こんにちは、バグキャストです。この番組は、音楽家の鈴木とプログラマーの伊藤が、社会や文化について気になったことを調べたり、面白がったりしながら話すポッドキャストです。
今回は第25回です。いやいや、伊藤さん。
何でしょう、大和くん。
えー、今日はですね、ゲームについて考えてみたい。
ゲーム界ですね。
うん、ゲーム。
はい。
あのー、以前からね、このポッドキャストで、小説や映画について語ることよりも、ゲームについて語る方がこれからの時代では重要になるかも。
うん。
みたいな、結構な体験相互を僕、言ってるんですけど。
まあでも、映画も小説も好きな大和が、次はゲームなんじゃないかっていう話をしてますよね、よく。
そうなんですよね。で、そういう風に考えるきっかけの一つに、ガチャっていう言葉、概念が世の中によく広まってることがある。
はい。
わかりますよね、ガチャ。
まあガチャよく聞くね、ゲームしてるからよく聞くのかなとも思うけど、世の中的にも割とあれかな、言葉としては浸透してるのかな。
はい。あのー、例えば親ガチャとか、配属ガチャみたいに、あのゲームから生まれた言葉がいつの間にか人生や社会を説明するために使われるようになっている。
うん。
中でもガチャは、自分では選べない条件や見えない仕組みによって結果を割り当てられる感覚を、まあ非常にうまく捉えているんじゃないか。
うーん、いわゆるスマホゲームのガチャみたいなイメージ。
そうですね、そうですね。
あのー、いろんな人が使ってるガチャはそういうことを前提にしてますよね。
うんうん。
で、しかし、なぜ私たちは現実を語るためにゲームの言葉を必要としてるんだろうか。
うーん。
ガチャについて考えることは、単に一つの流行語を分析することではなくて、ゲームを通して現実を理解するようになった私たちの感覚について考えることでもあるんじゃないか。
ほうほう。
で、今ゲームについて考えることは、私たちが現実をどのように捉えているのかを考えることにつながっているんじゃないか。
うん。
まあだから、そのガチャっていう概念をその入り口にして、まあなんかこう考察の対象にしてみたいなっていうのが今回の趣旨ですね。
まず、ガチャっていう言葉、どのように広がっていったのかってことですけど、
うん。
そもそものガチャっていう言葉は、もともと効果を入れてハンドルを回すと、
うん。
おもちゃの入ったカプセルが出てくる自動販売機を指していた。
はい。
で、日本では1965年にアメリカから導入され、ガチャ、ガチャガチャ、ガチャポンなどの交渉が定着していったと。
そうだね、ガチャポン。
うん。
いずれもハンドルを回す音やカプセルが落ちる音に由来しているはず。
で、その後この仕組みはオンラインゲームに取り入れられ、現金やゲーム内通貨を使って抽選によってキャラクターやアイテムを獲得するシステムもガチャットと呼ばれるようになっていったと。
うん。
で、2012年には指定されたアイテムをすべて集めるコンプガチャが社会問題化している。
はいはいはい。
で、ガチャという言葉はゲームをしない人にもこの辺りで広く知られるようになっていったと。
ただしこの時問題とされたのはガチャ一般ではなくコンプガチャという特定の方式のことなんですね。
ありましたね、コンプガチャ問題。
これはまあソーシャルゲームとかで行われるある種の形式ですよね。
で、さらに2010年代後半には親ガチャ、担任ガチャ、職場ガチャなど自分では選べない相手や環境を指す丸々ガチャが広がっていく。
うん。
2021年には親ガチャが信号流行語大賞のトップ10に入り、賛成度も丸々ガチャを今年の信号2位に選んでいる。
うんうん。
ガチャはカプセル統一の機械からゲーム内の獲得システムへ、さらに人生における偶然な配分を表す言葉へと意味を広げていっていると。
うーん。
まあ、ある種こう言葉がゲシュタルト崩壊していってるのが2010年代後半に起きてることなんですよ。
何にでもガチャってつけてみて。
