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クマ問題から考える、「自然との共生」は誰が担うのか──SDGs・里山・内山節
2026-07-08 58:46

クマ問題から考える、「自然との共生」は誰が担うのか──SDGs・里山・内山節

今回は、全国で深刻化しているクマの出没・人身被害を入口に、「自然との共生」とは誰が担うものなのかを話しました。

【今回話したこと】

  • 全国で深刻化するクマ問題
  • 「自然保護か駆除か」では捉えきれない問題
  • SDGs的な自然観の有効性と限界
  • 内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の話

自然との共生とは、自然と一体化することではなく、自然との距離を測り、境界を維持し、その責任を共同で引き受けることなのではないか。

そんな感じの話をしています。

【バグキャストについて】

『バグキャスト』は、音楽家・鈴木とプログラマー・伊藤が、音楽、プログラミング、カルチャー、映画、最近読んだ本などについて話すポッドキャストです。

さまざまな話題がゆるやかにつながっていく、総合誌のような番組を目指しています。

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はい、えー、こんにちは。バグキャストです。 この番組は、音楽家の鈴木とプログラマーの伊藤が、社会や文化について気になったことを調べたり──
面白がったりしながら話すポッドキャストです。 毎回一つのテーマを入り口に、そこから話をあちこちに広げていきます。
今回はバグキャスト第14回です。やいや伊藤さん。 何でしょ?大河くん。
あれ、こんなあれだったっけ?テープレコーダーみたいな。
いや、あのね、思い出した。これをね、必要だと思ってね。 すごいオープニングの前工場を入れたのを思い出しました。
あー、ちょっとびっくりした。 俺もね。 一息でずーっと言ってるから。
そうなんですよ。これね、あの他のポッドキャスト聞くとね、みんなやってるからね。 そうですよね。なんかやろうねって言ってたのは覚えてるんですけど。
熊が来てます。 ゲストに。 いやじゃなくて、あの熊問題ですよ。
よく聞く気はしますね。 あれどうですか?熊問題ニュースで見てます?
ニュースでよく見るなっていうのと、あとうちは両親の田舎は山形でして、山の上の方で。
確か噂では、ひいひいじいちゃんぐらいは熊に殺されてたかな。 マジで?それはもちろん最近の話じゃなくて。
僕も全然生まれる前とかだけど、漁師だったりして普通に熊と命がけの戦いをしてた文化があるような土地ではあるんで、やっぱり熊問題。
話題になりますね。 なんか来てるらしい。 熊の通った跡が見つかったから危険だみたいな。
そういうのが放送されたりとか。
いや、その熊問題、もう社会問題化してるじゃないですか。今日本だと。 それがきっかけで最近ね、日本における自然保護思想の歴史についてね、僕調べてたんですよ。
それ熊来てるなーと思って。 そう。
いや、ちょっと問題意識は僕なりにあったんですけど、それでね、その関連で見つけた内山説という哲学者が書いた
日本人はなぜ狐に騙されなくなったのかっていうですね、2007年にね、抗断者新書から出ている新書があって、これね面白かったのでね、今日はこの本をね
紹介したいみたいな感じの回になりますね。 だからそんなこんなで今回のテーマはですね、熊問題から考える
自然との共生は誰が担うのかというテーマを話してみたい。 ちょっとね俺ね自分でねびっくりしたんだけど
すごくないですかこれ。自然との共生は誰が担うのかっていう真面目すぎるテーマ。 まあそうだねー
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熊問題をきっかけにね。 そう。 いや、あのね熊問題についてはね
僕ねちょっとやっぱり喋りたかった。 あるんだ。そう。一加減。そう。まあとにかくなんか俺はとにかく喋りたいことがいっぱいあるんですよ。
そうだよね。そうそう。 いやそうあのちょっと話先に出ちゃうかもしれないけど、毎回ねあのこれ収録終わった後に
次の収録どうしようかみたいな。どんな話題ある?って言われて、なんか伊藤しゃべりたいことある?って言われるわけ。
で、なんか考えなきゃいけないのかなって最初思ってたんだけど、なんもないんだよねって言ったら、大我がいいよ俺用意しとくからっていつも言ってくれて。
で、いつもPDFで10枚以上のね資料をこう今直前に渡されるわけですよ。 そうするとうわっ楽しそうだぞ今回もみたいな感じで
うん。 そう用意してくれてるからね。まあねあのこんなすごいテーマを出してるけど、僕別になんかの専門家じゃないし、自分で素人で
記事を探して本を読んで語ってるだけの男だと思っておいてほしいんですけど、一応結構考えてきたって感じですね。
でね、まずね熊問題について前提としてまず日本では今何が起きているのかっていうことをちょっとまとめておきたいんですけど。
話は聞くけど。 まあえーとね全国的に熊による人身被害がかなり深刻化していると。環境省の速報っていうのがまあずっとあって
2025年度の熊による人身被害は216件だそうです。 238人死亡13人らしいですね。 13人亡くなっているんだ。
少なくとも近年では非常に重い水準らしいですね。 特に秋田、岩手、福島など東北で被害が集中していると。
環境省の表でも2025年度秋田67人、岩手40人、福島24人と大きな数字になっていっていると
いうところですね。まあでもそうねやっぱり日増えているってことなんですね。 出没件数もすごく増えててソーシャルポータルっていうサイトがあってですね
その記事によると2025年度の全国の熊出没件数は北海道、九州、沖縄を除くらしいんですけども
ここには熊が基本的にはいないみたいなんですけど。 5801件
5801件ってさ、365件で割るとすごいめっちゃ出没してるってことですよね。
そうだね。 人的被害だと216件とかなんだけど出没自体は。
150件ぐらいもっとかは出没が確認されていると。 まあそんなことがになっているらしいですね。
で問題の背景はいくつか要因があって単純に熊が凶暴化したみたいな話じゃないらしいんですよ。
まあ当たり前だけど。 突然凶暴化しましたってことではなくて。
