00:00
クリックが鳴ってる。
はい、じゃあ始めたいと思います。
はい。
伊藤さん。
何でしょう、大賀くん。
あのですね。
はい。
今日は第4回ですね。
あ、そっか。
そうなんですよ。
もう4回なんですね。
あの、前回からの違いが分かりますか?
前回からの違い?
違いがあるんですよ。
ほう。
何だろう?
あのね、マイクをですね。
あー。
1本新しく買ったんですよ。
なるほど。
それぞれにマイクがあるんですか?
あの、だからちょっと微妙に音響的には進化しているかもしれないですね。
あー、より聞きやすくなったら。
より聞きやすくなってるはず。
嬉しい。
そうなんですよ。
あのー、前回というか、
あのー、前回までの3回のポッドキャストを聞いて、
ちょっと気づいたことがあってですね。
あー。
ちょっと何喋ったか曖昧ですけどね。
いや、その前に聞きました?
えっと、そうですね。合計でも3分ぐらいは。
あー、3分。
1分ずつぐらいは聞いてますね。
マジですか?あのー、
あのー、RSSのアナリティクスを見ると、
あのー、2週間で37回聞かれてるんですよ。
あ、なるほど。
で、その半分ぐらいが多分俺ですね。
あー。
いっぱい聞いてるか。
でも、もう半分はもしかしたら。
いや、多分15、6でも聞いてるんですけど、
多分俺の知り合いだと思います。
僕のあのー、
あのー、Twitterで呟いたところから来てる可能性がありますね。
はいはいはい。
はい。
ありがたいですね。
そうなんですよ。
いや、それで僕が気づいたのは、
あ、これ、このポッドキャストはちょっともう可能性しかないな。
おー、可能性しかないよね。
確かに。
可能性しかないよね。
実績がないからね。
いや、まあそうなんだけど。
可能性は感じてる?
あ、もうこれ、来たわと思って。
あ、もう来てる?
あ、もう来た来た。
それは素晴らしいですね。
なんかもう、逆に申し訳なくなったというか。
おー。
今、ちょっと遅かったなみたいな、始めるのが。
あ、もっと早く始めてればよかった。
つまり、僕たちがこのままポッドキャスト続けていくじゃないですか。
そうするとどうなると思います?
おー、まあ、話す内容がなくなっていく。
いや、そういうことじゃないんですよ。
もっと明るい話。
だから、あのほら、最初この第1回では、
リスナーが1000人くらいできたらめっちゃいいよねみたいな。
あー、言ってましたね。
夢みたいな話をしてたんですよ。
でも、もはやそういう話じゃなかったっていうのに気づいたんですよ。
おー。
もう、俺らがポッドキャストを続けていくと、
ポッドキャストの定義が変わります。
おー。
なるほど。
そうなんですよ。
すごい、大変相互だな。
このことか、みたいな話ですよ。
そうですね。
ちょっと聞きましょうか。
まあ、いや、えーとね、あんまりここから先話しないんですよ。
とにかくパワーワードを思いついたってだけですね。
いっぱい言ってこうっていう。
ポッドキャストの定義が変わるっていう。
はいはいはいはい。
あと、なんかこう他のポッドキャストとかも色々聞いたんですけど、
あ、迷子になってんなって思いました。
話してる内容が?
いや、なんというか、迷子になってんなっていう風にして思ったんですよね。
なるほど。
他のポッドキャスター達は。
03:00
うんうん。
あ、ちょっとなんかこう迷ってるなっていう。
どうやっていくかなくて。
あー、進め方というか。
そう、だからちょっと教えてあげないとなみたいな気持ちが生まれてくるんですよね。
すごい。僕は言ってないです。
ははははは。
はいはい。
え?
聞きましょう。
いやいやいや、まあそれはね、僕たちはこれ続けていけばみんなが分かっていくから。
あー。
だから、ほら例えば、昔YouTubeはかつてこう、かつてのYouTubeは
違法動画がずっと上がってる時代があったわけじゃないですか。
あー、そういうところあります。
で、そっから例えばなんかヒカキンとかが出てきたわけじゃないですか。
はいはいはい。
それでYouTubeの定義が変わっていくわけじゃないですか。
あー、こういう風にやっていくんだって。
そうそうそうそう。
で、YouTuberっていう概念が生まれてるじゃないですか。
あー、そのレベルの。
そのレベルの。
確信が。
そのレベルの何かが来てます。
イノベーションだ。
そうですね。
あのー、この部分はカットするかもしれないです。
あー、そうだね。
後から聞くと。
何言ってんのってなるから。
頭おかしいのであまりにも。
えっとですね。
はい。
そんなね、よた話はね。
よた話だね。
いいんですよ。
すごいね。
よた話そのものですけど。
はい。
えっと今日はですね。
はい。
テーマがありまして。
前回、あのー、第3回かな。
技術とノスタルジーっていう話題をしてたんですよね。
我々はね。
どういう話題だったか覚えてます?
