経営者ですもんね。
そうですね。すごい幅広い天才感がありますけれども。
いやいや、えーと、どこから聞けばいいでしょうね。
そうですね。おいたちの話もね、1本目2本目でもちょこちょこ出てきたんですけれども、
結構ね、教育に厳しいと言いますか、かなり子育てに厳しいご家庭で、4歳の時から東大目指すということを命令されたと。
で、塾に、塾ってそういういわゆる地域と言いますか、幼児教室みたいなところに4歳くらいから通ったんです。
スピーカー 1
釜石ですよね。
いや、でもその時は東京の目次郎とか、時はそうって赤塚藤男先生とか、あの近くですね。
スピーカー 2
なるほど。まあ私たち比較的な世代は近いところにあるんで、その頃に4歳から幼児教室に通って、相当熱心なご家庭な感じがしますけど。
記憶あります?
スピーカー 1
あります。僕2歳からの記憶があるから。
スピーカー 2
そうなんですね。なるほど。
どんな、なんか、どんな思いで行ってたんですか?当時は。
スピーカー 1
どうだろうな、でもやっぱり、私だから、おばあちゃんっ子だったんですね。で、さっき言ったとおり、うちのおかみ道中で。で、親父が、ちょっととある有名な設計会社だと。
いないんですよね。お父さんも元役だったから。で、おばあちゃんっ子なんですよね。初孫だったから、おばあちゃんに、そばにお世話になってたんですけど。
例えば、買い物行くんですよね。近くのピーコックだったから行くんですよね、スーパーに。
で、まだ当時、消費税ないんですよね。消費税なかったけど、うちの時代って。で、消費税ないから、計算が、そこまで波数は簡単だったんです。
で、野菜買うじゃないですか、祖母が。で、カゴを入れて、2000円払ってって言うと、レジの人よりも先にお釣りのお釣りを計算した。ピピピって言って。
あっ、これ、えっと、430円お釣りだよって言った。
あっ、430円、えー、この子だって言って。って言って、やっぱびっくりするんですから。
スピーカー 3
何歳ぐらい?
4歳。
スピーカー 1
4歳とかね。
そうです。で、おばあちゃんもびっくり。えー、だってレジ売らないと分かんないで、こんな商品がたくさんあって、いろいろ買ってって。
これ、430円でしょって言ったら、ほんとにピッ、430円。
あーって言って、この子は振動だわって、やっぱりなるわけです。
思っちゃうかもしれないですね。
思っちゃうでしょ、4歳なのにって言って。それで僕は、全然それを別に、もちろんひしけらかすわけで、単純にこうできちゃったから、で、喜ぶじゃないですか。
で、この子は将来は大臣か、医者か大臣だよ、とかなるわけですよね。
まあ、でも私はね、やっぱり、見えちゃうんですよ。
なぜかというと、昭和の頃って、まあ、高度経済成長の後って、ウハウハしてた時代じゃないですか。
例えば、今だと考えられないけど、えー、金利が6%とか。
そうですよね。
ねー、100万円預けたらこれ、6万円、すごいことじゃないですかね。
スピーカー 2
すごいことです。
スピーカー 1
でも1億円、こう入れれば600万円って普通に暮らせるんじゃないかって。
いや、ほんとですよ。
こんなものなら思ってないですよ。
だからみんな、ちょっとおかしくて、ローンとかで組むよりかは、こうだけ入れとけば普通に暮らせるんじゃないかって。
ケーキ置きの時代ですね。
そうそう。
で、みんなだから、そこを貯蓄すればこれだけあるのに、みんな大人って、ちょっとおバカちゃんかなって思ったんですよ。
これだけで普通に生活できるんだったら、そこに蓄えて、なんか資産運用すればいいのになって、やっぱり当時から思ったんですよ、4歳ぐらいから。
スピーカー 2
4歳で。
どんな4歳。
スピーカー 1
で、もったいないな、僕今これ1億円だったらば、普通にこれ出前6%だったらば、全然暮らせるのになーとかって。
じゃあ、僕1億円調達していきたいなって思ってたんですよ、80年代の時は。
そう、70年代とか80年代とかの成長していく中において。
いや、だからその中で大人たちが、親父もそうだけれども、やっぱり偏差値とか東大目指すのもそうだし、お金もやっぱりこう、使い方が悪いんですよ。
あれ、今これだけ金稼いだんだよ、見ろ見ろ、とか言って。
で、覚えてるのはね、やっぱり80年代って結構ウハウハだったじゃないですか。
で、怖かったのは、親父があまりにも高経験になっちゃって、金がありすぎて、ピンク色のめちゃくちゃ高級なケーキを月曜から金曜まで毎日家に買ってきたんですよ。
スピーカー 3
え?