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人口減少とか高齢化による里山管理の弱体化、放任果樹園、農作物の誘引物、
山林と人里の境界の曖昧化、あと個体数の分布の変化、
どんぐり類などの餌資源の都市変動が重なっていると見た方がいいだろうと。
国の対策もその理解に沿っていって環状体整備、電気策、放任果樹の管理、
箱罠って何か罠なんでしょうけどね。ICTドローン活用などを掲げていると
いうことらしいですね。 放任果樹っていうのはだからもう打ち捨てられちゃった。 そうそうそう。柿抜きとかああいうものに来ちゃうんだって。
確かに来ちゃうか。 だからそのため国の政策も踏み込んできてて、2024年にはヒグマ付きのアグマが四国の個体群を除いて指定管理長寿に指定され、
捕獲管理を国の支援対象として強化できる6組に入ったと。 さらに2025年にはクマ被害対策パッケージ。
26年には2030年度までのクマ被害対策ロードマップ。 これねあの感じなんだ。
そうそうあのもう観光省のホームページで見れるのでこれを見るといいと思うんですけどね。
出没時の緊急対応とか人の生活権への出没防止、個体数管理みたいなことを国自治体で進めていく方針が示されていると。
もう行政がしっかり考えなきゃいけないレベルの事態だってことなんだね。 そうそうもうかなり動いているみたいな感じですね。
でね我々が住んでいる、我々は東京に住んでいるわけですけども、東京にもねツキノアグマがいるらしいんですよ。
出没中心地はね奥多摩町、日野原村、青梅市、秋留野市、日野出町、八王子。
まあ多摩地域の産地産録には結構いるみたいですね。 東京都の推定で都内のツキノアグマは120から378棟。
大体235棟くらいじゃないかな。 生息密度は1kmあたり4.7棟。
東京全体で割っているってことだよね。 だよねだからそう考えると結構いるよね。
地域だけに限ったら結構ね、ギュッと集まっている感じがする。 そうそうそうそう。
まあ東京都は調査方法の違いから単純な可燃度比較はできないんだと。 確かに。専門家や市町村への聞き取りなども不満で、都内の個体数は増加傾向にあると考えられている。
らしいですね。 平均235棟が多いか少ないかっていうのもねイメージがつかないね。
一応人参以外は東北のように多数の被災者が出ているわけではないんですけど東京はね。
だけどまあリスクが軽いという意味でもないんじゃないかということを考えられますよね。 だからまあ
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例えば高尾山とか行って、高尾山ぐらい人がいたら出ないかもしれないけど、なんか東京のねちょっと西の山地の方に行って遭遇しちゃうっていう危険性は十分にあるだろうと。
で、象徴的なのが東京都が長く続けてきた狩猟禁止の扱いを見直そうとしていることっていうのがあるみたいです。
東京都は月のワグマ保護のため2008年4月から八王子市、大目市、秋留野市、日野出町、日野原村、奥多摩町で狩猟による捕獲を禁止していると。
現在禁止期間は2027年3月31日までとされているんですけど、一方で2026年の6月には東京都から来年度から約20年ぶりに月のワグマの狩猟解禁へ向かう方針というのが
報じられているというのが現在。どうなるかわからないんですけど、そういう方向に行ってるらしいですね。
どういうことかというと、ようやくすると、日本全体では狩猟問題はすでに自然保護だけの問題でも害獣駆除だけの問題でもなくなっている。
人里へも侵入してきていて、死亡事故も起きている。捕獲人材が不足していて、里山管理ということがもうほぼできなくなっていると。
自治体対応というのがすごく迫られていて、学校通学路の作業の安全をどう考えたらいいかということが複合的な社会問題化しているということですね。
だから全国的にはクマが人里へ出ている頻度と被害が増えて、国策レベルの危機管理問題になっていると。
東京では都心の問題ではないけども、多摩山地では実際に出没、人身被害がある保護一辺等から管理協会、家事を切りつつあると。
こんな感じの現状ですね。2026年6月19日の金曜日の段階ですけども。
かなり深刻だよねっていう話だね。
そうだね。ニュースレベルでも毎日見るし。
そうだね。大変だねとは言うけど、しっかり国自治体が動くレベルだぞっていう認識で、この後話して聞いた方がいいのか。
そうですね。現に社会問題化してますよってことですね。
今回考えたいのはですね、ここすごい真面目化していくんですけども、クマ問題からSDGs的自然観の限界と日本の自然保護思想について考えられるんじゃないか。
考えてみたらいいんじゃないかっていう僕の着想なんですけども。
まずね、はじめにね、近年日本各地でクマが市街地や住宅地に出没する事例が相次いでるのは今見た通りじゃないですか。
山間部だけでなく学校、商業施設、住宅街の近くにまでクマが現れて、人身被害や農作物被害も深刻化していると。
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で、この問題は単に山に餌がないからクマが降りてきたっていう説明だけでは捉えきれなくなっていると。
で、背景には人口減少や高齢化、里山管理の衰退、狩猟者の減少、工作放棄地や放任価値の増加などによって人間社会と自然との境界性が不安定になっているっていう構造があると。
で、この時現代社会で広く語られる自然との共生という理念はどこまで有効なのだろうかっていうのを今日考えてみたいんですね。
自然と共生していくのはいいことだよねって言って、みんな言うけど。
でもそれってじゃあこのクマ問題についてどう考えたらいいの?何か有効的な施策を僕たちに与えてくれるの?
いや、そうじゃないんじゃないのってことが言いたいわけですけども。
行政とか教育企業の場ではSDGsを通じてね、持続可能性、生物多様性、誰一人取り残さない、将来世代への責任といった言葉が盛んに用いられているじゃないですか。
もちろんそれらの理念そのものが無意味であるわけないよね。SDGsは環境問題や社会課題を複合的に捉えるための共通語として一定の役割を果たしている。
しかしクマが実際に人間の生活圏に現れ、人命や地域の暮らしを脅かすとき、自然を大切にしよう、自然と共生しようという抽象的な理念だけでは何をどう判断すべきか見えてこないですよね。
市街地に出たクマをどうするのか?誰が現場に向かうのか?誰が苦情の判断を引き受けるのか?誰が里山管理の労働と費用を担うのか?