あー、なんかノスタルジーっていうのが
こう
同世代?我々同世代に
はいはい。
刺さるんじゃないかみたいな。
うーん。
これについて話そうかみたいな流れだったかな。
えーと、そうね。そうそう。だからなんか
なんかこう
まあとにかくめっちゃざっくり言うと
俺はめっちゃ昔が良かったねって言いがち。
あーはいはい。
言ってましたね。
そうそう。
で、伊藤は
未来が良くなる
と言いがち。
はいはいはい。
っていう話があったんですよ。
昔良かったねって話すると
すごい嫌がるよねって言われました。
そうそうそう。思い出しました。
そこから結構ね、その時話した内容結構混乱してるんですよね。お互い。
あーはいはい。
で、ここで伊藤が言ってた話聞いてなかったなみたいなこととか
結構気づいたりして。
なるほど。
あの話をちょっときっちり整理すると
結構いい話題が生まれるんじゃないかと思って
うん。
ちょっとね、整理してきました。
あーありがたい。
前回の話題。
はい。
前回の話題も極めて雑談だったんですけど
そうだねー。
それをちょっと整理してみたっていうのが今回の回ですね。
はい。
題して技術とノスタルジー
おー。
というテーマです。これなんかもう深淵みたいな
06:02
そうだねー。
深淵ですね。
えっとね、で、前回僕が言ってたことなんですけど
多分この話めっちゃ抽象的になってるから
誰かの議論を引いたりしないとうまく進まないんじゃないかみたいなことを
ぼんやり言ってるんですけど
その時なんとなく思いついてたことを
はっきりとした引用ができなかったんで僕は言わなかったんですけど
それをね、思い出して、思い出してというか
読み直して引いてきました。
っていうのはね、今日紹介したいのは
マーシャル・マクルーハンっていう思想家がいるんですよ。
はいはいはい。
この人の話をちょっとまずしたい。
うん。
で、マーシャル・マクルーハンってどういう人かっていうと
1911年にカナダのエドモントンで生まれた。
1980年に亡くなった人ですね。
カナダのメディア論者、コミュニケーション思想家。
なるほど。100年前の人。
まあそうだね。
約100年前ぐらいの人だね。
1960年代にグーテンベルクの銀河系とかメディア論で
国際的に知られるようになった人です。
この2作はもうすごい有名って感じですね。
メディアはメッセージであるとか
地球村といった有名な言葉でも知られていると。
彼はテレビやコンピューターの中身よりも
それらのメディア自体が人間の感覚や社会の形を
どう変えるかを考えた思想家だったと。
なるほど。
で、まあなんかこういう風にして話すと
めっちゃ抽象的な話を議論してる気がするんですけど
そんなことなくて結構わかりやすいんですよ。
で、本も読むとめっちゃ平易な言葉で書かれてるから
まあちょっと読んでみてほしいんですけど
とりあえず彼は技術についてめっちゃ議論してる。
技術にフォーカスしてるんだ。
そうなんです。
で、まあ彼の技術論みたいなものちょっとこう
4つ論点があって
それをちょっと整理するとですね
まず1つ目、技術は人間の拡張だってことを言ってるんです。
人間の拡張。
そう。1967年の著作
人間の拡張の原理っていうのがあるんですけど
ここで言う人間の拡張の原理、拡張とは
車は足の拡張だよね。
なるほど。
衣服は皮膚の拡張だよね。
文字は目の拡張だよね。
電子メディアは中枢神経系の拡張
みたいな風にして
まあそういうような意味。
つまり技術は外部の道具じゃなくて
人間の器官が外に伸びたものだよね
っていうことを言ってるんですからね。
なるほど。
で、まあこれまあそのなんていうか
人間の拡張とか言うとめっちゃすごいなんか
深淵みたいな雰囲気が出てるけど
そんなに難しい話じゃないと思うんですよね。
身体機能が拡張した結果だって
そうそうそうそう
で、まあその2つ目に
拡張には必ず切断や麻痺が伴う
っていうことも言ってる。
例えば車は移動能力を拡張するけれど
歩行者としての身体感覚は弱める。
ああ、なるほど。
文字は記録能力を高めるけれど
交渉文化の記憶や共同性を変えてしまうよね。
まあ、えっと、そうね。
メモしたりするのが常習化すると
記憶力がなるみたいなこととかね。
09:00
あるいは、技術は何かを増やすと同時に
何かを衰えさせるんだと。
これも別にマクロファンが言わなくても
言われることではありますよね。
まあ、そうだろうね。
それが切断や麻痺なんだっていうことですね。
で、3つ目。
メディアが感覚のバランスを組み替える
っていうことも彼は指摘している。
人間の文化は視覚、聴覚、触覚などの
感覚比率によってかなり違うと
彼は考えていて
印刷文化は視覚を強く優位にするし
戦的、論理的、個人主義的な世界を強めると。
それに対して電子メディアは
同時性や相互接続性を高め
より聴覚的で場的な感覚を回復させるだろうと。
まあ、だから技術の変化は
単なる便利さの変化ではなくて
世界の感じ方の変化をもたらすと彼は考えると。
まあ、インターネットとかが分かりやすいと思うんですよね。
インターネットが出てきたことによって
世界をどう感じているのかっていうのは
人を変わってくる
より世界で起きているニュースとかが近いものとして
感じたりすることがあるだろうと。
みたいなことですね。
これもマクローハンが言わなくても
いろんな人が言っていることではあるかなという気がしますね。
4つ目は技術が社会形態そのものを変えるということを言っている。
これはですね、印刷技術を例にすると
印刷技術が国民国家標準語、近代的個人を支えていますよね。
ということを言っていて
有名なグーテンベルグの銀河系という本を聞くと
どういうことが議論されているかというとですね
16世紀から17世紀にかけての聖教と革命
ルーターが活躍していたんですね。
ラテン語中心だった聖書や神学が
ドイツ語や英語のような族語に、世俗語に翻訳され
しかも印刷によって広く読まれるようになり
神徒が聖職者を介さず聖書に接近しやすくなった
ことがこの改革運動の重要な土台だったと言っているんですよ。
だからつまりめっちゃ予約すると
印刷技術が聖教と革命をもたらしているねみたいな。
こんな単純な話ではもちろんないんだけど
クローハンもそこまでは言っていないんだけど
つまり印刷技術、活版印刷っていう技術が
革命をもたらすっていうことを
大きな要素だったと
持ってして技術が社会形態そのものを変えるってことを言ってるんですよ。
なるほど。
これも守護でかいけど
それなりに一理あるかなっていう気がする。
そこまで難しい議論じゃないと思うんですよね。
彼は電子メディアは距離を縮めるよね。
地球村、グローバルビリッジのような状況を作る。
グローバルビリッジってマクローハンが確か作った言葉なんですよね。
聞いたことあるかもしれないな。
ここで地球村は仲良しの理想郷ではなくて
遠くの出来事が即時にこちらへ流れ込み
みんなが近すぎてちょっとざわつく世界。
かなり今日も今日のSNS社会を先取りしてるところがあるよね。
これを60年代の時点で結構議論してるっていうのが
12:01
マクロハンも早かったところなんですよね。
なるほど。
この議論っていうのを使っていくと
前回話した雑談も結構スッキリ整理できるんじゃないか
っていう気がするんですよ。
そこに行く前に僕としては
音楽制作の話にマクロハンの議論を当てはめると
めっちゃしっくりくるんですよ。
っていうのがあって
それを具体例として落としていきたいんですけど
要するに何が言いたいかというと
DTM、デスクトップミュージックですね。
の普及によって作曲家は必ずしも自分で楽器を演奏しなくても良くなる。
さらに音楽制作の中心は演奏や作曲そのままから
編集へと移っている。
この変化はマクロハンの1、技術は人間の拡張
2、その拡張は雑談やマフィアを伴う
3、最終的に人間の感覚のバランスを組み替えるという議論の具体例として
結構落として理解できる
っていうことをちょっと考えてみたいんですけど
さっきまで説明してたことを
音楽制作からという具体例でちょっと考えてみたい。
例えばまず1、技術は人間の拡張ってことは
マクロハン言ってました。
これはデスクトップミュージック
コンピューターで音楽作るってことですよね。
プラグインやソフトや打ち込みは
作曲家の能力を大きく拡張しているんです。
デジタルで作曲するっていう認識でいい?