そうそうそうそう。
まあ流行るあるよね、こういうことね。
まあ、なのでそんなこんなで今回のテーマは人生はガチャなのか。
うーん。
タビパ、モット、パッチが持つ可能性と題してちょっとね考えてみたいと。
まあえーとねここから本題に入っていきたいんですけども、まずねガチャっていう概念を何を捉えているのかを明らかにしてみたい。
うん。
まあこのようにガチャはカプセル投入の機会を指す言葉からゲーム内の獲得システムを経て自分では選べない人間関係や環境を表す言葉へと広がっていっている。
うんうん。
では以前からあった運、運命、くじではなくなぜガチャが人生を語る言葉として受け入れられていっているのか。
うーん。
ここで考えたいのはガチャという言葉が偶然以外の何を表しているのかっていうことなんですよ。
なるほど。
でガチャにおいてプレイヤーは全く何もできないわけじゃないんですよね。
でお金やゲーム内通貨を投入してボタンを押して抽選を始めることができる。
うーん。
ただしえーどの結果を受け取るかは選べない。
プレイヤーに認められているのは抽選に参加することまでであり判定そのものはシステムに委ねられている。
うん。
つまりガチャが表しているのは単なる偶然ではなく自分は行為しているのにその行為と結果の間に自分では介入できない処理が存在するっていう経験。
運命とかと対比するとそれが含まれているよねってことか。
さらにガチャから出てくるものにはあらかじめレアリティや性能が設定されているじゃないですか。
結果はただ異なっているのではなく当たりと外れ、強いと弱い、希少とありふれているといった共通の尺度によって格付けがされている。
ガチャは何が出るかわからない仕組みであると同時に出てきたものの価値がシステムによって先に決められている仕組みなんだと。
なるほど。
親ガチャ、配属ガチャ、上司ガチャといった言葉はこの構造を現実に持ち込んでいってるんですよね。
家庭の経済状況や養育環境、勤務先や上司との相性などは本人が自由に選べるとは限らない。
それにもかかわらずどの条件を与えられたかによってその後に使える資源や選択肢が変わってくる。
〇〇ガチャは人生を本人の努力だけで説明するのではなく努力に先立って存在する初期条件の違いへと目を向けさせているんだと。
この点で〇〇ガチャは自己責任論では捉えにくかった配分の不平等を可視化する言葉として機能しているだろうということですね。
だからある種〇〇ガチャという言葉はいわゆる自己責任論みたいなものを相対化する概念として実は機能しているんだというふうにして思いますね。
なるほど。自分ではどうしてもできないこともあるじゃない。
そうそうそうそう。
ただし〇〇ガチャは異なる種類の選べなさを全て同じ形式に変換してしまう。
〇〇ガチャと上司ガチャでは選べなさの程度もその後に離脱する可能性も異なりますよね。
親や出生地は原則として選び直せないけど上司や職場は異動や転職によって変更できる場合もあるじゃないですか。
それでもガチャといえば異なる事情を持つ出来事がいずれも当たり外れのある配分として理解される。
この単純化によっては言葉は使いやすくなるがそれぞれの問題が持つ違いが見えにくくなっているなということですね。
とりわけ親ガチャは実際のガチャとの大きな食い違いを含んでいると思います。
ゲームのガチャではプレイヤーが抽選に参加し場合によっては引き直すこともできる。
しかし人は生まれることも誰の元に生まれるかも選んでないじゃないですかそもそも。
そこにはガチャを引いた主体が本当はないはずなんですよね。
それにも関わらず親を引いたと語ることで自分の誕生を自分が参加する以前に行われた抽選の結果として眺められるようになっていると。
自分を人生という物語の主人公としてではなくてあらかじめ初期条件を割り当てられた存在として捉える視点が
ある種この親ガチャっていう視点に特有なんじゃないのか。
この言葉には開放的な面と宿命論的な面が同居しているのが面白いと思います。
