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人生はガチャなのか──旅パ、MOD、パッチの可能性を考える
2026-08-26 47:47

人生はガチャなのか──旅パ、MOD、パッチの可能性を考える

「親ガチャ」「配属ガチャ」「上司ガチャ」──ゲームの言葉として定着した「ガチャ」は、なぜ人生や社会を説明する比喩として使われるようになったのでしょうか。

今回は、ゲームを「行為」として捉えたアレクサンダー・R・ギャロウェイの議論を手がかりに、ガチャが現実の何を捉え、なぜこれほどリアルな比喩として受け入れられているのかを考えます。

ガチャでは、偶然が格付けの結果になる。 旅パでは、偶然が関係の始まりになる。

ガチャを否定するのではなく、ゲームがすでに持っている複数の「行為の文法」によって相対化することはできないか。人生を一つのゲームシステムだけで説明しないための、別の語彙の可能性について話しました。

【今回登場する主なゲーム・概念】

・ガチャ/親ガチャ ・旅パ ・『Baldur’s Gate 3』 ・MODとパッチ ・アレクサンダー・R・ギャロウェイのゲーム論

【参考リンク】

消費者庁「オンラインゲームの『コンプガチャ』と景品表示法」

三省堂「今年の新語2021」

Alexander R. Galloway, “Gamic Action, Four Moments”

Alexander R. Galloway, “Playing the Code”

Alexander R. Galloway, “Social Realism in Gaming”

