今聞いたら、パソコンの中のデータを触るっていうのは、
パソコンの中のデータも、もはやそれも記号じゃないかっていう、
考えもありそうだけど、
確かに設置っぽいことをしてるね。
今我々が読んでいるフローの本の中でさ、
意識に昇ってくる情報と、
昇ってこない情報みたいな話が出てくるけどさ、
結局我々もその意識っていう、
ある種のユーザーインターフェースみたいなものを
介してしか世界のことを認知できないわけじゃない。
なるほど。
つまり手で触った情報っていうのがさ、
手で触れているということはすごく、
フィジカルな出来事のように見えているけど、
手から入ってくる信号っていうものが、
脳によって処理されて、
それが意識に昇ったり、昇ってこなかったりする。
ある意味では、我々も、
私というものの所在地をね、
どこに置くかによってちょっと変わると思うけど、
仮にこの脳みたいなところの中に、
ある種この私の自己認知の核みたいなものが、
あるのだとしたら、
我々も実はこの、
手とかさ、目とかさ、
っていうのも、
私の外部だっていうことができるんじゃないかっていう、
結構SFチックな発想ができると思ったのよ。
だから芯の設置は得られないってことね、
いつまでたっても。
そうそうそう。だから僕らも実は、
シナプスの発火しか設置してないっていう言い方もできると思う。
だから面白いね。
だから記号と設置っていうのは、
もうスペクトラムだって話か。
そうそう。その通りその通り。
記号と設置は明確なとこはないと。
素晴らしい言語か。
なるほどなるほど。
そうそう。
ヒラリーパトナムの水槽の中の脳みたいなさ、
マトリックスのさ、
元になった脳だけ切り取ってさ、
脳がさ、いろんな電極で持って、
バーチャルリアリティに繋がれてるみたいな状態で、
人間が世界を体験してるってなった時に、
それと実際の我々の経験と何が違うの?
みたいな試行実験があったの。
それを考えるとさ、
つまりマトリックスみたいに、
人間の体をどっかさ、
生理食物の中につけられてて、
脳にプラグを刺してさ、ある世界を経験してますと、
なった時に、
その人の脳が、
意識の中に登ってきてる体験というのは、
実際に経験したことと、
より二つなわけだよね。
その時とほぼ同じようなさ、
脳派の状態になっていれば、
同じことを経験してるように感じるかもしれない。
脳派だけ。
昔の特集で扱った夏目漱石の脳が、
もしかしたら、
まだ文章考えてるかもしれないって話。
そうそうそう。
そうなってくると、
仮に脳が、
私という自我の座だとすると、
その脳だけを取り出して、
脳とそれ以外の間の
インターフェースみたいなことを考えていくと、
やっぱり設置してるかどうかみたいなことが、
実は本質的な業務じゃないんじゃないかみたいな。
そういう話になってくると、
僕はむしろエキサイティングだなと思って。
起動設置問題が根本から覆された。
そうそうそう。
別にいらなくないその問題っていう。
全部同じだったから。
そうそう。
設置するって言ってるもののさ、
経験の領域みたいなやつが、
結構ドラスティックに変わる可能性があるんじゃないかなと思うと、
なるほどね。
僕は結構ワクワクしていて、
なんか意外と、
すげえことになるんじゃないかなみたいなことを
ちょっと思ったりをしましたね。
別に人間の存在を脅かすとは全く思ってなくて、
まずは起動設置問題が、
AIと人間を分けて減らせているものだと思っていたけれど、
実はそれは本質じゃなかったってなるかもしれないよねみたいな。
そこに対するなんか面白みがあるなっていうことをちょっと思っちゃいましたね。
人間にできることは、
設置したって思うことじゃない?
コンピューターは設置したってことをさ、
それこそ理解できないわけじゃん。
そうね。
だからなんかもしかしたら、
起動設置問題で結構我々は盛り上がってたけど、
むしろこの、
今回の不老体験の本とかを読むにつけても、
なんかその、
自己言及というか、
自己意識に対するなんか、
統制感みたいなやつあるじゃん。
なんか出てくるじゃん。
なんかそっちの方が結構、
人間らしさ作ってるくない?みたいな。
そうなんだよね。
あるかもしれない。
だからつまりその自分に対して、
なんかこっち行けって、
自分自身で命令するみたいな、
ある種のなんていうの、
事故の中でのループみたいなものが発生するね。
なんだっけ、
自分と意識の間がさ、
自分と注意が円環状になってるみたいな。
注意が自分を作るんだけど、
その自分がまた注意の方向先を決めるみたいな。
どっちが始め、
ニワタマ状態だよみたいな。
そういう言及があったと思うけど、
結構なんかそのサイクルを持っているということの方が、
もしかしたら人間とAIを隔てているものに近いかもしれない。
そうだね。
結局AIはフローには入れませんってことだね。
一言で言うと。
まあそうだね。
入れないでしょ。
フローは入れないでしょ。
いやわかんないよ。
だから今のAIが定時のAIだとすると、
後時のAIにおいてはさ、
フロー状態に入れなくて、
こっちがいいかな、あっちがいいかなって悩むAIとか出てくるかもしれない。
ああ、なるほど。
むしろ今のAIの方がフローしてるんだよ多分。
命令がシンプルだから。
ああ、なるほど。
っていう言い方もできるかもしれない。
コマンドが、プロンプトがあれば、
プロンプトがあるし目指すべき目標で、
そこに対して進捗の際、
自分で自己フィードバックしながら前に進んでいるとすると、
めっちゃフローしてるじゃんAIみたいな。
なるほどね。
まあただその経験をするっていうんですよ。
最適経験を積むっていうのがフローだとしたらさ。
そうだね。
AIが経験っていうものができない、
まあそれもわからないけど。
それを何を主体とするかみたいな話もあるかもしれない。
哲学的ゾンビじゃん、AIってある意味。
そうだね。
哲学的ゾンビ、あの人が哲学的ゾンビではない証明をするって結構むずいじゃんみたいな話題が出てきてると思うけど、
その問題に我々はどっかでぶち当たる気がするよね。
まあ確かに。
そっかだからAIは最終的にもう、
哲学的ゾンビを目指してるというか、
AIの行き着く先が哲学的ゾンビじゃない?
そうだね。究極的な哲学的ゾンビであることが最も価値が高い状態なんだよね、AIにとっては多分。
まあ哲学的ゾンビ知らない人のためにこう説明しとくと、
ミンティは今俺と喋ってるけど、
俺と喋れる高精度なAIで何も考えてない可能性があるっていう状態ね。
だからミンティが、自分以外の人間は全員哲学的ゾンビの可能性がありますよっていうことをね。
そうそう。主観的経験が全くない機械かもしれないって思考実験だよね。
そこで私は主観的経験がみんなにとって自明なものでしょうみたいなことを、
なんとなくみんな心の中で信じてるけどそれって本当なの?っていう疑いを持ったときに、
意外とどうだろうってなっちゃうみたいな、そういう主観的経験が哲学的ゾンビだよね。
そうなってくるとだからAIと自分って何が違うんだって話になってくるわけね。
そうだよね。AIはなんとなく人間が作ったし、人間がその中のメカニズムを調整できるから、
まあまあ別にゾンビでもよくねってゾンビだよねって思ってるけど、
人間が作ろうが何だろうがアーティフィシャルだろうがそうじゃなかろうが、
ゾンビじゃなくなる可能性だって全然あり得るじゃんってこともできるかもしれないと。
AIが哲学的ゾンビと化したときそこに感情は芽生えるかみたいなところを実験してみたいね。
感情って何なんだろうねって話だよね。