こうした問いは理念だけでは答えられないじゃないか。というのが僕の…なんで俺こんなこと考えてるのかわかんないけど思っちゃうんですよ。
まあ現実のこと見ろよってことだよね。
僕がこのラジオとかポッドキャストで喋るときにさ、ちょっと話が抽象化してるから良くないんじゃないかってこと言うじゃないですか。
よく言いますね。
で、それって、まあここの問題とすごく近いんですよ。
つまり何か、自然って大事だよね。みんな仲良くしたら良いよね。格差って良くないよね。
これみんなが同意できるじゃん。でもこれ何の意味もないじゃん。これだけ言ってっても。
それだけでもね。
だからそれって具体的にはじゃあどうするの?格差が問題なのは分かった。じゃあどうする?ってことが来るわけじゃん。
そこまで話さないと。
それじゃないと上で空中戦をしててもしょうがないじゃん。って俺いつも思うのね。
だから何かについて語るときは、まあ抽象的に語るの大事なんだけど、それと同時にじゃあ具体的にはどうするの?ってとこまで言わないと、意味のある言説じゃないっていつも思っちゃうんですよ。
だからちょっと抽象的になってるから具体的に考えないととかって僕がよく言うのはそういうことなんですけど。
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SDGsについて語られている言説の意味にすると、俺はそれを特にめっちゃ思う。
自然大事。共生大事だよね。持続可能性大事だよね。誰一人取り残さない。良いです。もちろん。全部オーラーグリー。でも具体的にはどうするの?っていつも思っちゃうわけ。
っていうことなんですよ。
そこで終わってちゃダメだね。
そうそうそう。だから今回問題にしたいのはSDGsの理念そのものの是非ではなくて、むしろ問題はSDGsが行政教育機器における便利な共通語として流通している中で、
日本の自然保護思想とか地域固有の実践がその背後に退いてしまっていることっていうのをちょっと問題視してみたいってことなんです。
政策の専門的な層には里山、長寿管理、生物多様性、地域個体群管理といった合意は存在しているんだけども、
でも行政広報や教育、企業活動の表層ではSDGsという普遍的で合意しやすい言葉が前傾化していて、
日本列島の自然と人間の関係の中で培われてきた具体的な知恵とか実践が見えにくくなっているんじゃないかと。
当然クマが危ないのなんて日本人は分かってたはずじゃん。
今に始まったことではないよね。
より自然と近いところで里山の人たちは暮らしてたわけじゃない?
そこにはそれなりの実践があったはずだよね。クマとどうしたらいいかみたいな。
そういうような具体的な実践例みたいなものっていうのが見えなくなっちゃうから、
僕たちはクマの問題が出てきた時にどうしていいか分からなくて、
パニックになっちゃうんじゃないかみたいなことが言いたいってことですね。
日本には里山とか山村共同体、狩猟、長寿管理、神社林、民族的自然観、自然保護運動などを通じて、
人間と自然との距離を測り、境界を維持してきた歴史があるじゃないですか。
自然とは単に守るべき対象じゃなかったはず。利用したり、恐れたり、管理したり、排除したりしながら環境を結ぶ対象だったはずですよね。
クマ問題はこのような自然との具体的な付き合い方が弱まった時、
自然との共生という理念がいかに空洞化するかっていうことを示してるんじゃないか。
今回はクマ市街地出没問題を手がかりにSDGs的自然観の有効性と限界を検討したいんですよね。
その上で日本の自然保護思想、とりわけ内山説の共同体論を参照しながら、
自然との共生を個人の意識や抽象的な理念じゃなくて、
土地に根差した共同体的実践として捉え直す必要性があるんじゃないかということを考えたい。
クマ問題とは何かってことなんですけど、
クマの市街地出没は単なる野生動物の異常行動ではないでしょうと。
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そこには人間社会と自然との境界線が揺らいでいるという問題がある。
これはすごく重要な問題設定だと思います。
自然と人間社会との境界線をどう引き直すかということなんだと思うんですよね。
かつて山村や中山間地域には、
奥山と人間の生活圏の間に里山が存在していたと。
里山は新丹林、農地、草地、水路、溜池、果樹、山道からなる、
自然と人間社会との間の干渉地帯ですよね。
人間の利用と管理によって維持される中間領域だったと。
そこでは人々が山に入る草を刈り、木を刈り、畑を耕し、
獣の気配を読んで、自然との距離を日常的に調整していた場所だったと。
しかしそれが人口減少とか高齢化とか、農林業の衰退、狩猟者の減少、
工作放棄地の増加によってこの中間領域がかなり弱体化してきている。
放置された果樹や農作物の残り物からクマが誘引し、
が起こって管理されなくなった矢部とか川、河川敷が移動経路となっていると。
人間が自然から撤退した結果、自然が回復したというより、
人間社会と自然との境界が不明瞭になってきているということが起きていると。
山の餌不足というのがあるらしくて、これがクマの出没に関係しないわけではないんだらしいです。
つまりブナやミズナラなどの、どんぐりみたいなものが不作の年には、
クマが餌を求めて行動範囲を広げて人里に近づくことがあるらしいんですよね。
しかしそれはなぜその年に出没が増えたのかを説明する短期的な要因であって、
なぜ人里がクマにとって利用可能な空間になったのかを説明する要因ではないじゃないですか。
つまり、餌不足はクマを山から動かすけど、
クマを街まで通してしまうのは人間社会と自然との境界の弱体化だよねと。
そこはしっかりしていれば、クマは困るけど、そんな市街地まで来るみたいなことは起きないはずじゃない?