スピーカー 1
あまりにも、バブルじゃないですか、建設会社だからもう金があり余ってるじゃないですか、ゼネコンとか。
だからもう対応が良すぎて、もう感覚が麻痺しちゃって、月から金まで毎日でかいケーキを買ってきて、
おい、今これ高経験だから、お前食えよ、とか言ってくる。
僕もう泣いたんです、それ。やめてって、そんなことやったって。
そんな社会終わるよって言って。
スピーカー 2
そんな社会終わるよ?
スピーカー 3
終わりましたけどね。
スピーカー 2
終わりましたけど、それなんか幼児が言うんですか?
スピーカー 1
そしたら、お前ナンバーバーバーって言って、子供の間に分かってないバカよ、今高経験なんだよって言って殴られるんですよ。
で、そういう殴られて、もうバカだねと思って、やっぱり見えちゃうわけです、見えないものが。
っていうような、だから愚かだな、大人はって思ってたわけですよね。
で、やっぱり見っこを捨てちゃうわけです、そういう世の中の原理が分かっちゃうから、宇宙の原理みたいなのが分かっちゃうから。
だから、この前、今度の某テレビ局もそうだし、某N君もそうだけども、分かるわけです、僕からと。
だって悪いことしてるの。それは宇宙は許さないわけです。
だからその宇宙の原理っていうものって、別に宗教じゃなくて、人間が生まれてきている根本なんですよね。
で、それらっぽい私は伝えていくのが、今世の使命だなって思ったのが幼稚園の頃かなと思った。
スピーカー 2
幼稚園の使命、すごいですね。安倍の生命のやっぱり中を引いている。
スピーカー 1
それで、小学校は公立小学校になったんですか?
私はそこに根底があって、幼稚園の時とかも勉強はできたけれども、心を伝えてくれる先生がいなかったわけです。
第1回目に話したデジタルハリーと杉山さんなんかは心を伝えてくれたわけだから、
君はやっぱり弱いところがあるのに、弱いところを隠そうとするみたいな。
やっぱりメンタルが弱いから受からないんですよね。本番に弱い子みたいな。
僕はそこが今の非認知能力を、講演会とかワークショップとかで育もうとしているのはそこであって、
子供の頃にやっぱり非認知能力がすごい大事なのに、そこをないがしろにして認知能力ばかりを高めようとしているから、
病んじゃったり、鬱になったり、人との関係性ができない人が多いから、そこが僕は弱かったんです、本当に。
スピーカー 1
だから東大打ちんのも、東大の試験会場でもブルブル震えちゃって、
これ失敗したら人生終わるって思って、本当にそうなっちゃったって。
でも早稲田と慶応は楽勝に受かっちゃったんですよ。
だから自分の中ではすごいコンプレックスがあって、当時ね、
いやー早稲田と慶応、半分の時間で受かっちゃったよって、
すごい生気だった。こんな半分の時間で受かるような学校なんか行きたくねーやとかって、
ちょっと強がってたんですよ。みたいな自分がいたんですよね。
スピーカー 2
まあいじめを結構受けてたっていうお話もありましたけど、
やっぱりそこまで早熟というか、何ていうか、
たっかんしたような考え方を幼稚園児から持ってるみたいな感じだと、
やっぱり同世代の友達と言いますか、同級生とかとも、なかなか話が噛み合わないみたいな、
なんかそういう感じがいじめにつながったっていう感じですか。
スピーカー 1
そうそうそう。さすがです。だって噛まないでしょ。
そんなこう言ったら生意気だと怖いとかなって。
スピーカー 2
何言ってんだこいつ、みたいな感じですよね。
スピーカー 1
そうだって社会が悪いって大人になると思ったら、大人になったら嫌になるわけじゃないですか。
こいつおかしいと思って。だから本当にそれいじめられてたから、
今は飛び級とかさ、フリースクールとか、当時昭和の頃ってないわけですよ。
学校行きなさいとか。で、学級委員長とかやってたから。
まあ大変でした。よく私生きてたなと思いますね。
だから命の大切さとかを描きたい、映画監督でありたいっていうのは、
自分の本当に死に物狂になって、どん底まで味わったからこそ、痛みがわかるんですよね。
だから今回のGive Me My Lifeも、困窮家庭の子どもたちっていうのを
実際に自分が幼稚園とか小中高で受けてきた、ある種の教育虐待みたいなところの体験があるから
リアルに描けるっていうことですよね。
スピーカー 2
そうやって親の方向性は、偏差値の高い大学に行きなさい、東大に行きなさいみたいな感じだったけれども、
一本目の時ですかね、実は芸能界に行きたかった、興味があったっておっしゃってたんですけど、