番組への感想・質問はこちら: https://tally.so/r/obKDNV

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00:00
こんにちは、バグキャストです。この番組は、音楽家の鈴木とプログラマーの伊藤が、社会や文化について気になったことを調べたり、面白がったりしながら話すポッドキャストです。
今回は第25回です。いやいや、伊藤さん。
何でしょう、大和くん。
えー、今日はですね、ゲームについて考えてみたい。
ゲーム界ですね。
うん、ゲーム。
はい。
あのー、以前からね、このポッドキャストで、小説や映画について語ることよりも、ゲームについて語る方がこれからの時代では重要になるかも。
うん。
みたいな、結構な体験相互を僕、言ってるんですけど。
まあでも、映画も小説も好きな大和が、次はゲームなんじゃないかっていう話をしてますよね、よく。
そうなんですよね。で、そういう風に考えるきっかけの一つに、ガチャっていう言葉、概念が世の中によく広まってることがある。
はい。
わかりますよね、ガチャ。
まあガチャよく聞くね、ゲームしてるからよく聞くのかなとも思うけど、世の中的にも割とあれかな、言葉としては浸透してるのかな。
はい。あのー、例えば親ガチャとか、配属ガチャみたいに、あのゲームから生まれた言葉がいつの間にか人生や社会を説明するために使われるようになっている。
うん。
中でもガチャは、自分では選べない条件や見えない仕組みによって結果を割り当てられる感覚を、まあ非常にうまく捉えているんじゃないか。
うーん、いわゆるスマホゲームのガチャみたいなイメージ。
そうですね、そうですね。
あのー、いろんな人が使ってるガチャはそういうことを前提にしてますよね。
うんうん。
で、しかし、なぜ私たちは現実を語るためにゲームの言葉を必要としてるんだろうか。
うーん。
ガチャについて考えることは、単に一つの流行語を分析することではなくて、ゲームを通して現実を理解するようになった私たちの感覚について考えることでもあるんじゃないか。
ほうほう。
で、今ゲームについて考えることは、私たちが現実をどのように捉えているのかを考えることにつながっているんじゃないか。
うん。
まあだから、そのガチャっていう概念をその入り口にして、まあなんかこう考察の対象にしてみたいなっていうのが今回の趣旨ですね。
まず、ガチャっていう言葉、どのように広がっていったのかってことですけど、
うん。
そもそものガチャっていう言葉は、もともと効果を入れてハンドルを回すと、
うん。
おもちゃの入ったカプセルが出てくる自動販売機を指していた。
はい。
で、日本では1965年にアメリカから導入され、ガチャ、ガチャガチャ、ガチャポンなどの交渉が定着していったと。
そうだね、ガチャポン。
うん。
いずれもハンドルを回す音やカプセルが落ちる音に由来しているはず。
で、その後この仕組みはオンラインゲームに取り入れられ、現金やゲーム内通貨を使って抽選によってキャラクターやアイテムを獲得するシステムもガチャットと呼ばれるようになっていったと。
うん。
で、2012年には指定されたアイテムをすべて集めるコンプガチャが社会問題化している。
はいはいはい。
で、ガチャという言葉はゲームをしない人にもこの辺りで広く知られるようになっていったと。
03:00
ただしこの時問題とされたのはガチャ一般ではなくコンプガチャという特定の方式のことなんですね。
ありましたね、コンプガチャ問題。
これはまあソーシャルゲームとかで行われるある種の形式ですよね。
で、さらに2010年代後半には親ガチャ、担任ガチャ、職場ガチャなど自分では選べない相手や環境を指す丸々ガチャが広がっていく。
うん。
2021年には親ガチャが信号流行語大賞のトップ10に入り、賛成度も丸々ガチャを今年の信号2位に選んでいる。
うんうん。
ガチャはカプセル統一の機械からゲーム内の獲得システムへ、さらに人生における偶然な配分を表す言葉へと意味を広げていっていると。
うーん。
まあ、ある種こう言葉がゲシュタルト崩壊していってるのが2010年代後半に起きてることなんですよ。
何にでもガチャってつけてみて。
そうそうそうそう。
まあ流行るあるよね、こういうことね。
まあ、なのでそんなこんなで今回のテーマは人生はガチャなのか。
うーん。
タビパ、モット、パッチが持つ可能性と題してちょっとね考えてみたいと。
まあえーとねここから本題に入っていきたいんですけども、まずねガチャっていう概念を何を捉えているのかを明らかにしてみたい。
うん。
まあこのようにガチャはカプセル投入の機会を指す言葉からゲーム内の獲得システムを経て自分では選べない人間関係や環境を表す言葉へと広がっていっている。
うんうん。
では以前からあった運、運命、くじではなくなぜガチャが人生を語る言葉として受け入れられていっているのか。
うーん。
ここで考えたいのはガチャという言葉が偶然以外の何を表しているのかっていうことなんですよ。
なるほど。
でガチャにおいてプレイヤーは全く何もできないわけじゃないんですよね。
でお金やゲーム内通貨を投入してボタンを押して抽選を始めることができる。
うーん。
ただしえーどの結果を受け取るかは選べない。
プレイヤーに認められているのは抽選に参加することまでであり判定そのものはシステムに委ねられている。
うん。
つまりガチャが表しているのは単なる偶然ではなく自分は行為しているのにその行為と結果の間に自分では介入できない処理が存在するっていう経験。
運命とかと対比するとそれが含まれているよねってことか。
さらにガチャから出てくるものにはあらかじめレアリティや性能が設定されているじゃないですか。
結果はただ異なっているのではなく当たりと外れ、強いと弱い、希少とありふれているといった共通の尺度によって格付けがされている。
ガチャは何が出るかわからない仕組みであると同時に出てきたものの価値がシステムによって先に決められている仕組みなんだと。
なるほど。
親ガチャ、配属ガチャ、上司ガチャといった言葉はこの構造を現実に持ち込んでいってるんですよね。
家庭の経済状況や養育環境、勤務先や上司との相性などは本人が自由に選べるとは限らない。
それにもかかわらずどの条件を与えられたかによってその後に使える資源や選択肢が変わってくる。
〇〇ガチャは人生を本人の努力だけで説明するのではなく努力に先立って存在する初期条件の違いへと目を向けさせているんだと。
06:07
この点で〇〇ガチャは自己責任論では捉えにくかった配分の不平等を可視化する言葉として機能しているだろうということですね。