そこにパチパチ音を打ち込んでくれたら
例えば以前なら自分でピアノを弾けるとか
ギターを弾けるドラムを叩けるあるいは
そういう演奏者を集める必要があった。
これってつまり
テープに収録して
それをレコード会社に持ち込むみたいな
そういう世界観じゃなくて
デジタルで起こしてデータを編集するみたいな
そういう時代になったからってこと?
そうそうそう。
だからかつてだったら
楽器を弾ける必要があった。
あるいは楽器が弾ける人を集めて
そのテープに収録したりする必要があったわけだけども
今では楽器が弾けなくても
鍵盤が十分に弾けなくてもギターが弾けなくても
ソフト音源やミリ入力が
演奏を代替してくれるんですよ。
だから
イメージとしては
楽譜ってあるじゃないですか。
楽譜を入力していくと
その楽譜に入力した通りの演奏を
ソフトがやってくれるみたいな。
自分の作った曲を演奏してくれる人は誰なんだとか
自分が演奏できなきゃいけないんだみたいなのが
必要なくなった。
あるいは最近は歌とかも
人間と区別がつかないくらいのクオリティで
歌ってくれるソフトがどんどん出てきてる。
それが作曲能力の拡張だと。
そう。めっちゃ作曲能力拡張してる。
例えば僕最近買ったのは中国の
15:01
二球っていう
楽器でちゃんと読み方は分からないんだけど
2本の弦が
ストリングソモンで
これよく中国っぽい
環境のBGMで流れる
それのソフト音源とか買ってるんですね。
それはもう楽器を買うんじゃなくて
ソフト音源を買うって形になるわけだ。
僕が楽譜を入力すると
それを弾いてくれるわけ。
あるいはインドのタブラとか。
聞いたことあるな。
今言ったような民族楽器って
楽器屋に売ってないじゃないですか。
あるいは先生になろうにも
なかなかいないようなものが
簡単に制作できちゃう。
かっこ好きの演奏ができちゃう。
だからストリングスも
ブラスもドラムもある程度はプラグインで大体できる。
つまりここで技術は単に便利な道具ではなく
本来は自分の身体に無かった演奏能力を
外部にもたらす装置になっている。
そのもう一つの拡張が編集するってこと。
DAW
ディスクトップミュージックのことでいいんだけど理解としては。
作曲家を作る人であるだけでなく並べ替える人
直す人仕上げる人にもなった。
音を取った後に切る貼る整える差し替える
重ねる修正することが簡単にできるようになったんですね。
例えばここで
急に僕たちが
放送禁止用語とかを言うじゃないですか。
大声でね。
全然違う単語に切って貼り直すみたいなことが簡単にできる。
かつてだったらテープとかだったりしたら
もう一回取り直すとか
いうことが必要になったわけなんですけど
そんなことも簡単にできるようになったんですよ。
どれくらい簡単にできるかっていうと
ほとんどテキストをコピペして
別の場所に貼り付けるくらい簡単にできる。
ここはいらない文章削ってとか
できちゃう。
それくらい簡単になったら編集するってことが。
これもある種の能力の拡張ですよね。
編集能力の拡張。
音楽を後から作り直すことができるようになった。
第1段階としてDTMはデスクトップミュージックは
作曲家に演奏能力の代替物を与え
同時に後から音楽を組み替える編集能力を与えてくれているんです。
これめっちゃいいじゃないですか。
便利になったなって思うよね。
めっちゃ便利になったなって思う。
次にここにこのような拡張には
必ず切断や麻痺が伴うということですよね。
ここでは2つの拡張に対応して
2つの切断があることを指摘したいんですけど
1つ目は演奏の身体性の交代ですよね。
これも簡単にわかると思う。
プラグインや打ち込みが発達すると
作曲家は楽器を十分に演奏できなくても曲を整理させられるようになる。
18:03
これもめっちゃ自由。
その反面音を出すために身体を訓練する必要が相当的に下がると。
つまり
弾けないみたいな。
ということが全然起きる。
以前ならある和音やフレーズを得るには
指を動かして呼吸を整え
タイミングを身体で捕まわなければならなかった。
けれどDTMではそれなりの部分を入力や編集で大体できる。
だから
一生懸命演奏しなくても
このタイミングでこの強さでこの音を鳴らしてみたいなことをパチパチ打っていけば
できちゃうからね。
練習したり
身につける必要がなくなる。
それがさっきは良いという文脈だったけど
これが切断、麻痺。
つまり演奏能力の拡張は同時に
音を身体で掴む必要の弱まりをもたらしている。
体で感じるということが
必要なくなるから
弱くなっていくだろう。
議論を分かりやすくするために
あえてこういう言い方を言ってるんだけど
そんな単純な話でもなくて
打ち込みって僕も使うんですけど
この部屋は僕の部屋ですけどギターもベースもあるしキーボードもあるじゃないですか。
だから完全に
必要なくなっているわけじゃないですよね。
しかもどうしてもプラグインじゃ表現できない
みたいなものも確かにあって
そこが深いところではあるんだけど
あと別にインスタグラムとかに
演奏を上げている人の様子を見ると
音楽を作る人の演奏能力が低くなっているかと言ったら
そうでもない気もする。
前回話した話だけど
オリジネーターたちの方がむしろ
演奏技術とかは下手で
僕たちの方が
後発声優位の何かが働いているから
演奏自体は上手かったりもするから
単純にこんな風にして議論は割り切れないところはあるんですけど
でも
マクルー・ハンが言っている通りにそうなら大体こんなことが言える。
制作を非常に
自由にするっていうのがあるんですよね。
だから
ごちゃごちゃ細かく言っていくと
作品を一続きの流れとして整理させる感覚が
後退するよねみたいな。
一曲を最初から最後まで演奏したりとかする能力がどんどん低くなっている。
ブツギリになっている。
ブツギリにはめっちゃなっていますね。
僕もギターは実際に演奏して入力することが多いけど