それは全く全然別なところから。それは映画とかが好きだったんですか、そもそも。
スピーカー 1
うん。だから一家人いたときに田村雅一さんとかね、西田俊幸さんとかね、
あの頃は小林亜生さんとかね、すごい好きでしたね。
とかね、池中玄太走りというか。結構あの頃のドラマって茶の間じゃないですか、お茶の間。
お茶の間の中でわさわさやるみたいな、あれが本当は僕は欲してたんだけど、
うちの家庭は家族の愛じゃなくて、やっぱり押し付けとかだったから、
やっぱりなんかね、現体験として、こういう大家族に囲まれて、家族の愛っていうのがあったから、
幼稚園とか小学校の夢は放送作家になりたいとか思ってました。俳優になりたいという夢がありましたね。
スピーカー 3
そちら側の世界を作る方に行きたいっていうことでは。
スピーカー 2
それは親は決して許さない感じですよね。言ったことあります?
スピーカー 1
いや言えなかったね、やっぱり。それすら僕は親のあり方として、子供の話を聞けない親って何なのかなっていうことを
講演会とかで話していて、あなたの考えじゃなくて、子供が主人公になる人生なんだから、
そうやって全部答えを自分で言っちゃうっていうのはダメですよっていうか、
子供の自己肯定感とか自己効力感を沿いじゃいますよねって話を全国で話してるんですよね。
スピーカー 2
何になりなさいとか言われてたんですか?
スピーカー 1
言われてましたよ。だからうちの親父が一級建築士だから、お前一級建築士ならば儲かるぞって言って。
スピーカー 2
アホかって。映画監督になった後もそうですよ。お前一級建築士ならば今から取ってね。もういいだろって。
スピーカー 1
結構30代はバチバチやってましたよ。毎回正月帰ると小さい頃から変わらない決めつけ、押しつけだったから、
毎回怒って帰ってきてましたけども、30後半くらいからもうやめようと思って。
でもこの人変わらないし、自分がいかに愛を届けていかない。この人も愛が圧縮してるんだなと思って、
自分から誕生日には父親にプレゼントしたり、父の日はもちろんそうだし、親父の誕生日とかには日本酒を送ったりとか、
いかに向こうから言われたことを感情的に一定するんじゃなくて、
いやありがとう、育ててくれてありがとうとか元気でねとかいう風に、
こちらから勇気づけの言葉をかけていくような習慣をしていったんですよね。
スピーカー 2
生まれたのっていつ頃からなんですか?
スピーカー 1
30後半くらいからかな。だからこのままの人生だと僕は親のことを恨んで人生を生きてしまう。
そんな人生は自分の生き方としては不本意だなと思って。
だから自分ができることっていうのは恨み妬みとかじゃなくて、
それをひっくり返した時の愛とか感謝っていうのを、感謝のことに気づきだした感じでしたね。
スピーカー 3
そこに至るのって、一般的にそう思ったとしても、実際に特に家族に対して行動するのってものすごく難しいんじゃないかなと思うんですけど、
そこに切り替えられたのは何がきっかけだったというか。
スピーカー 1
自分の場合は映画監督をやってるからいろんな人と出会うわけですよね。
たくさん出会うような犬猫の保護活動をしている方とか、障害を抱えた方がこんな風にロボットを使って自分の人生を楽しく生きようとしている方だと。
私はすごい恵まれていたのが、そういう自分が出会わないような人とたくさん出会っていって、その方々から教わった。
例えばアマノガの時もバンダユータ君という、4歳の時に頸椎を損傷してしまって、
首から下が動けない人生を20年以上歩んできた方がいるんですけど、
スピーカー 1
彼が分身ロボット織姫を使って自分の人生を後転させたというか、受け入れたみたいなのがあった時に、
スピーカー 2
そういう人生があるんだったら自分自身もだって、やっぱり皆さんから教わったという感覚がありますね、取材対象者から。
確かにそういう意味では、もともと短編を作っていらっしゃった時は、自分が憧れる映像的にとかコンテンツ、エンターテインメントとして憧れるものを作りたいというところから、
もう少し社会的なテーマ、それは結構人から受けるものをどう自分の中で咀嚼して作品に仕上げていくかみたいな、そういうプロセスに変わる中で、
結構自意識が、自分がどうしたいみたいな気持ちから、結構人を受け止めるとか、何かに働きかけたいとかっていう、
割と人とのコミュニケーション、かつてすごいいじめられてたんですっていう、割と人と断絶するような時期があった割に、
今結構人に愛されてるっていうか、結構人との関わりを強く、むしろそれを財産にしてらっしゃるように感じるので、