だからある種〇〇ガチャという言葉はいわゆる自己責任論みたいなものを相対化する概念として実は機能しているんだというふうにして思いますね。
なるほど。自分ではどうしてもできないこともあるじゃない。
そうそうそうそう。
ただし〇〇ガチャは異なる種類の選べなさを全て同じ形式に変換してしまう。
〇〇ガチャと上司ガチャでは選べなさの程度もその後に離脱する可能性も異なりますよね。
親や出生地は原則として選び直せないけど上司や職場は異動や転職によって変更できる場合もあるじゃないですか。
それでもガチャといえば異なる事情を持つ出来事がいずれも当たり外れのある配分として理解される。
この単純化によっては言葉は使いやすくなるがそれぞれの問題が持つ違いが見えにくくなっているなということですね。
とりわけ親ガチャは実際のガチャとの大きな食い違いを含んでいると思います。
ゲームのガチャではプレイヤーが抽選に参加し場合によっては引き直すこともできる。
しかし人は生まれることも誰の元に生まれるかも選んでないじゃないですかそもそも。
そこにはガチャを引いた主体が本当はないはずなんですよね。
それにも関わらず親を引いたと語ることで自分の誕生を自分が参加する以前に行われた抽選の結果として眺められるようになっていると。
自分を人生という物語の主人公としてではなくてあらかじめ初期条件を割り当てられた存在として捉える視点が
ある種この親ガチャっていう視点に特有なんじゃないのか。
この言葉には開放的な面と宿命論的な面が同居しているのが面白いと思います。
自分の困難をガチャの結果として捉えることで全てを自分の努力不足として引き受けずに済むよね。
一方で本来は人間や制度の判断によって作られた条件まで誰にも責任を問えない偶然のように見えてしまう。
例えば配属は自然に発生するものじゃなくて企業が何らかの判断によって決めてるじゃないですか。
それを配属ガチャと呼べば本人には選べないという感覚はよく表現できるけど
誰がどのような基準で配分したのかは後悔へ退いていってしまう。
ガチャは結果と本人の責任を切り離すと同時に結果と制度の責任までは切り離してくれない。
したがってガチャという概念が捉えているのは単に人生には運があるという事実ではなくて
そこにあるのは自分にとって重大な条件が自分には見えない規則によって割り当てられ
その結果が当たり外れとして評価されるという感覚。
ガチャは初期条件の違いを鋭く可視化するんだけど
同時に配分に至る過程や配分後に続く時間までを
最初に何を引いたのかという1回の結果に圧縮して何か概念化しちゃってる。
このようなガチャ概念を相対化するという事は
結構重要なある種の批評的なミッションになっているなという気がするんですよ。
09:03
だからこのガチャという言葉が持っている説明力、現実に対する説明力と
同時にある種の限界点みたいなものを両方認めたところから
考察してみたいなというところなんです。
どうでしょうかここまで。
だからガチャって言葉は今タイガーが言っている世の中に広まっている
親ガチャ、上司ガチャっていう言葉と
実際のプレイにおけるガチャっていろんなガチャがあると思うんだけど
その中でも特にSNSとかスマホとかで行われる
課金してガチャ引いて良いキャラとか良いアイテムを取ったら勝ち
取れなかったら負けみたいな
そういう世界観のガチャのことなんだよね。
それをやってる人がめちゃくちゃいるわけじゃないと思うの。
だからやってない。ガチャなんて普段やってないんだけど
親ガチャとか上司ガチャって言葉が刺さっているってことが
社会を捉えるのに何か良い意味があるんじゃないかって話なんだよね。
実際に信号流行語大賞とかの大賞になってたりもしてて
広く人口に感謝していると言って良いんだと思うんですよね。
僕自身も確かにソーシャルゲームとかにおけるガチャって
一回も引いたことなくてスマホゲーで
でも意味はすごくよく分かってますよね。
なるほど。それが言わんとしていることを分かる。
そういうみんなに広がっている概念としてのガチャについて考えようってことか。
そうね。プラスしてここはいわゆるガチャガチャ
効果を入れてハンドルを回すとおもちゃが出てくるカプセル通り
を指すガチャとも重なって理解している人もいると思うから
そういう意味で広がりやすいんだと思うんだよね。
ガチャ自体は何かって言われると
なんとなくみんな知っている言葉ではある。
知らない人は多分いないんじゃないかって気がしますけどね。
でね、これさ、ガチャっていう概念が
ゲームから生まれている概念じゃないですか。
現実を説明する言葉としてこれほど自然になぜ受け入れられているのか。
単にゲームが身近になりその用語がヒューとして流用されたからなのでしょうか。
それともゲームをプレイする感覚そのもの、
経験そのものが現代社会を理解する感覚を作っているんじゃないか。
この問題を考える手がかりになるのが
ゲーム研究者のアレクサンダー・R・ギャロウェイという人がいまして
この人の議論を引いていくとちょっとわかりやすくなるんじゃないか
という風にして思うんですよね。
あのね、ギャロウェイはね、写真がイメージであり
映画化が動くイメージであるなら
ビデオゲームは行為であるという形で
ゲームについて論じています。
ゲームは画面に映された物語を眺めるだけでは成立しないですよね、当然。
プレイヤーが入力し機械がそれを処理して応答することで
初めてゲームとして動き始める。
したがってゲームを理解するためには
何が描かれているかだけではなくて
12:01
プレイヤーに何ができるか
機械が何を実行しているかを見なければいけないよね
ってことも言ってるんです。
ここら辺までは普通のことだと思うんですけど
いわゆるビデオゲームってことか。
そうだね、ビデオゲームってことですね。
ガチャではこのプレイヤーと機械の分担が極端に単純化されている。
プレイヤーは通貨を投入しボタンを押す。
機械は設定された確率に従って抽選し結果を表示する。
プレイヤーは抽選を始めることはできるけど
抽選結果を決めることはできない。
結果に不満がある場合に選べるのは
判定に介入することではなくて
もう一度入力すること。
ガチャにおけるプレイヤーの自由とは
望む結果を決定する自由ではなくて
システムAの参加を継続する自由なんですよね。
ギャロウェイはさらに
ゲームを現代の情報社会における
コントロールの具合として捉えています。
小説や映画では社会を動かす仕組みが
物語の背後に隠れていることがあるんですけど
それに対してゲームでは
規則や評価基準が数値、選択肢、パラメータ