それでも最初から最後まで一発撮りって
ほぼないかもみたいな。
ここまでは通して
デジタル化みたいなものが
影響しているって感じだね。
21:02
全くその通りだと思いますね。
この意味で
DTMは演奏を代替することで
身体的な習熟の必要性を弱めるよねと。
編集を強化することで流れの中で成立させる
一回性の感覚が弱まる。
後から切って張ったりするから
その時一回だけにあった奇跡のような
何かみたいなものは
この一瞬に魂を込めるみたいなことは
なくなっていっちゃう。
強めに言うなら
DTMは作曲家を自由にしたけど
その自由は演奏身体への依存と
一回性への依存を薄めることで成立しているんですよ。
最後に
マクロハンが言った
メディアが感覚のバランスを組み替えるっていう論点についてなんだけど
DTMは単に制作工程を効率化しただけではなくて
音楽家が何を重視するかを変えている。
これがすごくあると思いますね。
以前の作曲や演奏では
中心にあるのはまず音を出すこと。
流れの中で演奏を成立させること。
体でタイミングや強弱をつかむことだった。
だけどDTMの環境で中心に来るのは
次第に適切な音色を選ぶ。
配置を考える。後から整える。
比較しながら最適化する。
作品を編集物として完成させるようになっていくんですよ。
これめっちゃ簡単に言うと
どのソフトを使おうかなみたいな。
一生懸命練習するんじゃなくて
この曲に合うソフトどれかなみたいなのを選ぶ。
そういう力が必要になっていく。
かつてレコーディングだったらすごい練習していくとか
っていうのが必要だったわけじゃないですか。
いろんなソフトを
調べて
セールの時に買うとか
そういうことがめっちゃ行われていく。
最新情報をちゃんとアンテナに貼っておくみたいな。
っていうのがありますね。
つまり感覚の重心が演奏する身体から選択し
配置し編集する意識に移っていくんですよ。
だから作曲家の自己理解そのものも変わっていく。
以前は作曲家を書く人であると同時に
何らかの形で弾く人、歌う人、演奏を体で支える人でもあった。
でもDTMでは作曲家はますます
演奏者というよりディレクターとか
キレーターとか編集者に近づいていく。
音楽ソフトの宣伝文句とか聞くと
最近、プロデューサーみたいな感じで
宣伝文句が来るんですよ。
プロデューサーとかキュレーターっていう風にして
作家を捉えている。
そういうところからもよくわかるかなって気がしますけどね。
こういう風にして感覚のバランスが
組み替わってるよね。
音楽スタジオじゃなくて
家のパソコンで音楽を作ることによって
ある種の感覚の組み替えが起きていると。
24:01
整理するとこうなります。
昔は曲を作ることと音を出すことがもっと近かった。
でもDTMでは音を出すことはソフトにある程度任せられる。
その代わり人間の仕事は何を選ぶか
どう並べるかどう直すかへと移っていく。
つまり技術は人間の力を広げるが
その広がりは人間の役割そのものを変えてしまうと。
もっと短く言うと
DTMは作曲家を演奏する人としての役割を一部引き受け
その代わりに編集する人としての役割を強くしている。
これが技術による拡張であると同時に
切断でもあるよねと。
前回の議論で昔の方が良かった技術って
何かあるっけみたいな話をしたじゃないですか。
そんなものはないんじゃないかって。
その時に僕が思い浮かばなかったんですよ。
そうでした。
でもそんなものはないわけないよなって時に
技術ってもので何を想定するのかっていうのがあって
その時に僕が考えていたのが結構伊藤の
使っている言での技術になっていたから
わかってなかったんだけど
ここで考えてみれば今までの話で
出てきているじゃないですか。昔の方が良かった技術って。
つまりスタジオで録音していた頃が良かったよね。
っていう文脈がある。
そういうのは全然あり得るわけだから。
あるいはパソコンに
記号を入力していくことよりも
実際にギターを演奏する技術の方がいいよね
っていうのも別に全然言えるわけじゃない。
だから昔の方が良かった技術っていうのは
ある種マクロファンが言ったような意味での
切断とか麻痺が前傾化する時に
よく見えるってことなんじゃないか。
って思うんです。例えば例。
家でコンピューターに入力して制作するより
今よりもミュージシャンがスタジオに集まって制作していた昔の方が良かったよね
みたいな話。これ自体はよくします僕たち。
でも懐かしむみたいな。
主にLINEとかで。
雑談している時に
よくそういう話したりする。
でも決してしないみたいな。
っていうことがあるんですよね。
こういう風にして言ってみると
昔の方が良かった技術ってあるじゃないかって素朴に思う。
そしたらもう一個
雑談みたいになっちゃうかもしれないけど
これって例えば
昔ドラムとかギターとか
自分の手でやってた時期があって
今はデジタル化してその頃の経験も生きているみたいな。
そういう立場じゃないですか。
変革の時を感じているっていう。
それで言うとさっきの話で言えば
スタジオに集まらなきゃ収録なんかできないよ
みたいな時代の人ではないじゃん今。
そこから変わってて。今後さ
楽器なんかで触ったことないですみたいな人もどんどん増えてきて
ソフトの使い方だけ分かります。あと楽譜は読めます。
27:01
みたいな人が曲を作っていくと。
そうするとその人たちはさ、もはや楽器を触った経験とかを
懐かしむことすらないわけじゃない。
つまりだんだん
懐かしむような経験を
そもそもしないでいく
ことになっていく。
っていうことだよね。
人間の拡張みたいな話で言えばさ
例えば我々には昔尻尾が生えてました。
みたいなことを知識としては知ってるけど
それがさ、尻尾生えてたら便利だったのにって思わないじゃないですか。
もはや。経験してないから。
でもね多分ね俺そこまでは行かないと思う。
まったく何の曲
