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こんにちは、うにかわです。
【うにしそ】とは、うにかわが普段思ってはいるけれど、
ひそつよ放送局本編では取り上げるほどではないことを、
一人で好き勝手にしゃべる番組です。
それでは参りましょう。
6回目の【うにしそ】を改めまして、
今日も元気なうにかわです。
皆さん、会話の三大タブーって知ってますか?
それは、政治と宗教、そして野球と言われています。
これらの話題は、喧嘩に発展しやすく、
特に初対面の相手とはするべきではない、ということだそうです。
これがね、いつから言われ始めたのかというと、
古くは1952年の文献の中で、
河合俊彦さんという方が、
とかく議論のもとになりやすい、政治と宗教に関わる話は絶対にしてはなりません、
とセールスマンの心得として述べていたそうです。
そこにね、いつしか野球も加わるようになって、今に至る、
ということのようなんですけれども、
政治や宗教に比べると野球はいかがか、
俗っぽい印象なので、そこが同居しているのがとても面白いですね。
重い話題から身近な話題、かなり広い範囲において、
個人的な主義主張に関わる話を避けることで、
穏便な人間関係を築こうという国民性のようなものが感じられます。
それに対してね、
私卒予報総局はあえて、
やれカツ丼が許せないだとか、
かき揚げは油の暴力だとか、
甘いカレーは本質の喪失だとか、
シュウマエは煩悩だとか、
崖の上のポニョはバッドエンドだとか、
まあ波風が立つような個人的なこだわりを、
あえて小裸に発信していますね。
こんな番組を聞いてくださる方々、
その上、感想ポストやお便りまでくださる方々の
優しさによって成り立っている番組です。
本当にありがとうございます。
政治といえば、日本では最近、
各政党の代表選挙が立て続けに行われていましたね。
その結果について、SNS上では案の定、
わちゃわちゃと言っているわけですけれども、
自分の周りの現実社会、リアルでは、
確かにあまりその話は具体的にされていないかなと感じます。
一方、アメリカの大統領選挙の様子なんかを見ていると、
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国民一人一人が支持政党を隠さず、
綺麗に赤と青に二分されている様子が見られますね。
時には隣の家同士で赤い共和党の看板と
青い民主党の看板を出したりしていて、
バリ雑言浴びせあって、
中指立てたりしちゃってね。
こんな争って大丈夫なんかいなと思ったりしますけれども、
そこはやはり個人主義の国民性のなせる技なのか、
何なのか、ユナイテッドの名の下に一つの国として、
他民族国家の形を保っているみたいなんですよね。
面白い。
日本でもアメリカのように、
支持政党だったり、個人的な主義主張を明確に表明した上で、
生活した方が活発な議論が行われていいんでしょうかね。
どうなんでしょう。
ただXでの様子を見ていると、
争っている場面が結構目についてしまうので、
果たしてそんなことができるのかなと、
少し不安に思ってしまいます。
少し話題はそれるんですが、
私は海外ではこれが一般的、
故に日本は遅れているという論法があまり好きではなくて、
なぜかというと、
結構ご都合主義的に使われているんじゃないかなという気がするんですよね。
自分の主義主張に海外の事例が一致する時に、
そういう風な使われ方をしている気がして、
あとは海外ってどこ?とも思いますね。
その海外っていうのはアメリカなのかヨーロッパなのか、
ヨーロッパといっても、
EU諸国共通の事例のことを言っているのか、
でもイギリスってブレグジットしたよね、とかね。
あとはその世界って、じゃあアジアとかアフリカとか、
オセアニアとか南米ロシアなんかも含めた世界なんですか?
と突っ込みたくなってしまうわけです。
つまり何が言いたいかというと、
海外ではこれが一般的論法は主語でかすぎやしないかい?