成功条件として
実際のプレイの中に組み込まれているんです。
ゲームを攻略するには
そのゲームが何を評価し
どの入力にどの結果を返すのかを
学んでいくことが必要になってくる。
ギャロウェイの表現を借りれば
ゲームをプレイするとはコードをプレイすることであり
ゲームを解釈するとは
そのアルゴリズムを理解することになる。
この観点から見ると
ガチャは人生を運に左右される
と述べるだけの比喩ではなくなってくるんじゃないか。
ガチャを経験した人は
入力・確率処理・ランク付きの出力・再入力
という一連の関係を
すでにプレイによって知っている。
確率について詳しい知識を持っていなくても
ボタンを押せば機械が結果を返し
その価値がレアリティとして
表示されることは理解できる。
ガチャという言葉は偶然についての
抽象的な説明ではなくて
プレイヤーが実際に
遂行したことのある行為を呼び起こしている。
というふうにして
捉えられるんじゃないか。
ガチャ的なことを
みんな知ってるよねってこと?
じゃなくて
自分が人生の中で経験すること
親を選べないとか上司を選べないってことが
ガチャみたいだよねって
理解できるってことです。
この経験は
現実の感覚と重なっていってるんじゃないか
ってことで
進学とか就職とか配属
SNSの推薦など本人が
何らかの入力をしていても
判定の基準や処理の過程を
完全に知ることはできない場面って多いですよね。
人は希望を提出し
プロフィールを入力し応募することは
できるけど
どの情報がどの程度評価され
なぜその結果になったのか
かなり見えない。参加する自由はあっても
判定する権限はシステムや
組織の側に残されている。
この関係がとてもガチャに似ているため
配属ガチャ、上司ガチャ
といった表現が直感的に
通じてしまうんじゃないのか。
ここからが
あのギャロウェーの僕が非常に
重要だなって思ってるところで
このギャロウェーはゲームのリアリズムを
映像の写実性だけではなくて
15:01
ゲーム内で
遂行される行為とプレイヤーが
現実に置かれた社会的状況との
対応から考えてるんですよ。
リアリズムについて
この発想をガチャに応用するなら
ガチャが現実を正確に
再現しているから人生の
浮遊としてリアルなんじゃないんです。
じゃなくて
自分では介入できない規則によって
結果を割り当てられ、その評価だけを
受け取るというゲーム内の経験が
現実の配分や
選別と重なっているからリアルなんだ。
これはギャロウェー自身が
親ガチャを論じたということではなく
彼のゲーム論から導くことの
一つの仮説ですね。
この違いは
ちゃんと理解したいんだけど
ゲームのリアリズム、リアリティを
感じる感覚はすごい綺麗な
映像とかだけじゃなくて
それって確かに分かるわ
俺でも共感できるわ
みたいな社会で起きてること
がゲーム内で
起きてるからすごく
共感できるとリアリティを感じると
行為の相似形がある
ってことだね。現実と
ゲームの間に
行う行為の相似形が生じた時に
そのゲームがリアルだと
感じられるってことだね。
例えばストリートファイター
とかってあるじゃん。めちゃくちゃ
ボタン押し相手を倒すみたいな。これって実は
リアリズムとは別のプレイなんだよね。
なんだけど
そうじゃなくて行為の
現実との対応関係を考えていくと
実はガチャの方がリアリティが
プレイヤーにとってはあるだろうと。
もちろんここで
ギャラウェーが言ってるのはリアリズムがある
ゲームの方が優れてるっていう議論では
当然ないです。
ある種の
ガチャ的なゲームプレイっていうのが
現実との対応関係がすごく強く
あるだろうと。行為のレベルで見ていくと。
っていうことなんですよね。
ただし親ガチャの
場合にはこの対応が
本当は崩れていて
配属ガチャでは本人が希望を
入力した上で組織が決定
結果を決めるよね。
親ガチャでは本人は
入力さえしてないじゃない。
プレイヤーになる以前に初期条件を
割り当てられているよね。
見えない規則による配分と
その結果の格付けだけが残ってるんだよね。
要するにガチャが
人生の説明としてリアルに感じられるのは
その仕組みに似た関係は
私たちがゲームと現実の
両方で既に経験しているから。
ただしガチャが捉えられるのは
主として条件を
割り当てられる局面までであって
その後の経験や関係によって
価値がどう変わるのか
あるいは配分を決めるルール自体を
どう変えるかまでは説明できないんですよね。
つまり本当はさ
ある種別に
親によって
ある種の自分の人生の選択肢が
変わってきちゃうのは
社会条件とか社会制度にも本当は由来するはずだよね。
そうだね。
例えば子供支援
政策とかが充実していれば
教育の機会が
開かれる可能性があるはずだし
みたいな。
だからそういう言葉では実は親ガチャって言葉は
18:00
見えないし見えなくしちゃうんだよね。
ガチャって言葉に資することでね。
そうそうそうそう。
で、どうですか?ここまでで一旦どう思う?
バカッと説明してきましたけど。
俺のイメージだと
何々ガチャみたいのは
親ガチャってところから
すごく流行った
イメージがあって。
自分の中での親ガチャって
言葉の持ってる
思い、そういう言葉を使う人たちの
気持ちとしては
ガチャじゃないじゃんってことだよね。
さっきも言ったけど
人生に参加するときに
親ガチャをして人生始めます
って誰も言ってないけど
それを親ガチャ
が当たったとか外れたっていうことで
その
この人生に
参加しようとしてなかったんだけど
僕は。
ってことを
すごく言いたいように聞こえてる
たんだよね。
逆でしょ?つまりさ
親ガチャって言ってみることで
実はガチャは自分が参加してるじゃん。
だから
その不条理な人生を
自分で参加してるって
捉えたいんじゃないのかな。
それで言うと。ガチャっていうことによって。
このゲームに
自分が参加してる
不条理なんだけど。
っていうことを
本当は家を行っちゃってるんじゃない?
そういうことで。
ガチャって概念で言うことによって。
でも本当は親を選べないと
もっと不条理な
何かのはずだよね。
ちなみにガチャって言葉は
多分日本的じゃん。
で、これは
正確じゃないかもしれないけどさ
ガチャポン?いわゆる
カプセルトイも
あれギャンブルじゃないですか。
一種の。車高振る。欲しいのが出るまで
回させるとかね。
だからそういうギャンブル的な要素が
あって
ガチャって言葉は
どうなんだろうね。
日本的なさ
環境が決まっちゃったら
その環境に従わなきゃいけないとか
もう抜け出せないんだみたいな
感覚と強く結びついてるのかな。
