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おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、英語のなぜに答える初めての英語史、英語語源ハンドブック、言語学ですっきり解決英語のなぜの著者の堀田隆一です。
去る6月10日、NHK出版新書、英語史で解く英文法の謎、なぜ三単元のSをつけるのかが発売されました。発売前増殺がかかりまして、全国、つつ裏裏にてご好評いただいています。
英語の語源がミニツクラジオヘルディオ、英語史をお茶の間におもっとうに英語の歴史の面白さを伝え、裾野を広げるべく毎朝6時に配信しています。
本日は2026年8月28日金曜日。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
夏休みもそろそろ終わりという8月末に近づいてまいりました。私、相変わらずアイルランドはダブリンにおります。
今日はですね、そのダブリン市内からの話題一つ提供したいと思います。
ダブリンの基金記念像前よりアイルランド大基金が変えた世界の英語と題してお届けいたします。
どうぞお聞きください。
はい、私現在アイルランドダブリンに滞在しておりまして、毎朝雨が降らない限り市内を西から東に流れてアイルランド海へ注ぐリフィ川沿いをですね、ジョギングするのが日課になっているんですね。
今朝はですね、そのランニングの途中で足を止めまして、川沿いのカスタムハウスキーというところでですね、カスタムハウス、非常に壮麗な建築物が建っているんですが、その近くにあります非常に印象的なモニュメントの前に立って収録しております。
いつもはジョギングで通り過ぎるだけなんですが、今日はこれに関係する収録をしようということで、今立ち止まっているところなんですね。
ここダブリンの河口ですね、港もほど近いところなんですけれども、ここに向けてですね、1847年5月のことなんですけれども、ロスコモン県のストロークスタウンという町があるんですが、
ここからですね、1490人もの貧しい戸作農民たちが、約100マイル、165キロもの過酷の道のりを歩かされて、この港まで集まってきたという出来事があるんですね。
これ現在はですね、国の管理のもと、ナショナルファミンウェイ、国立基金道という感じですかね、として記録されている悲劇の道のりなんですね。
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彼らはそこから、港からですね、カナダを目指して、コフィンシップスという官王家船と呼ばれる過酷な移民船に乗り込みました。
これはですね、過酷な大西洋を渡る船旅で、その途中に多くの人々が亡くなったということですね。
病気もあるし、飢餓もあるしということですね。
そこでコフィンシップスなどと揶揄された、そんな名前を付けられた船でですね、渡ってこの飢餓を乗り越えようと、新天地で何とか生きながらえようという、そういうプロジェクトとしてですね、
ストロークスタウンの領主がプロジェクトを組んで、ダブリンまで100マイル歩かせて、そこで船に乗せるというような、そういう飢饉を回避するためのプロジェクトだったわけなんですよね。
1840年代後半にアイルランドを襲ったジャガイモ大飢饉、これはThe Great FamineとかThe Great Potato Famineなどと言われますね。
アイルランド語ではアンゴルタモールと呼ばれているものなんですが、これはもうアイルランド市でですね、決して忘れることのできない大事件、大きな歴史的な出来事だったわけですね。
アイルランド市というよりも、近代ヨーロッパ市場における最大の悲劇の一つであるということは間違いないと思うんですよね。
そしてこれはですね、我々の英語の歴史、英語の歴史にとってもですね、大きな転換点だったと見ることができるんですね。
この溝の災厄がもたらした英語市場の意義、細かく言えばいくつかあると思うんですけれども、大きく分けて私はですね、2つあるのではないかと考えていますね。
まず第一のポイントなんですけれども、アイルランド国内における言語交代、ラングウィッチシフトが劇的に加速したということなんです。
19世紀半ば、この大飢饉が起こる時期ですが、これ以前からですね、もう17世紀、18世紀の流れでですね、イギリス支配、イングランドによるアイルランド支配がだんだん強まってまいりまして、
社会的な圧力によってアイルランド全体が、もともとはアイルランド語というケルト系の言語を母語としていたわけなんですが、
都市部ですね、そして教養相から順に英語化していったんですよね。これが17世紀、18世紀にもだんだんと起こっていたということなんです。
