L1とL2の違い
ちょいとばっかし思考のぐるぐる。
L1とL2について、母国語と第二外国語、いわゆるLanguage 1とLanguage 2ということで、L1とL2の違いなんだけど、
たまにあの、母国語と外国語のね、学び方は全然違うみたいな、
だから全く違う形でやらないといけないっていう人も中にはいるみたいなんだけど、
ただ私は、その学習というか、その言語を獲得していくそのプロセスっていうものは同じだと思っていて、
学習の方法をね、どういうふうにやったらいいのか、効率的にどうやって覚えたらいいのかとかって、そういうことはいろいろな議論はあると思うんだけれども、
でも基本的に人間がどうやって言語を獲得していくのかっていうことに関しては、もうこれはL1もL2もないというか同じだと思うのね。
で、そのプロセスの話なんだけど、これは特に聞く話すの話に関してで、
で、人間っていうのは大体が聞くことが最初に来て、それから話すっていうものが発達して、それからその次に読むっていうのと書くっていうね、
で、この読み書きっていうのはもう本当にずいぶん後で発達したものであって、文字というものを人間が勝ち得てからそこから発展していったっていうことになると思うんだけど、
それ以前に人々はコミュニケーションはどうやっていたのかって言ったら、もうもちろん口頭で聞いて話すっていうここが基本なのね。
だから赤ちゃんだってまずは聞く、そこから話すようになるっていうこういったことをしているわけだよね。
赤ちゃんっていうのはお腹の中にいる時から音っていうものがある程度は聞こえてるらしくて、
特にその外界の音っていうよりはそのお母さんの話す言葉というかタイミングというかそのリズムとか欲望とかそういったものを結構身につけてるっていうか聞いてたんじゃないかっていうことだと思うのね。
あとは心臓の音とかね、もう体の中の音とかそういったものが赤ちゃんの脳みそに染み込んでるっていう形になると思うんだけれども、
そのお母さんの言葉がそのままもちろんわかるわけじゃないし、言葉はどうやってわかるのかって言ったら意味がなされるからわかるわけであって、
その意味が何なのかっていうのがわからなければ言葉っていうのはもちろん覚えられないっていうことだよね。
だからそれは何語だって関係なくて、何の脈絡もなくしにただ単にプラプラプラプラって言われたところでそれがどういう意味なのかっていうことが捉えられなければ、
それは本当にこう、電車に乗っててガタンゴトンっていうその音の意味がわかったみたいな、電車の言語がわかっちゃったっていうぐらい不思議な話で、
意味がもともとあろうがなかろうが、意味というものが伝えられなければ言葉として存在しないっていうことになるから、
赤ちゃんの言語獲得
意味を捉えるときに人間は、人はどうやって意味を捉えることができるのかって言ったら、大体がその視覚情報によってパターン化してくるっていうことだと思うね。
だから赤ちゃんなんかだったら、お母さんみたいな人が毎回やってきて声をかけるわけだ。
で、そういった声をかけられたことによって、お母さんというものが見えて声をかけられてっていうことで、意味がわかっていくっていうことなんだと思うね。
ご飯、最初はご飯じゃないかもしれないけど、お乳の時間ですよとか言われたら、お乳ってこういうものなのかな、ミルクのことなのかなみたいな、そういうふうにわかっていくみたいな、そんな感じになると思うんだけれども、
そういった情報が全くなかったら判別がつかないっていうことになると思うね。
で、私が人が言葉をどうやって獲得していくのかとかって思ったときに、ちょっと面白いなと思ったのが、例えば鳥の言葉なんだけど、鳥の言葉っていうのは、私たちも分かろうと思えば分かるものらしくて、
鳥の言語が話せるというか、分かる人っていうのが日本で、日本なんだけど、日本の学者さんで鳥の言葉をかなり解析できて、意味がわかったっていう人がいるのね。