生まれなんてどうでもいいんだ。
自分で変えるんだみたいなさ
モチベーションの人には当てはまらなそうな
ことだよね。
そうね。でもそれはやっぱりさ
日本的って言っていいかちょっと
微妙なところがあるよね。
つまり2010年以降に
ある種はこう流行って
いっている表現のわけじゃない?
皮肉的な。だから2010年以降の
日本が抱えている
ある種の閉塞感とかみたいな
ものを
当ててるのかもしれない。
なのでそこまで
普遍的な何か
っていうんじゃない気もするんだよね。
今の世の中を
表せる
何か。
っていうね。でね
こっから先に僕考えたいのは
こういうガチャっていう概念
これさ、ある種
皮肉だしさ、
当然この表現から出てくる限界
とかってあるし
21:02
だから
普通にガチャっていいよねって話で
終わってったらまずいじゃないですか。
ガチャってことは。
だからなんかある種ここから考えなきゃいけないのは
ちょっと相対化していかないといけないと思うんですよ。
でその時にね
なんかこれ、いやいや人生は
ゲームではないよねとか。
なんとかゲームの外側から
道徳的にそういうような
世界観を持っている人を批判しても
僕しょうがないと思うんですよ。
それは俺は違うと思うのね。
ガチャとか言ってんじゃねーよ。
現実を見ろみたいなことじゃないわけ。
そうじゃないんじゃないかっていう気がする。
むしろそういう人たちに対して
むしろゲームってもっと
多様な行為や遊びを含んでるよね。
ガチャとは異なる
ゲームの行為を
現実に持ち込んでいくことで
ガチャだけが人生を説明する状態を崩せるんじゃないの?
って思うわけ。
ゲームってもっと面白いよね
っていうことで
そういう世界観を相対化したほうが
有効なんじゃないかっていう風にして
僕は思う。
ってことなんです。
というわけで、ここから考えたいのは
旅パ。モッド。
パッチ。
みたいなことについてちょっと考えてみたい。
ここら辺に可能性が
あるんじゃないかっていう。
ほとんどここから先僕の当て勘になっていくんだけど
ゲームには
偶然に出会った仲間と旅することもあれば
既存のルールに変更を加えたり
不具合やバランスを
修正したりすることもできるよね。
こうした別のゲーム用語を
現実に持ち込めば人生や社会を
ガチャだけで説明する必要がなくなってくるんじゃないか。
最初に考えたいのが
旅パ。
旅パとは、主にポケモンで
物語の途中に出会い、そのまま一緒に
旅をしてきた仲間によって構成された
パーティー。
逆して旅パだ。
対戦のために能力を厳選した
最強のメンバーではなくて
最初にもらったポケモンや
序盤でたまたま捕まえたポケモンが
最後まで残ることが多い。
こういうポケモンのことを旅パ
って言うんですよね。
ガチャにも実は旅パ的な
偶然性があるんじゃないか。
しかし、偶然の
後に続く行為が
異なってるんじゃないか。
つまり、ガチャは偶然が
格付けの結果なんだよね。
でも旅パは、偶然が
関係の始まりじゃん。
つまり、
ガチャって言葉が持ってる
ある種のすごい閉塞感って
これが結果で
もう覆せないんだってことなんだよね。
ガチャで出た結果が
Cでした。判定Cでした。
これがSSRに
なっていかなかったりするじゃん。
システム的にね。
だから、そういうある種の閉塞感
のことを察してるよなと思うわけ。
ガチャって言葉が
そういう閉塞感を含んじゃってるわけだ。
親もある種の旅パなわけじゃん。
偶然。
友達とかの方がいいかもしれない。
上司とかさ。
その旅パが
最初ハズレに見えるんだけど、そこから
24:01
関係性を築いていって
後から振り返ったら良くなるってことも
往々にして僕たち人生にあるわけじゃないですか。
だから、旅パって
もうちょっとガチャを直接的に
相対化できる概念なんじゃないかなって
気がするんすよ。
ガチャでは出てきたものの価値が取得した瞬間に
レアリティや性能として表示されてしまう。
旅パでは出会った瞬間には価値が確定していない。
一緒に戦い
育て物語を進めた履歴によって
後から交換できない存在になっていく。
したがって旅パは
初期条件の違いを否定する概念では
ないんですよ。
最初に表示された性能だけでは
その存在の価値は決まらないってことを指している。
概念。
なんじゃないか。
この旅パ的な経験の具体例として
仲間とパーティーを組み
会話や選択を重ねながら
冒険するRPGバルダーズゲート3を
ちょっと僕上げてみたいんですね。
バルダーズゲート3。
2023年に出たRPGゲームで
その年の
ゲームオブザイヤーにも輝いてるから
ゲーム好きの人だったら当然知ってるし
やったこともあるゲームで
僕ねバルダーズゲート3すごい好きなんですよ。
本当に好きなゲームで
あのね
そうだなRPG好きな人
だったらドラクエとかFFみたいなものを
とりあえず想定してもらえればいいと思う。
そういうのRPGなんですよ。
旅の途中で仲間になる
アスタリオン、シャドウハート、ゲイル
っていう3人がいて
戦闘中にはプレイヤーが操作
できるんだけど物語の中では
命令に無条件で従う
所有物になってくれないんです。
この3人は。それぞれに
過去や信仰欲望秘密があって
プレイヤーとは異なる
意思と価値判断を持っちゃってるんですよ。
このキャラクターたちを自分で操作
してますって感じじゃないのか。
例えば戦闘の時は操作できるし
行動することもできるんだけど
物語、ゲームを進行する
檻に触れて
プレイヤーが行うことに反対してきたりするわけ。
みたいなことが起きる。
それが積み重なっていくと
永久にいなくなっちゃったりするの。
アスタリオンっていうのはね
こいつは吸血鬼だから
定期的に血を吸わないといけないの。
で、しょうがないから
物語の序盤で主人公の
血をあげるわけ。
っていうことをするの。
どれくらい吸わせるかみたいな選択肢があって
その選択肢をミスると
ゲームオーバーになったりするの。
吸われすぎて死んじゃう。
だから定期的にいい感じの敵がやってきたら
そいつを攻撃するって
吸わせればいいんだけど
そういう敵が現れないと
どうするの?みたいな厄介な問題が
出てくるんですよ。
いろんな選択によって関係値が変わったりして
結果が変わってくる。
あとね、シャドウハート。
これ女性のキャラクターなんだけど
記憶を一部失ってる
闇の女神を信仰してる
っていうのがあるんですけど、設定として。
要するにね、ヤバいカルト教団
みたいなのに染まっちゃってるんですよ。
なんかね
ちょっと可愛らしいキャラクターで
最初に多分恋愛っぽい関係性にも
なれるんだけど、知っていくと
めっちゃヤバい宗教に
27:00
