多読の影響と音の重要性
私はよく多読ってどうなのかねとか、 あともっと強く思っているのが、自分が音の知らない単語を体に入れることの危険性っていうのを
よく感じてて、前もよくスタンドFMの配信でも話ししてたんだけど、 話すっていうことを前提にした場合ね、英語を自分は話せるようになりたいと思ったとき
話すっていうことは、口から何か音を出すっていうことでしょ? 発話ってことだと思うんだけど
まあ人間の体のその物理的な法則として、入れてないものは出せないっていうことだから
じゃあ出したいものがその音であるならば、音を耳から入れておかないと出せないっていうことになるから
音を入れてないと話すのが、話せるかもしれないけど、それは自分が勝手に思い込んでる音であって、それは
ちょっと語弊をね、語弊があるかもしれないけど、きつく言っちゃうとそれはフェイクの英語っていうか
英語じゃない英語を喋ってるみたいなことを、まあ日本人はよくやっちゃうんじゃないかなと思うんだけど、それっていうのはやっぱり聞いてないからじゃないかなと思うのね
聞いてないのに出すってことは、想像で出してるから、それは当たってるかもしれないけど当たってないかもしれないっていうね
ことになっちゃう。ただまあその文脈とか状況とかで、人っていうのはもう勝手にこう言ってるに違いないっていう風に
脳みそが埋めてくれる機能があるから、それによって助けられてるっていうか、こう言ってるんだろうなーみたいな感じで受け取ってもらえるっていうことも
あるかもしれないし、まあそんなこんなで、ちゃんとした発音って言ったら、日本で言うと発音って言ったらアメリカの発音みたいな風に思っちゃうから、またここも語弊があるんだけど
ある程度のその元々の音に近い音で出すっていうのが理想ではあるね。でもただまあちょっと脱線しちゃうけど発音って言ったらね
アメリカ人の発音が一番だみたいな風に思ってるところが日本人は多いのかもしれないけど世界は広いんで
アメリカ英語を使う人がその英語話者の中で果たして何パーセントいるのかっていう数字は私今すぐには出てこないけど
まあかなり少ないんじゃないかと思うよね。だって全世界の英語話者の中でだいたい7割が
ネイティブじゃない人たちが使ってる日常的に使ってるって言われてるからその中でもアメリカって言ったらね
ネイティブだけで3割でしょ。で3割の中でその中でまた分けていくと
イギリスがありカナダがありニュージーランドあってオーストラリアもあってアメリカもあってみたいな
で最近はシンガポールも入れられるかもしれないしインドもそうだよねみたいな風になってくるとまあアメリカの発音が
一体どれほど世界の中でね占めるのかっていう問題もあってアメリカ英語の発音をすっごい押してる
ユーチューバーがいてもう私は彼女に対してものすごいフラストレーションが溜まってて
ウィーってなったことがあるんだけどまあそれはともかくとしてもうそれはどんどんダスにしちゃうからそれはそれとして
で私は何を言ってたかっていうとそうそうそうだからその何
自分が知らない音を入れることの危険性っていうものを私はすごく感じているからそれは多読とかを応援している人たちにも言えると思うんだけど
多読をする時にねその自分が翻訳家になりたいとか発音全く関係ない
あるいは音と全く関係のない世界で生きていく人たちにとっては多読っていうのはいいと思うね
ただまだ英語の音を入れてない段階でしかも話すことを目的としているのに多読をするっていうのはいかがかなっていうのが私の思うところであって
言語習得における順序の重要性
だって音を聞いたこともないのにどんどん読み進めるってことは勝手の発音を自分の頭の中で想像しちゃってるっていうことになるね人間ってあの何かものを読んだりとかしてる時に無意識的に音っていうものも割と意識してるというか
口に出して読んでなくてもなんとなく脳の中でネットワークが作られてるのよねそれってどんな感じの読み方なのかなみたいなこのスペルでね
ブックって書いてあってもこれはあのOOだけどウっていう発音するねなんかなんじゃないかみたいなそういうなんか想像しながら人間って読んだりとかもするから
ねこのブックっていうのはそのBOOTのBOOTってBOOってこう伸ばすんだけどでもブックの場合はBOOKとは言わないっていうのはなんかこう