もしかしたら家族との関わり方も含めて、変化のタイミングが同じぐらいの時にあったのかなっていう感じがしますけどね。
スピーカー 1
伊沢 結構私もこう話していくとめちゃくちゃ、普段はね、私カウンセラー気質なんでやっぱり人の話を聞くんですけども、
今のうちの妻、姫と出会う前も結構私モテるんですよね。
スピーカー 2
なんで呪いの話かみたいな。
スピーカー 1
でもね、前に2作目を作った時にいた彼女さん、やっぱり5年間くらい付き合ったんですけどね、
ちょっとね、彼女が精神的におかしくなっちゃったっていうのがあって、
僕はその時やっぱりね、一人の女性も守れない人間がこうやって映画でいいこと伝えてるって、なんなのかなって愕然としたんですよね。
身近なところが目に向けられてないのに、これでいい映画作ろうって、ちょっと嘘は入ってんじゃないかなって、ちょっと自分を疑ってたんですよね。
そこから自分を見つめ直していくような触手観とか行動とかを全部見直していくと、すごい平らな自分がいたんですよ、結構。
出社時間が11時だったりとかしてて、今はもう早いんですよ、めちゃくちゃ。
やっぱりそれくらい自分を甘えて生きてきたんだなって思った時に、
今日のスポーツ選手よ、例えば大谷とか一郎とかはめちゃくちゃ自分を追い込んでるじゃないですか。
練習もそうだけど、マインドもそうじゃないですか。感謝を大事にするとか。
それをちゃんとやっていかなかったら、自分はやっぱり世界的な映画監督になれないなって思ったんです。
そこから自分で意識の変容をしていくための、ある意味セットアップをしていったって感じですね。
だから食習慣も今は白米を食べないとか、これガットさんがやってるやつですけど、小麦もグルテンフリーにして、リーキーガットっていう腸からアレルギーが入るってことを防ぐとか、
ハードアウトって言って、金歯、銀歯が13本入ってたんですよ。それを全部取ってセラミックにしたとか。
スピーカー 2
矯正もして歯をきれいにしたりとか。結構自分の中で乱れてるものを徹底的に見直していったっていうのが、この5、6年って感じですね。
スピーカー 3
面白い。なんかすごい社会的な活動とご自身の在り方というか、そのものが統合されていく感じですね。
スピーカー 2
そもそも大学に入られて物理学をやっていて、そこからデジタルハリットに行かれたっていうのは、それよりも前から映画の作りっていうのは始めてらっしゃったんですか?
スピーカー 1
そうですそうです。いい質問なんですけども、私は早稲田大学2年間で全部の単位を取り終えちゃったんですね。
本当は3年半で卒業しようと思ったら、当時はまだそういう飛び級みたいなのがなくて、卒業できなかったんですよ。
仕方なく、私、東大落ちてレンタルやられて、大学入った時に半年間休学してしまったんですよ。
1年の半年分休学した分が余ってたというか、財席が足りなかったんです。単位は全部取れてるから、本当だったら短縮して卒業できるのに当時はまだ制度が未熟だったんで、
そういうようなことはダメですって言われちゃって、半年間余ったんですよ。
で、66万6千円を払って、あとは何もしなくていいから、5年生やってくださいって言われて、
えーマジかよ、66万6千円払わないでしょって言って、しかも何もやらなくていいって。
なんでそれって言って。育児院じゃないですか。優秀なんですよ、入職者って。4年、普通はだって留年するわけじゃないですか。
留年せずに短期で卒業するって、今まで前例がないですって言われて、えーマジですかって言って、
じゃあどうしたらいいんですか、好きな科目なんか取ったらって言って、あったのがたまたま映画製作っていうのが授業があったんですよ。
一般教養みたいな。僕が小さい頃からやりたかった作品作りできると思って。
で、たまたまそれで5年生の時に映画製作っていう授業を取って、で、同時に私、菅野高校っていうところなんですけども、
菅野の同窓会があって、で、行こっかなと思って行った席に隣にいたのがY君っていう子がいて、そのY君が、
俺映画会社の社長やってんだよって言って、それで私は埼玉の川口に拉致されたみたいなのがあって。
だから結構大学卒業するタイミングで寸大予備校の講師もやってたんですけれども、同時に映画業界にY君に誘われて、
で、早稲田大学でもたまたま映画製作っていう授業を受けて、っていうようなのがタイミングがすごいあって、巻き込まれてった感じですかね。
いい感じで。だから本当に人間倍次作業が上手じゃないですけど、そんな感じで巻き込まれていって映画監督になったんで、
ちょっと通常の映画監督のルートとは全く違う感じ?