その鳥は何だったかな、四重からだったかなんだか忘れちゃったけど、本当によく喋る、いろんなパターンで表現している鳥がいて、小鳥だと思うんだけど、その小鳥のどうやって意味がわかるかって言ったら、やっぱり視覚情報でわかってくるっていうね。
だから何か危険なものがあるときにはこういう音を出すっていう。で、それが去ったときにはまた違う音を出すみたいなものを、もうすごい執念だと思うけれども、それを観察して観察して、もう1年2年とかっていう感じで、もうずっとそういうものを照らし合わせて、この音を出すときにはこういうことが起こっているっていうパターンをどんどんとフィルターにかけて、
じゃあやっぱりこれはこういう意味だっていうふうに突き止めたっていうことだと思うね。で、人間が言葉を最初に勝ち得たときもそんな感じで、例えばだけど、何か伝えたいことがあるとき、狩りか何かに行ってて、
で、相手には見えてないけど、相手の後ろに何か蛇が迫ってるってなったら、教えてあげないといけないとかってなると、それが危険だとかっていうのを知らせるために最初はギャーとかって騒ぐみたいな、そんな風になってたのかもしれないけど、もうだんだんに、いや、こういう時にはこういう風に言おうみたいな風に仲間のうちでも何かだんだん決まってきて、
で、お互いに一緒に蛇を見ながら、これは蛇っていうものだよ、蛇っていうことにしようねみたいな感じで、その二人の間ではその長ひろいちょっと危険なものは蛇っていう名前に決まったと。
そしたら第三者がやってきて、俺もこれは何か生き物があるなと思ってたけど名前はわからないけどって言ったら、俺たちは蛇って名付けたんだよ、お前も蛇って呼んでえよみたいな感じで、みんな蛇って呼ぶっていうね。
なんだけどそうやってグループで、こう蛇っていうのが広まって、子供っていうものもできて、子供もこれが蛇だっていうことを覚えていくんだけど、ここでまた別のグループっていうものがいて、別のグループにとってこの蛇の存在の蛇っていう言葉は蛇じゃなくてまた別の言葉を使ってる。
そうなるとこの二つのグループが例えば衝突したりとか、昔はほとんど衝突することとか争うことが多かったと思うんだけど、蛇っていうものを培ってきてたそのグループが敵によって倒されちゃって、一人もその部族の中にいなくなったってなったら蛇っていう言葉は消えていったっていうね。
で、その文法みたいなもの、これは動詞だみたいな名詞だみたいなそういうものがある程度はできてたはずなのに、それも全部なくなってきちゃったみたいな感じで、だから言葉の歴史っていうのは結構血生臭いものでもあったりとか、言葉っていうのはなんか美しいものでもあるんだけど、歴史を振り返ると生臭いというか、
言語の歴史と影響
本当にいろんなハードシップを乗り越えて、ここまで残ってきてくれてた言語というものがあるんだなっていうのをすごく思うことはあるよね。
アフリカなんかだと結構植民地化がすごいヨーロッパによってされてたから、もう言葉を失った人たちってたくさんいるでしょう。だからアフリカなんかだったらフランス語とかイギリスの英語をしゃべるっていう国の人たちいるんだけど、
でも元を立たせば彼らにだって彼らの母国語っていうものはあったはずなんだよね。だけどそれが奪われちゃって、500年とか植民地にされたりとかしてると思うんだけど、そういった間にもう言葉もすっかりなくなっちゃってっていう、そういったこともあって。
なんかノンキーね、私なんかのノンキーな国のノンキーに暮らしてきた人間はあんまり深く考えながら、なんか英語が最初からしゃべれていいねとか思うけど、でも自分たちの言葉を失わされたその歴史っていうものもあったりとかするんだろうなとかって思うと、
本当に日本っていうのは素晴らしいっていうかすごいよねと日本語っていう言葉がずっとつないできたんだからねとか思う。
でもそれと同時に日本語だって英語だってそうだけど、1000年前とか2000年前とか全然違う言語みたいに全く違う風にしゃべってるから、私たち今タイムスリップかなんかできて、なんかあの時代にいても多分会話が成り立たないもんね。