自分の困難をガチャの結果として捉えることで全てを自分の努力不足として引き受けずに済むよね。
一方で本来は人間や制度の判断によって作られた条件まで誰にも責任を問えない偶然のように見えてしまう。
例えば配属は自然に発生するものじゃなくて企業が何らかの判断によって決めてるじゃないですか。
それを配属ガチャと呼べば本人には選べないという感覚はよく表現できるけど
誰がどのような基準で配分したのかは後悔へ退いていってしまう。
ガチャは結果と本人の責任を切り離すと同時に結果と制度の責任までは切り離してくれない。
したがってガチャという概念が捉えているのは単に人生には運があるという事実ではなくて
そこにあるのは自分にとって重大な条件が自分には見えない規則によって割り当てられ
その結果が当たり外れとして評価されるという感覚。
ガチャは初期条件の違いを鋭く可視化するんだけど
同時に配分に至る過程や配分後に続く時間までを
最初に何を引いたのかという1回の結果に圧縮して何か概念化しちゃってる。
このようなガチャ概念を相対化するという事は
結構重要なある種の批評的なミッションになっているなという気がするんですよ。
だからこのガチャという言葉が持っている説明力、現実に対する説明力と
同時にある種の限界点みたいなものを両方認めたところから
考察してみたいなというところなんです。
どうでしょうかここまで。
だからガチャって言葉は今タイガーが言っている世の中に広まっている
親ガチャ、上司ガチャっていう言葉と
実際のプレイにおけるガチャっていろんなガチャがあると思うんだけど
その中でも特にSNSとかスマホとかで行われる
課金してガチャ引いて良いキャラとか良いアイテムを取ったら勝ち
取れなかったら負けみたいな
そういう世界観のガチャのことなんだよね。
それをやってる人がめちゃくちゃいるわけじゃないと思うの。
だからやってない。ガチャなんて普段やってないんだけど
親ガチャとか上司ガチャって言葉が刺さっているってことが
社会を捉えるのに何か良い意味があるんじゃないかって話なんだよね。
実際に信号流行語大賞とかの大賞になってたりもしてて
広く人口に感謝していると言って良いんだと思うんですよね。
僕自身も確かにソーシャルゲームとかにおけるガチャって
一回も引いたことなくてスマホゲーで
でも意味はすごくよく分かってますよね。
なるほど。それが言わんとしていることを分かる。
そういうみんなに広がっている概念としてのガチャについて考えようってことか。
そうね。プラスしてここはいわゆるガチャガチャ
効果を入れてハンドルを回すとおもちゃが出てくるカプセル通り
を指すガチャとも重なって理解している人もいると思うから
そういう意味で広がりやすいんだと思うんだよね。
ガチャ自体は何かって言われると
なんとなくみんな知っている言葉ではある。
知らない人は多分いないんじゃないかって気がしますけどね。
でね、これさ、ガチャっていう概念が
ゲームから生まれている概念じゃないですか。
現実を説明する言葉としてこれほど自然になぜ受け入れられているのか。
単にゲームが身近になりその用語がヒューとして流用されたからなのでしょうか。
それともゲームをプレイする感覚そのもの、
経験そのものが現代社会を理解する感覚を作っているんじゃないか。
この問題を考える手がかりになるのが
ゲーム研究者のアレクサンダー・R・ギャロウェイという人がいまして
この人の議論を引いていくとちょっとわかりやすくなるんじゃないか
という風にして思うんですよね。
あのね、ギャロウェイはね、写真がイメージであり
映画化が動くイメージであるなら
ビデオゲームは行為であるという形で
ゲームについて論じています。
ゲームは画面に映された物語を眺めるだけでは成立しないですよね、当然。
プレイヤーが入力し機械がそれを処理して応答することで
初めてゲームとして動き始める。
したがってゲームを理解するためには
何が描かれているかだけではなくて