こいつ染まってるじゃん。みたいな感じで
引くわーって感じになってくるわけ。
こいつ
ヤバい奴じゃんっていうのが
だんだん分かってくるみたいな。
ゲイルっていう魔法使いのキャラクターがいて
こいつは危険な魔法を
体に抱えてて、その対処を
プレイヤーに求めてくるんだ。定期的に。
具体的にはね、結構
多少リアリティの高いアイテムを
ゲイルにちゃんと
消費させないと、こいつ爆発しちゃうんですよ。
なるほど。
だからせっかく手に入れたちょっとリアリティの高いやつを
定期的にこいつに
与えていかないといけないみたいな。
とにかく
この3キャラクターはね
みんなめっちゃ厄介なんですよ。
同時に
自律的に動いてるわけ。プレイヤーの判断に
途中で反発してくるし
その結果さっき言った通り
パーティーから永久離脱するってことも
あり得るんですよね。
ここでね、重要なのは
プレイヤーが彼らを操作できてもね
完全に所有できないってことなんですよね。
OOにしてRPGにおける
パーティーメンバーって完全に
所有できちゃうじゃん。
例えばポケモンが分かりやすいよね。
ポケモンってさ、プレイヤーに
反発してきたりとかしないじゃん。
そうだね。
でもね、このバルタゲッツゲート3のね
3人と旅してるとね
マジで厄介らしい。
本当にヤバい奴らなんですよ。
でもね、これがね、癖になってくるんですよ。
こいつらの世話をしてやったりとか。
やっぱ一緒にいると
関係値ができるわけ。
関係値ができる。
旅の終わりにね
旅の終わり
最後のラスボスを倒すじゃないですか。
その結果って別に大したことないんですよ。
でもね、終わった瞬間
この3人と旅してきて良かったな
っていう感じが
すごい残るのがバルタゲッツゲート3なんですよね。
ていう。
彼らがね、こちらの思い通りにならなくて
それぞれの問題や意思を持ったまま
それでも一緒に旅をして
全然なんか
強調したりできないこともあるんだけど
とりあえず最後まで行けたみたいな
感じが残るんだよね。
もちろんね、ガチャゲームのキャラクターにも
物語とか人格があって
プレイヤーがね、その愛着を持つことは
あるよね、当然ね。
したがってガチャのキャラクターには人格がなくて
バルタゲット3の仲間だけが
自立しているってことでもないんだと思うんですけど
比較すべきなのは
それぞれの仕組みがどのような環境を
前傾化しているかってことなんですよね。
そのガチャの獲得システムは
キャラクターを排出し
所有し、編成される対象として
前傾化してきている。
これに対してバルタゲット3の仲間システムは
対話して、対立して
離脱する可能性を
持つ同行者として前傾化して
いるんですよ。
システムを比較している。
バルタゲット3はすごく重要なのが対話だね。
やっぱ話して解決するみたいなのが
結構あるんだよね。
みたいな。
ガチャではキャラクターを格付けされた結果として
取得する。
タビパでは自分の思い通りにならない相手と
関係を築いていく。
ここで僕が
30:00
今言っていることは
タビパって
ガチャっていう概念を相対化できる
いいゲームシステムだなって思う。
だけどタビパだけだと
与えられた条件の内部でどう生きるか
っていう話に留まっちゃう。
ガチャシステムでゲームをするのか
タビパ仲間システムでゲームをするのか
っていう話になってるってことね。
それだけだと両方とも結局
与えられた条件の中でどうするの?
っていうことの外側には
いけないじゃん。
最初の配分を受け入れ、その中で
価値を作るという考え方は
場合によっては与えられた条件を大切にしよう
っていうある種の適応の
倫理になっちゃうよね。
現実には離れるべき家庭とか
職場とか変更すべき制度も
あるよね。
そこで必要になってくるのがモットとか
パッチっていう別のゲーム用語にあるんじゃないか。
モットとは
既存のゲームに変更を加える
改造データとかその改造行為を指している。
新しいキャラクターや
マップを追加することもあれば
難易度やルールそのものを変えるものもある。
プレイヤーは与えられる
ゲームを決められた通りに
攻略するだけでなくて
ゲームに手を加え別の遊び方を
作ることができるだろうと。
これを現実へ応用すると
制度の利用者は完成した制度から
結果を受け取るだけの存在ではない。
制度が想定していなかった
使い方を発明したり
誤助組織や別の参加方法を
作ったりすることもできるよね。
モットという語が示すのは
一つの正解へ全体を統一することではなくて
それぞれの必要に応じて
局所的で複数的な
変更を試す可能性がある。
つまりなんかさ、配属された
部署が嫌だったらさ、なんか
上手いこと社内政治とか
をやってさ、
調整したりするってことも人生では
できるはずだよね。
与えられた部署とか
上司の下だけでやっていかなきゃいけない
わけでもなかったりするじゃん。
なるほどね。
ガチャだと職場変えるとか
新しいガチャに挑戦するようになっちゃうけど
職場の
環境を自分のいい方向に
変えるっていう手法も
あるよねっていうのがモットと
対比してるわけだね。
改造するみたいなことですね。
で、一方パッチ。
パッチっていうのは
ゲームの運営者や開発者が
不具合を修正したり、性能や難易度の
バランスを調整したりするために
配布する更新データのことですね。
ゲームの発売時に
設定されたルールは自然法則のように
固定されているわけではなくて
特定のキャラクターだけが強すぎる。
ある攻略法だけが有利になる。
一部のプレイヤーが進行できない
っていう問題が見つかれば、後から修正できるじゃないですか。
精度にパッチを当てるっていう表現は
現在の精度を完成した
秩序ではなくて、問題を含みながら
稼働している暫定的なバージョンとして
捉え直すことができる。
精度によって不利益が生じている時
それは当事者がハズレを引いたから
仕方がないのではなくて
ルールの設計や現在のバランスに
修正すべき問題があるのかもしれないよね。
しかもパッチは
一度当てれば全てが解決するとは限らない。
33:02
ある問題を直した結果
別の不具合が生まれるってこともある。
パッチっていうのは精度を完成品ではなくて
結果を試しながら
訂正を続けるものとして
考えるための合意になるだろうと。
そこでMODと
パッチの違いは結構重要で
パッチは運営側が共通のルールを
構成していく。MODは利用者側が
別のルールや遊びを作っていく。
現実の社会制度には
ゲームの運営会社のような
単一の管理者がいるとは限らない。
それでも精度を管理する側に
共通のルールの修正を求めることと
当事者が別の仕組みを作ることを
