こんにちは、こんばんは。shikadaと申します。このチャンネルでは、男女通用書を作っている編集者が、 読んでよかったノンフィクションを紹介していきます。
ノンフィクションの隣で第9回です。 今回ご紹介する本は、ニーガン・ローゼンブルームさんの
禁じられた装丁、皮膚でつくられた本の歴史と倫理、です。 原書坊さんですね。翻訳は安倍政宏さんです。
この本はどういう本かというと、本当にタイトルの通り、 人間の皮膚で装丁、カバーだったり、そういうものを作られた本について色々調べた本ですね。
僕は出版社で本を作っていて、これまで本を使った時に、結構一般的な紙しか使ったことがなかったので、
こういうイレギュラーなもので本を作るってどういうことなのかとか、なんでそういうことが起こるんだとか、
そもそもそれってダメじゃないみたいな、ごくごくありきたりなツッコミもありつつ、 すごく気になって読み始めたという感じですね。
タイトルだけ言うと、結構グロい内容なのかなっていうのを想像される方も多いかと思うんですけど、
グロテスクな話とか残酷な話ってのはほとんどなくてですね、 本の中身のほとんどは、
この著者のミーガン・ローゼンブルームさん、この方は図書館の師匠さんなんですけど、 この方が、
人間の皮膚が使われた本、だいたいもう18世紀のものなので、 数百年前に作られたものがほとんどなんですけど、
あっちこっちの博物館に行ったり、図書館に行ったりして、 人間の皮膚が使われてるってされてる本を調べて、
その本が本当に人間の皮膚使われてるのかとか、科学的な検査に出したり、 あとはその本の来歴、どんな人が作って、どんな人が持っていてっていう歴史を調べて、
なぜどんな風にその本が作られたのかっていうのを調べて回る。 本当にあっちこっち行くんですけど、
その師匠さんが、今回はこっちに行きます、今回はあそこの博物館に行きます、 今回はこっちの図書館に行きますって言って、
あれこれ調べて、 調べ物の結果をわかったその本の歴史だったり、
医学であったり、遺体の扱いっていうものの歴史を紹介しているっていうのがメインの本ですね。
なので、グロテスクな話が苦手だっていう方でも問題なく読める本かなと思います。
本の内容的には、冒頭、この著者の方、図書館師匠って言ったんですけど、
当時、医学系の出版社に勤めながら図書館師匠の勉強をしてた、この著者の方が、
とある博物館で、 人間の皮膚が使われた本を見つけたっていうところから始まるんですね。
で、その人間の皮膚で作られた本を見て、非常に衝撃を受けると。
なんだこれはと。
で、やっぱり、師匠さん、その本に関して知識があるということもあって、
どういう経緯で、どういう素材で作られているんだろうというのを調べ始めるんですけれども、
ほとんど情報がない。
インターネット上とかにも、全く、
まあ、都市伝説みたいなものはあったけれども、きちんと調べた情報っていうのはほとんどない。
じゃあもう自分で調べようというところが、この本の始まりですね。
で、この本に出てくる、その人間の皮膚が使われている本っていうのは、
ほとんどが18世紀、数百年前に作られたっていうこともあって、
当然インターネットとかはない時代なので、
まずその本を直接博物館に見に行って、
どんなことが書かれているかとか、誰が持っていたのか、
持っていたその人はどんな仕事をしていて、どんな経緯でその本を作ったのかとか、
そういうのを一つ一つ調べていくと。
で、今こういう、これは本にないことで僕は思ったことなんですけど、
インターネット上にない、現場で現物を見ないとわからない、
一時的な情報の価値って今どんどん上がっているなと思って、
っていうのも、やっぱりAIが今何でもかんでも調べて、
それなりのある程度まとまったレポートをポンと出してくれるようになっているので、
インターネット上にあって簡単にアクセスできるっていうのはもちろん素晴らしいことなんですけど、
それを調べる能力っていうのはすごい下がっているので、
それに比べるとまさにこの本でやっているような現地にいて、
本当に海外に行ったり、結構壁地にあるような博物館に行ったりもしてるんですけど、
現物を見て、あとは博物館の学芸員さんと話して、
いろんな情報を得たりとか、その人にしか話せないことを聞いたりとか、