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ただ、西部の農村地帯であるとか、階級としては真ん中から下というのはですね、なかなか英語化せずにアイルランド語をずっと保っていたというのが19世紀の状態なんですね。
アイルランド語を母語として受け継ぐ強固なコミュニティというのがまだまだ健在だったと言えると思うんですね。
ところがこの大飢饉が起こりました。これで真っ先にですね、命を落としたのはその疫病の影響でですね、飢餓に陥ったというのはそもそもが貧しかった人々です。
さらにはこのようなですね、大陸に渡る際に船の中で命を落としたり、あるいは新天地に着いてからもですね、適用できずにやはり亡くなってしまったという方もたくさんいるわけですよね。
これで大きくアイルランドの人口動態が変わってしまったんですね。人口がそもそも少なくなったということもありますし、要するにアイルランド母語話者という全体として貧しい農村部の人々がとりわけダメージを受けたり、あるいは国を去ったということなので、アイルランド国内でのアイルランド語の存在感というのが薄まったということなんですよね。
さらにそのような人々は子どもを残さないで亡くなっていったということで、アイルランド語の世代継承ですね、これも断ち切られてしまったということで、相対的に英語へのシフトが一気に決定づけられたという、そういうことだと思うんですよね。
そして2点目なんですけれども、多くのアイルランド母語話者が母語を英語に乗り換えるという言語交代、ラングウィッチシフトが起こったときに、これは元の基礎言語、アイルランド語の発音、語法、文法などを英語の上に持ち込んだということなんですね。
これは言語交代が起こるときに観察される典型的な基礎言語の影響というものですね。これが今のアイルランドで話される英語、つまりイングリッシュですよね、アイルランド英語の中に多く残されているわけですよね。
もちろんこの19世紀後半の大規権が直接の引き金かというと、それ以前からもですね、ラングウィッチシフトは緩やかに進んでいたわけなんですが、一つの大きな転機として、この大規権1840年代というのは象徴的に捉えられるのではないかということですね。
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要するにアイルランド英語がいわば形成されて確立されていく過程のとても重要なポイントだったという、そういう点で英語史上意義があるということですね。
ここまでで2点しゃべったんですが、これを1つ大きく括って、1つアイルランド国内における英語へのシフト、そしてアイルランド英語の確立というふうに、大きくアイルランド国内における英語史的意義として、これを1と数えると、
次のもう1つの2はですね、外の話なんですけれども、特にアメリカ英語への影響という話ですね。アイルランド英語がアメリカ英語に及ぼした影響ということなんですけれども、
基金から逃れるために何百万人ものアイルランド系移民が世界に散っていった。取り分けアメリカやカナダが多かったわけなんですが、そこで各地でコミュニティを作っていったわけですよね。
彼らが持ち込んだのはアイルランド英語だったりしますね。その後も移民がどんどんとアイルランドからやってきますので、1840年代後半というのは1つの画期的なポイントだったんですが、その後も継続して移民がアイルランドからやってくるということになりましたね。
そのアイルランド英語の独特な語彙や語法、発音というのは、新天地の英語の中にも浸透していったものがあります。
19世紀半ば以降のアメリカ英語の形成において、この移民がどのように振る舞ったか、移民が話していた英語編集がアメリカ英語にどのような影響を与えたのかというのは、
アイルランド系のみならず、スコットランド系であるとか、その他旧大陸のどのような人々がアメリカに渡って、そして英語を話したのか、話すようになったのかという点で、アメリカ英語の歴史はその意味では移民史と関連するわけですよね。
その一つの大きな要因、コミュニティとしてアイルランド系移民がいるということですね。
では、具体的にどんな項目がアイルランド英語の影響によりアメリカ英語へもたらされたかというとですね、これはいくつかの項目が挙げられておりまして、これ一つ一つはですね、精密に検証する必要はあるかと思うんですけれども、
例えばですね、これまで私がブログ等でも取り上げてきたことがあるんですが、助動詞のwillとshallの使い分けをめぐる英米の違いっていうのがあるんですよね。
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この背景にも、もしかするとアイルランド移民の流入が関わっていたのではないかという議論もあったりします。
このようにいくつかの語法がですね、アイルランド英語由来とおぼしきものとしてアメリカ英語の中に残っているんですが、一つ一つは検証の余地あるかとは思いますね。