そうそう。だからブナやミズナラの不作というのは、これまでも起きていたはず。
だけどその時にはここまで大きなクマ社会問題化はしてないんだよね。
で、今なんでそうなっちゃったのかというと、やっぱりこの人間社会と自然の領域の境界線の
曖昧化みたいなものが原因となっているだろうと。で、それはやっぱり里山がなくなっちゃったことだよねみたいな。
したがってクマ問題の本質は単にクマを守るか駆逐するかっていう二択ではなくて、問われているのは
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自然と人間の間にあった距離や境界を現代の条件の下でどのように再設計するかじゃないですか。
市街地では人命を最優先して、周辺では境界管理を行って、山では地域個体群とか生態系を保全すると。
こうした空間ごとの判断が必要になってきて、クマ問題は自然との境界線が単なる調和ではなくて
境界設定の引き直しをめぐる具体的な実践であることを示しているはず。
うーん、なるほど、なるほど、やっぱり自然との共生っていった時にみんながイメージする
人間が自然を大切にしてあげるんだ、みたいな感覚じゃダメだってことだよね。
SDGs的な自然観から見ると、クマ問題は複合的な課題として位置づけられています。
クマは陸上生態系の一部じゃないですか。その地域個体群や生活環境を守ることは生物多様性の観点から重要ですよね。
一方でクマが人間の生活圏に出没し、人身被害や農作物被害を引き起こすことは、
住民の健康や福祉、地域社会の持続可能性を脅かしてますよね。
したがってSDGsはクマ問題を人命、地域社会、農業、生物多様性、里山管理樹といった複数の価値が関係する問題として価値化することができると。
この点においてSDGsは完全に無効じゃないんですよ。ちゃんと意味があるよねってことを言ってるんです、僕は。
クマ問題は単なる害獣苦状の問題としてではなくて、自然環境、地域社会、農業、行政、人口減少が絡み合った問題としてみるための
入り口になっているだろうと。SDGsの有効性は複数の価値を並べ、問題の複合性を社会的に共有しやすくする点にあるんだと思います。
しかし、同時に限界もここにあるっていう気がします。SDGsは複数の価値を並べることができるけど、
それらが衝突した時、どの価値をどの順序で優先すべきかを明確に示してくれないんじゃないか。
市街地のクマが現れた場合、住民の安全を最優先するなら、捕獲や駆除が必要になることがありますよね。
しかしその判断は野生動物保護や生物多様性の価値と緊張関係に立つはずだよね。
ここで必要なのは単なる価値の統合じゃなくて、現場における最低じゃないですか。
現実問題、そこでどうするんだってことがね。
さらに重要なのは、その最低とそれによって生じる負担を誰が担うのかっていう問題。
クマと人間が話し合って解決できないじゃないですか。
実際に判断するのは常に人間で、その人間社会の内部にも地域住民とか農家とか療養会とか自治体職員、
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研究者がいて、動物保護団体、都市部の市民など、異なる立場の人が存在していると。
どの主体に立つのかによって優先される価値も担われる負担も変わってくるよね。
この点においてSDGsは価値を提示するけども、価値を最低して、どの価値を優先するのかっていう最低を行って、
その結果に責任を負う主体を十分には提示してくれないよね。
誰一人の取り残さないってSDGsは言っててさ、すごく印象的な標語だけども、
クマ問題のような場面ではすごく曖昧だよね、これって。
取り残してはいけないのは誰なの?住民なの?農家なの?療養会なの?クマなの?将来世代なの?
すべて同じ仕方で守ることができない場面で、誰をどのように守るのかを決める主体と責任がここでは問われているということですね。
ここら辺が僕がSDGsの語り、言説に対して感じる疑念、疑義、異議申し立てです。
疑義、申し立てをしているわけだ。
SDGsはすごく教育とかにまで入ってきてるじゃん。企業もよくそういうことを言ってるじゃん。
でもこれぐらいすごく社会問題化してて、僕たちが自然との関係性について取り直さなきゃいけないって強く思ってる問題ってないじゃん、クマ問題以上に。
そのことについてはほとんど何も語れてないよね。
何を考えるべきかっていう問題提起はしてるけど、解決策ではないってことだよね。
どうしたらいいかは言ってくれてないってことだよね。
今回はSDGsって何なのかっていう話をしたいわけじゃないんだよね。
SDGsって何なのかって話はね、俺もこっちはこっちの方面で色々調べてて、
ルーツとかって結構たどってきてはいるんだけど、それは今日はそこまでは行けないかなと。
SDGsというものがありましてってことだよね。
みんなが17のゴールを見て、そうした方がいいねって思ってるけど、
じゃあどうしたらいいのかっていうところがクマ問題として現実に起きているという話だね。
だからそれってさ、学校の先生が教室の生徒たちに向かって、
じゃあみんな仲良くやってねって言ってるのに等しいじゃんって思われる。
いやいやいや、それが難しいんじゃんっていうことじゃん。
それが責任放棄に見えなくもないね。
って僕は思ってる。
で、そうね、そのSDGs的言説ってさ、将来世代への責任ってことを言うじゃないですか。
で、これは大事だよね。将来世代への責任。
大事だなと思うね。
なんだけど、この言葉って実はすごく慎重に扱わないといけない言葉だって思ってます、僕は。
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はい。
つまりさ、まだ存在していない将来世代っていうか、まだ存在していない人に対して、
どのような責任を負うのかっていうのは、実はすごい難しい問題だよね。
ま、現在の人々の安全や生活と未来の自然環境や生物多様性が衝突した時、どちらをどのように優先するのか。
で、これ全然簡単に合意できないと思うんですよ。
かなり難しいね。
言うことは簡単だけど、でも実はすごく洗練された哲学的な議論が必要になるはず。
未来、まだこの世にいない、まだ存在していないものに対して、私たちは何の責任を負うのかって、
すごく変な、変って言ったらおかしいけど、複雑な議論体系が必要なはずですよ。
つまり、目の前にいる人に対して、物を取っちゃいけないとかさ、殴っちゃいけないとか、嘘ついちゃいけないっていうのはさ、
ま、倫理として語るのが容易じゃないですか。
でも存在していないものに対して、我々は責任を負っているんだっていうのは、ちょっと変わってくるはずだよね。
てかかなり変わってくるはず。
たとえば神様に嘘をついちゃいけないみたいなものに似てるんだと思うんですよ。
なるほど。
つまり、存在していないものに対して、でも私たちは責任があるよねっていうのは。
それで、嘘をついて助かる人がいたときに、それでも嘘をつかないべきなのかっていうのは、かなり難しい話になる。
そうそうそうそうそうそう。
だから、これね、これも言うややすしなんだけど、それをきちんと議論してる人っていうのは、俺は見たことがない。実は。
で、これね、ハース・ヨーナスっていう哲学者がいて、責任という原理っていう著作の中でね、彼はすごく体系立てて語ってて、
ハース・ヨーナスとかをちゃんと引用すればね、言えないことはないんだと思いますね。
ハース・ヨーナスが言ったのはね、近代技術によって人間の行為が未来の生命条件そのものに影響を及ぼすようになったとき、
倫理は現在の人間関係を超えて未来へと拡張されなきゃいけないって言ったんですよ。
生命条件そのものに影響を及ぼすっていうラインを考えたわけだ。
そうそうそうそう。で、しかしそれは単に未来のためにって言えばいい話じゃなくて、
将来世代への責任を語るなら、現在世代の誰がどの負担を受けるのかを同時に問われなければいけないじゃないですか。
で、これはね、すごくあの洗練された議論が必要なはずなんだよね、本来ね。
で、クマ問題で言えば、将来世代にクマのいる森を残すことは重要ですよね。
で、しかしそのために現在の地域住民がクマ出没の危険を引き受け続けるの?