楽器とか歌も歌えなくて
単純にこう音楽だけ作れるってことじゃん。
純粋化してる作曲家みたいな。
俺多分それなんないと思う。
っていうのはいくらAI技術とかが進歩しても
自分でやるってことの楽しさを
失われないじゃん人間って。
つまりなんていうかな
AIがめっちゃ歌うまくなりました。
でもカラオケ行くよねみたいな。
カラオケに行くことの喜びって失われないと思うんすよ。
つまり自分がやってみることの楽しさって
残り続けるじゃない。
だから別に僕も最初からいきなり
作曲始めたとかじゃなくてさ
最初単純にギター弾くのが楽しいとかから音楽の入り口として
まったく何の歌とか
ギターとか
ドラムとかってものがみんな弾けなくなっていくってことは
それこそありえそうもない気がする。
結局やってみたってこと、やってみるってことの
楽しさは最後まで残っちゃう。
じゃあそれはさ、もう話が出てきたかもしれないけど
それが面白いなと思うのは
つまりだいたい可能な
拡張によって
必要なものを楽器を演奏する技術とか
必要なものをどんどん外側にやっていった結果
でも最後全てを外側に出すわけにいかなくて
これはないと作曲家音楽家として
始められないじゃないっていう
その芯が最後残っていくのが
面白いのかな
そうねー
面白いかどうか分かんないけどね
どうだろうね
そうねー
ここで話してる話って結構産業社会の要請によって
来てるじゃん
つまりできるだけコストを抑えて
一つの作品作れた方がいいわけだよね
じゃあ最終的な
曲線の
行き地っていうか
行き着くラインみたいなのは
それは分かんないなー
それはまだまだ変わり中みたいな
30:04
逆に言えば
違うことが
違う方向で
テクノロジーが進んでいく方向もあるじゃん
例えばここでいきなりレコーディングできないのは
この部屋は防音とかにできないからとか
それも何らかのテクノロジーの進化によって
スタジオにできちゃうじゃん
あるいは人を雇うことも
どこでもドアとかがあったら
コストが下がるからね
分かんないけど
全然違うテクノロジーの進化によって
むしろみんなで集まってやるのが
コスパいいみたいなことになり得るだから
それは全然分かんないと
これはデジタル化が拡張現象を起こしてるというよりかは
コストが低いからそれが起きてるだけで
コストが下がれば別に何でも起こり得るわけだね
それはコストの話で言ってるけど
さっき言ったみたいにこれやることが楽しいってところから
人間あるから動機が
その軸もあるでしょ
その動機が今後増える可能性ってあるの?
あると思うよ
今までいなかった音楽の楽しみ方とか
あるんだと思うけど
それがどれくらいマクロな現象として起きるかはよく分からない
単純にバンド楽しいよねみたいなのは
残り続けるから
制作現場は置いといて
普通にみんなで集まってスタジオで
ビートルズのコピー版しようぜみたいな現象は残り続けると思う
なるほど
っていう話なんですね
これ大丈夫かな?ちゃんと整理できてる?
俺の質問に答えてもらって
とにかく
マクロ版の議論を聞くと
ある程度技術の話が整理できるっていうところが
ここまでの目論みだったわけですよ
それをマクロ版を聞くと
前回話してて僕が答えられなかったことも
結構普通に答えられるなっていうところもあったりした
なんだけど俺これに違和感があるなってすごい思うんですよ
僕がここで感じる違和感っていうのは
前回ね雑談で
僕が想定していた
アートや文学に代表されるような
昔の方が良かったって言われがちな技術と
伊藤が想定してたみたいなプログラミングに代表される
今勝ちの技術
同じ技術で表彰するには無理があるじゃんって思うんですよ
なるほど
前者は例えばスキルとかテクニックとか
クラフトするっていうことだと思うんですよ
後者はエンジニアリングとか
システムとかテクノロジー
に代表されるものだと思うんですよ
ここら辺が全部一緒に技術って言葉を使うから
議論が混乱したんだと思うんですよね
33:01
これって実は全然違うものじゃないですか
ギターを演奏する技術とか
あるいはそういう技術と
プログラミングの技術とかシステムを運営する技術
って全然違うものなんだと思うんですよね
前者の方がやっぱりカッコよかったよね
ある種麻痺とかマクルファンが想定したような麻痺とか
切断みたいな感覚を想定しやすくて
後者はそうじゃないんじゃないか
だからプログラミング言語は今のやつが
一番いいでしょっていう伊藤が言った言葉が
出てくるんじゃないのかなって思ったんですよ
ここら辺はマクルファンが技術については
細かい概念を組むことは行ってないんですよ
呼び直してひとくくりになっててね
彼からしたら印刷物にしても車にしても
コンピューターにしても全部メディアって言葉で表現してる
つまり媒介として捉えてるんですよ
人間とその外側の世界を媒介するもの
をメディアと呼んでて
全部メディアなんですよね
かなり大雑把な人で思想家だからしょうがないと思うんですけど
だからつまり技術を
人間がどう感覚するかというテーマに時間軸を想定するってことじゃん
昔が良かったとか今が良かった
みたいなことを考えるってことは
をするとマクルファンの議論では語りきれなくなっちゃう
というかマクルファンは技術によって行為や文化や歴史が決まる
っていう技術決定論で傾きすぎてるんですよね
よく批判されてる
技術があってそこから歴史とか文化が生まれてくるみたいな
技術前提論
技術って株構造が人間の歴史を決めるんだみたいな
ここまでは言ってないけどマクルファンも
そういう風にして読めるよねっていう批判がね
色んな本でされてた
話単純で極端なんですよね
マルクス主義と親和性が高い
マルクス主義も株構造があって
それによって人間の歴史が決まってくるんだみたいな
ここら辺のマクルファンとマルクス主義の親和性の高さみたいなのも
なんかね
