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こんにちは、コハルです。 今日も聞きに来てくださってありがとうございます。
今日はですね、少し受験とか子育てとは切り口が違うかもしれないんですけど、
私がね、日々というか、日々考えていることをお話ししてみたいと思います。
昨日、熊本でね、大きな地震がありましたよね。 まずは被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
今も不安な時間を過ごされている方や、暑さの中で避難生活をされている方、大切な方を思いながら過ごされている方は、たくさんいらっしゃると思います。
一日も早く安心して眠れる日常が戻ってくることを心より願っております。
でね、今日はそんなニュースを見た時に、私自身が考えたことを少しお話したいと思います。
正直に言うと、私はこういった災害のニュースとか、戦争のニュースを見ると、しばらく気持ちが沈んでしまうんですよね。
東日本大震災の時も、ノトの地震の時も本当にそうでした。
でね、特にこの地震のニュースっていうのが、私はすごく心が揺さぶられる理由があって、
実は私の実家が何回トラフが起きたら、大きな津波の被害が想定される地域にあるんですよね。
だからどうしても他人事とは思えない。
もし自分の家族だったら、もし親がそこにいたら、もし子供を守れなかったら、そんな想像が一気に広がってしまいます。
私は実は、もしかしたらすごく大げさに聞こえるかもしれないけど、
実家に帰る時っていうのは、もしかしたら次は会えないかもしれないな、もう次はここに戻ってこれないかもしれないな、
そんなことを思いながら規制するっていうことが実はすごく増えているんです。
こうしたニュースを見て出てくる感情っていうのがまず無力感なんですよね。
何かしたい、でも今すぐ現地でいけるわけではない。
私にできることって何だろう、思うんです。
できる範囲で言えば、補給をするとか、被災地の商品を買うとか、
ふるさと納税をするとか、防災について家族で考えるとか、
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もちろんどれも意味のあることで、どれもやってはきているんですよ。
でもその一方で、これは本当に相手のためなのかな、
私はこの自分の無力感を埋めたいだけなんじゃないかな、
そんなことまで考えてしまうんですよね。
みなさんはどうですか?
こういったニュースを見たり聞いたりしたときに、
どんな気持ちがまず湧いてきますか?
今回考えていたのは、相手を思うことと相手の人生を背負うことは違う。
支援することと責任を引き受けることは違う。
その境界線みたいなものについて少し考えていたんですよね。
これは災害支援だけじゃなくて、
私はそれこそ今年の春まで受験の現場で受験生のサポートをしていたんですけど、
そういった支援の場で本当によくよく考えていたことなんです。
さっさと昨日寝る前に娘がぬいぐるみを持ってアンパンマンごっこをしていたんですよ。
ぬいぐるみを持ちながら、誰か待っている人はいないかなって言って、
すっごいかわいかったんです。
アンパンマンって確かそういうセリフを言うんですよね。
あんまり意識したことなかったんですけど、
その時に私なんとなくそのセリフに違和感があったんですね。
誰か困っている人はいないかな?困っている人がいたら助けたい。
誰かの役に立ちたい。そんな気持ちですよね、これって。
でもそれを聞いた息子が、そのセリフっておかしくない?って言ったんです。
だって困っている人はいないほうがいいに決まってるじゃん?って言ったんですよね。
そう息子はね、私と同じところにひっかかっていたんです。
その息子も違和感と私の違和感が一致して、私は本当にそうだよなって。
困っている人はいないほうがいいに決まってる。
だけどこういった支援とか教育とかって困っている人が前提にある仕事なんだなって思ってしまったんですよね。
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すごく言葉にするのが難しくて、まだあんまり整理できてないんですけど、
私たちは時々誰かを助けたいとか、誰かのために何かしてあげたいとか、そういう気持ちに夢中になるけど、
本当に目指していたのは困っている人を探すことじゃなくて、困った時にその人が自分の力を取り戻せることなのかもしれないなと。
そんなことを昨日の夜からずっと考えてるんです。
答え出ないですよね。自分の無力感を埋めるための支援なんじゃないかとか、
人を助けるとか、人をサポートする、人を支援するっていう仕事は、
結局支援する人がいなくなることが一番いいわけじゃないですか。
それを考えた時に、支援ってどういうことなんだろうって思うんですよね。
水辺の、馬を水辺に連れて行くっていう話がコーチングではよく出てきますけども、
馬を水を飲ませるために水辺に連れて行くことはできる。
だけど飲まかどうかを決めるのは馬自身なんですよね。
お腹を空けている人がいて、負担を与えることは簡単だけど、
じゃあ次の日も次の日もその次の日も負担を与え続けるのかっていうと、
そういうわけにはいかない。
私がやってる子育てとか受験の発信も、
なんだろうな、そういうところあるよなって思ったんですよね。
私は子供、もちろん子供に、子供たちにより良くなってほしいって思ってる。
思ってるけど、子供自身を変えたいわけじゃないし、
子供自身を変えたいわけじゃないって言うとちょっと違うな、変わってほしいんだけど、
そうじゃなくて、難しいな、
ママに子供の人生を背負ってほしいわけでもないんです。
むしろ逆で、子供には子供の人生がある。
その人生を歩む力を信じて、隣で応援できるママとかパパが増えたらいいなって思ってるんですよね。
受験でも進路選択でも、親が全部正解を出してあげることはできないですよね。
子供の不安とか苦痛とか悲しみとか、そういったものも全部親が代わりに取り除いてあげることはできない。
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苦しみを代わってあげることはできない。
だけど、理解しようとか、想像することはできると思うんですよね。
あなたなら大丈夫だよとか、一緒に考えようって、安心できる居場所を作ってあげることはできる。
支えるっていうことは代わりに背負うことではないし、
その人が自分の力で歩いていけるように隣にいることなのかなっていうのを今回改めて考えました。
今回、災害地震のニュースを見て苦しくなった自分に対して、
こんなことで落ち込んでいる場合じゃないとか、もっと大変な人がいるのにって思いました。
それと同時に、今自分が置かれている環境にもものすごく感謝をしました。
その気持ちも含めて、私は自分と対話していけたらいいなって思ったんですよね。
感じることとか考えること、そして自分にできる小さな行動をする。
たったそれだけしかできないんだけど、でも今はそれでもいいのかなとか。
正直、こういうニュースを目の当たりにしたときって、何でしょうね、動けなくなっちゃってというか、答えはないと思うんです。
ないと思うんだけど、誰かを大切に思うときほど、私は相手の人生を背負おうとしていないかな、
そんな問いを持っていきたいなって思います。
今日の支えることと背負うことの話、もし皆さんの中にも一つでも心に残ることがあったら考えてみてほしいなって思います。
私は今、誰かのために頑張りすぎていないかな、と自分に問いかけてみてください。
あなたにとって支えると背負うの境界線ってどこにありますか?
もしよかったらコメントやレターで教えてください。
一緒に考えていけたらとっても嬉しいです。
最後まで聞いてくださり、本当にありがとうございます。
またお耳にかかりましょう。小春でした。