と思うわけです。
それぞれの国や地域には特有の文脈があるわけですから、
その文脈っていうのは歴史的な背景であったり、
習慣であったり、
また物事には必ず表と裏、功と罪、
作用と副作用、メリット・デメリットがあるわけで、
それらをしっかり踏まえた議論をしないと、
必ずどこかで無理が生じてしまうんじゃないかなと思うんですよね。
そういう意味で世界は進んでいて、
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日本が遅れているんだという構造自体が、
果たして自明のものなのかなと。
必ずあなたの言う世界とやらが進んでいて、
日本のやり方が遅れていると言えるのでしょうかと、
いうふうに思うわけです。
もちろんこれは日本だけの話じゃなくて、
他の国に置き換えてもいいですし、
今の日本のあらゆる制度がいいなんて、
とても思ってはいないんですけれども、
さらに言うと別にウニカーは保守論客でも何でもないんですけれども、
特に文化的な側面で何か現状を変更しようという運動をするときに、
海外ではこれが一般的、
故に日本は遅れているという論を展開されたときには、
ちょっと慎重にならなければならないなと思っています。
マユツバというやつですね。
海外というよりもその事例を持つ国の背景要因を
丁寧に参照して、
その方法がうまくいっている要因や、
その中で生じている副作用なんかを明らかにした上で、
それが自分の国にも適用可能なものなのかというものを
検討しなければならないのではないかという問題提起をしたいわけです。
もし最初の理屈が通るのであれば、
これはあくまでも試行実験のようなものなんですけれども、
地球政府のようなものが地球ルールを作って、
世界を統一すれば良いということになってしまうんじゃないかなと。
でも、そうなったときに、
それぞれの国は、いやいや、うちの国はこうなんだからとか、
うちの国の宗教はこれなんだからとか、
ローカルな要因に寄り添った制度作りを求めると思うんですよね。
そのローカルな要因も踏まえながら、
他国を参考にするということには大賛成です。
というよりも、他国の政策を釈要するときには、議論の段階で、
そのような検証プロセスを踏まねばならないと思うのです。
さて、じゃあ、日本もアメリカのように、
日頃自分の主義主張をオープンにした方が良いのかどうかということに話を戻すと、
それが可能な環境を作っていくことが重要なんじゃないかなと考えます。
主義主張をオープンにすることで、
活発な議論が生まれて、より良い社会になることが理想的ではあるんです。
それこそ、民主主義の本質であるはず。
でも、今、日本では、
その一つの機欠としての分断を避けるために、
自然と主義主張をオープンにしないような社会になってきたのかもしれない。
あえて主張をオープンにせず、
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ナーナーにすることで分断を避けているのではないかなと思います。
そう思うのは、X上でも、現実上の政策論争とかでも、
異なる意見や考え方を持つ人に対して、
完全に対立しちゃって、
お互いに人として嫌いになっちゃってるんじゃないかなと、
見受けられる場面が多々あるからです。
ただ、意見が違うだけなのに、
相手の人間性まで否定して、
敵認定みたいなものをしてしまってるんじゃないかなと、
ここで私が好きな言葉を二つほど引用しますが、
一つは、「私はあなたの意見には反対だが、
あなたがそれを主張する権利はあくまで擁護する。」というものです。
これはフランスの哲学者ボルテールの言葉ですね。
もう一つは、「我々と同じ意見を言う自由ではなく、
我々が意味嫌う意見に自由を認めることが、
何より重要なのである。」というものです。
これはアメリカ最高裁判事ホームズの言葉です。
もしかしたら、先に例に出したアメリカなんかでは、
他民族国家だからこそ、
この辺りの表現の自由の意識が根付いているのかもしれませんね。
異なる意見を相互に受け入れるコンセンサスが取れている。
だから、自分の主義主張を安心して表現できる。
我々は、意見が違う人がいるのは当然で、
でも、違う意見の人まで嫌う必要はない。
という基本的なことを忘れてしまっていないかい、と少し思います。
日本でも多様性を受け入れていこうということの大切さが、
ようやく注目を集めていますが、
本質的にそれを可能にしていくためには、
このような議論の土壌を醸成していくことが重要なんだろうなと思います。
世に言うX状での炎上も、明らかに社会正義に反するものであれば、
仕方ないかなとも思うのですが、
単に自分と異なる意見を批判とともに引用して、
それを拡散して炎上させようだとか、
それによって相手を打ちまかそうだとか、
言論を封殺しようだとか、
そういった動きは良くないんじゃないかなと、
これ結構見かけますよね。
意見を発することも、それに対して反対意見をぶつけることも、
もちろん全く悪くないと思うんですけれども、
その時には相互に異なる相手の意見を受け入れる、
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余白を準備しておかないといけないんじゃないかなと、
これが今日の配信で言い残しておきたかったことです。
余白。
その余白は、相手の意見を踏まえて自分の考えを改める。