分かった上で読むのと分かってないので読むのでやっぱ違うでしょだって英語なんて特につづりが同じなのに読み方が違うみたいなことが
すっごいあるもうすっごいデタラメな言語って言ったら語彙があるけどつづりと発音のこの何
えーと規律性のなさよ よくもこれだけデタラメにしましたねっていうくらいバラバラでしょ
書いてるなんとそのまま読まないっていう言語だから日本語は書いてあった通りに読めるからそれで慣れちゃってると
なんかもうえーみたいなイレギュラーありすぎみたいなのが英語だからそれを知らずに読むっていうことは
これは私としてはもう恐ろしいことだなと思ってはいるんだけどでもなんか世の中で多読いいよとかって言うんだけど多読いいかって私は
どっちかと思うっていうかその多読をする時にその発音のだいたいのパターンとかそういうものが身についている人
こう来たらこう来るよねだいたいみたいなそういったものがわかるっていうかまあまあ上級者とか中級者とか上級者になると
音も割と正確にじゃないけどまあまあの感じで体に入っていくこともできるから話すことを目的とした場合でも読むっていうその音なしに読むっていう声もいいのかもしれないけど
まあでもそれにしてもやっぱりなんか話をしたくて学んでるんだったら音なしに学ぶっていうのは私はありえへんって思ってるんで
音は入れてよねーとは思うんだけど やっぱここでやっぱ注意したいのはねその
そうそう一番よろしくないなと思うのがそうやっておいてじゃあ後で音を入れればいいじゃんってなると
なんかtoo late になるんじゃないかなってね何事も遅すぎることはないと思うんだけどでも後で苦労することをなんで最初からやるかねっていうことなんだと思うんですよね
汚れたから洗濯するのはいいけど洗濯してから汚すってどうよって言うね だからどうせやるんだったら順番て重要じゃねって思うわけだからね
英語のその話テーマは順番とでもいいんだけどそういうのを学習の音やり方の 順序の間違いってこれってねー
何なんでしょうか だって
どうせ後でやらないといけないなら最初からやっといた方がいいことってあるでしょ だから順序ってめっちゃ大事だと思うんだけど
脳の危険感知能力
なんで順序が大事かって言ったら繰り返しやっていくからっていうことなんだと 思うんですよね
何か新しいことを私たちが始めようとしている時とか新しいことを覚えたいとか 新しい単語でも何でもいいんだけど新しいものが体に入ってくる時には体っていうのは
新しいやだっていうのがまあこれが普通の まあ言ってみれば感覚というか私たちの体の仕組みね
そういうふうに私たちの脳みそは作られているから 危険なものを察知する能力っていうのがあるからこそ生き延びられてきて
生き延びられる人たちのその遺伝子が受け付けられて 私たちができたっていうことなんでその呑気な人たちはとっくに死んじゃってるから
私たちの脳みそはネガティブって言ったら言葉悪いけど まあ要するにそういう危険を察知する能力がある人たち
そういった人たちが環境に対応できて だからこそ私たちっていう脳が生まれてるっていう
そうじゃない人たちはとっくに死んじゃったみたいなことだから ただ今はそんな危険がないのにそれはまだ残ってるからね
まあそんなねこういうところが入れ替えられる 書き換えられるには相当な時間がかかるんでそれにしては人類の歴史が短すぎる
っていうところだと思うんだけど 恐竜とかね何万年も住んでた
わけだから何万年じゃ聞かないと思うけど なので人間なんてもう本当に通明の赤のくるぷつもないくらいしか生きてないから
まあそれの時間から考えるとまあちょっとね書き換えられるにはまだまだ時間がかかるよっていうところだと思うんだけど
だからこれはもうしょうがないというよりはそれを分かった上でいろいろ私たちは人生に対応していくとか
習慣化の重要性
記憶をするとか勉強するとか 新しいものに対応していくというものが必要になると思うんだけど
そういったなんかこう体がこう一瞬嫌だって 嫌だとまで感じないかもしれないけどなんか来たぜって思う
そこのところを乗り越えるのが習慣化だったりとかすると思うね だからちょっとずつやっていってそしたら体がなんとなくこれ普通なんだねというふうに覚えていって