農家が被害を受け続けるのか?
療養会が危険な捕獲を担うのか?
自治体が限られた予算と人員で対応するのか?
都市部の市民はその費用や責任をどこまで負担するのか?
ってことを考えていかなきゃいけないってことじゃないですか。
30:01
これ結構タフな議論じゃないですか。
で、こうした問いを抜きにして将来世代への責任を語るっていうのは、
責任を引き受けることじゃなくて、むしろ責任の所在を曖昧化していくことになるんじゃない?
うーん。
未来世代への責任が必要なんだってことを言うんだとしたら、
現在の地域住民に危険や負担を押し付けない仕組みも、
同時に考えなきゃいけないはずだよね。
で、ここでもSDGs的な言葉は価値を掲げてることには長けてるけども、
価値を担う主体と負担の配分を明確にする力は弱いよね、というSDGsが抱えてる限界みたいなものはよく分かっとかないといけないと思うんですよ。
これをセットにして僕たち考えないといけないと思うんですよ。
というところで、僕たちが何か事前について語る時に、
最近はいつもSDGsのことばっかり言ってるけど、
実はそうじゃない伝統って日本にたくさんあったよねってことを今日示してみたいということなんですね。
ここで、日本の自然保護思想の歴史を参照する必要が出てくるんじゃないのか。
というのが僕の今回の議論の論点なんですけど、
日本にはSDGs以前から自然との関係を考える蓄積があったはずなんです。
ここで言いたいのは、過去の共同体を理想化したりするつもりはなくて、
かつての存絡共同体だったらこういうことがやってて、これがすごく良かったよねみたいな、
こういうこと言っててもしょうがないじゃないですか。
過去の存絡共同体には独自の問題がたくさんあったはずだよね。
まあすごい、それはそれであるだろうな。
村八部とかさ、まあ適当に今言ってるけど。
だから、過去の共同体に回帰したらいいって言っても、それこそノスタルジーの問題じゃないですか、それって。
だから良くないよね。
だから問題は自然との関係を孤立した個人の意識じゃなくて、
土地に根差した共同的実践として捉え直すことだろうと。
それは今の里山管理の中で、
ふさわしい文脈っていうのの在り方、対策をどう作れるかってことだと思うんですよね。
その当時の人たちにとっての自然との距離感をうまくやってる時期があって、
それは地域がうまいこと自分たちのバランスを取ってたから、
そういうちゃんと現場の人がバランスを取れるやり方を、
今風に考えないとねっていうことだよね。
それをうまくやってた時代があったよってことだよね。
でね、一つはね、里山の実践っていうのをちょっと見ていくとヒントがあるんじゃないだろうか。
里山は人間が手を入れることで維持されてきた二次的自然って定義されるんだけど、
村落共同体の労働や規範なしには成り立たなかったんですよ。
山林、草地、水路、農地、ため池は個人の所有や意識じゃなくて、
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地域の共同的な管理によって維持されていた。
これはすごく重要なところだと僕思います。
自然は、手をつけないほど豊かになるものとしてだけ考えられていたのではないと。
なんか変な言葉になってるね。
手をつけないほど豊かになるものじゃない。
つまり、ほっとけば人間にとっていいものになるものじゃないかったんですよ。
いい感じで手を加えていくことによって、なんかこう豊かなものになっていくものだと。
で、むしろ人間が適切に関わり続けることで維持されるっていうようなものだった。
みながたくまぐすっていう有名な学者がいて、
この人は神社合肥反対運動っていうのをしてて、
日本の自然保護には自然を地域社会、信仰、習俗、記憶と結びつけて守ろうとする系譜があったんですよ。
みながたは戦前の人ですね。
神社林を守るってことが大事だってことを言ったんだけど、
神社の周りにさ、里山っていうのは。
単に木々を守ることではなくて、地域の精神的文化的な拠点を守れっていうようなことを言ってたんですけど、みながたは。
ここでは自然保護が自然だけを切り出して守ることじゃなくて、土地の記憶とか共同体のあり方を含んだ問題として捉えられてた。
なるほど。
その地域の自然との関わりっていうのがあるだろうか。
そう、そうなんです。
最近だと戦後ですけど、環境社会学、生活環境主義っていう考え方があって、
とりわけキト・シュウイッチっていう社会学者の社会的リンク論っていうのが結構参考になるんですけども、
生活環境主義。
自然保護を人間の生活やなりわいとの関係の中で捉え直すべきだろうってことですね。
うんうんうん。
そんな難しいこと言ってないと思うんですけど、
自然を人間の外部におき、手つかずの対象として守るんじゃなくて、
人間が自然とどのような社会的経済的文化的リンクを結んできたのかを問えということを言ってる自然保護の考え方ですね。
ここにね、共通するのは、自然との関係が孤立した個人の意識としてではなくて、
共同体的な実践として成立していたっていう点ですね。
自然は人間の外部にある単なる保護対象ではなく、
自然は利用され、恐れられ、管理され、語られ、共同体の記憶や労働と結びついている。
要するに里山管理ってしんどいじゃん。
これ一人がやってたわけないんだよね。
つまり村単位とか、せいぜい少なくとも家族単位とか、
っていうような集団で営まれてたはず。
この点はすごく重要。
つまり自然に向き合うときって、
ある種のコミュニティとかチームみたいなものが必要なんだよね。
だから教会をもう一度再設定しようってするときに、
その前提として重要なのは、
36:00
共同体とかチームをもう一回再設定しないと、
一人一人じゃどうにもならないじゃない。
その土地を持っている人にお前の責任だよって言っても、
できるわけないじゃない。
あと俺がめっちゃさ、
頑張ってクマを何とかするわって言っても、
何もできないじゃん。
っていう、一人だと絶対無理なんですよ。
っていう問題。
だから共同体を思い出せってことですね。
共同体の実践を。
この視点から見ればクマ問題は、
人間と自然との関係を引き受けてきた、
共同体的基盤が弱体化した問題として理解できるだろうと。
里山が管理されなくなり収容者が減り、
地域の共同体的な対応力が失われた時、
自然との境界が揺らいでいくと。
クマ問題はその揺らぎが可視化されたものなんじゃないか。
クマ問題に具体化されている、
自然との共生のために生じる責任をどう担うのか、
という問題も実は、
その担い手は共同体であるはずだから、
共同体を再設定することでしか解決の糸口は見えないんじゃないの?