そういう情報を探ることって、少なくともまだAIには難しい、
フィジカルな体を持っていて、人間と信頼関係を築ける人間じゃないとできない仕事のうちの一つなんじゃないかなと思いましたね。
それにノンフィクションの面白さっていうのを担保しているのも、こういう現地現物、
ネットで検索してみて分かりましたっていうのに留まらないで、
その場に行って、そのものを見て調べて、
この方の場合は化学検査までやってるんですけれど、
人間の皮膚が使われていると言われているものの一部を許可をもらって、
検査に使わせてもらって、人間の皮膚がどうか判明するとか判定するとか、
そういうこともやってるんですけど、そういう地道な作業の繰り返し積み重ねて、
かなり分かってくる歴史があったりだとか、
この本だと、単なる本の歴史ということに加えて、後で話すんですけど、
医学の歴史であったり、倫理的な話にも深入りすることができていて、
そこができているのは、やっぱりベースになる、
この人の皮膚が作られている本っていうテーマを徹底的に現地で調べた、現物で調べたっていうところからできてるんじゃないかなと思うんですよね。
肝心の人間の皮膚が使われた本っていうのは、じゃあどんなものが一体あるんだっていう話に入っていくんですけれど、
まず、本のカバーっていう言い方をさっき私がしたので、
本を丸ごと皮膚で覆ってあるようなものをイメージさせてしまったかもしれないんですけれど、
結構多いのは、皮膚の小さな欠片、数センチ四方ぐらいのものをイメージしてもらえばいいんですけれど、
それを本に後付けしたようなパターンで、その多くは大体医師、お医者さんがやったというものが多いんだそうなんですね。
というのも、人間の皮膚をどうできるっていうのは、基本的に医師の専売特許であって、普通の人間にはできないわけですよね。
人間の皮膚を切り取ったり、それを薬品で保存したりとか、そういうことができるのは基本的に医師、お医者さんだけだったので、
大体そういう人がその本を作ることに関わっていたと。
かつ、この人間の皮膚が使われている本は偽物が非常に多いと。
偽物っていうのは、例えば本に、この本は誰それの〜人の皮膚を作って表紙を作ったっていうふうなメモ書きが入っていたりして、
本当かと、著者の人が科学的な検査をすると、実際、動物の皮でしたとか、うさぎの皮でしたとか、そういうパターンが非常に多いんですね。
これは2つの側面があって、偽物が作られる一つは、そういうふうに歌うと、
結構他の本にはない希少価値がその本に生まれる、一部の数が少ないレアな本を収集しているようなコレクターに高く買ってもらえるとか、
博物館に収めることができるとか、そういう希少性が生まれるので、嘘をついてでも、この本は人間の皮を使ってますというような定義にする場合があるというのが一つ。
もう一つは、その何かしら血なまぐさい時代であったり、残酷な話が生まれやすい土壌をもった歴史において、
そういうこの本は人間の皮膚で作られたというような言説が生まれることが多いということなんですね。
例えばですけど、フランス革命の時代に作られた本で、人間の皮膚で作られたと歌われているけれども、
実際に検査をしてみたら、全然人間の皮膚で使われてなかったという本がものすごく多いというか、
今検査したものの中では人間の皮膚を使ってもまだ見つかってないという例が出てくるんですけれど、
これの例が言えることは、
たくさん人間の血が流れた革命の途中で、処刑された人とか亡くなった人がたくさんいて、
その人間の皮膚をなめして本が作られたというストーリー、
実際は都市伝説みたいなものだったと思うんですけど、
こういうストーリー性、一見繋がっていそうなストーリーがあるものっていうのは、
すごく、
ああそういうこともあったかもしれないって受け入れやすいし、
浸透しやすそうだなって思ったんですよね。
何かしらの物語、ストーリー、
血生臭い出来事があって、そこでたくさんの人が亡くなって、
じゃあその遺体はどうなったのかとか、
そういうある程度の繋がりを持っていそうな物語性があるものだと、
人間信じやすくなるんだなっていうような共感がありますよね。
その意味で、そこをきちんと調べて、
人間の皮膚で作られてもらわなかったっていうのを調べたこの著者の方の仕事は、
ある種のジャーナリズムだなと思いますね。