そう考えると言葉って面白いよねとか思うんだけど、いつものように脱線しちゃったんだけどL1とL2の話をしてたんだった。
なので、第一言語と第二言語っていうその獲得のプロセスっていうものは、意味がわかるものをインプットすることによって言語が聞くっていうことから発達し、聞けることによって話すことができるっていうそういった繰り返しというか、
そういう形で発展していくものだから、だから第二言語であっても、その学び方というか、その言語の獲得の仕方、そのプロセス、プロシージャー、そういったものは同じであっていいと思うのね。
で、同じでないといけないとは思う。
その赤ちゃんとかが自然に言葉を得たように、大人になって私たちが第二外国語を学ぶときも、同じようにやれればそれが理想的で、自然にインプットされたものは自然のアウトプットになるっていうここがキーなんだと思う。
自然にインで自然にアウト、だから自然にインしてないのを無理矢理話そうとするからぎこちない英語になったりとか、
そんなのはちょっと通じないよねっていう、なんか不思議な英語よっていうか英語じゃない英語みたいなものになっちゃったりとかするっていうのは、勝手な想像でこうに違いないっていう、言ったらフェイクをしてることが多くて、だからなんか自然な言葉にはならない。
だから元々のものを学ぶっていう姿勢が学校英語で歪められたんだと思うのね。
学校では自然に話されている英語の勉強っていうか、それを見ることもなく、あまり聞くこともなく、日本語からそれを英語に当てはめるっていうような無理矢理なことをやっちゃったから、すごく不自然な言語の獲得の仕方をしてしまったがために、
なんかいまいちよくわからないまんま、なんか頑張って翻訳しようとするから、出てくる言葉はフェイクだったりとか、どっかがおかしかったりとか、そういう風になっていく。
それでもコミュニケーションを取らないよりは取った方がいいから、それはそれでもうしょうがないっていうかあれなんだけど、でもそれを押し進めていくっていうのは、もうこの場に及んで何よって私は思っちゃうんね。
だって自然に学んだ方がいいよっていうのはもうわかってきてるのに、なんで未だに翻訳のなんか古い方式でやるのかなってすごく疑問に思っちゃう。
ただここで赤ちゃんとかね、子供とかが学ぶような自然な言語の習得、あるいは私たちがどっか全く知らない国に行って、もう辞書も何もなしで彼らの言葉を覚えていこうとしたら、
ジェスチャー見ながら状況見ながら文脈を読み取って、これはこういう意味なんだろう、これは馬なんだな、これは牛だなとか、歩くという単語はこういうことだなっていうのを人の動きを見ながら徐々に覚えていくっていう、
そういうだからいわゆる赤ちゃんと同じようなステップを踏んで覚えていくっていう、そういう自然な習得の仕方っていうのはものすごい膨大な力、力じゃないわ、膨大な時間がかかるから、それを私たち大人が今英語を学びましょうっていう時に、じゃあ赤ちゃんと同じしましょうっていうのはそれは絶対に無理だから、それをいかにいかに効率化してやっていくかっていう、ここが本当にキーになる。
だからそのプロセス自体は私たちは忘れちゃいけないし、こういうプロセスを踏んで言語を獲得していくっていうことを踏まえた上で、さてじゃあ効率的にどうしようかっていうここに一応絞らないといけなかったのを、
学校の英語とか英会話学校とか呼ばれるところとかもなんかフレーズを覚えましょうみたいな、なんかそういう無理やりな、実際の英語の話されている場面とか話している文脈とかそういったものを全く無視して不自然な入力をさせようとしたがためにおかしなことになっちゃったっていうね、
そういうことなんだろうなって思う。だからL1とL2について話そうと思ってたら脱線がすごく多くなっちゃったけど、でも私が本当に一番言いたいのはここだと思う。多分これなんだと思う。
自然な入力は自然な出力になるっていうこと。自然にインプットをすれば自然な出力になるということなんだけど、ここで効率的にやっていこうっていうのが第二、外国語を学ぶときの肝になるんだろうなぁと思うのであります。