区別すれば精度を変える方向も
一つではないということが見えてくる。
ただし誰もが平等にMODを
作れるわけではないので精度を改変するには
時間、知識、資金、仲間
っていうのが必要で
非公式な変更を許さないっていうようなことも
当然あるより。だからMODという概念は
公式の精度が負うべき責任を
当事者へ押し返すためのものではない。
またパッチにも
MODにも別の不具合や
対立を生む可能性もあるよね。
だからこそこれらは一つの完全な
解決策ではなくて精度を
訂正可能なものとして考えるための
言葉なんだ。
完成しても動かないものじゃないよ
っていうことを
考えてね。そうそうそうそう。
動かせるってことだね。だからこの
TABIPA、MOD、パッチっていうのは
それぞれガチャの異なる限界を
補ってくれるんじゃないか。
なるほど。
ガチャっていうものは自分では選べない
初期配分を指している。
TABIPAは配分後
の関係と履歴による
価値の形成。つまりガチャ
以降に
関係性を変えていくことが
できるよね、というようなこと。
あるいはMOD、当事者や
共同体による別の仕組みを
作っていくってこともあり得る。
パッチは管理する側による
共通のルールの修正や更新。
国による制度とか
会社による制度の
維新みたいな
更新みたいなことですね。
ここで重要なのは
ガチャを別の一つの比喩に置き換える
ことではなくて、人生は
ガチャではなくTABIPAだって言い切れば
今度はTABIPAが人生全体を説明する
合意、言葉になっちゃうよね。
ガチャには本人には選べない
初期条件の違いを可視化する力は確かに
あって、それを捨ててしまう
必要はないんだと思う。
ただしガチャが説明できるのは
主として配分の局面なので
配分された後にはTABIがあって
ルールに問題があればパッチを求めることが
できるし、公式の仕組みが
答えてくれなければ、モッドみたいに別の仕組みを
作ることもできるよね。
ギャロウェイの言葉を借りれば、これらは
単なる言い換えではなく、それぞれ異なる
行為の文法を持っているだろうと。
ガチャを引く、TABIの仲間と関係を作る
パッチによって共通ルールを
修正してもらう。
モッドによって別の仕組みを作ってしまう。
ガチャという語の影響力を相対化するとは
その使用を禁止したり
人生は運だけではないと外側から
説教したりすることではないんじゃないのか。
ガチャだけでは語られない現実を開いていく
複数のゲーム概念を
作っていくこと。
持ち込んでいくことになるんじゃないか。
36:01
ていうのが僕が言うところの
ゲームってもっと多様な遊びだったはずだよね。
っていうことなんですよ。
ガチャ失敗したから
もうそこで話が終わりますとかじゃなくて
でもその出たキャラクターで
TABIPA作って楽しむこともできんじゃね?
みたいなことを言いたいと。
そうそうそうそう。
みたいな。
ていうところなんですね。
ここら辺で一応話は終わりなんですけど
どうですかね。
そうだね。
確かにゲームを普段
してる側からすると
MODとかパッチとか馴染みがあるけど
世の中にはそんなに浸透してないだろうな
って思うと
このガチャって言葉がやっぱこう
その皮肉めいてて
みんなの不満を
表すためにすごく使いやすい
と思ったし
それで
ガチャだなって思ってる人に
ゲームってもっと楽しい
ゲームみたいな言い方で
人生を捉えようとするなら
だったらもっとゲームみたいに楽しもうよ
っていう言い方ができそうだな
とは思ったね。
そこら辺がね、やっぱりさ
ゲームについて語るっていうことの
可能性の部分じゃないですか。
ガチャってすごくみんながイメージしやすいものとして
人口に広がってしまった。
でも本当はゲームってもっと
面白いよっていうところの語り
の可能性があるんだよね。
それをさ
やっぱゲームについて語ってる人は
なぜそういうことを
しないんだろう。
つまりさ
個別のゲーム、面白い
つまんない、言い悪い
評価じゃなくて
なんでこっちの可能性について
ゲームに詳しい人がもっと
語ってくれないのかなって思っちゃう。
つまり俺が言えることって
せいぜいガチャとかタビパとか
MODとかパッチなわけじゃん。
でもそうじゃなくてもっと
色んなことを知ってるはずだよね
ゲームに詳しい人って。
なぜ言わない。それを
言ってくれ。
だから俺の
ある種の
ゲーム批評のポテンシャルなんて大したことないから
もっとゲームについて詳しい人とか
どんどんやってほしいなっていうところが
あるっていう感じですね。
これさ
ちゃんと捉えてるかわかんないけど
ゲーム好き
っていうか
個人的にずっとゲームをしてきた
感覚としては
ガチャってやっぱちょっとなんか違うな
っていうイメージがあるんだよね
そう言われてるような気がする
ガチャゲーじゃんみたいな
それはさ僕たちが90年生まれの
RPGゲーマーだからでしょ
ゲームの良さ
みたいなもの。タビパっていいよね
とかさ
ストーリーがあって人間関係ができて
とかモッドとかパッチ
特にモッドなんてさ
コミュニティがあってこういうモッド作ろうよ
みたいな。俺作ったよみたいな
そういう関係性があってゲームをより楽しむ
みたいなイメージがあって
ガチャ要素は
それにギャンブル要素みたいな
社交シーンを取り入れてきた
39:00
なんかちょっとこう
後から出てきた
それみんな好きだけど
ちょっとな
思うところあるんだよなっていう存在にされちゃってて
それとさ
今までのゲームの楽しさみたいなのを
リンクして語る人が少ないのは
そういうものがあるのかな
っていうイメージがあるね
そうねだからさいわゆるゲーム好きの人
っていうのはある種のソーシャルゲームにおける
そういう要素
課金要素みたいなものについて
基本的には批判的だよね
そういうイメージあります。そこら辺をさ
もうちょっとさ考えてさ
でも世の中の人はみんなそれをやってるわけじゃん
社会問題になるぐらい
課金税っているわけじゃん
そういうものについて
もうちょっと真剣に引き受けて
考えるってことだよね
そうだね
確かにさっきの説明で言えば
ポケモンと
道で出会うのも
ガチャっちゃガチャだよね
どんなすげえいいポケモンに最初から出会ってれば
それはめちゃくちゃ優秀だけど
でもガチャ要素っていうのは
どのゲームに実はあって
だけどタビパ要素もあって
っていうことだよね
まあ雑談
雑談なんですけど
コーナー
例えばタビパ
自分が今までやってきたゲームで印象的なタビパ
強くはなれないけど
とりあえずこいつを最後まで連れていこうみたいなやつ
って言いましたかみたいな