では本の紹介はこれぐらいにして、
前回お便りをいただいたので、そちらを読んでいきたいと思います。
ラジオネーム特命希望さんからありがとうございます。
石原さんこんばんは。毎回興味深く配置をしております。
シャープ8の書くことのメディアシーの回を聞きました。
長いお便りになりますがご了承ください。
私も生成AIが出始めた頃は、
AIを利用した創作に対して怪異的ではありましたが、
今ではもうある意味一般化しすぎて驚きのようなものはありませんし、
文章も人間のものと遜色なく、
というよりその辺の一般人よりきちんとした文章を書くという印象があります。
確かに。
書くという行為における進退性とでも言うんでしょうか。
書きながら性質指向を整理していくということはとてもよくわかります。
しかし現在ではその進退性はオミットされ、
極端な言い方ですが、
紙や画面に文字を並べることをイコール書くこと
という認識になっているような気がします。
それだけなら人間がやれより、
AIを使った方が格段に早く、適切な文章になるのは確かだと思います。
話が変わりますが、
作家の平野圭一郎氏がこのようなポストをしていました。
少し長いですが引用します。
どうしてみんな文学に関して、
作者がAIにとって変わられることばかり心配して、
読書がAIにとって変わられることを懸念しないのか。
現在呆然と進んでいるのは、
むしろ読むという行為をAIが代替して、
人間が自分で読まずに要約を受け取るような状況。
影響力の規模的にはこちらの方がおそらく深刻だろう。
本好きはもちろん、自分で読み続けるだろうが、
魔の山とか、一番読んでいるのは今や人間ではなくAIではないか。
読むことにも書くことと同じく身体性があり、
読んでいる最中にふと自分の思考に気が付くことも多々あります。
中には要約されるような本質と関係のない、
取るに足らない細かな場面に感動する人もいるでしょう。
新技術が広がるとそれ以前には戻れないように、
書く、読むといった人間による非合理的な行為は、
AIによってひたすらに簡略化、
非合化されてしまうのはもうどうにもならないとは思います。
その便利さにも頼りつつ、
全てを代替せずにここだけは譲れない、
みたいな線引きを個々人でやっていくのしかないのかなと思ったりします。
さらに発展するであろうAI技術に対し、
今後社会が人間が残された身体性、非合理性を良しとするのかどうか、
とても示唆に富む回でした。
ということで、ありがとうございます。
まとまった感想をいただけるのはすごく嬉しいですし、
途中の平野さんのポストもすごく今考えるべきテーマな気がしますね。
まずAIが人間より、その辺の一般人よりきちんとした文章を書く、
適切な文章を書くということですが、
これはその通りですね。
文法とかも正しくて、
ボジラス人もない文章を早く書いてくれますし、
普通の大学生はみんなレポートにAIを扱う。
それは自分より早く適切な文章を書いてくれるかなということだと思うんですけど、
そういうようになっていますね。
ちょっと話はそれるんですけど、
このAI的な文章って偏りがあるなと最近思っていて、
それっていうのは、今のAIって
ウェブ上にある膨大なテキストを学習しているんですけれど、
インターネット以前の作家の作品を読むと、
めちゃくちゃAIが使うような言葉がない、
バンバン出てきて面白いなって最近思うことがあったんですよね。
具体的なしわり太郎の
海道を行くっていう本なんですけど、
この本を読むと、
最近僕はお仕事でAIが吐き出した文章を読む機会がすごい多いんですが、
AIが全く使わないような語彙がバンバン出てきて、
すごいそのこと自体が刺激的だったんですよね。
多分時代的なものもあって、
大昔の著作権が切れた文豪とかだと、
インターネット上の青空文庫とかにテキストがあって、
それはAIが学習できてるんですけれど、
それよりもう少し最近、
著作権が切れてない、
4,5,70年経っていないような作家、
しわり太郎もそこに入るんですけど、
そういう人のボキャブラリーとか文体って、
まだあんまりAIが学習していなくて、
今読むとすごくその意味で新鮮な感じがするんですよね。
そこでしわり太郎を評価するのかっていう話はあるんですけど、
AIの吐き出した文章に晒されまくってる自分としては、
そういう感想をいただきました。