言及してる論者がいるなら議論があるなら教えてほしいんですけど
この先はちょっとね
違う議論を引いていかなきゃいけないと思ってて
僕の考えでは技術は単なる外的道具ではなく
人間の記憶や時間意識の条件として考えた
ベルナル・スティグレルっていう人がいる
それもその名もタイトルつっ張りで
技術と時間っていう本があるんですけど
それとかあるいは歴史的事件を例に
失われた国や秩序を取り戻そうとする
修復的ノスタルジーと
喪失そのものを引き受ける
小札的ノスタルジーに分けて議論した
スベトラーナ・ボイムの議論を接続すると
ここら辺いい感じに引き寄せていくことができる
修復的ノスタルジーと
小札的ノスタルジー
過去を変えようというか
昔よかったあの頃に戻ろうっていうタイプのやつと
36:02
もうそれは失われたものだから
引き受けるしかないよねっていう小札的ノスタルジーがあるよねっていうのを
いろんな歴史的事件とかを言及しながら論じてる人がいるんですよ
ちなみにこれめっちゃいいなと思って
読もうと思ったんだけど
日本語で翻訳されたのがなかったから
引用されてる論文とかがたくさんあって
重要っぽいんだけど読めなかった
ロシアだったはず
そっちの人だね
ノスタルジーにも2つあるんじゃないか
ちなみにスティグレールはフランス現代思想の人ですね
これは一応僕読んでるんだけど
技術と時間の第1巻っていうのだけ読んでて
第2巻とか読んでないっていう
めっちゃ中途半端な感じなんですよ
だから俺には無理だ
構想としてはマクルーカンを引けばある程度までは
整理できるけどあるところから先は
もう僕には手が回るなと思って諦めた
要するに
そういうマクルーカンスティグレール
ボエムあたりを接続していくといい感じの
賢い批評ができると思うんだけど
それは鈴木の手には余ります
ここから雑感
俺の寝言が展開されます
ここから僕の寝言なんですけど
前回の話って要するに技術系の人は
未来思考になりやすいよね
アート系の人はノスタルジーに傾けやすいよねって話だったんですよ
まとめてみると
そういう話がされてた
という2つの論点をめぐって雑談が展開したバグキャスト第3回
というのがあったんです
問いとしてはだから新しい技術が現れると
なぜ一方では進歩主義が現れて
他方では開古主義が強まるのかってことだったと思うんですよ
ちゃんと言語化すると
その時には技術とテクノロジーを
分けて考える必要があるよねっていうのが今回の知見
マクルーハンを弾いていくと
出てくる知見
技術っていうのは例えばここでは身体的熟練とか
テクニックとかスキルとか方法
楽器演奏の技術みたいな話
とテクノロジー装置システム工学された仕組み
っていうのはある種分けないと
進歩主義とか開古主義がゴーッと出てくる理由が説明できないよね
僕が過去勝ち思考で
伊藤が今勝ち未来思考
の理由が分からないじゃないか
前回話したのは
どっちもある種の間違いだよねってことも言ってるんですよ
過去が良かったっていうのもどっかでは間違えてるし
未来が絶対良いとか今が絶対いいっていうのも
ある種の間違いなわけじゃんってことも一応僕たち
言ってるんですよ
だからこの両方進歩主義とか開古主義を相対化する
試みみたいなのがどうしたらできるだろうね
39:01
っていうのが多分問いなんだと思うんですよ
どうここまで言語化できてる
ということは
例えばだけどプログラミングとかデジタル分野
IT分野におけるマクローハン的な
拡張と
人接談とバランスの変化
みたいなものを並列で語って
やっぱり技術的な分野と
テクノロジー的な分野は起きてる
そういう拡張、接談、バランスの変化
やっぱ違うんだねっていう比較ができたら
面白いのかな
マクローハンはメディアで全部行くから
メディアっていう見方で
果たしてプログラミングとか語れるかなって気もするんだよね
語りきれないと思う
だから彼の議論では
語れないっていうところが比較になってる
それはスティグレールとかボイも使うといいよねって思うんだけど
それは俺よりはできないって話
だから寝言をこれから言うよ
俺はこう思うっていう話なんです
ここまでちょっと整理です
例えばだけど
AIとかDAW配信プラットフォームには
これで何が可能になるのかって未来の語りが付きまとう
なるほど
演奏、文体、読書、作曲、職人的な耳
とか技術には失われつつあるものという過去の語りが付きまとう
これ典型化してるから
もちろん例外たくさんありますよね
これを構造的に批判すると
ここからが僕の寝言なんですけど
技術的楽観論
伊藤派あるいは開古主義
鈴木派もどちらも基本的には
リニアな時間軸を前提にしてるのが問題なんじゃないのか
っていうふうにした結論に至った
つまり線的なある線
時間を線で考えるっていうことですね
技術的楽観論は今は不十分だけど
新技術によってより高い段階へ人類は進んでいく
みたいなことを言うよね
つまり現在から未来へのある種の一直線の進歩を思い描いてるじゃないですか
未来に向かってこの段階で
進歩していくんだみたいな
開古主義はその逆向き
だけどやっぱりかつていい時があって
そこから劣化していってるっていう風にして
失われた起点と現在を一本の線で想定してるじゃん
つまりベクトルは逆でも
どちらも時間軸を一つの軸として把握して
その上で上昇格効果を語ってる
でも実際に時間って
リニアには捉えられない複雑系のはずじゃん
ここに問題があるんじゃないのか語尾が生まれる
元があるんじゃないのって
思った
つまり人間は技術を支点にすると
時間をリニアに単純化して捉えるっていう語尾を
42:01
生みがちっていうことなんじゃないのか
これさえらく抽象的な話になってるけど
どうなんとなくわかる?
それって技術を支点にすると
っていうよりも例えばテーマが一つあると
そのテーマについての
リニア的な思考になっちゃうっていう話なのかな
でもさ技術のほうが比較しやすくない?