改めるとまでいかなくても、
調整するために必要な余白ですから。
そういった余白を持ったコミュニケーションや議論こそが大切で、
自分がボールを投げるなら、
相手のボールも受け止められるように、
ちゃんとグローブを構えておかなきゃいけない。
特に対立しがちな強い意見、
つまり強速球を投げるのであればなおさらです。
自分が投げられるのが嫌なぐらいの強速球を、
グローブも準備せずに相手には放っているんじゃないかと。
自分が強速球を投げるのなら、
相手に強速球を投げられても大丈夫なようにしておかないといけない。
ちゃんとグローブを構えないといけない。
このグローブが自分が持っていたい余白ですね。
自分の主義主張を表明しよう、
良い議論をしようという時に、
どうしても人って、
意見の発信に注目してしまうと思うんですよね。
それこそ、火の打ち所がない、
完璧な意見を作って発信しなきゃいけないみたいな。
論破されるのが怖いみたいな。
でもそうじゃないはずなんです。
完璧な意見なんてありませんから、
大切なのは、相手の意見を論破するのではなくて、
受け入れる余白を持っておくことだと思うんです。
つまり、発信の方法ではなくて受信の方法。
ここが大事なんじゃないかなと。
そして、自分の意見は不完全だと。
これから磨いていく必要があるものだと。
時に相手の意見を受け入れて変えなければいけないと。
そういった謙虚な姿勢で議論に臨むこと。
相互にその余白を持っていることが、
議論を成立させる必要条件なのではないでしょうか。
そういった相手を尊重したコミュニケーションや議論をしないと、
いい社会って作れないんじゃないかなって思うんです。
こと、宗教の話をすれば、
そもそも日本はキリスト教徒じゃないのに、
キリスト生誕のお祝いができる国ですからね。
もともとそういった余白ってあるはずなんですよ。
昨年ヒットしたドラマ、ビバン。
役所工事が演じるべき、のごんべきのセリフが、
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私は結構印象に残っていて。
どんなセリフだったかというと、
日本では古くからありとあらゆるものに神が宿っていると考えられてきた。
神は一つではないという考えがあることで、
相手の宗教にも理解を示し、違いを越えて結婚もする。
日本には考えの違う相手を尊重する美徳があるというものです。
役所工事さん渋くてかっこいいですよね。
同じセリフ言っているのに、全然なんか重みが違いますね。
ドラマでは、現在ではこれが失われてしまっているのではないかという継承を習っていたのかなと。
原作と演出を務めた福沢勝夫さんが作品に込めたメッセージはこれなんじゃないかなと解釈しているんですけれども。
あと同作では、坂井雅人さん演じる乃木雄介がバルカ共和国で囲まってもらった建物の中で、
神様に完璧な作法で礼拝するというシーンがあって、
それを見た現地の人が不思議そうに、
なんで日本人でイスラム教徒でもないのにそんなことができるんだみたいな、
そういったシーンが描かれていましたね。
やはり特定の原理主義に陥らず、多様な考えを受け入れる余白を持つことが大切なのではないかと考えさせられます。
本当はこんな真面目な話をする予定では今回なかったんです。
そもそもポッドキャスト番組卒業放送局では、政治のようなヘビーな話は極力避けて、
皆さんの明日の話題になるような、ライトで楽しい非卒業トークをするという方針があります。
とはいえ、こうやって考えてみると、
非卒業放送局はリスナー改め、局員の皆さんの優しさ、
言い換えると余白に支えられているんだなぁと実感します。
とはいえ、あまり難しい問題に深入りしすぎても、
局長のお持ちさんにお蔵入り認定をされてしまうかもしれないので、
この話題はこの辺にしておきましょう。
実は今回は、私、ウニカワが職場で経験した修羅場についてちょっと語ろうと思っていたんですよ。
ほんのり政治の話題に触れたのも、以前職場の派閥争いに巻き込まれた辛い経験がありまして、
今回の自民党の総裁選も派閥の影響があったのかなかったのか、みたいな話題がありますけれども、
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その様子を見て、派閥に苦しめられた十何年か前の苦い経験を思い出してしまって、
でも今ならもう笑い話だなということで、ウニヒソで成仏させようとしたんです。
ところが、イントロのつもりだった話がちょっと盛り上がってしまって、本体になってしまいました。
私が以前の職場で経験した派閥地獄についてのお話は、また次回のウニヒソで披露しようかなと思います。
また次回もぜひ聞いてみてくださいね。
あと、今回初めてひとつよ放送局を聞いてくださった方、
普段はもっとしょうもないことを話しているので、これに懲りずに他の回も聞いてみていただけると嬉しいです。
ひとつよ放送局では番組への感想やお便りをお待ちしています。
お便りは概要欄から。
感想はハッシュタグひとつよまたはハッシュタグウニヒソでお願いします。
皆さんが世の中に物申したいことについても聞かせてください。
ウニカワも一緒に考えたいと思います。
その他ウニカワに語ってほしいテーマもお待ちしています。
それでは6回目のウニヒソ、ここまで聞いていただいてありがとうございました。
今回はこの辺で失礼します。