一方でそのAI側の企業はその辺を埋めようとして、
今、書籍をたくさん裁断して、
OCRしてAIに壊したりしてるらしいんですけど、
それで訴訟が起こったりしてるらしいんですけど、
それはそれとして、
そういうハズレ値的なものを除いて、
本当にこのお便りいただいたように、
ごくごく一般的な、
特にその作家の特徴みたいなものが、
特に出ない文章でいいんであれば、
AIの方が早く正確な文章を、
そこそこのものをすぐ吐き出せるっていうのは、
その通りだと思いますね。
それから平野圭一郎さんのポストの話。
読み手が取って変わられるのではないか。
こちらもこれは、
すでに進んでいるような気がしますね。
さっきの話にも出てきましたけど、
青空文庫とか、
そういう、いわゆる古典と言われるようなもの。
真野山、平野圭一郎さんが例に挙げてるものもそうですけど、
長い古典を読む文章を、
文章を読める体力がある人間って、
おそらく僕わずかで、
AIを読むスピードも非常に速いので、
AIが読むな、人間が読むなとは若干違う、
営みなんですけれど、
言葉を理解しているわけではなくて、
数値に変換して、
どの言葉とどの言葉の、
関わりが強いかみたいなことをやっていく作業なので、
同じ読むことをやっているかというと、
ちょっと微妙に違ったりするんですけど、
ただ読んでそのあらすじを理解するとか、
予約するっていうことができているので、
ある程度人間の読むと、
領域が重なっている読むをやっているとは思います。
本を読むっていうことは、
特殊技能になっていくんじゃないかなという気もしていて、
まずトレーニングする場所が少ないですよね。
学校の国語の教科書を読むとかはもちろんあるんですけど、
そこを超えて自発的に文章を読むということは、
一部の物好きしかしない、というかできない。
本の値段もどんどん上がっているし、
それよりもお手軽にドーパミンを入れられる、
娯楽が非常にたくさん世の中に出回っているということもあって、
僕自身もそういうドーパミンを今摂取していることが多いので、
あまり偉そうなことは言えないんですけれど、
本を読むによってある程度筋力みたいなものが必要だと思うんですけど、
ごくごく限られた筋トレマニアみたいな人じゃないと、
本を読めないっていう状態が、
広まっていくんじゃないかなというふうに思いますね。
ただお便りにも新しい技術が広がると戻れないっていうことを書いていただいてますけど、
この通りで、
辞書とかがそうですよね。
僕は電子辞書を受験勉強でめちゃくちゃ使ってたんですけど、
当時学校の先生には紙の辞書を使いなさいって言われたんですが、
普通に便利だったので電子辞書を使ってました。
あれも身体的な辞書をめくるとかいうことをなくして利便性を取った一つの例だと思うんですけど、
そういうふうにどんどん便利なほうにいっていくのは、
時代の流れであり技術の流れであり、
当然の進み方ではあるので、
その上でテクノロジーに自覚的であることが必要なのかなと思いますね。
先生AIがやっていることがどういうことなのかとか、
本の要約を読むときに要約が切り捨てているものは何なのかとか、
あとは本全体を通して読むのと要約を読むのはどう違うのかとか、
その辺を知った上で、これは要約でいいやとか、
ここはちょっと自分で全部読みたいなとか、
そういう線引きをお便りいただいたような、本当にその部分ですよね。
その部分をやっていくのが大事なのかなと思いますね。
AIにやらせたほうが便利だし、
これは人間がやる仕事じゃないよねみたいなこともたくさんあるんでね。
今のお仕事だと1000ページぐらいあるPDFのカタログとか、
これ自分が全部やるんだったら何時間かかるんだみたいなものを
AIに読んでもらうとか、そういうのは全然いいかなと思うんですけど、
1から全部読むことが面白いもの、
このポッドキャストで紹介しているノンフィクションとかはまさにそうなんですけど、
それはディティールの部分、細かい、
これはこうだった、これはいつ誰がどうしてこうなったとか、
その部分を読むのが面白いと感じているものに関しては、
僕は変わらず要約とかではなくて、自分で読むだろうなと思いますね。
むしろ要約でそぎ落とされる部分に主な面白さが詰まっていると思うので。
ちょっと長くなっちゃったな。