ただポテンシャルとして、このジャガイモ大基金によって大量のアイルランド系移民がアメリカに渡ったことと、その後のアメリカ英語の一部ですけれども、ある種の語法であるとか言語項目がですね、影響を受けたということはですね、
時代に鑑みて社会情勢に鑑みてあり得ることだろうというのが見立てなんですね。
さあこのようにですね、ジャガイモ大基金がもたらした英語への影響、英語史上の意義というものを考えてみました。
この大基金ですね、表面上はジャガイモの病気ということですので、これはもういかんともしがたい天才として語られることがあるわけなんですが、
しかし実態はですね、人才的な側面かなり大きいと思うんですよね。
イギリス統治下の作種構造が生み出した人才という側面ですね。
17世紀以来、ジェームズ1世がですね、本格的にイングランド人やスコットランド人をですね、アイルランドに植民させた、特に北部が多かったわけなんですけれども、
そして影響力、支配力を強めていったというのが17、8世紀だったんですね。
その流れの中で、アイルランド等の東部の比較的ひよくなエリアはですね、イギリスが削除した、集脱したということなんですね。
そこで西に追いやられた本来のアイルランド人たち、アイルランド語を母語とするたちは、地味の乏しいエリアにおいて農作しなければならなくなって、
そのような土地で栽培できるのは、新たに新大陸からもたらされていたジャガイモくらいしかなかったということで、モノカルチャーになってしまっていたんですね。
ジャガイモ依存ということだったので、これが壊滅的な打撃を受けるとですね、他のヨーロッパの各地でこのジャガイモの危機は起こったわけですけれども、
疫病は流行ったわけですけれども、とりわけこのモノカルチャー、ジャガイモオンリーでやってきたアイルランド西部の農民たち、
貧しい農民たちが壊滅的なダメージを受けたという側面があるんですね。
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なのでこれは数世紀にわたるイギリスのアイルランド政策がもたらしたその組織の上に疫病が乗っかったと考えると、
人災の側面が強いというふうにも考えられるわけですよね。
このように言葉の歴史というのはですね、文法規則の変化を追うだけでは決して見えてこないんですね。
内面史だけでは見えてこない、外面史を考える必要があるということなんですね。
人々の移動、ここには移動と一言で言ってもですね、背後には略奪があったり、
襲奪があったり、さらには強制的に港まで100マイル歩かせて、そして港を出て新天地に送り出すというようなプロジェクトも含めてなんですけれども、
単に移動、移民と言ってもですね、背景は様々です。
それから社会の激変、そしてもちろん天災という側面もありますよね。
このようにあまりにもですね、振り返ってみると過酷な歴史的出来事、悲劇がアイルランド語であるとか、アイルランド英語の運命を大きく動かしてきた。
そして今の私たちが学ぶ英語の姿を、英語の一部の姿を作り出してきたということなんですね。
ダブリンのリフィ川沿い、悲痛な表情で歩く貴金記念像ですね。
写真を貼り付けました。また関連するホームページも貼り付けましたので、ぜひですね、この貴金について学んでみていただければと思います。
ここと英語という言語が背負ってきた歴史、これが関わっているということなんですね。
今日はそんな英語の歴史と社会の歴史、この関わりについてお話しいたしました。
エンディングです。
今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
ダブリンの貴金記念像前よりお届けいたしました。
この160キロですか、100マイルほどですね、西の方にあるロスコモン県のストロークスタウンですかね。
ここ行ってみたいなと思っておりまして、そちらはそちらでですね、また記念像や博物館みたいなものですかね、何かあるようなんですよね。
機会があればアイルランド滞在中にですね、そちらの方も訪れてみたいなあなどと思っております。
さあ絶賛発売中新刊書に関しまして、なぜ3単元目撃マップ企画を展開中です。
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全国のリアル書店で本書を見つけましたら、なぜ3単元が置いてありましたよとお知らせください。
街と書店の名前を添えていただきますと、私がGoogleマップにピンを立てていきます。
日本地図をなぜ3単元で埋めていき、英語史をお茶の間に広めていきたいというのが企画の趣旨です。
毎日コメント欄より皆さんのご報告をお待ちしています。
また、独立された方はAmazonレビューなど各種のプラットフォームで本書のレビューやご感想もお寄せください。
それでは今日も皆さんにとって良い一日になりますように、英語史研究者のホッタリウイチがお届けしました。
また明日!