こんにちは、BIBLIO JAM始まりました。プレゼンターのナイト・ジュンです。 今日はですね、新コーナー、10min Review、1冊の本を約10分、1人で紹介していきます。
さて、本日の1冊はこちら、ブレディ・ミカコさんの最新刊、 それはどこでも起こり得る、壊れゆく世界への鉄鋼、文藝春秋から出ております。
テーマは、AI・プラットフォーム、そして、ウハ・オペリズム。 今、世界で起きている政治を真正面から扱った1冊です。
まず、著者のブレディ・ミカコさんについて、 イギリス在住30年、世界を股にかけた書き手なんですが、
ちょっと変わっているのは、その立ち位置。 国際機関とか大学とか、世界を上から見下ろすような場所にはいないんですね。
イギリスで保育士として働いて、移民や労働者と同じ生活圏から、 日本とイギリスを見比べてきたという、いわばワールドワイドな庶民目線ということで、
世界を広く見渡せるのに、目線はいつも地べたの高さにあるという、 こういう書き手の方って、なかなかお目にかかれないんですよね。
この本を読み上げて、僕が妙に引っかかった言葉を並べてみたんですね。 すると、こんな感じになりました。
領主、地代、大名、将軍、殿様、中勤奉仕、身の程を知る。 まるで江戸時代じゃないですか。
2020年、26年のAIとポピュリズムの本があったんですよ。 最先端の話をしているのに、出てくる言葉はまるで時代劇。
この引っかかりは、果たしてどこから来るのか。
自己責任ってすごく身近な言葉から始まります。 ここでリスナーの皆さんに質問です。
自己責任って英語で何て言うと思いますか?
Self-Responsibility。 そのままですよね。
ところが英語には、責任を表す単語がもう一つあるんですね。
Accountability。日本語だと説明責任。 政治のニュースなどでよく耳にされるかもしれません。
ここがハッとするポイントなんですけども、 自己責任の方には絶対にアカウンタビリティを使わないんですね。
セルフアカウンタビリティなんて言葉存在しない。
言われてみれば、あいつの説明責任だ、みたいな言葉も 日常では使われないじゃないですか。
本書によると、Responsibilityは担当した仕事をやり遂げる責任。 つまり、下で働く人の責任。
で、アカウンタビリティは結果を説明する責任。 つまり、上に立つ人の責任。
同じ責任でも英語では上の言葉と下の言葉に はっきり分かれているんです。
この構造がですね、一発見える場面が出てきます。
ロンドンのカフェ。コーヒーマシンが壊れて、 若い店員がテンテコマンになっている。
そこへスーツ姿の中年男性がどなり散らします。
君たちの使い方が悪いんだろう。 だとすれば、セルフインフリクテッド。
自暴自得だと。
本当はマシンが古いのは、 会社のコスト削減のせいかもしれない。
それでも店員のせいにされてしまう。
著者はこの小さな場面に社会のしくずを見るんですね。
下っ端には自己責任がどこまで重くのしかかってくるのに、 経営者や政治家の説明責任はなぜかふわっと軽くなっていくと。
本書の言葉だとこうなります。 Responsibilityが重くなるほどアカウンタビリティは軽くなる。
責任の総量は変わらないのに、 下にばかり重心が移動していくんですね。
じゃあ日本はどうか。
本書は自己責任という言葉が、 日本に広がった瞬間にフォーカスを定めます。
2004年のイラク人質事件。
人質になった3人に救出費用は自分で払えという バッシングが起きたとしてした。
それから20年。
2024年のノト半島地震でも被災地に入る個人やボランティアには 迷惑だというような批判が受けられる一方で、
災害対応を担う政治や行政の説明責任はほとんど問われなかった。
ここにも同じ責任格差というものがあるんです。
本書はこの構造に名前を付けます。
責任の階級闘争。
そして口頭一掛けます。
自己責任は新自由主義が生んだ 新しい概念に見えるけど、
その正体は封建主義の復権ではないかと。
封建主義。
下は中金に励み、上には逆らわない。
本書はこの姿勢を支配者高校型の中金法師と呼びます。
自己責任の話がここで古い支配の構造と重なるんですね。
一言で言えば、
自己責任と言われた時点で、
あなたは下として扱われたに等しいんですよね。
上の人は自己責任とは言われない。
あの人たちの責任はアカウンタビリティの説明する側というわけです。
下がいるということは上もいる。
その上とは誰なのか。
ここで一度手元のスマホを見てください。
SNSもAIも僕らは大抵無料とか安いサービス料金で使ってますよね。
あれだけの機能をあんなに安く使える。
何でだと思うんですか。
それはデータを渡してるからですね。
個人情報、趣味、悩み、位置情報。
毎日せっせと差し出して、
その見返りに便利なサービスという土地に住まわしてもらってる。
この関係実は大昔からあるんです。
土地を持つ人がそこに人を住まわして、
住む人から取り立てる。
地代ですね。
そしてこの見方、今経済学の世界でも非常に注目を集めてます。
プラットフォームの持ち主は地代を取る現代の漁師だ。
僕らはその土地に住まわしてもらう代わりに地代を払ってる。
だからもうこれ資本主義とは呼べないんじゃないか。
そういった議論ですね。
つまりテクノ保険制という本まで出ていて、
その副題では僕らのことをはっきりノードと呼んでます。
面白いのは漁師も地代も時代劇みたいな言葉なのに、
最先端の経済を大まじめに説明する言葉になってるということ。
そしてここでブレディさんはこの話を一気に日本に引き寄せます。
日本の辞書で保険制度を引くと徳川幕府が出てくると。
その流れで著者がポロッとこう書きます。
グーグル大名、アマゾン大名らがトランプ将軍の就任式に集まった。
それが大統領就任式だったかもしれない。
あの就任式の後継、テック企業の符号がずらっと並んでましたよね。
あれは現代の産金交代だったのかもしれないというわけです。
漁師がいてその下に僕らがいるということは僕らユーザーじゃない。
子作人なんです。
無料で使ってんじゃなくてデータという名の年号を毎日収めてるというわけです。
ここで最初の引っかかりに戻ります。
なぜAIとポピュリズムという最新の話がこんな古い言葉でしか語れないのか。
いやこんなに古い言葉で語れてしまうのか。
僕には自己責任も身の程を知るという階級の話もプラットフォームもここで一つの古い構造として繋がってみました。
僕らはテクノロジーの進化を思い描くとき、大抵SFの形で思い描きます。
AIが人類に反応するとか監視社会のディストピアとか。
もしくはすべてがオートメーション化されたバラ色の未来とか。
怖がるにせよ待ち望むにせよ頭にあるのは見たことのない未来と。