なるほど
人間の多いとかさ
おテーマにすると単純に劣化とかだけでは
語られない枠組みが出てくるじゃん
多いって言っても演じ込み我慢してるみたいな
こととか言えたりとか
でも技術とか
メディア
それを支点にするとある種線が
できやすいんだ比較しやすいがゆえに
並べやすくなってる
そうした時に出てくるある種の
時間を単純化した枠組みで捉えてしまうからこそ
生まれてくる
あの頃よかったよねという間違い
そして今が一番いいんだという間違い
みたいなことが出てくるんじゃないかっていうことです
僕のこれは寝言です
単純化しすぎてるんじゃないかってことだよね
そうそう単純化しすぎてる
単純化しすぎてるのはなぜなのか
ここら辺は誰か
頭の良い人が考えてほしい
もしくは考えたやつを調べて
読みたい
普通だったらここで終わると思うんですけど
僕はやっぱり寝言
クレイジーポッドキャスターなんで
ここから先があるんですよ
僕あの時に故郷を思い出すことなんだって言ってたじゃん
ノスタルジー
伊藤は昔がよかったなんて言っても生産性上がんないからしょうがないじゃん
っていうもうひどいこと言ってるんですよ
でも俺はそれに対して
生産性で言うとこの議論負けるなと思ったから
ずらしたんですよ
故郷が懐かしいよねっていうことなんじゃないのって
ずらしてるんですよ
その時に故郷って言葉を使ったのに
理由があって本当は言えなかったんだけど
ロジンの故郷の話をしたかったんですよ
ロジンさん
いまだに中3の教科書
中学生の教科書にあるロジンで
覚えてます?ロジンの故郷って小説ですけど
どういう話だったか
このロジンって字面だけは覚えてます
ロジンのロってこう書くよなって今思った
教科書に載ってるから
ほぼ全ての日本人が読んでるはず
ようやく一応作ってきてるんですけど
ロジンの故郷って
1921年に書かれてる小説で
主人公が中国ですね
45:00
中国の舞台の話なんだけど
久しぶりに故郷に帰ると
私が昔の懐かしい記憶と変わり果てた現実との
落差に直面するって話なんですよ
もう少し丁寧にまとめると主人公の私
名前ない私と名指されてるんですけど
家の処分のために久しぶりに故郷に帰る
しかし子供の頃に美しく輝いて見えた故郷は
さむさむしく荒れた場所にやっていた
特に印象的なのが少年時代に親しく遊んだ
ルン党との再会これ友達ね
かつて生き生きとしていたルン党は貧しさと生活の苦しさの中で
すっかり変わってしまい私との間にも
身分的な距離が出てしまっている
なんかこう旦那って言われるんじゃなかったかな
確か久しぶりに帰ったら友達から
旦那様って言われる
身分社会みたいなものが
私の立場が変わっちゃったのかな
元から私の方が身分高いんですよ
だけど子供の頃は仲良く遊んでいなかった
大人になってね
大人になったら身分ってものがすごい前傾化していく
寂しい感じするね
その私の姿を通して
私は故郷だけではなく
人間関係や社会そのものが変わってしまったなってことを
痛感するっていうのが故郷なんですよ
つまりこれね
普通にこれで要約だけ聞くと
昔良かったなって話に思いがちじゃん
なんか寂しい感じとか
昔良かったのが変わっちゃってみたいな風に思うじゃないですか
でも故郷の本当に真にすごいのは
そんな昔良かったっていうのは
私が勝手に頭の中で作り出してるんじゃないの?
ってことが言われるんですよ小説の中で
つまりノスタルジーみたいなものが
幻滅されていく話なんですよ
あー最初
懐かしんでたけど
昔そんな良かったか?っていう風になってっちゃう
だからちょっと二重性があって
今に幻滅していくんじゃなくて
ノスタルジーそのものに幻滅していくみたいな
話の構造になってるんですよ
めっちゃ深いの
全然覚えてないや
俺ね老人の故郷ってすごい好きで
未だにめっちゃ読み返すんだけど
そういう話なんですよ
その上で故郷の最後に道の比喩が出てくるんですよ
これがまさにリニアな時間意識からずれた
時間意識を提示してるんですよ
夢うつつの中
うちに目の前にのびろい海辺の緑の砂地が
展開してきた
上には新蘭色の大空にかかるまんまろの月が黄金色であった
これはね老人っていうか私が見てる
イメージなんですよ
この描写は
48:00
過去のイメージ
でもこれが私の目の前にはって言ってる私にはこれがイメージだってことも
わかってるわけ
その上で最後の一文がこう続くんですよ
希望は本来あるというものでもなく
ないというものでもない
それこそ地上の道のように始めから道があるのではないが
歩く人が多くなると初めて道ができる
っていう風にして終わるんですよ
老人っていう人はいろんな小説の中で
道の例えをすごいよく出す
道っていう何か
道を人生とかに託して
表彰するみたいなことをよくする人なんですよ
普通道っていう理由は
一直線の進路とか目的地を連想させやすいじゃないですか
でも老人がここで言ってるのはそういう話じゃないですよね
最初からそこに引かれてる線路でもなければ
未来に向かっていく
希望とかじゃないんですよ
いろんな人が歩いててその反復と工作の中で
後から何かこれ道だったんじゃないのかっていう風に
ものだよねっていう風にして言ってるんですよ
それをハルシュの過去とか未来の時間意識として
彼は語ってる
つまりあの日は先に完成された
未来像があるわけでもなくて失われた過去を
回帰するわけでもないそんなことができないっていう話だからね
個々の行為が重なり合う中で
何か結果として道ができてる
っていうのが時間意識として表彰されてるんですよ
これは極めて非リニアじゃない
つまり一本じゃないし複数の人がいて
いろんな道を歩いて時間って多分そうじゃない
僕の時間意識と人の時間意識は違うわけじゃないですか
でもなんか
過去の出来事とか一緒に回想したりすると
道を辿ってきた感じがもしなくはないわけじゃん
みたいな
だから路人的な時間意識は単独主体の意識ではなくて
多数の人間の作装した実践によって生まれる
ものなんですよ
だから希望っていうのは
ポジティブな意味で路人は使ってないんですよね
未来とか
願望みたいなことも含めて希望って彼はよく使うんですよ
そういう凄く価値中立的な意味で
希望って言葉がよく出てくるんだけど
目的地の名称性ではなくて
共同的な実践の累積として
彼は時間を捉えてるんですよね
けもの道なんだね
すごいけもの道
なんか道なき道悪いって言ったら
なんか道っぽいものが後であったことがわかるみたいな
それもみんな一つの道を行ってるわけじゃない
いろんな人がいろんな
私の道ルン党の道みたいな風にして
あるよねってこと言ってるんですよね
51:00
ここで大事なのは路人の希望がね
未来はきっと良くなるっていう進歩主義じゃないってことなんですよね
むしろ彼は侵害革命と文化運動に
失敗に直面して
未来にめっちゃ絶望してる知識人なんですよ
めっちゃこの時の路人が
もう終わったなって思ってて
文学作品とか書く記録もなくて
その路人を説得しに来る話
編集者の話とかっていうのがめっちゃあったりするんだけど
基本的に未来にめっちゃ絶望してる人なんですよ
書くが良かったとかもない
っていうのは小説読めばめっちゃわかる
だから彼が言ったのは何も
保証されていない状況の中でそれでも人が歩くことによって
しか道は生まれないよねっていう不安定な希望とか時間意識
これが
ある種の技術的楽観論とか
あるいはその反対の開古主義とは違うタイプの
時間意識
技術が与えてくれる時間意識じゃなくて
文学が持ってる時間意識なんだよね
俺はもう
文学的な想像力の中でしか現れないような
タイプの時間意識っていうのがあるんだと思うんですよ
これは色んな所にあると思う
文学の話をしたから
文学的な時間意識の話をしたけど
文学以外にも色々あるわけじゃん
技術だけじゃなくて
世の中に技術もあれば文学もあって
その他諸々人間を取り巡る様々な
アイテムがあるわけじゃないですか
文学はこういったタイプの時間意識とりわけ路人はこういうことを言ってた
っていうのをすごい思ったんですよね
開古主義にしてもやっぱり
路人はそういう立場は取らないよねと
だから路人におけるこの道の比喩っていうのは
線ではなくネットワーク的なもの
だろうと
いう風なことは言うことができると思う
地点と地点を結んでいるというよりかは
もっと有機的な
有機的に絡まっているみたいな
複数の足跡が反復され重なりやがて見えてくる
みたいな
そこにある種の技術楽観論とか
あるいは開古主義がめっちゃ出てくる時代における
路人の現代性っていうのがあるだろうと
いうことを
俺はめっちゃ言いたかったんですよ
めっちゃ言いたかったから言ってるんだ
これが僕の寝言ではあるんだけど
やっぱりね
迷子
だんだよね
つまり路人が言ってることは迷子みたいな話じゃないですか
明確な目的地があってそこに向かってるとかじゃなく
迷子
いろんな迷子のやつがいる
54:02
それがなんとなく道っぽくねみたいな
時間軽々すると
未来も過去もすごく他者なんだよね
過去がいいも未来がいいも
両方ともどっちかを自分
先取りしちゃってるじゃん
未来も過去もよく分かんないものだろみたいなことも言ってるんだよね
これがね深いんですよ
これカットされてるのか分かんないけど
一番最初に言ってたいろんなポッドキャスト聞いたんだけど
みんな迷子なんだよとかかってる
これかかってるってこと?