スピーカー 2
本当ですね。
それまでは全く映画監督を、映画作ろうなんていうのは、
たまたま生まれた5年生の期間っていうところまでは全く何もやってなかったんですか?
ないない。
スピーカー 1
やろうとも思ってなかった?
思ってない。当時は詩人を目指してた。
詩人?
スピーカー 2
詩人。
スピーカー 1
すぐネタが多くて、もう3回で終わるのかな?
スピーカー 2
いやいやいや。
詩人を目指してた。
スピーカー 1
アイスだから、谷川俊太郎さんとかね。
素敵ですね。
いろいろですかね。詩人愛協山田貴町さんとか文学がすごい好きで、一人で物を作るのがすごい好きだった。
友達からいじめられたから、一人で。没入できるのが詩の抽象的な表現がすごい好きで、
詩人を目指そうと思って。でも詩人って食えないじゃないですか。
予備校講師やってたから、そこそこ月収はいいわけですよね。
なんとか生活できるし。
詩人で生きていくためにはどうしたらいいかなって模索してたんです。
その時にY君と出会ってしまって、僕が書いた絵本があって、その絵本を見せたら、
え?お前あんなに勉強できるやつが、こんなクリエイティブな力があるのかよ。知らなかった俺は。
みんな医者とか弁護士目指しになってるのに。
俺とお前だけは唯一、この新学校の中で、社会不抵合者だけどやっぱり、
真っ当な道行ってないのは、お前と俺だけだ。
俺たちタッグ組んで、絵が作られたかって言われたんです。
それで、その甘い言葉に騙されて、拉致されて、最後かかるうちにホイホイとついていってしまった。
スピーカー 2
へー、なるほど。
スピーカー 3
予備校の講師もヘコレされてたってことですよ。
それはもう大学時代からバイトみたいに始められてたんですか?予備校講師は。
スピーカー 1
そうですね。でも寸大予備校ってめちゃくちゃ多手じゃないですか。
大卒じゃないとダメなんですけれども、おかげさまで教えるのがすごい好きで、
徹底的に僕はいろんな塾でテクニックというか、磨いてたんです。教える指導方法。
だから周りは東大だらけだったんです。先生になりたい人たちが。試験受験ですけど。
僕だけは唯一、早稲田で、みんな東大、いやー大丈夫かなと思った。
採用されて一応最年少講師だったんですね。
スピーカー 2
へー、大学生の時から。
卒業のタイミングから。
何を教えてらっしゃったんですか?
物理。
スピーカー 3
そこはもう卒業されたら、詩人も考えつつ予備校講師を受けようと思われてたんですか?
スピーカー 1
そうですね。でも自分が寸大にいたので、やっぱり寸大の教え方って当時、今は違うと思うんですけど、
300名とか500名とか1000名とかすごいですよ。あのライブ感がたまらなくて。
しかも林尾さんは違うけれども、やっぱり有名な先生って面白いですよ、教え方が。
演劇と同じなんですよね。レンターテイメント。
学校の先生って担当してるのって、これ試験出るぞって。そんなのやったって覚えるわけねえじゃないかって。
覚えるか。内発的に動機付けが生まれないけど、予備校の先生ってパフォーマーなんでね。林先生とかそうだけど。
憧れて芸能界行けないなったらば、予備校講師としてステージに出したいと思うんですね。
スピーカー 2
なるほどね。パフォーマーとして。もちろん中身もあるけれども、引きつけるっていう子供たちの。
スピーカー 1
私も今探してる。ようやく気づきました。そっかって思った。
スピーカー 2
予備校で講師やってみたいな、みたいなのはどこかで思った?