それが当たり前になるっていうねでこの当たり前っていう単語はいわゆる思い込みとか 固定観念とも言い換えることができて
これってもう体の中に 無意識レベルまではいかないかもしれないけどまあ潜在意識レベルぐらいまでに入ってる
っていうねそういうことになるんだと思うんだけど ここに入っ
一旦入っちゃうと変えるのが難しいっていうことなんだよね だから変える時にまた新しいものをするっていうエネルギーが必要になってくるから
いやだったら最初からいい形で入れりゃいいじゃんということになると思うね 私の昔
昔っていうか あの以前ね空港であの通訳みたいな形で働いてた時に
その時には空港のあらゆるところを歩いて通訳して回るっていう仕事をしてたんだけど そこで
日本料理店で働いている人がいて その人はインドネシア人だかってフィリピンだったか忘れたけど
お寿司を作ってる人なのね 日本で修行してっていう
でねその彼がねあのいつもねその名前をね あの女の人の名前をね
あえーとねカズコはね今いないよカズコはねあっちにいたよとかって言うわけ 私はカズコって誰だっけって思ったんだけど
あカヨコのことねと思ったの で
私はねそこのカヨコちゃんとよく喋っててカヨコちゃんに会いによく行ってたから すぐに彼がカズコはいないよって言ったんだけど
でもそれカヨコじゃんと思って でカヨコのこと言ってんのとかって日本人そこに一人しかいなかったから
カヨコでしょ日本人の女の人はね一人しかいないから カヨコのこと言ってんじゃないのって言ったら
そうそうそうそうそれそれとかって言うわけ いやでも彼女の名前はカヨコだと思ったけど私って言ったらそしたら
うんうんうんだと思うもうでもね僕もカズコって呼んじゃってたからもうね カズコカズコなんだよって言ってもう
彼の中ではカズコになっちゃってて最初に間違えて呼んでたらしいんだけど カヨコちゃんがまたねもう本当に私と全く戦犯対の人間で
間違ってることは間違ってるとかって言わないような人間なのね だから訂正はしなかったんでしょうねおそらくね
カズコって言われてももういいやめんどくさいしみたいな でカヨコちゃんは英語もドイツ語もあんまりできないんですよドイツにすごい長く
住んでるんだけど なのでそんな感じでもうねあの
カヨコちゃんはカズコちゃんになっちゃったのその彼の中では もう時すでに遅しっていうかもう彼はカズコで慣れちゃったからもう引き返せないみたいな
風になっちゃってて だからこれは習慣化されちゃったその名前がね
名前の間違いと習慣
これを戻すのは大変なことになる これを英語の勉強に置き換えてみたらすごいことじゃないですか
思い込んでたらそれ直すのってもう書き換えるのは大変ね 真っ白なキャンバスに書き始めるのは簡単だけど黒くなっちゃったキャンバスに白塗ろうと思った
そら大変だわねっていうそういうことになっちゃうから あーらこれほんと大変話よねって私思っちゃったわけなんですよねだから英語とかにも
それは言えることで だから学校の英語とかを弁護する人も
英会話教師の中にもいるんだけど会話教師ね 話すことを目的とした英語を教えてる人たちでさえ悪くないんじゃねっていう人もいるんだけど
私はとんでもないと話すことを目的としてなかったしあれは 話すことを目的とするならばあれはもう大大大大大失敗
だと思うし まあ文科省的には別に話すことを目的としているようなカルキュラムしてないからまぁそれで
いいんでしょ多分 だけど今ちょっと変えてるからやっぱり話すことを目的にしてたの失敗だったって
いうことを認め始めたっていうことなのかもしれないし まあ文科省といったっていろんな人が働いてて昔の人たちと今の人たちとまた違ったりとか
するかもしれないし誰がトップになるのかとかそういうことで間違ってくると思うから そんな一人がずっとになってるわけじゃないからいろんな攻防があるとか思うし
まあ難しいんだろうなぁと思うけど まあとりあえず個人レベルで自分が対処していける
ものであるならば 順序は大事だよねっていう
この習慣化の このパワーを見くぶってはならないと
だから良い方にも働くし 同時に悪い方にもすっごい働くよねっていうここを
やっぱり見落としてはならない見くぶってはならないなってすごく強く強く強く私は 思うんだなぁ
はいじゃあまたね