「既読スルー」の謎とアクターネットワーク理論
あの誰かのメッセージを既読スルーした時って、実際に無視しているのは、えっとあなた自身でしょうか。それともあなたのスマホなんでしょうか。
いきなり面白い問いかけですね。今日深掘りしていくソース資料は、ある読書会の白熱した音声記録とメモなんですが、
そこで扱われているのが、内在的多様性批判という、ちょっと難解な本なんですよ。
はいはい。人類学とかアクターネットワーク理論みたいな専門用語がバンバン飛び交う資料ですよね。
でもこれ、ただの小難しい学術論じゃなくて、リスナーのあなたが毎日触っているスマホとか、日常の景色を根本から覆すような、すごくスリリングな今回の探究ミッションなんですよね。
早速その記録スルーの謎から迫っていきましょうか。
はい。まず、ラトゥールという学者が提唱したアクターネットワーク理論、略してANTという考え方がありまして。
えっと、ANT?
そうです。これ、人間だけが世界を動かしているんじゃないって考えるんです。
スマホとか自然とか、そういうものも人間と対等なアクター、つまり行為者としてネットワークを組んでいると見るんですね。
なるほど。普通メッセージを無視するのって、人間の意思だけでやってるって思いがちじゃないですか。
ええ、そう思いますよね。でも、読書会の記録だと、LINEっていうアプリの存在自体が私たちの思考を変えてるって指摘されていて。
ああ、記録っていう文字が付くあのシステムですよね。あれがあるから、早く返事しなきゃっていうプレッシャーが生まれるわけで。
まさにそれです。人間が単独で無視するんじゃなくて、人間とLINEアプリがネットワークを組むことで、初めて記録スルーっていう全く新しい概念とか行為が成立するわけですよ。
えっと、ってことは。
アプリ自体が人間の行動を変えるアクターになってるんです。
サイボーグとしての現代人
うわ、言われてみればそうですね。スマホがなかった時代には、そもそも記録スルーなんて行動は存在しなかったわけですし。
つまり、私たちはもう人間単体じゃなくて、テクノロジーと融合した、いわばLINE人間として生きているってことですか。
ええ、まさにそういう社会の捉え方をガラッと変えるような働きかけなんですよ。
でもそうなると、じゃあ自分っていう存在の境界線はどこにあるんだって話になってきません?
そうなんです。そこで読書界でもすごく厚く議論されていたのが、ダナ・ハラウェイのサイボーグという概念でして。
サイボーグって聞くと、どうしてもあのSF映画の機械の体を持つ人間みたいなのを想像しちゃうんですけど。
はいはい、ありがちですよね。でも物理的な機械との結合だけの話じゃないんです。
ハラウェイの言うサイボーグは、皮膚で区切られた個人っていう、私たちの当たり前の前提を崩すんですよ。
皮膚で区切られた個人ですか?
ええ、メガネとかスマホはもちろん、他者から得た新しい思考の枠組みとか概念すらも、私たちは自分の一部として取り込んでいく。
そうやって、どこまでが自分かわからないくらい境界が曖昧な存在こそが、現代のサイボーグなんです。
旅行者 vs コスモポリタン:複雑な世界との向き合い方
はは、なるほど。じゃあ、新しい概念を学んだ瞬間、私たちはすでに認知的なサイボーグにアップグレードされているってことか?
そういうことです。
私という存在は、内側だけで完結してるんじゃなくて、もう常に外部のツールや知識と繋がってネットワーク化されてるんですね。
そこで、次の問題が出てくるんです。そんなふうに外部のいろんなものとか概念を取り込んで、すごく複雑になっちゃった私たちが、このカオスな世界をどう処理すればいいのかっていう。
実践的な態度の話ですね。読書会で旅行者とコスモポリタンの対比が出てて、そこをすごく白熱してましたよね。
はい。ご候補者っていうのは、いろいろな場所で多様な知見を得ても、最終的にそれを一つの特定のテーマに無理やり統合しようとする態度です。
えーっと、それって例えば、大量の複雑なデータを都合のいいストーリーに丸めて、クライアント向けの綺麗な企画書を作っちゃうみたいな。
まさにその通りです。一方でコスモポリタンは、バラバラのままはバラバラのままで、完全には繋がらないっていうある種の諦めと需要を持っている態度なんですよ。
バラバラのままですか?
ええ。全体を説明する絶対的な統一理論なんてなくても、複数の真理をそのまま並列させる。
読書会ではフェミリズムの運動なんかが例に挙がってましたね。部分的な繋がりだけで成立する状態です。
いやでもちょっと待ってください。それって単なる思考の放棄じゃないですか。
思考の放棄ですか?
そうですよ。だってバラバラのままでいいなんて聞こえはいいですけど、現実の仕事のプレゼンでそんなまとまりのない事実の名列を出したら、即刻クビになりますよ。
やっぱり旅行者みたいに一つの物語に綺麗に統合する方が、複雑な世界に対して役立つ気がするんですが。
まあクライアントワークみたいにわかりやすさが求められる場面ではそうかもしれません。でも現実の世界って企画書みたいには綺麗じゃないんですよ。
うーん、まあ確かに。
無理に一つの物語に還元しようとすると、そこから必ずこぼれ落ちる事実とか、切り捨てられるマイノリティの声が出てきてしまう。
だからコスモポリタンのようにまとめきれなさを受け入れる方が、一見怠慢に見えて、実は今の世界に対して非常に誠実な態度だと言えるんです。
ああ、なるほど。わかりやすく切り捨てる暴力性よりも、カオスなまま複数の視点を持ち続ける強さが必要ってことですね。
ええ、まさに。自分自身がいかに周囲のものや多様な概念に依存して、同時に影響を与え合って成立しているか、再認識させられますよね。
いや、今日は日常の景色が本当に変わりました。自分がただの個人ではなくて、プラスチックとかスマホとか、無数のアクターと絡み合う巨大なネットワークの結節点、つまりサイボーグなものだと思うと。
問いかけ:繋がりの断絶と自己同一性
はい、そう見えてくるとこの深掘りも大成功ですね。
さて、最後にリスナーのあなたに一つの挑発的な問いを投げかけて終わりにしたいと思います。もしあなたがスマホやいろんなアプリと結びついたネットワークの一部だとしたら、
明日すべてのデバイスの電源を切って一切のつながりを絶ったとき、そこにポツンと残されたあなたは、果たして今日と同じあなただと言えるのでしょうか。ぜひ考えてみてください。