スピーカー 1
だからもう大学入った時点から、昔から思ってたんですよ。高校時代から道としては寸大予備校の講師だなって思ってたんです。
そこはねだったんです。
それは思っていて、いろんな塾で講師をやりながらトレーニングしてたんですよ、教える。
絶対寸大予備校の講師になるっていうのを決めてたから、いろんな塾の高校部があるから、エコーゼミナの高校部とかで、少人数で教えながらテクニックを磨いてたんですね。
スピーカー 2
へー、なるほどね。
スピーカー 3
卒業して寸大予備校の講師と、Yさんの映画会社で日本が卒業してすぐに走っていくって感じなんですか。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
ちなみにYさんの方は、その当時どういう映画を作ろうとされていたんですか?
いいですね。川口にスキップしていいっていうのがあるんですけども、Y君がいた会社の下に若手の映画監督がいたんですよ。
その若手の映画監督が、青井優さんとか大沢あかねさんとか、すごい有名な俳優さんを使ってショートフィルムを作っていました。
当時ショートフィルムがブームになった時があるんですよ。
ショートフィルムって大体人見ないんですけども、ショートフィルム界隈でべしょてつやさんとかショートフィルムフェスタバルがあって、
結構ショートフィルムが面白いんじゃないか、今だとTikTokとかが短い映像味、それが流行りですよ、走りですよ。
15分の中で映画を見せるっていうような手法。
それを私が知った時に、ショートフィルム?なんだそれはと思って、見たんですよ。
岩井俊治監督が。
うわー、15分でこんなに見せられるのすげーって驚愕だったんですよ。
2時間の映画で感動させるんじゃなくて、15分とか20分とか、それこそ10分とかの短い映画ってあるんだなって知った時に、
そのY君がついてた監督がいて、その監督の下積みをやってて、その時に、
例の某テレビ局のドラマを監督がやることになって、私はそこに下積みで入った。
だから某テレビ局のドラマの下積みを監督がやって、私がそこで一番下っ端でこきつかれたみたいになるんですよね。
まあでもそれで、僕はだから、詩人を目指そうと思ってたんですけど、脚本家を目指すようになったんですよ。
監督は人と接するから怖くてしょうがないけれども、脚本家だったらば、自分で描いた作品を、
えいって出して監督に撮ってもらうから、詩人じゃなくて脚本家を目指せばいいかなっていう風に吹き込まれたわけですよ。
脚本家を目指そうと思っていて、下積みをしていく中で、自分でショートフィルムを作ったらば、
それがいろんな映画祭でグランプリを監督が面白いってなっちゃったみたいな。
いろいろ若い頃には変遷があって、でも映画の世界に触れた時に華やかで、
自分が小さい頃に行きたかった芸能界に入れたっていうのは、すごいラッキーというか、ようやく来れたなって思いましたね。
スピーカー 1
で、徐々に僕がラジオ出演とかするようになってきたんですよ。
で、バレだしたんですよ。あれって、小西先生、もしかして映画、この間ラジオ出てました?
あー、バレてきてるなって。ちょいちょい後半の頃にはバレ掛けてきたんですよ。
で、僕はやっぱり出したくなかったんですよ。
なんていうかな、映画やってます、予備高校試って言うと、なんかちょっと、なんか視線がこっちに来ちゃうそうで、ちょっと隠してたんですよ。
でもバレ始めたんですよ、最後の方は。
で、僕はその物理の授業を教えてたんですけど、その授業をね、人生において大事なことを僕は教えますっていう風に変えたんですよ、途中から。
で、ちょっと話が長くなるからもうここ割愛しますけど、最後の10年目は子供たちが涙を流して私の授業を受けるようになったんですよ、最後。
小西先生の授業は生きる本質を教えていて、大学受験を受かるテクニックを教えてないですよねっていう風に。
って言って、1年間終えると子供たちが長男列で、小西先生ありがとうございますって言って、私を見送るんですよ。
で、もう先生辞めないでくださいって言う。先生が辞めたらば、人生において大事なことを教えてくれる先生は他にはいないんですよ。
だから寸大からいなくなったらば、あなたは財産だけこのままいってくださいって子供たちが泣きながら言うんですよ。
え〜。
すごい。
スピーカー 2
物理学の授業じゃない。
物理学は教えてる?一応教えてるんですよね。
スピーカー 3
入ってはいるけれども。
スピーカー 2
なんかそれは割愛しますっておっしゃったけど、もう気になってしょうがない。
どういう、どんなことを、どんなアプローチ?