って僕はなんとなく思ってる。
うーん、なるほど。
で、これね、
SDGsの限界っていうものと、
もう一度接近できて、
この共同体再設定しないといけないよね、問題。
SDGs的言説ってさ、
よく言われることだけど、
しばしば私たち一人一人の意識を高めることが大事。
今日からできる行動をやりましょうってことをよく言うじゃないですか。
マイボトル使う職員ロスを減らす。
一人一人ができることをやりましょう。
で、これ無意味じゃないよね。意味あるじゃん。
なんだけど、
個人の意識とか消費行動が、
地球規模の課題へと直接接続していくっていう形式を取るんですよ。
確かに。
これってさ、
その間にあるはずの地域共同体とか土地管理とか、
まあ、制度、責任分担っていうのが、
見えなくなるんですよね。
つまりね、僕が言いたいのはこういうことですよ。
SDGs的言説って、
世界系的構造を持ってるんですよ。
いわゆる世界系ってやつだ。
つまり中間集団を吹っ飛ばして、
世界と私が繋がるっていう仕事を取るんだよね。
あなたが地球を守るのよっていう感じだよね。
だから、要するにちょっとSDGsが世界系っぽいことを言うのはちょっと問題じゃないの?
みたいなことを言ってたってことですね。
なるほど。
で、その問題点を、
このアイロンを抜け出すための手がかりとして、
内山説の共同体論を参照したかったというところでやっとですね、
日本人はなぜ狐に騙されなかったのかっていうのが出てくるんですね。
どういう本かっていうと、
内山説がね、日本のいろんな農村に行くと、
必ずその場所場所の共同体で狐に騙されたっていう話っていうのが伝わってるんですよ。
39:06
いろんなところに。
で、それが各地に偏在してるんですけども、
それがね、そんな遠い昔話じゃなくて、
20世紀の半ば頃までは結構普通にあったらしい。
それが1965年頃を境に、
日本社会から狐に騙されたっていう話が発生しなくなっていくんですよ。
なるほど。
ここらへんがすごく面白かったですね。
1965年以前には結構あるんですよ。
それ以降には、つまり最近騙されたみたいな話がなくなっちゃうっていうことね。
で、これはね、重要なのは内山がこの問題を、
昔の人は迷信深かったけど、現代人は合理的になっちゃったよね、
っていうような単純な信奉主観では全然捉えてないんですよ。
むしろ内山は狐に騙されることが可能だった世界とは、
どのような世界だったのかっていう問題の立て方をしてる。
で、それが起きた1965年前後に日本人の世界の見え方に、
何が起きたのかみたいなことを問うてる話ですね。
騙されることができなくなっちゃったんだね。
そう、っていうような問題設定。
この問題設定がいいですよね。
つまりさ、昔の人の方がわけわかってなくて、
科学とかがやってきたから、人はそんな騙されなくなりました。
そんな嘘を信じなくなりました。
っていう話は普通じゃん。
じゃなくて、むしろ狐に騙されるっていうのがある種の感受性とか能力だったんだと。
それが1965年以降に失われちゃったんだっていう問いの立て方なんですよ。
で、じゃあこの1965年に何があったのか。
特定の年なんだ。
これね、ちゃんと原因の推定はされてないね。
この方言でも。
いろんなことが言われてますよっていう形でしかなくて、
それは確かにそうかなっていう感じがする。
なぜ騙されていたのかをしっかりと認識できないといけないわけだけど、
そもそも相手は狐だもんね。
だから、ナラティブ的にそれに答えていくって形になってますね。
1965年って生活世界においてもすごく大きな変化が起きてて、日本社会で。
高度経済成長の時代だし、農村社会がすごく変容している。
具体的にはこの辺り、1965年前後でエネルギーの転換がすごく起きてて、里山で。
それ以前は薪とかがエネルギー源としてすごく重要なんですよ。
あと動物。牛に引いてもらうとかがすごくエネルギーとして、動力として重要なんだけど、
1965年ぐらいでプロパンガスとか、あと灯油だね。灯油っていうのが入ってくるんだよね。
42:05
そうすると里山に入らなくても良くなってっちゃうんですよ。
つまり里山の木を伐採、刈ることで薪にするし、里山にある落ち葉とか集めて、動物の餌とか肥料とかにするっていうのがあったから、
エネルギーをかなり里山に頼ってたんだけど、それがなくなっていくんだよね。1965年以降に。
っていうのはすごく大きいんじゃないかと言われている。
あとテレビとか学校教育ってものがすごく浸透していく。交通や情報が拡大していくっていうことによって、
野別帯によって人がコミュニケーションすることよりも、ニュースで語られることとか、あるいは新聞とか読むもの。
口語帯から文語帯にコミュニケーション中心が映ってるんじゃないかみたいなこと?っていうのもここで語られてるんだけど。
つまりきついに騙されたよねっていう話って、
人から聞くんだもんな。
そう。新聞とかを通じて、あるいは学校の教科書で読む話じゃないじゃん。
そうだね。
なんか、じいさんが話してくれたっていうことが、コミュニケーションの中心にあるときに、その野別帯みたいなものが生きてくるんだよね。
っていうコミュニケーションの変容みたいなこともその理由なんじゃないか。
あと純粋に農村から都市への人口移動っていうのがすごく起きてる。この時期に。
都市部で働き手不足がすごく起きて、農村の長男、次男とかが都市に移ってくるんですけども、
そういう人口移動っていうものもその理由の一つなんじゃないか。とにかく1965年というのはここら辺のことがバーッと起きて、
変わっていったってこと?