それは今かけたの
今なんとなく思っただけ
迷子って話は
なんか新しいことが生まれた時にはそういうことってあるかもね
やり方分かんないけどみんながやってた結果
道になっていくみたいなのが
いいかもね
俺は路人なんだポッドキャスト界の
この間ね考えてたんだ妄想してたんだけど
まず俺の頭の中には定義が変わるみたいなことを
なんとなく思ってたの
ポッドキャストの定義が変わるんだって言ってたよね
それでYouTubeを変えたのは
例えばヒカキンじゃん
ヒカキンとかなんかこう
つまんないなって気がしたんだよね
ポッドキャスト界のヒカキンってしょぼいじゃん
運用じゃん比喩として
それはちょっとカイコ主義っぽさがあるよね
ポッドキャスト界のA.ロクスケとか
良い2つをすごい考えたんだけど
路人かもしれない
ポッドキャスト界の路人
じゃないかもしれない
俺はね思ったのはね
文学とかにめっちゃ語っていきたいと思った
いろんな他のポッドキャスター達の話を聞いて
文学とかが良いと思ったね
なるほど
なんでそう思ったかを言わないよね
よく分かんないからなんだけど
あのね
ごめんこれは俺の得意の批判が
するかもしれないんだけど
ポッドキャストの方々にね
やっぱり物申したいのはね
頭よく見せようとしすぎ
つまり明瞭に分かりやすく語る
言語化する
そういうことをやりすぎ
そして
実際に社会階層高い人が多すぎ問題
編集者とか
大学院で教えてますとか
カタガキが持ってきてます
57:01
そういうことじゃないんだよ
つまり俺とかさ
途中まで喋ってたじゃん
途中から寝言言うわって言って
ロジンとかについて
かなり来てる放送だと思うんですよ
コンテンツとしては
技術について語ってた
でも今俺はロジンなんだ
ほぼ言語化できてないじゃん
音を出してるに近いじゃん
楽器みたいな
発信機
文学をかますとこれが起きるんですよ
基本的には
解説動画とか
人気コンテンツとしてあるわけじゃん
今のニュースを解説します
そういうのよくあるじゃないですか
それを明瞭に分かりやすく語ってるんですよ
文学とかをかまして
わけわかんないこととかを
叫ぶ
それが俺の新しいスタイル
って思った
だからそういう意味で定義が変わるのかもしれない
ていうことですね
それは
昨今言われてるさ
すぐ答えが出る
すぐ調べれば何でも出てくる
即応性とか
みんなが考えることをやめてしまっている
みたいなことへの
アンチテーゼみたいな感じなのかな
いや正しくは
とにかく俺が
言いたいことを言って
言ったことを正当化してるってことだと思う
そういう人間さ
でも真面目に思うのは
ポッドキャスターたちの
賢く見せようっていう振る舞いがおかしいと思う
言語化とかを重視しがちじゃないか
って思ってる
もっと魂みたいな
叫んでほしい
文学について語ると
叫んで終わるってことがよく起こると思う
文芸批評とかのほうが来てるじゃん
わけわかんなくて
っていう風に思うんだよね
なるほどね
ポッドキャスターで叫んでいきたい
俺はロジンだ
ギリギリだね
ポッドキャスト界の
ギリ不審者かっていうところのラインを攻めてるんだね
ポッドキャスト界の
大橋巨船とかも考えたの
放送の人たちの
オリジネーターを
1:00:00
あんまりいいのが思い浮かなかったんだよね
でもどうなんだろうね
ヒカキンとかはそのクラスなのかな
大橋巨船とか
A6助っていうのは
放送ってジャンルを作ってた人たちじゃん
YouTubeにおける
どう捉えられてるんだろうね
ヒカキンは何かなんじゃないの
代名詞ではあるよね
YouTuberっていうことの
それこそさ
今はストリーマーがすごく流行ってて
動画をきっちり撮って編集してみたいな人たちも
もちろんいっぱいいるけど
今一番ホットに来てるのはライブ配信リアルタイム
っていう感じだから
技術的に変化が起きて
みんなのYouTubeとか
メディアに対しての捉え方も変わってきてる中で
一つ手前の時代の
レジェンドっていうか
そういう立ち位置にはなりつつあるのかもね
ヒカキンとか
はじめしゃちょーとか
すごかったよね
我々がもう少し若い時には
今後話したいテーマの一つとして
最近ポッドキャスト始めたから
いろんなポッドキャストとかYouTuberを見てるんですよ
これが俺らのスタイルだと思った
いくつかあって
それは今後話していくわ
お楽しみに
そんな大した話じゃないかもしれないですけど
お楽しみということで
今回はここまでです