スピーカー 1
だから私はデジタルハリウッド行ったりとか、震災とかいろんな経験してるじゃないですか。
だから子供たちは教室の中で試験を受けるってことしか知らないけれども、自分が体験してきたこと。
例えばワンチャンネコちゃんの話とかもそうだし、東日本大震災で原発20キロ圏内。
原発であれば物理だったりするわけですけど、テクノロジーとか。
じゃあ皆さんが学んでるこの電気っていうのは置き換えると、今東日本大震災に置き換えるとしたら、これが人の命に対してもすごい影響を与えてるよねみたいなところをひも解きながら、
自分の体験、映画の中で培ってきたものをひも付けて物理の講義をしてたとかですかね。
スピーカー 2
物理と何らか関わりがあるような形で伝えたいメッセージを。
そこまで世界を知ってるというか、先生という職種の人がいないですよね。
スピーカー 1
林さんとかはそれ知ってるからあれができる。私もそれができるから子どもたちはめっちゃこの先生ってファンが増えてる。
スピーカー 2
塾とか予備校の先生って学生時代からその道に入ってずっとやってるっていう人結構多いから、
そうすると学歴社会で一定度成功してきた自分をずっと引きずってその世界の中でずっと行くから、
子どもたちと語るときもその目線でどうやったら偏差値が上がるかみたいなことは話せるけど、
その先の世界って知らないもんね。
スピーカー 1
知らない。
スピーカー 3
でもさっきの一部の話もそうですけど、私も子どもが二人いるんですけれども、
やっぱり子どもの世界って狭くなりがちじゃないですか。
だけど今たまたまここいるけど世界もっと広いから、
ここだけじゃないよっていうのをきちんと伝えてあげるのってめちゃめちゃ大事だなと思ってて、
素敵ですね。
でないとスタックしたときに逃げ場がなくなってしまいますよね。
スピーカー 1
親御さんが視野共作になっている方々すごく多くて、
自分の昔偏差値教育私もやってきたからこれが幸せになるに決まってるって勘違いしてる親御さんが本当に多いから、
だからそういう親御さんといろんな場所、映画を見るでもいいと思うんですよね。
とか自分で体験するとか表現するとか、やっぱり外の世界に行っているお母さんたちっていうのは考え方が広いですよね。
そういう子たちはやっぱり自己肯定感が育まれるわけですね。
それいいよね、チャレンジしてみようねってなるし、
それを知らないとなんでこんなことできないのってやっぱりうちの母親のように、
子供ばっかり目が向いて自分に目が向けられていないみたいな親御さんが多いから、
私は予備高校試を辞める10年間の最後に言ったのは、
僕が10年間やりきって、君たちはすごい自分の生きる力を誓うことができたと確信しています。
だからこうやってみんな最後まで私の授業を感動して受けてくれた。ありがとう。
でも僕はこれをずっと続けても、君たちの親の世代が変わらなかったならば、
いつまで経っても君たちのように受験勉強を目的として、
スピーカー 1
何のために生きるかということをわからない子たちが増えてしまう。
だから私は寸大予備校で10年間やり終えて、
次のステージに行くのは、あなたたちの親の世代にこの学びのメッセージを届けるのが私の使命だと思っています。
って言って辞めたらば、この2人が次の授業のチャレンジになって、
先生!って言って、もう先生の授業があるから私は閉鎖地じゃなくて、
自分がやりたい学校の選びができました。
ありがとうございますって子供たちが本当に泣いて、
もう次の授業のチャレンジになっているのに、先生が帰らない。
で、他の教員が、何が起こったんですか?
スピーカー 2
どういうことですか?って言って。
スピーカー 1
もしくは僕はマイナー教師だから、そんなにメジャーな教師であったかったら、
マイナー教師がこんだけみんなが号泣して、先生先生って言って。
それは泣きますよね。
スピーカー 2
泣いちゃいますね。
そうか、なるほどね。
子供たちに対してコミュニケーションしてきたものを、
もっと広い社会、特に上の世代も含めて伝えたいっていうことが、
結構その後の制作活動の大きなテーマっていうか、目的になっているってことですね。
いい締めですね。
スピーカー 3
あと、冒頭の方々のアクティブアーティストのところ。
スピーカー 2
そうそう、アクティブラーニング。
それは、映画作りと並行して、それを企業向けに研修とかをやるって、
これはどの流れで?