里山の人口分布とか、あるいはコミュニケーションの質とか、
純粋にエネルギー革命が起きて、里山の中に人が入らなくてもいい状況が起きたっていうことが関係してるんじゃないか。
でね、あのちょっと今話飛ばしちゃったけど、この本の最初の方はね、どういう狐に騙されるエピソードがあるかみたいなのが4つぐらい類型が示されてて。
いろんなエピソードがある。
たとえばね、岩山を登って行って、その先にあるキノコとかを取りに行く時があって、
4時登って行く時に山の斜面を、荷物を上にボンと置いて、それで体に一つで登って、
で、荷物をまた担ぐみたいな作業があるじゃん。
で、その時に気づいたら弁当がなくなってたりすると。
あー。
で、あ、狐に騙されたんだって人は思うんだって。
なるほど。この上に置かされて、その隙に取られちゃった。
そうそうそうそう。みたいな風にして思う。
あと、なんか、あの、川で魚釣りをしてて、
なんか人に話しかけられると。
何が釣れたんですか?みたいなことを聞かれて、なんか答えてるうちに、その人がいなくなってる。
45:01
え?って思って気づいたら、自分が獲った魚もなくなってる。
あー、狐に騙されたんだって思って。
で、これ、なんか面白いよね。
まあ、これ、もう俺はもう狐に騙される能力がないから、
いや、それお前ただ単に弁当なくしたんでしょ?って思う。
あー。
俺だったらね。
はいはいはい。
自分がもし、その現場に居合わせたら、
あれ、あ、だけしちゃったって、まず思っちゃうか。
でも、その当時の里山に生きてた人たちは、狐がいて、彼らが、なんか取ってっちゃったんだ。
っていうふうな感じがする。
そこで納得が起きてるわけだよね。
そうそうそうそう。
でね、これね、これはあの、ちゃんとこの本の中で語られてないんだけど、
あの、この狐に騙されていくエピソードの一連の話の中に、
山上りの風習っていうことが語られてて、
これ、具体的にはこの内山説のルーツが、
群馬県にあるんだけど、群馬県のある村にあるんだけど、
そこには山上りっていう風習があって、
山上り。
洋産が魚地域だったんだって。
海庫だね。
そうそうそう。
で、洋産が魚地域とかだと、
貨幣経済が結構入ってきたりすると。
うん。
ま、自給自足っていうよりも、結構貨幣が入ってきそうだね。
で、そうすると破産したりするやつがいるんだって。
あー、そう、経済が入ってくることによって。
そうそうそう。
で、破産するとどうするかっていうと、
山上りっていうのを宣言するんだって。
山上りしまーすって言って。
で、そしたら、山に、
あの、どの山に入っても良くなって、その家は。
あの、山は持ち主決まってるじゃん。
でもどの山にも入ってよくて、
その中で小屋を、木を伐採して、
生活していいっていう権利を得られるんだって。
なるほど。
で、その時には、あの、村のみんなで、
なんか、みそを持ち寄って渡したりしなきゃいけない。
あー。
で、あと別に、うちの山からキノコとか取ってったりしても、
別に誰も何も言わないっていうような、
合意形成がされるんだって。
そういう存在になるんだ。
そう。
で、1年間ぐらいその家族を養って、
山はその頃は結構豊かだから、
別にキノコとか、山芽とか、
あの、飼料採取で結構普通に生きていけると。
で、その間、その誰か家族の男とかが、
あの、出稼ぎに行って、1年ぐらい働いて、
あー、金貯めて。
金貯めて、借金チャレンジして、
山上り返し、クリアみたいなことをやってたらしいんだよね。
なるほど。
で、これね、このエピソードがね、
連続して描かれてるってとこがね、
めっちゃ味わい深いと思った。
つまり、狐に騙されるってことで、
山上りの風習。
つまり、山にはすごく貧乏で困ってる人がいるんですよ。
で、物がなくなるんですよ。
っていうことなんですよ。
で、その時に、
あいつら取りやがってとかじゃない。
なくて、狐に騙されたんだって風にして納得するんですよ。
で、これはさ、
まさに感受性とか想像力の世界じゃん。
48:02
そうだね。感受性だね。
こんな風に内山説さんちゃんと語ってないよ。
あえてだと思うけど。
感じたってことだね。
いや、こういう風にして狐に騙されてたんです。
他方で山上りっていう風習があって、
っていうことを言ってるだけなんだけど、
これ、すごく味わい深い言い方だと思う。
そうだね。
うーん、いいね。
痺れるね。
俺それ読んで、あ、痺れるなと思った。
そういうことって。
でも、完全に分からなくはないじゃん。
困ってる人がいて、
なんか、ちょっと困ってたんだなって思ったら。
その時に出てくるさ、あるよね。
この、別に取ってたの分かってたのを黙っといてあげたよとかじゃなくて。
あれは狐が…
そう、沸き上がってくる感覚の中に、
あ、狐に騙されたのかもなっていう感覚が、
自然に沸き上がってきてたってことだよね。
で、それでいいやって思えたっていう。
その世界観か。
っていうことなんですよ。
それは失われてしまったと言われれば確かにいいという気がするね。
それは共同体意識の中でじゃないと出てこないじゃん、実は。
確かにそうだね。
っていう。
でね、だから本書ですごく重要なのは、
内山がね、狐に騙されることを単なる無知や迷信として見てないんですよ。
むしろ、かつての人々には狐に騙されることができるだけの世界感覚があって、
これは狐が本当に超自然的能力を持っていたかどうかって話じゃない。
問題は人間の世界のすぐ近くに、
人間だけでは説明できない自然や異界の領域が存在してるよねと、
感じられる感覚が当時の人たちにはあった。
狐に騙されるとは、自然や動物や異界が人間の生活世界のすぐ隣にあり、
人間がそれらとは完全に切り離されてはいないということを示す、
なんというか、語りだったんですよね。
つまり本書で言う騙される能力っていうのは幼稚さとか素朴ではなくて、
自然や動物や見えないものと関係を持つことができる感受性に近いものですね。
そういうような感受性とか想像力っていうものが、
里山管理、共同体意識みたいなものを支えていたんだろう、
っていうのが本書の大まかな筋というか主張ですね。
うーん、共同体意識を支えていた。
そういうような狐に騙されてしまったんだなっていう風にして何かを納得するとか、
そういう想像力のあり方が自然との関係性を可能にしていて、
同時にさっき言ったような意味での共同体意識みたいなものを可能にしていたんだろうと。
で、そうね、だからこの内山さんの本が書かれたのが2007年だけど、
その頃には結構そういう、
里山の担い手がいなくなってるんじゃないのかって問題意識がすごくあるんですよ。