あとねゲームのルールやバランス
これは修正した方がいい
って思った
経験
これちょっとおかしいなみたいな
現実にパッチを当てるとしたら
何を修正したいか
パッチって運営者側になっちゃってるけどね
モッドでもいいかもしれないですけど
ガチャ以外で現実を
説明できそうなゲーム用語
これなんかあるんだと思うんだよな
僕は思い浮かばないんだけど
なんかあるはずだと思う
あとね与えられたゲームを攻略するのと
ルール自体を変えるのでは
どちらに惹かれるか
これねやっぱり結構個人の思考が
すごく強く反映されるんじゃないか
あとまあ普通に人生をゲームに
例えるならどんなゲームか
ここら辺ね僕いつも雑談を
雑談導入のために色々
問いかけを作ってますけど
リスナーの方もぜひなんか
それはこうでしょとか
いやモッドとかパッチよりむしろ
これだろみたいなのがあったら
ぜひちょっとお便りをいただきたいな
みたいなところなんですけどどうでしょうか
伊藤くん
この最後まで連れてった仲間とはさ
RPG系やってればさ
ポケモンみたいに
めっちゃ選べるやつじゃなくても
なんかこのキャラクターだけ強くして
このキャラクターに頼ってゲームを
物語で進めると結構ありそうじゃん
だから思い入れの
仲間みたいなのみんな居そうだよね
ゲームやってる人はね
でもあんまりさそうなっちゃうと
良くないよね
強いやつ一匹いればそれで全部解決
しちゃうみたいなさ
それってあんまりこうゲームの中で
頭使わなくなっちゃうし
色々試行錯誤しなくなっちゃうんだよね
そうだね
良いRPGだと
俺の好きなタイプは
経験値の配分ができるタイプのゲーム
42:01
結構好きでRPG系だと
でやっぱ特定の仲間だけ
強くすると他の仲間が弱いじゃん
だから結果的には
積んだりすんだよね途中で
一人だけ強くても
それを目立ってくる敵が来たら終わりみたいな
でもバランスだけだと
全員が程々に弱くて
進められないみたいな
この環境に合わせて
今はこいつを強くした
こいつのサポートさせるんだみんなで
とかそういうこと考えるのは
楽しかったけど
単純に
強くないけど連れてった仲間はやっぱ
ポケモンでは
俺ねニャース
ニャース
ポケモン界の時にニャース
絵の愛を語り
語れてなくて
俺はねやっぱ
ニャースが好きなんだよね
いつも心にニャースがいる
たまにニャースと
会話してる頭の中で
みたいな
強くないけど最後まで連れてった仲間は
ちょっとこれゆっくり考えれば後で
他にどうですか?
結構ゲームやってると
これその
ゲームを攻略するのと
ルールを変えるのどっちが好きですか?
近いかもしれないけど個人的には
ゲームルールを
理解した後に
ゲームルールの穴を作ってやりたく
なっちゃうんですよね
ここ繰り返してたら
無限にお金稼げるじゃん
ここをやったら
この時点で戦わなくていいじゃん
みたいなことをやりたくなって
それをやれると楽しいんだけど最初
よしこれやればこのゲーム攻略だ
ってなるんだけど
その後つまんなくなっちゃうんだよね
ずっとそれだけやってればゲームがクリアできちゃう
っていうところで飽きちゃう
RPG系ではよくあるかな
って思う
そういうタイプだったら
やっぱりバルダーズゲート3
確かにやったことない
本当に優れたゲームですね
そういうこともちゃんと許容してくれる
でなんかね
攻略情報を見るのがね
すごい楽しい
なるほど
クリアした後にね
そんな倒し方があったんだみたいな
それでやれば
そんな簡単に
超強いボスを倒せたんだ
みたいな回が
いっぱいあるわけ
それはちゃんと
ゲーム内のこの
パラメータを見とけば
分かるはずっていうのも
ヒントが出てて
なるほどねってなるわけ
例えば魔法の数が
めっちゃあるわけ
いっぱい魔法があって楽しいな
って思うんだけど
どれも使えないじゃんって思う
そういう使えないと思ってた魔法が
こここうしてこうすると
そうそう
楽しいね
めっちゃ自由
すごい自由
これは基本的に僕はおすすめですね
だけど世界観とかが
洋ゲーのRPGだから
45:01
それが合わないっていう
日本のプレイヤーは結構いると思う
なるほど
システムが複雑で分かりづらいっていうのが
ちょっとゲームに慣れてないと難しいみたいな
っていうのが
バルターズゲート3の特徴ですね
みたいな
あとどう
この出してくれたリストの中で
ゲーム用語として
俺が思いついたのは
環境っていう言葉
は割と
スマホゲー
人ゲーでは環境
っていう言葉がやっぱあって
今の環境ではこのキャラクターが
強い環境メタ
っていう環境に
特化したキャラクターとか
性能を持った武器
みたいのがあって
そいつをメタれるやつも出てくるんだよね
今の環境でこいつ強いけど
そいつに対してだけ強いキャラクター
みたいのがいてそいつも伸びてくると
でもシーズン変わったり
パッチが当てられたりして
強すぎるからちょっと下げるね
次の環境はこいつだ
みたいな環境と
それに対応するもの
っていうので
環境が揺れていく
みたいのが結構あって
それは
世の中的にも
あることだなと
結局さ自分が親ガチャ外れ
引いたわと思ってて
自分の能力値低いなっていう風にしては
ガチャの結果として思ってるかもしれないけど
それってある環境においてだけだよね
って言えるよね
環境が変われば
お前がめっちゃ強い環境ってあるだろ
みたいなあるでしょって
言うるはずだよね
実はその環境っていうのも
ガチャみたいなものを
相対化する概念になりうるよね
確かにね
それを思いついたなゲーム用語としてはね
なるほど
どうですか今回話してみて
ゲーム界だったわけですけど
どんな感想ですか
人生はガチャなのかっていうテーマ
でしたねだから人生っていうのは
運命で決められて自分にはどうしようもないのか
みたいなテーマって
常に昔からあったと思うけど
でもそういうものの中に
ガチャって言葉を使うと
逆に人生
ガチャ的な要素があるなら
タビパ的な要素もあって
モッドとかパッチで上手いことやってもいいんじゃないか
っていうことをね
投げかけられたかな
でみんなが思うゲームの世界において
いやこういうシステム
人生に取り入れたらもっといいよ
みたいなことがあったら
ぜひねお便りとかをいただけると
また話せます
ゲームについて
ゲーム大好きなんで
ということですかね
感想やお便りなどがありましたら
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それではまた次回
47:47

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