まただから、ちょっと混乱してきましたよ。
情報が多いですからね。
どこから来たの?それは。
スピーカー 1
第4回の時に出そうな勢いで。
いいんですかね、まあまあ。
スピーカー 2
どうぞどうぞ。
スピーカー 1
まあまあせっかくですから。
スピーカー 2
気になって連絡くなったじゃないですかね。
スピーカー 1
わかりました。
そこで気づいたんですよ。
映画の下積みの現場で、コミュニケーション力を養うことができたんですよ、私は。
学校の授業でコミュニケーションっていう授業がないじゃないですか。
僕はずっと勉強ばっかりやっていて、映画の制作の現場で初めてコミュニケーションを培うことができたんですよね。
例えば石橋レンジさんとか、いろんな有名な役者さんが出るわけですよ。
日傘を向けなきゃいけないんですよ、下っ端だから。
スピーカー 3
日傘を向けるのに、太陽が向いてない方向に日傘を向けちゃうとか。
スピーカー 1
違うだろ、こっちだろとかって怒られるわけですよね。
スピーカー 2
キャストさん、俳優さん用のお茶を誰よりも先に飲んじゃうとか。
スピーカー 1
殴られるでしょ。
馬鹿野郎だよ、俳優だよ、お前が飲めるのじゃないよ。
あまりにも対人関係が、今はめちゃくちゃ対人関係を良好にする講習をやってますけど、
なかったわけですよ、コミュ力が。
そこで殴られ、蹴られながら、叱られながら、行われながら学んでいったんですけど、
これ、学校にいるときに学んでおきたかったなって思ったんです。
それで、ハッと気づいて、これを映画制作っていうのは作るんじゃなくて、
その過程がコミュニケーション力を養う力が得られるなと思って、
Cinema Active Learningっていう賞標を取って、
企業研修とか学校の教育の中でチームでiPadを使って
ショートフィルムを作ってもらうっていう研修の講習をやってます。
そうすると、実際に今度も聖徳学園っていう武蔵坂にある学校では、
中学1年生が必ず映画という講義があるんですよ。
スピーカー 2
すごい素敵でしょ。
スピーカー 1
美術とか、iPadを使ってICTとかを組み合わせるんですよ、みんな音楽とか。
強化横断型のをやって、最後に今度3月の10日に作品発表をするんです、聖徳映画祭って。
それをもう8年、9年くらいやってるから。
それを私が提案したCinema Active Learningという教育手法なんですよね。
スピーカー 3
面白い、Cinema Active Learning。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
私も話すとネタが多すぎるんでね。
スピーカー 3
すごいですね。
スピーカー 2
それは会社を作られて、それをビジネスとしてもやってらっしゃるってことですよね。
スピーカー 1
それは今も並行しているんですか?
もちろん、学校でもあるし、コロナがあってオフラインでリアルで出会うことができなくなっちゃったんで、
ちょっとそこが痛かったんで、一回ちょっとシュリンクしちゃったんですけど、
でもまた企画自体はかなりいいコンテンツだと思っているんでね。
企業研修とかではめちゃくちゃ効果が出てたんで。
スピーカー 3
そうなんですね。
スピーカー 1
部署ごとに分断されているじゃないですか、大体。
会社として本当はパーパスがあって、自分の会社の目的があるのに、部署のことを知らない中でいいものを作れないわけだから、
であれば部署ごとで同じ会社の中にいる人たちが部署を越えて映画制作をやるっていうと、
部署の良さとか特徴とかを知るわけです。
作品作りを作ったっていうやっぱり達成感ができるみたいなところで、効果があるなというふうな。
スピーカー 3
なるほどね。面白い。
スピーカー 2
そして今はさらに大学で博士号を取ろうと。
スピーカー 1
取ろうと今年中にね。
スピーカー 2
それは映画の先ほどのサービスとして、ビジネスをもう一回プロセスをサービスにするっていう。
スピーカー 1
それはいつからやってらっしゃるんですか?
20年の10月からですね。
スピーカー 2
じゃあもう。
スピーカー 1
もう最後のほうですね、今。
スピーカー 2
そうですよね。4、5年かけて。
スピーカー 1
はい。国際会議でも発表したし、論文も今朝読論文っていうのを書いて、それが掲載されたら最後の条件が全部整うんで、