51:05
1965年以降に気迫化していって、いきなり熊問題が出てきてるわけじゃなくて、
65年ぐらいから段階的に里山の共同体の維持とか気迫化っていうのが起きてる。
で、現在ここまで来たって感じですね。
そうだね、60年経ってって。
だから60年ぐらいのスパンで徐々に起きていった現象なので、
これ、その今日明日解決する問題じゃないんだと思います。
逆に言えばね。
本当に60年ぐらいかけてもう一度再設定し直していくみたいなぐらいの
タイムスパンじゃないと解決できないようなタイプの問題系なんじゃないかっていうふうにして僕は思うというところがありますね。
まあみたいな、いうふうなことで、僕が最近SDGsとか、
中学生とか小学生の教科書とかにも出てくるような言葉っていうのに対して、
微妙に持ってた違和感と、
あと熊問題ってやっぱりすごく日本社会について考えるのにクリティカルなことだと思うんですよね。
っていうものがちょっと繋がってるんじゃないのか。
で、それがすごく解くことが難しくなっている問題の背景には、
まあ日本人がずっと考えていた自然保護の思想とかっていうものを、
なんか結構忘れられてしまってるっていう問題があるんじゃないか。
みたいなことをちょっと繋げて、話してみたっていう関係ですね。
まあ今回のテーマはね、ここから雑談。
さらに雑談に入るのかどうかっていうのをちょっと置いておいて、
ちょっと言ってね、問題…
今ちょっと違った時間が見えてね。
あのー、えっとね、って感じだったけど。
まあ要は整理すると、理念と運用の関係。
自然との共生っていう理念と現実問題どうかっていうのが関係って、
しばしばそこが生じるよね。
これどう考えるのか問題っていうのがある。
あと、自然と人間の境界線っていうと、
まあなんというか、すごく廃墟とか分断みたいな風にして聞こえるけど、
実は境界があるから共存できるってことがあるじゃないですか。
まあなんというか、家にも壁があって道路にも線があって、
交通整備っていうのがあって、
あるいはシステムには権限管理っていうものがないと維持できないじゃん。
っていうような、実は境界線を引き直すっていうのはすごく重要だよね。
ゾーニングですよね。
あとね、狐に騙される感覚ってなくなっちゃったよねって、
分かりやすくするために言っちゃったけど、
なくなってるかなとも言えると思う。
なんとなくあるんじゃないの?
不合理なことだけど、こういう風にして信じて、
納得するっていう力って、
実はまだあるんじゃないの?
なんか具体例が思い出せないんだけど、
54:01
例えばなんか子どもがすごい悪さした時って、
まあ別に訴えたりとかしないじゃん。
しょうがないかなっていうので納得したりするじゃないですか。
まあそれに近いんだと思うんだよね。
みたいな。
あと、今回あんまりちゃんと喋れてないのはさ、
都市生活者として、
伊藤がさ、自然についてイメージできないって言ってたけど、
これやっぱりクマ問題について考える時に、
都市部で暮らしてる人が、
自然保護とかクマの問題とかって語るのって、
ほんとすごく難しさがあるじゃない。
つまり僕らって現場の危険とかを引き受けられないからさ、
やっぱりここで生活してる限り。
だからこれについて僕がいくら考えて語っても、
どうしても外部の人の、外野の声ってなっちゃうと思うんだよね。
そういう都市生活者として自然を語るってすごく難しいよなみたいな、
いくつかの論点があったなと思いますね。
っていう。どうですかね。
いやーどうですかねって言われると、
結構いろいろ考えさせられることはあったなと思って、
たぶんこの共同体、里山とかが失われてることが、
かなり大きな原因なんじゃないかっていう論点、視点は、
聞いたこともあったし、
たぶんそれを大事に思ってる人もいて、
ただその難しさ、それを再設定するとか、
なぜ失われてしまったのかっていうことについて考えると、
なかなか難しいものがあるんだなっていうのは、
ちょっと聞いてて思ったことだね。
あとは、自然との境界線っていうのを確かに意識するのは、
さっきの話に出てきたのにすごく納得感あったのは、
一体化じゃないと。共生だっていうところ。
そこがちゃんと切り分けてないと、
一体化って手を取り合って、
クマと手を繋いで仲良く踊りましょうみたいになっちゃうと、
そうじゃなくて、
あいつら目の前にすると本当にやばいから、
ちゃんと距離をとって、間に干渉地帯を置いて、
うまくやっていかないといけないんだよっていう感覚ね。
これをパッと感覚的に持つのが大事だなって思いましたね。
一体化じゃないんだな、共生ってそうじゃないよっていうのは、
大事なワードだったなって思ったかな。
うーん。
なるほどね。
あとやっぱ狐に騙されるっていう感覚、
今でも残ってるよねっていう話があったと思うけど、
ある気はする。
パッと思いついたのは、
信号が全部青だった時に、
57:02
ああ、いいことしたからかなって思うみたいな。
徳を積むとかさ、
宗教と絡んでるかもしれないけど、
いいことしたからいいこと返ってくるよねとか、
悪いことしたからバチが当たるよねっていうのを、
具体的な現象として捉えるわけじゃなく、
感覚的に持ってるっていうのは確かにあって、
そういうのが減っていったとしても、
全部排除してくるのは多分無理だから、
だったら不思議なものを不思議なまま捉える感覚は、
もうちょっと感受性があった方が、
多分いい生き方できそうだなって思うんだよね。
そうだね。
それが失われていく理由が何なのかっていうのはちょっと考えた。
その文章ベースになってるっていうのはすごいあるなと思ったけど、
文語体?口語体じゃなく文語体で、
世界と触れ合うことが増えると、
なんかそういう不思議なふわっとしたものは失われていくのかなとか、
ちょっといろいろ考えさせられましたね。
というわけで、今日はここまでにしたいと思います。
あ、伊藤くんの締めの言葉言ってもらえますか?
ありがとうございます。
締め、伊藤担当がありますんでね。
じゃあ今回もいろんなことについて喋ってあります。
なんか聞いて面白いなとか気になったことがあったら、
ぜひお便りいただきたいところですね。
お便りは概要欄のフォームからお願いします。
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それではまた次回。
さようなら。
58:46

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